「人間のこんな部分、見たくない! やめて! もう、やめて!!!」
 まるで野田秀樹作品か松尾スズキ作品を観ているときのように、心がそんな悲鳴をあげるほどの思いをしたのは、宝塚歌劇作品では初めてかもしれない。それほどまでに、宝塚版“蒲田行進曲”こと宙組公演「銀ちゃんの恋」で、大部屋役者ヤスを演じる北翔海莉の演技は、凄まじかった。スターとその子分と、自尊心をめぐるときに残酷な心理ゲームの中、狂気と自虐の限りを尽くした果てに生のきらめきの刹那を見せるヤス役の北翔は、宝塚や男役といった枠組みを超えて、役者、すなわち、己の内面をさらけ出して舞台上に生きることを選んだ人間だけがもつ、いびつだからこそ人をひきつけてやまない輝きに満ちて、作品の本質を慄然とするほどに指し示していた。
 「カサブランカ」「TRAFALGER」と、このところの北翔の舞台は決して悪かったわけではない。いずれも水準以上の好演だった。しかしながら、私は別に、“水準以上の好演”程度のものを、北翔海莉に求めているわけではない。かつて、霧矢大夢が「エリザベート」でルキーニ役を演じたとき、すべては己が見せている“劇場”として物語を自分のものにしてしまったように、敵か味方か、こうもりのように保身にさとい警視総監ルノーを演じて、北翔は、戦時下のような特殊な状況においては、多くの人はそのようにして生きるしかすべはなかった――として、「カサブランカ」を自分の物語にすることだってできた、私はそう思っていたのである。この物語にはそのように魅力的な解釈もできる、そう提示することは、何も、主役の領域をおびやかすまでのことでは決してない。北翔海莉ならそこまでできる、そう思っていたから、歯がゆかったのである。私は、「スカーレット ピンパーネル」の初演を観たときから、いつか、北翔がパーシー/グラパンを演じて、人間の内面の複雑性を示してくれることをひそかに夢見ていたくらいなのである。それが、作品こそ違え、人間の本質に迫る圧巻の演技を見せて、飲めないあひるも今夜は祝杯である!
 最後に一つだけ。男役・北翔海莉は、本質的には正統派二枚目である。巧くて、それでいてヒーローが似合う人である。このところ渋い役どころでの好演が続き過ぎていて、周りも、そして、ときに当の本人も忘れているのじゃないかと心配になったりしなくもないので、念のため。
 作・演出の正塚晴彦が、今回の公演をもって退団する雪組トップスター、水夏希とがっちりタッグを組んだ「ロジェ」は、宝塚歌劇の新たなる地平に敢然と踏み込んだ作品である。正塚がここで描き切った信条、死生観を、私は断固、支持する。
 正塚の演劇的良心を誰より支えたのが、主人公ロジェを演じた水夏希であることは言を俟たない。だが、水のロジェが物語終盤、下す一つの決断――その決断こそ、宝塚歌劇を新たなる地平へと踏み込ませるものに他ならないのだが――を支える、欠くべからざる存在がいる。“悪役”シュミットを、人間としての高貴さを決して失うことなく演じる緒月遠麻である。素晴らしい演技である。出番がほとんどなく、悪事に対する善人的言い訳もあまり担保されない中、彼の中にそれでも残る“清く正しく美しく”あるものを、堂々たる存在感をもって描き出す。今年の宝塚における最優秀助演賞候補の最右翼に躍り出る好演である。人々のセリフの中でのみ語られるシュミットの人間像をさらに深くつなぎあわせ、死に臨む覚悟をさらなる凄みで表現してゆければ、緒月は、男役として、舞台人として、この公演で決定的な成長を遂げることと思う。
 そして、ここに提言する。今こそ緒月遠麻に主演作を与えるべきである。この人に、新人公演主演という、トップスター候補となるチャンスが与えられなかったのは、21世紀の宝塚における最大の謎である。しかし、役替わり公演でこの条件をクリアした、同じ雪組の先代トップスター、朝海ひかるという前例もある。センターにふさわしい資質を兼ね備えた人材かどうか、一度試すべきである。今の緒月ならそのハードルを軽々と超えるであろうことを、私は確信するものである。宝塚歌劇創立百周年に向けて、英断が待たれる。
 今回の公演タイトル“トラファルガー”に、今から14年ほど前のことを懐かしく思い出した次第。
 結婚後半年ほどで、あひるの夫は一人で海外留学に向かった。目的地はイギリス。英語があんまりしゃべれず、白米が大好物でパンは苦手という彼の単身での留学は行き先大いに危ぶまれるものがあった(実際、留学中にやせてパスポートの写真と別人のようになってしまって、パスポート審査ではいつも「これは本当にお前か?」と問い質されるというネタを提供)。しかし、あひるは出版社に入社したばかりで、ついていくという選択肢はまったく考えられなかった。ロンドンに到着した日にそれは心細そうに電話してきて、やっぱり一緒に行けばよかったかなあ…と後悔したのを覚えている。
 心配の種はもう一つあった。夫はかなりの方向音痴なのである。ちなみに、あひるの異名は“磁石を飲み込んだ女”である。生まれて初めて行ったロンドン郊外の街で、到着後わずか30分で、適当なバスに見当をつけて乗り降りして無事目的地にたどり着いたこともあるし、迷宮のようなヴェネツィアの街も迷うことはなかった。夫と一緒に出かけて、「あれ、方向、どっちだったかなあ?」と迷っているのを見ると、「ふふ、今ここで私が君をおいて一人で立ち去ったら、君は家に帰れないかもしれない。君の運命は私の手の中にあることを心せよ〜」と、内心ほくそ笑んでいたりすることもある、ダークあひる。
 それで、夫は、二年間の留学中も、後の三年間のハノイ勤務時代も、毎日、日本時間0時に欠かさず電話してきた非常にまめな人なのだが(ケム川のほとりで鴨だかあひるだかをずっと眺めていて、うっかり遅れたことはあった)、留学中、ロンドン到着して間もないころ、電話がかかってきて、「今どこにいるの?」と問うと、必ず、「トラファルガー広場だよ!」と返ってくるのだった。そんなに毎日行っちゃうほどトラファルガー広場が好きか!!! と思ったら、それは、方向音痴ゆえの苦肉の策だったのである。バスに乗ると、トラファルガー広場を通過する便が多い。広場のあたりは一面パッと視界が開けるから、そこなら、方向音痴の彼でも方角がわかりやすい。広場に到着して、電話して、そこから、方角を見定めてソーホーの日本料理屋に向かったりしていたそうで…。方向音痴だといろいろな苦労があって、それゆえの工夫が生まれるんだなあ…と思ったものである。今回、公演を見ていて、夫がトラファルガー広場で、あっちかな、こっちかなと迷っているのを、記念碑の上のネルソン提督がずっと見守っていたんだなあと、何だかちょっとじーんとしてしまった…。
 しかし。夫は、方向音痴ではあるが、人生にはほとんど迷わないのがうらやましいところである。歩く道は迷う割に、人生においては、「目的地がそこなら、こう進むしかないでしょ!」とビシッと示してくれたりして、え、道なき道なんだけど、自分で道を作って進めってこと? とちょっとうろたえてしまったりするあひる。あひるは、人生においては、体力に任せて、可能な道を行ったり来たりして全部試してみようかなと思う、それはドンくさいタイプだったりするので…。ま、夫婦で適当にバランス取れているところが長続きの秘訣なのかもしれませぬ…。
