東京公演中のある日、ヒロイン・マルグリットとその友人マリー、そしてイギリス貴族の恋人たちが、スカーレットピンパーネルの正体についてあれこれ推理している大好きな場面を観ていたときのこと。一列に並んで元気よく行進する9人の姿が、色も形も匂いもそれぞれに異なる可憐な花が、いたずらなそよ風にふわっと揺れたかのように見えて、……あ、月組娘役陣完全復活だ! と思って、あんなに楽しいシーンなのに涙してしまった……。
 かつて月組は、元気も個性も、そしてもちろんキュートさも、ありあまるほど持ち合わせた娘役の宝庫だったのである。当時、副組長、後には組長を務めた怪娘役(褒め言葉です)、夏河ゆらの影響も少なくなかったようにも思う。それが、最近じゃあんまり元気は求められなくなってしまったのかしら……と思うようになってしばしだったのが、元気な娘役陣が見事復活して思わず感涙。そうだそうだ、月組娘が「♪随分にぎやかだね」と突っ込まれるなら、わいわいきゃあきゃあ、こんな感じにそれははしゃいでにぎやかじゃなきゃ困る! 元気&色気のある娘役陣ににっこり微笑みかけられてこそ、月組男役陣の男気もますます上がるというもの。そして、元気いっぱいの娘役陣の中にあって、ひときわ元気よく個性を発揮する、それが何だか、長年の月組娘役トップのイメージ。娘役トップ不在の時代を越えて、見事花を咲かせた、美夢ひまり、萌花ゆりあ、羽咲まな、夏月都、彩星りおん、琴音和葉、玲実くれあの七人に、乾杯! 歌うのが一、二フレーズだけだったりする中で個性を断定したくないけれども、お茶目さんにおっとりさん、お姉さん肌に妹タイプ、笑顔のキュートさも実に個性豊かなのがうれしい限り。何だか観ていて、この様子じゃ、他ならぬ自分たちの恋人がスカーレットピンパーネル団だったとわかったとき、お嬢さん方はまた、わいわいきゃあきゃあはしゃいで、そして、惚れ直すんだろうな、そのときの様子もまた元気よくかわいらしいんだろうな、なんて想像してしまった。月組娘役陣、このまま元気にGOGO!
 そしてこの場面、元祖元気印の憧花ゆりのがお姉さん格のマリー役で出ていたのが◎。彼女が歌う「♪パリの噂じゃ彼はイギリスの渋い紳士らしい」の「らしい」の弾む様子が、それはリズミカルでツボだった。マルグリットの弟アルマンの恋人マリーは今回、マルグリットの仲の良い友人であるという性格付けが役作りからもはっきりうかがえて、作品上果たす役割もさらに大きくなった感がある。アルマンが革命政府に捕らわれた後、マルグリットがマリーを訪ねてくる心情を吐露する場面も、マルグリットにとって、弟の恋人である以前に、マリーは一番の友達なんだろうな…と、非常に説得力があった。マルグリットは闘う女優で、マルグリット同様「気の強い」と形容されるマリーは、闘うデザイナーで、だからこそ二人は仲が良くて、弟の解放と引き換えにコメディ・フランセーズで歌えとショーヴランに言われたマルグリットは、他ならぬマリーに「衣装を用意してちょうだい」と頼むのである。昔の親友に再会したり、最近仲良くなったおしゃれ友達と友情を深めたり、女友達のありがたさをひしひしと感じる近頃、闘う女、マルグリットとマリーの友情は理想形。ましてやマリーは、舞台に立つ人を支える女友達なわけで、そういう存在になれたらいいな…と憧れたりして。しっかりとした芯の強い女性を魅力的に演じることのできる憧花だが、今回の作品では、柔和な笑顔が非常に印象的。龍真