 番外編、これにて終了〜。
 1月3日に宙組公演「カサブランカ」の舞台稽古を観て、…心にずーんと来すぎて、何だか落ち込んでしまった2010年の年明けなのだった。手帳を見ても、それから数日間、真っ白なのは、家でぼーっとしていたためだと思う。
 理由は、明白である。2009年12月30日付で、<合言葉は「プリティ・イン・ピンク」!〜ジョン・ヒューズを送るhttp://daisy.stablo.jp/article/448444501.html>なる記事をアップした。その中で、映画「ストリート・オブ・ファイヤー」の主役、マイケル・パレがヒロインの歌姫に向かって言う、「俺はお前の荷物持ちにはなれん。でも、俺が必要なときには呼んでくれ。助けにくる」なるかっこいいセリフを、いつか言われてみたいと長年思っているうち、むしろ自分で言ったれ! と思うようになってきた…という話を書いたのだけれども、わずか四日後に、「そういうやせ我慢の美学を、お前は実際に、本当に、やり通す覚悟があるのか!」と、「カサブランカ」で大空祐飛演じる主人公リックの姿に突き付けられたようで、自分の人間としての甘さを思いっきり突き付けられたようで、新年早々落ち込んでしまったのである。舞台版「カサブランカ」を観て最初に思ったことは、「やっぱり愛する者同士、結ばれなくっちゃいやだ!」という、どこか子供っぽい感慨だったから。
 自分には愛する人がいて、その人も自分を愛していて、でも、その人には他に大切な誰かもいて、誰かが身を引かなくては事は収まらない。しかも、その大切な誰かは、多くの人間の生命を救う上で非常に重要な任務を背負った人物でもある。これが、「カサブランカ」の主人公リックとヒロイン・イルザ、その夫ラズロのおかれた三角関係である。基本的に、この世でもっとも大切なのは愛でしかないとそれは固く信じ切っている人間なので、何らかの事情があって、愛し合った二人が一緒に生きて愛を貫けない話にそれは身悶えしてしまうのである。まだ幼稚園のときに出会った少女漫画の傑作「キャンディ♥キャンディ」は、今から思えば、役者の生理の神秘を初めて教わった大切な作品なのだが、やっぱりキャンディとテリィは結ばれるべきだったんじゃないの! と永遠に納得が行かないであろう自分がいる。…というあたりで、やせ我慢の美学はあひるにはやっぱり無理なのかも…と思わないでもないけれども、「カサブランカ」も、ナチスに追われているラズロを逃がすのはいいとして、リックも、物わかりよく引きさがってしまうのではなくて、後からイルザと一緒に脱出する手段を何とか考えてでも、愛する人と共に生きる道を模索すべきなんじゃないのか…と思ってしまったのである。これほどまでにあひるは、愛と共に生きることに非常に貪欲である。…けれども、昨年経験したとある出来事を思い出すうち、ああ、リックのおかれた心理的状況も、同じようなことだったのかもしれないな…と思えるようになったのである。
 …お前は、もっとも愛が困難に思える状況において、愛を貫いたか…と、内なる声が聞こえる。成し得る限り、最善を尽くしました、そう私は答える。では、観るがよいと、声が答える。目を開ける。――そこに広がる光景すべてが、私の瞳に乾杯している。
 大空祐飛の宙組トップスターお披露目作「カサブランカ」は、私にとって、そんな重みのある舞台だったのである。なぜなら、その舞台姿は、私を舞台評論の道にいざなった人物の姿を、あまりに懐かしく彷彿とさせたからである。この道を志して以来、何度もつまづいて、ときには逃げ出したくなるほど苦しくなって、それでもやはり、一心に歩んでゆくしか道はない……と思って進んできたら、同じ美しい想い出を心に抱いて歩んできた人と邂逅してしまった、そんな驚き。想い出を、舞台上と客席とで、そんな形で共有できると知ったのは、それが初めてだった。
 宙組公演「TRAFALGER」「ファンキー・サンシャイン」で、トップ娘役・野々すみ花の魅力が遂に! 花開いた。
 下級生の頃からその芝居の巧さには定評があったけれども、個人的には、まだまだ上に行ける人なのにな…とずっと思っていた。何というか、“正解”を、自分の中にではなく、自分の外、例えば、他の女優やかつての偉大な娘役たちだったらどう演じるか…というところに求めていて、舞台がどこか優等生的に落ち着き過ぎている感じがしていたからである。稽古場であまりに“正解”をきっちり創ってきてしまっていて、いざ舞台に立ったとき、役柄を自由に生きて楽しめていない風なのも気になった。取材でお会いしたときも、若いながら非常にしっかりしていそうなところ、雑談中など、それはかわいらしい天然ボケが炸裂するのが魅力的なのに、いざ取材が始まると何だか優等生になってしまう。もっと自由に、自然に、無邪気にかわいらしいところを、舞台でも見せられるようになったらいいのに…とずっと思っていた。
 それが、「カサブランカ」の東京公演の後半、自然に自由に役を生き、全身全霊をぶつける大空祐飛の相手を務めるうち、可憐な花のつぼみがほころび始めるように、徐々に変化が表れてきた。そして、今回の二本立てで、遂に魅力開花と相成ったのが喜ばしい。
 「TRAFALGER」で野々が演じているのは、イギリス海軍の英雄ホレイショ・ネルソンと不倫の恋に落ち、彼の子供を宿してしまう“ファム・ファタル”エマという、宝塚のトップ娘役としてはかなりの難役である。夫の殺害を夢想する「相棒」のパリス、親を殺されたことから負傷兵を国籍によって差別する「ソルフェリーノの夜明け」の看護婦アンリエットと、最近、トップ娘役に課せられるのは、観客の共感を誘いにくい、ハードルが高い役どころが多い。けれども、前者を演じた花組の桜乃彩音、後者を演じた雪組の愛原実花とも、「私はこんな役じゃなくて、もっとかわいらしく、観客受けする“いい役”がやりたい」などという甘えはいっさい見せず、難しい役どころに果敢に取り組み、舞台人として大きな成長を見せたことが記憶に新しい。はたして野々も、奔放なヒロインをコケティッシュな魅力全開で演じ切って、宝塚の娘役の領域を拡張することに成功した。
 彼女の魅力の一つに、セリフ回しのこのうえない色っぽさがある。月組の蒼乃夕妃の持ち味がどこかキリッとしたセクシーさなら、野々の持ち味は、湿度幾分高めにしっとり艶っぽいところにある。「TRAFALGER」で大空祐飛が演じる主人公ホレイショ・ネルソンは、二次元から抜け出てきたような金髪の超絶ビジュアルが、どう考えても女が放っておかないんじゃ…というくらい色男すぎて、軍務に熱心なあまり色恋沙汰にお堅いようには一見思えないのだが、野々扮するエマのこのセリフ回しで、堅物ネルソンが翻弄されている感じがきっちり醸し出されていた。白いエンパイア風ドレスでネルソンと腕を組んで現れるシーンの、清冽な色気といったら!
 ショー「ファンキー・サンシャイン」でも、長い腕を生かしたダンスが、はじけるような色っぽさで実にキュート。「サン・フラワー」の場面では、無邪気なお天気レポーターの大空相手に、若干年上のお姉さん風な魅力。中詰の「サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート」でも、低音の迫力に男前な魅力がある。
 下級生時代から活躍してきていたから、何だかもうキャリアを積んでいるように思ってしまっていたけれども、まだ入団六年目なのである。どちらかというと大人っぽい持ち味が勝る人だから、学年を積めばさらなる魅力が開花しそうな気配も感じさせる。大空祐飛も大人っぽいと思えば無邪気というギャップが魅力な男役なので、二人で、同じ方向性を分かち合ったり、逆方向に引き合ったりが自由自在にできるようになれば、トップコンビとしてますます魅力が増すことと思う。前例にとらわれず、自分だけの個性と魅力で、宝塚の娘役の領域を広げ、彼女自身が偉大な娘役の系譜に連なってゆくことを大いに期待したい。二度目の挑戦となる「銀ちゃんの恋」全国ツアー公演で、野々すみ花オリジナルのヒロイン小夏を観られることを楽しみにしている。
 昨年の夏、シャーリー・マクレーン主演の「ココ・シャネル」という映画を観ていたときのこと。ヒロインに群がる男たちが、「僕はもう、君なしでは生きていけない…」といった類の、歯が浮きそうになるセリフを、文字通り歯が浮きそうに発していて、聞いていてちっとも、うらやましいなとか、自分も言われてみたいな…という気持ちにならなくて、いったいこれはどうしたものか、と思った。その直後、宙組公演「逆転裁判2」を観に行ったところ、主人公の熱血弁護士フェニックス・ライトに扮した蘭寿とむが、それは青臭いセリフの連発を余裕で通していて、ああ、蘭寿とむは、“超越”を獲得したスターなのだ…と思わずにはいられなかった。
 普通だったらちょっと言わないようなセリフや、キザに見える仕草も、この人ならば似合ってしまう。歯が浮くからやめて〜ではなく、むしろ、もっともっと言って♡と逆方向に作用する。そんな“超越”を獲得した者、それが“スター”である。普通、こういうこと日常会話で言わないよなあ…とどこかためらいつつ発するから、歯が浮きそうになるセリフがやはり、歯が浮きそうにしか聞こえないのである。そういうためらいが伝わるから、聞いている方も、そうだよな、日常会話では言わないよな…と思ってしまって、ちっともうれしくはならないのである。蘭寿とむを見よ。もはや“超越”自由自在である。
 「君の瞳に乾杯」の名セリフで知られる映画「カサブランカ」だが、宝塚版においては、蘭寿扮するレジスタンスの英雄ヴィクター・ラズロによって、新たなる名セリフの誕生をみた。
「我々は生きている」
 どうです、この直球勝負。「そりゃ人は誰だって生きてるだろうよ!」と突っ込むのはお門違い。蘭寿とむが発すれば、この世に生きる喜び、身体中にみなぎる血潮、そんなものを感じずにはいられないのが不思議である。こんなストレートな人間讃歌を、参加者全員で力の限り大声で歌ってしまったから、地下道での秘密集会もすぐにバレて追われて逃げる羽目になったのでは…と少々思わずにはいられなかったけれども、聞いていて、そうだそうだ、我々は生きているんだ! と内心拳を振り上げたくなる、そんな作用を心にもたらすのは、スターが発すればこそである。また、途中で踊るダンスがまた、「生・き・て・ま・す!!!」と言わんばかりの生命力にあふれていた。蘭寿のダンスといえば、吹き出しでセリフをつけたくなるほどに雄弁で、「Amour それは…」で手話をしながら歌って銀橋を渡るシーンでも、「そうだよな、ダンスでもいつもあれだけ何かを語っているみたいなものだから、一度に一つ以上の伝達方法でないと、心の想いを伝えきれないのかもしれん…」と思わず納得してしまったことを思い出した。実に直球勝負、自分の理想のためならば、他の犠牲も止むを得ないところがある…と、どこか狂気をも感じさせる純粋さで、レジスタンスの英雄ラズロを演じて、大空祐飛扮する主人公リックと実に好対照、好相性で魅せた。大空祐飛といえば“黒”の男役である。いろいろ手を汚したこともあっても、理想と大義のためだから…と己を正当化できるラズロに対し、昔犯した過ちゆえに、俺は幸せになっちゃいけないんだ…とか、ましてや愛する女を幸せにする資格なんかないんだ…とか、それはもう盛大にあれこれ悩んで一人やけ酒をあおったりするところに“黒”の魅力の最骨頂がある。蘭寿のラズロには、そんな大空のリックの魅力を引き立てる味わいがあった。
 “超越”を獲得したスターは、「TRAFALGER」「ファンキー・サンシャイン」でも大活躍である。なんせ、スターである。「TRAFALGER」では実在の英雄ナポレオンに扮しているが、もみ上げも麗しい雄姿を見つめていたら、次第に、スマートな男役が、精力あふれる小男の軍神に見えてきたのが不思議だった。一方の「ファンキー・サンシャイン」では、太陽族の青年YUZOに扮し、合コンならぬ合ハイで知り合ったと思しき恋のお相手に、昭和の名セリフ「幸せだなあ、僕は君といるときが一番幸せなんだ」もバッチリ決めてみせる。さすがはスターである。宝塚の二枚目男役がやる役どころなんだろうか…と思わないでもないところを、嬉々として演じて昭和の時代のめくるめく青春ワールドへと観客をいざない、魅了してしまう。あの笑顔、あの腰つき、「♪真っ赤に燃える〜」の歌い出しの凄み、どこをとっても輝きに満ちている。YUZO、文句なしに今回の心のキャラである。
 最近、観劇の際、前もってプログラムを読んだりしないでフレッシュな状態で臨み、その日感じたことを受け止めるようにしているという話を前にも書いたけれども、今回のショーでも、まったく予習しないで、蘭寿とむが下級生たちを率いて超絶ダンスをバリバリ繰り広げるシーンを観ていて、「粒子運動を思わせるな…」と考えていたら、役どころが実際に“プラズマダンサー”だったのでちょっと驚いた。そして、“ギュイーン、キュルキュル”なんて擬音で形容したくなるその鋭角的な動きを観ていたら、何だか、ヒンドゥー教の太陽神、ヴィシュヌ神を連想してしまったのだった。軍神から太陽族、太陽神まで縦横無尽のスターの今後が楽しみでならない。
 今回、“心の名場面”はありません。すべてが完璧なまでにテンポよく進んでいって、途切れることがないから。そして、どの場面も心に本当に深く残っているから。
 それより何より。遂に、「プロヴァンスの碧い空」を抜く、生涯ベストワン宝塚作品が現れてしまったのだった。まあ、あの作品は、あひるが今の道に進むきっかけを作ったという意味で、“心の永久欠番”みたいなところがありますが……。月組版「スカーレット ピンパーネル」こそ我が家、じゃなかった、心のベストワン!
 それくらい、この作品には、子供のころから抱いてきたわくわくするような夢が、それはいくつもつまっていた。私は小学校のころから、図書館中の本を読み尽くしたくて、毎日、二冊ずつ本を借りてきて、薪を背負って歩きながら本を読む二宮金次郎像のように、ランドセルを背負って歩きながらまで読んでいる子供だった。電信柱に激突しそうになるすんでのところで、近所の人に声をかけられて救われたこともあるから、「赤と黒」のジュリアン・ソレルを笑えない。友達の家に遊びに行っても、本棚の本が気になって、「もう、貸してあげるから、家に持って帰って読んでいいから、今は遊ぼうよ」と怒られたこともある。
 そうして、リトルあひるの心は、本の中の空想の世界に遊んでいた。本の中ではどんな冒険も可能だった。お姫様を救い出すヒーローにもなりたかったし、救い出されるお姫様にもなりたかったし、ヒーローと一緒になって戦う勇敢なお姫様にもなりたかった。七つの海を駆け、山々を越え、地の果てまでめぐってゆきたかった。
 かつての私は、本の世界の中だけに引きこもっているような子供だったのだろうか。そして、大人になった今、多くの夢ははたして叶わなかったと言うべきなのだろうか。否、と私は答える。
 確かに、我々が生きている現実には、ギロチンで政敵を粛清する独裁者もいなければ、幽閉された王太子もいない。日々が血沸き肉躍るような冒険に彩られているわけではない。けれども、物語の中で、想像力を駆使して経験することのできたすべてを、日々の営みの中で生かしてゆくことは可能である。想像力によって、自分の世界、自分の人生を、実際生きている以上に広げ、豊かにしてゆくことができる。そうでなければ、人は、自分の経験したことしかわからない、視野の狭い生き物として生きるしかない。芸術とは、そうして、世界を、人生を広げるために存在するものでもあるのだと、改めて思わずにはいられない。もっとも、これは“物語”の幸せにしてポジティブな効用である。人を縛る、不幸にしてネガティブな効用もあるとは、現在、東京芸術劇場中ホールで上演中のNODA・MAP「ザ・キャラクター」が如実にするところではある(実に骨太で手強い作品なので、現在考察進行中)。

 脚本の解釈。音楽・セリフのテンポ。月組版「スカーレット ピンパーネル」は、清く“正しく”美しい。何より、霧矢大夢によるベルギー人スパイ、グラパンの造形が、脚本の深い読み込みに基づいていて、見事なまでに正しい。宝塚のトップスターが演じる役の従来的範疇を大きく超えていそうな偏屈な老人の役作りである上に、冒頭の登場シーンで演じている老農夫とはまた違った造形なのが、役者としての矜持を大いに感じさせる。
 霧矢大夢は、脚本自体が本来もつおもしろさをまずは優先すべきであって、アドリブだの何だのによって笑いを取ることはその次に来ると考えている、本質、実質重視の役者である。そして、脚本や譜面を正しく読み、それをきっちり再現する才能にも恵まれている。もちろん、関西人である。日替わりのアドリブにも抜群のセンスを発揮して、きっちりオチまでつけて客席を笑いの渦に巻き込んでいた。
 人はなぜ“仮面”をつけるのか、すなわち、人はなぜ“演じる”のか。能天気なイギリス人貴族を演じ、グラパンを演じ、人によって異なる顔を使い分けて、霧矢大夢の演技は、鋭く問いかけ続ける。それも、違う役柄を演じていると見せるのではなく、同一人物が違う顔を見せているに過ぎないと表現できる、秀逸な演技力あったればこそである。小道具の仮面の使い方も実に巧みだった。一幕ラスト、登場人物それぞれの思惑が重層的に歌われる「謎解きのゲーム」のナンバーの最後で、銀橋に出てきた霧矢パーシーが、己の顔をさっと仮面で隠し、「さまざまな思惑を心に秘めて、人は皆、“仮面”をつけて生きている――」と、人間の本質を厳然と指し示す様に、背筋がぞっとした――。
 グラパンの扮装を解き、ルイ・シャルルの眼前にパーシーとして姿を現す霧矢は、ときに、これまでに演じてきたさまざまな“役割”を脱ぎ捨て、トップスターとしてまばゆい輝きを放つ、今の彼女自身の姿をも連想させずにはおかなかった。その一方で、グラパンの扮装を解いた刹那、“グラパン”役の際に見せていた、不遜で尊大な笑いの持ち主、偏屈な老人としての表情が、彼女自身の中にすっと入りこんで隠れてしまうのを、何だか不思議な思いで見つめていた。何だか、グラパンが消えてしまうのが、グラパンを演じているときにしか見せない彼女の一面が消えてしまうのが、さみしくさえ思えるときがあった。ほとんど、デヴィッド・ビントリー振付のバーミンガム・ロイヤル・バレエ団「美女と野獣」である。野獣が元の王子の姿へと戻った刹那、ヒロイン・ベルは、一瞬困惑して、王子をよそに野獣を探す、非常に興味深い振りがある。
 そして、気づいた。さまざまな変装をし、さまざまな顔を使い分け、縦横無尽な活躍を続ける我らがヒーロー、パーシバル・ブレイクニー。その姿こそ、役者の本質なのだった。パーシー扮するグラパンがいなくなるのを惜しむ気持ち。それは、役柄が役者を離れ、この世から姿を消した瞬間の、あの不思議な喪失感と同じなのだった。あの人は今、どこにいるのだろう。この世に存在するのだろうか。役者の中には今なお生きているのだろうか。どこに行ったら会えるのだろうか。せつなくももどかしい焦燥感。劇場でしか会えない不思議な人、役者の演じる役柄に会いに、今日も私は劇場に足を運ぶ。
 今回の「スカーレット ピンパーネル」で、好きな場面を強いて挙げるとするならば、パーシーがグラパンに変装して、タンプル塔に幽閉されている王太子ルイ・シャルルを、もうすぐ救いに来るからと励ましに来る場面である。昨年の秋、原稿が書けなくなって、自分自身の塔に閉じこもっていた私に、「書け!」(実際は、「弾け!」ですが)と霧矢大夢扮する「ラストプレイ」のムーアが喝を入れてくれた瞬間を思い出した。
 そして、二年前、モスクワ郊外での思い出が鮮やかに甦ってきた。「ルイ・シャルルとチャイコフスキー」(http://daisy.stablo.jp/article/448444378.html)なる文章に記した、チャイコフスキーの家博物館での出来事。おびえた顔のルイ・シャルルの版画。チャイコフスキーはなぜ、ルイ・シャルルの話にそんなにも魅入られていたのだろう――。そんなことを考えていて、ふと、思ったのだった。
 あのとき、霧矢大夢が救い出してくれたのは、私の芸術的良心だった――。
 炎の中をも恐れず、新たな美の現出に懸ける想い。命の闘い。ただ、愛だけが、挑み続けるひとかけらの勇気を与えてくれる。紅はこべの紋章は、そんな勇気の証――。
 霧矢大夢のグラパンは、“心のキャラ”を超えて、私の芸術的良心を支え、守る騎士(ナイト)である。
 今回、男役として大きな成長を遂げたのが、ショーヴラン役とアルマン役を役替わりで務めた龍真咲と明日海りおである。白と黒、切磋琢磨し合う男役同士、実にいい並びであることがわかった今回の役替わりだった。役を深めたところでの一週間交替というのは、負担を考えても、役を深める上でも、いかがなものかと思うが、霧矢大夢を支えるスターとして、二人とも、きっちりとその存在感を示した。

「これぞ、彩吹真央退団の後、“ヘタレ”を継ぐ者だ!」
 アルマン役を演じる龍真咲を観ていて、“ユリイカ!(我発見せり)”と興奮せずにはいられなかった。彩吹真央のつけた足跡は、きっと龍真咲が踏みしめる。今回の“心のヘタレ”である。
 それほどまでに、超絶“ヘタレ”芸である。男役芸が未熟で“ヘタレ”に見えるのではない。きっちりと構築された男役芸で、“ヘタレ”をそれは魅力的に見せているのである。宝塚の男役が新たな領域を獲得できるか、その結果、娘役が新たな領域を獲得できるかが、今や、龍真咲の双肩にかかっている。
 だいたいが、マルグリットの弟アルマン役は、こんなにもおもしろく、おいしい役だっただろうか! ただでさえ、泣いたり笑ったり、テンポのよさについていくのが大変な今回の「スカーレット ピンパーネル」なのに、龍アルマンが出てくると、シリアスなシーンなのに思わず笑ってしまったりして、あひる、さらに混乱。まず、登場の「ねえさ〜ん」からしてツボである。何ですか、このかわゆい生き物は……と、小さな子供のころ、自分の後をついてきていた二歳年下の弟を思い出さずにはいられないあひる。気の強い姉マルグリットに守られ、気の強い恋人マリーに守られ、「姉さんも新婚の旦那様に甘えたらどうだい?」って、君は甘えさすんじゃなくって甘えてる方だろう! 「君が(イギリスに)残りたいなら残りたまえ」というセリフも、マリーの「ついてゆくわ」という言葉を待っているのがありありだし、マリーに「私が監督しますわ」と言われてもそれはうれしそう。
 それなのに、正義感は人一倍強く、ピンパーネル団に参加するなんて言い出したから、周りも大変。「炎の中へ」のナンバー中、デュハーストやフォークスは、「面舵いっぱい!」「上部マストにつけ!」なんてりりしく指示を出しているのに、龍アルマン一人、うきうきと「フランスは近いぞ〜!」って……、故郷にたどり着くのが待ちきれない様子。一人でフランスに帰ったんじゃないかとマリーに問われ、「マリーは僕のことは何でもお見通しだから、隠し事はやめよう」と即座に顔に出す。「この人をピンパーネル団に入れるなんて、パーシーは何を考えているのかしら……?」と言いたげなマリーも、アルマンを監督するためか、自らピンパーネル団入団を志願する始末。口だけはえらく達者で、生意気にもパーシーに「あなたには愛のレッスンが必要かもしれませんね」とか、見事ルイ・シャルル救出成ったラストでも「たいしたもんだ」とか、君がどの口で言うのか〜! と思わず突っ込みたくなる。
 というわけで、あんまりピンパーネル団の活動には貢献していないような印象を受けるのだが、ところがどっこい、一筋縄ではいかないのが龍アルマンなのである。スカーレットピンパーネルの正体を明かせと拷問されても、決して口は割らない芯の強さを発揮。というか、拷問の鞭二発で気を失ってしまう効率の悪さ! その都度、いちいち水をかけて正気づけなきゃいけないから、拷問している方がくたびれるというものである。こうして、捕らえられている間、時間稼ぎをし、ショーヴランたちの体力をいたずらに消耗させ、その判断力を狂わせたのが、龍アルマンの最大の功績だったりして……(笑)。超絶ヘタレアルマンを演じている龍真咲は、それはキラキラとチャーミングで、何だか、「愛のソナタ」の真琴つばさを思い出さずにはいられなかった。
 一方のショーヴラン役でも、本質はヘタレである。“革命”なる劇は、もはや単なる茶番と化してしまったのに、そのヒロイックな物語を、そして、自分自身も英雄的役どころを演じている、もっと大きな役どころを演じられると、いまだにどこか信じようとしている、哀しい道化。
 歌いながら、龍ショーヴランは夢を見る。「鷹のように」では、今の自分自身より大きく強い、鷹のような存在を思い描いて、独裁者ロベスピエールの一言で、はっと我に返り、卑小な存在に過ぎない己の現実に気づく。「君はどこに」では、自分がもっとも強く輝いていたように思えた、かつてマルグリットが恋人であった時代を夢見て歌う。「栄光の日々」は、そんな己の夢がもはや破れそうであることをどこか知りつつもなお、夢見ていたいと哀しい願いを歌い上げる。弱い人なのである。
 こうして、自分の世界に入ってしまうナルシスティック芸を深めた結果、ふっと右目のみ伏せる&白い歯を光らせるという、独自のセクシー技が炸裂。黒を演じて、しなやかな鞭のような魅力を発揮した。
 「エリザベート」のルキーニ役、「HAMLET!!」のタイトルロールと観ていて気になったのが、一生懸命になりすぎるあまり、ときに、セリフも歌もすべて同じ抑揚で流れていってしまい、感情が伝わりにくいことだったが、今回、そのクセも改善された模様。大劇場公演中、喉を痛めるアクシデントがあったが、それでもフィナーレでは満面の笑みで通すなどして、舞台のテンションを下げなかったところに、舞台人としての精神力の強さを見た。実に緻密に繊細に役作りしていることが、今回の二つの役でもしっかりうかがえたので、後はそれをいかに伝えるか、研究していくことが肝要だと思う。

 歌には、物理的に音として官能をもたらす要素と、心の中に想いを想起する要素と、脳内にどこかヴィジョンを想起する要素から成り立っているのだと、このところ考えている。ここでいうヴィジョンとは、楽曲を聴いていて、考えるのでも感じるのでもない、ふっと頭に浮かぶものであって、管弦楽等を聴きに行った日にときに記しているのはその説明に他ならない。
 歌においてもそのようなヴィジョンは可能なのだと発見させてくれたのが、昨年の「Heat on Beat!」東京宝塚劇場公演での霧矢大夢の「枯葉」の歌唱である。このとき浮かんだヴィジョンは、昨年11月にヨーヨー・マのバッハ「無伴奏チェロ組曲第6番よりサラバンド」を聴いたときに浮かんだものと酷似していて、客席で思わず声を上げそうになったほどびっくりしたのだった(<2009年あひる心のベストテン発表!!!>http://daisy.stablo.jp/article/448444503.htmlに説明あり)。
 そして、中日公演「Heat on Beat!」でこの「枯葉」を歌ったとき、おぼろげながらもやはりヴィジョンが浮かんで、やるなあ! と思ったのが明日海りおだった。霧矢の歌唱を日々間近で聴いて参考にしているからか、明日海に続き、龍真咲、蒼乃夕妃の歌もヴィジョンが浮かぶようになってきていて、今や月組、恐るべし状態になっているのだが。
 この「Heat on Beat!」中日公演での“心の名場面”は、明日海が紫門ゆりやと煌月爽矢を引き連れて歌い踊る「ダンシングフール」だった。「ダンシングフール」といえば、かつてミュージカル「コパカバーナ」で、湖月わたるが壮絶な男らしさを発揮したナンバーである。このナンバーを歌って明日海は、男役としてそれは骨太な魅力をふりまいていた。アイドル風の整ったルックスに惑わされていたけれども、全然違う路線を驀進すべき人なのだ! と思ったものである。
 ショーヴランを演じる明日海は、目の強さもあいまってか、黒曜石から削り出したナイフのような魅力がある。「鷹のように」と歌っているからか、どこか、「エル・アルコン−鷹−」の主人公ティリアン・パーシモンと、「エリザベート」のトートを併せた造形のようにも思える。己の野望のためには人を殺めることも厭わないティリアンが、「♪最後のダンスは俺のもの〜」と地獄の果てまで追いかけてきたら、それは怖い。実際、明日海りおの男役像には、若くして人生の何を知ってしまったのだろう……とときに思わせる凄みがある。ますます、アイドル風のルックスを裏切る味わい深さというか、アイドル風のルックスだからこそ、凄みがいや増すというか。
 明日海のショーヴランは、かつて、貴族たちの圧政によって、愛する者たちを失った恨みゆえ、革命の旗印のもと、貴族たちの粛清に嬉々として従事しているような恐ろしさを感じさせる。人は、憎しみから強くなるのではない。愛だけが、人に勇気を与える。ティリアン・パーシモンに父を殺されたルミナス・レッド・ベネディクトが、一人ティリアンのみを斬り、ティリアンのような殺人マシーンとはならなかったように、愛する者を失ったショーヴランは、愛する者を失わせた者のみを憎むべきであって、復讐の名のもとに、無関係の者の命を無造作に奪うようなことはすべきではなかったのである。
 愛を信じない者は、愛に裏切られる。一見能天気なパーシーよりも、自分の方が、かつての恋人マルグリットを深く知っていると思い込んでいて、そんな自分に裏切られる。強く賢い者が、その強さ、賢さを発揮するため、ときとして弱さや愚かさを演じる場合もあることに、ショーヴランは気づかない。
 それにしてもロマンティックな「君はどこに」である。はっきりとラヴソングである。ここでの明日海ショーヴランは、トートさながらの誘惑者としての魅力に満ちている。過去から甦った誘惑者。明日海の「君はどこに」を聴きながら思わずにはいられなかった。過去は、自動的に過去になるのではない。その人の中で過去だと割り切れたとき、初めて過去になるのだと――。
 一方のアルマン役では、しっかり者の弟ぶりが好感度大である。あひるの場合、高校生くらいで弟との大人関係が逆転して、「もう、お姉さんはさ〜」などと平気で説教されるようになったので、両方味わえてお得な役替わりではあった。それはさておき、ピンパーネル団の中に一人フランス人として在る異質さ、文化の違いを強調するような役作りが光った。ラストの「たいしたもんだ」も、フランス人である自分には想像もつかなかった“復讐劇”を、イギリス人のパーシーがやり遂げてみせたことへの素直な賛辞として聞こえる。自立した恋人マリーとの関係も、対等なパートナーシップを感じさせてお似合いの風。それにしても、新人公演を卒業したばかりとは思えない逸材である。これからどのような男役像を創り上げ、宝塚にどんな新風を巻き起こしていくのか、心待ちにしたい。
 月組上級生の職人芸はさすがだなあ……と感じ入ったのが、ドゥ・トゥルネー伯爵役の一色瑠加とサン・シール侯爵役の研ルイスである。共に出番は多くないながらも、作品全体をきっちり見渡した上でスペシャリストぶりを発揮している。
 ドゥ・トゥルネー伯爵は幕開きのセリ上がりでパーシーの右腕であるデュハーストと共に登場、革命の混乱続くパリからの妻子の逃亡の成否を憂えていること、そして、王太子ルイ・シャルルを救出せんとするスカーレットピンパーネル団の計画に協力を惜しまない旨を語る。今回、このセリ上がりでの会話が物語全体に非常に巧く生かされているなと思ったのは、物語の究極的目標とその困難の度合いが、二人のやりとりのうちに明確に浮かび上がってくるからである。目標は、ルイ・シャルル救出。そして、一色ドゥ・トゥルネーが「私もそのためならどんな犠牲も厭わない」と熱情的に語れば語るほど、その目標達成に向けてのハードルの高さを推し量ることができる。実際、彼は後に革命政府に捕えられ、拷問を受けるが、「放せ、放したまえ」と語る一色の憔悴ぶりに、その拷問の過酷さが見て取れる。パーシー&ピンパーネル団が万が一失敗して捕えられたとして、彼らを待つのはその過酷な拷問であることが明示され、スリルがいや増す。
 中日公演「紫子」で一色は家老の三太夫を演じ、鋭い間合いで的確に笑いを取っていた。今回の作品ではコメディ部分に絡む役柄ではなかったのが残念なくらい。日本物の得意な人で、若衆姿も目を引く美しさだったが、「紫子」でもう一点目を見張らされたのが、歩く表現の巧みさである。領主の婚礼の夜、舞台を横切るその歩みの中に、家老が大きなお役を果たし、ほろ酔いでいい気分になっていることまでが見て取れた。
 サン・シール侯爵は「マダム・ギロチン」で一節歌って処刑される、ワンポイントの役どころだが、研のこの歌唱は鳥肌ものである。「♪いつかお前たちに報いが来るぞ〜」の歌い上げに、聴く者をぞくぞくとさせる凄みがある。そして実際、彼のこの呪詛通り、パリの民衆は後に、ロベスピエールが先導する粛清の嵐に怯えることとなるのである。研は他に民衆の役どころも務めており、その際、目力と迫力ある歌唱で舞台の熱気に貢献しているが、民衆を演じているときと、これに対立する貴族とを演じているときとでは、衣装の違いばかりではなく、身にまとう空気が全く異なっている。
 サディスティックに民衆をいたぶるピポー軍曹役の綾月せり、おヒゲの向こうからすべてを見透かし、主人を思いやる優しさをあふれさせる執事ジュサップ役の彩央寿音、監禁中のルイ・シャルルに対する虐待ぶりのあまりの迫力に観ていて思わず悲鳴を上げたくなる靴屋のシモン役の華央あみりと、ユニークな面々が揃っている。「WOW」なんて言っちゃったりして、コメディ・フランセーズでのあたふたとした司会ぶりに、実にいい味出しているなあと思った鼓英夏は、これで退団とは惜しい。そして今回、その小芝居を堪能してしまったのが、ショーヴランの部下のズッコケコンビ、美翔かずきのメルシエ&響れおなのクーポーである。
 美翔はまず、「次回宙組公演で“紫吹淳祭り”が開催されているそうですが、私こそ、月組に残った後継者であります!」と言わんばかりの“紫吹淳”ぶりに驚愕! “紫吹淳芸”については、宙組公演の際、各組への伝播も含めて考察したいと思っているが、言うなれば、男役の表現の一つのスタイルであると考えている。しかし、美翔の場合、目の剥き方や顔の向け方といった微細な表情作りからメイク、身のこなしまで、“紫吹淳”が時を越えて憑依したかのよう。もはや“一人紫吹淳祭り”である。たまたま、その三代前の月組トップスターご本人が観劇されている回を観たのだが、「私は今、当のご本人に“紫吹淳芸”をご覧に入れているのであります!」と言わんばかりのその日の美翔メルシエに、「ああ、今何か、とんでもない凄いものを観ているなあ…」と感じ入ってしまった。それはさておき、美翔と響の受けの小芝居は、本筋の芝居をさらにふくらませる上で実に効いていた。ショーヴランが、パーシーこそスカーレットピンパーネルだと気づく直前の大笑いとそれがはっと途切れる瞬間。グラパンに扮したパーシーがマルグリットとステッキの引っ張り合いをしている際、マルグリットを取り押さえている美翔メルシエの、間合いを合わせた引っ張り方。響は、スカーレットピンパーネルの声明ビラの扱いが非常に巧みで、悔しそうに見据えたり、ギュッと握りつぶして敵意を示したり、セリフない中に感情を雄弁に表していた。美翔メルシエが、拷問の執行を命じられたショーヴランにさっと鞭を差し出すタイミングも実に的確で、こういう気の利く部下がいると、たとえ嫌でもテキパキ拷問せざるを得ないなあ、ショーヴランもつらいところだなあと思った次第。

 スカーレットピンパーネル団の助さん格さん、デュハースト役の青樹泉と、フォークス役の星条海斗は、この半年で印象が大きく変わった二人である。持ち味を存分に発揮できるようになり、舞台姿が一回りも二回りも大きく見えるようになった。長身から繰り出すダンスと、声量豊かな歌声で、パーシーの活動を支える参謀的役どころをきっちり務め上げた。今回、若手の多かったピンパーネル団をまとめる上でも、二人が果たした役割は非常に大きい。
 青樹は中日公演「紫子」で、霧矢大夢扮するヒロイン紫子の恋のお相手、風吹役を演じていたが、そのどこまでも懐深い包容力を実に頼もしく感じた。風吹は、兄の身代わりを務めている紫子に頼まれ、婚礼の夜の床で身代わりを務めるのだが、自分で言い出して頼んだくせ、紫子は嫉妬の虜となる。それもこれも、わかったわかった、何でも聞くよ……と優しく聞き入れてしまうこの人の優しさあったればこそなのだろうなと思った。そして、この人は“春”のような男役だな……と思った。何だか今日は心弾んで過ごしやすいな、自然と微笑みが浮かんでくるな……と思ったら、もう春だからなんだ、とうれしくなる、あの心持ち。青樹泉の笑顔を観ていると、何だか春に包まれているような、そんな気分がしてくる。
 そんな優しさに加え、シャープさと、熱情を表現しても決して崩れない品のよさを感じさせる男役である。今回も、パーシーとマルグリットの行き違いを案じ、見守る様に、親友を思いやる優しさと、かといって情には流されない理性を感じさせていた。
 決して冷たいのでも、扉を閉ざされているわけでもない、でも、扉がいったいどこにあるのかわからない……、星条については、何だかそんな印象があった。男役として十分に魅力的な世界を創り上げているのだけれども、あまりにきちんとできあがっていて、そこにどう入っていったらいいのかわからないというか。無論、中日公演「紫子」で演じた悪家老・天野外記のような役どころには、その感じが非常によく生きていた。今回、主のパーシーとマルグリットの夫婦仲が険悪になっているにもかかわらず、その庭で恋人とラヴラヴぶりを発揮する場面があったからか、星条海斗という男役の世界の扉が大きく開いて、入ってみると、それは温かく居心地のいい場所であることが感じられて、非常にうれしいものがあった。娘役を受け入れ、観客を受け入れることで、その男役世界はますます広がってゆくことと思う。

 ピンパーネル団の若手では、エルトンを演じた宇月颯がめざましい成長ぶり。宇月は二月の日本青年館公演「HAMLET!!」で、作品の成否を握るホレーシオ役を好演していた。その際に発揮していた歌唱力もさることながら、セリフのタイミングもドンピシャ。新人公演で演じたロベスピエールも、初演のにしき愛にも似た冷ややかな造形に迫力があった。ファーレイ役の紫門ゆりやは、ナルシスティックな造形がかわいらしい。新人公演のショーヴランを観ていて思ったのだが、小器用にこなそうとするのではなく、一つ一つ着実に積み重ねてゆく中に、男役としての味わい深さがいずれ自然とにじんでくるのではと期待。王太子ルイ・シャルルを演じた愛希れいかは、研二とは思えない芝居勘のよさが光る。タンプル塔監禁中に見せる深い絶望のいじらしさ、処刑された両親、ルイ16世とマリー・アントワネットの愛の深さについて語る際ににじみ出る、いかにも王族らしい不思議な威厳。今後が楽しみな人である。
 物語のクライマックス、ミクロンでの決闘の直前、グラパンに扮しているパーシーとステッキで引っ張りあいっこをして、「馬鹿力〜」なんて言われた後もなお、顔を紅潮させて蹴りなんか入れようとして、グラパンと闘う気満々のマルグリット、蒼乃夕妃が実に魅力的だ。娘役としては決してハードルが低くはないシーンなのに、まったく嫌みがなくて、かっこよくて、何よりキュート。そして、思い出した。昨年秋の星組公演「コインブラ物語」で、蒼乃は、ヒロイン・イネスと、彼女に瓜二つの盗賊団の娘、ミランダを演じていた。まったく同じドレスを着て出てくるシーンがありながら、二役の演じ分けもきっちりされていて唸らされたばかりではなく、ミランダ役を演じている際、盗賊団の仲間のお尻に蹴りを入れるところがあって、それがまた実にチャーミングだったことを。そう、星組歴代“心のキャラ”が顔を揃えたグランプリ・シリーズの趣あった(あくまで、あひるの心の中で)この公演で、見事“心のキャラ”に輝いたのは、蒼乃のミランダだったのである! (さあ、皆様、「いつの話だ」と盛大に突っ込んで〜)。そして、中日公演「紫子」でも、三場面しか登場がないながらも、そのけなげさで客席を感涙させた、蒼乃扮する舞鶴姫が“心のキャラ”なのだった! 舞鶴姫をめぐる不思議なエピソードについては後日、「千代さんと舞鶴姫」という項目を設けますが、そんなわけで、昨年後半からずっと心の大きな位置を占めていたのが、蒼乃夕妃という娘役だったのである。
 不思議な人である。彼女に関していえば、研4で抜擢され、轟悠のタイトルロール相手に女優志願のはねっかえり娘アンナをそれは思い切りよく演じた「KEAN」の印象があまりに強くて、何だか長らく、本人もそういうタイプの娘役なのかなと思い込んでいた。若くして抜擢された場合、そんなに多くは引き出しがないのもしかたがないことで、評価されるのは往々にして、自身と近いタイプの役をふられた場合が多いからである。けれども、その後観ていると、そうとも言いきれないものがある。しっとりとした大人の色っぽい魅力も出せれば、潔く颯爽と踊っていたりもする。若くして、いろいろな顔をもっている人なのだな……と思った。そんな娘役が演じる“女優”、マルグリット・サン・ジュストが楽しみだった。
 演じる者を演じるとは、演じる者にとってときに危険な行為である。その者本人が、“演じる”行為、つまりは自分の生業をいかに捉えているかが露わになってしまうからである。ああ、この人にとって、女優とは、華やかに着飾って人の目を引く程度の意味しか持たないのだな……と鼻白むことさえある。余談になるが、その意味でいえば、退団公演「ガラスの風景」で、作・演出の柴田侑宏によって、中断していたキャリアを再開しようとする女優の役をふられたことは、星組娘役トップ渚あきにとって最高の餞ではなかったかと思う。実際、娘役トップ時代の彼女は、素晴らしい演技で、当時の星組の舞台に大きく貢献していた。
 はたして、蒼乃夕妃演じるマルグリット・サン・ジュストは、自らの芸をもって、愛と理想のために闘うことを恐れない、毅然とした、堂々たる女優だった。物語序盤、コメディ・フランセーズで歌う「物語のように」からして、劇中劇中歌の体裁を取りながら、恋人たちが自由に愛を語り結ばれる平和な世界を希求する、マルグリット自身の願いがきちんと重ねられ、本体の物語と重層的に響き合っている。マルグリットの願いは、夫パーシーとの心のすれ違いを経て、彼の心にある理想を知ったことで、はっきりとした決意に変わる。そして、独裁者ロベスピエールの眼前で、敢然と「ひとかけらの勇気」を歌うに至るのである。マルグリットが友人マリーに「衣装を用意してちょうだい」と告げる箇所では、戦時中、派手な身なりを軍人に咎められ、「ドレスとヒールと化粧は歌手の戦闘服!」と言い返していたという、かつての大歌手、淡谷のり子のエピソードを思い出さずにはいられなかった。歌うことは歌い手にとって、舞台に立つことは女優にとって、闘いである。蒼乃夕妃は若くしてそのことを知っている娘役なのである。
 そして、彼女の何よりの特質は、役柄であれ相手役であれ、無理なく寄り添ってその良さを引き出し、それでいて、自分の良さもきちんと発揮する、その柔軟な協調性にあると思う。昨年、ヨーヨー・マのチェロを聴いていて気づいたことなのだけれども、何も、自分が自分がと強固に主張しなくとも、自分というものをしっかり持っていさえすれば、相手を受け止める中に自分の個性は十二分に発揮できるのである。
 彼女の表現するせつなさに私はどうも弱い。夫パーシーの愛を見失い、銀橋で一人歌う「あなたを忘れましょう」の、「♪この胸は張り裂けそうに痛いの」と空に消える高音を聞いていると、つらかった時期を思い出す。毎朝、目覚めても、胸に抱えた痛みが決して去っていることはなくて、まるで悪夢に目覚めるようで、こんなにつらいことしか感じないのなら、心なんてもう、自分の身体からなくなってしまえばいいのに……と思っていた日々。そういえば、そんな張り裂けそうな胸の痛みも、結局は闘うことでしか克服はできなかったのだけれども。一幕のマルグリットに胸が張り裂けそうになった人は私以外にも少なくなくて、「紫子」での客席感涙状態といい、娘役トップお披露目早々、蒼乃夕妃、快進撃である。何より、せつなさの後に、前向きな明るさで照らしてくれるのが魅力的である。霧矢大夢の徹底したプロフェッショナリズムに敢然とついていく奮闘ぶりも頼もしくもキュートな限り。これからももっともっと娘役の地平を切り拓いていってほしい、期待の大型娘役である。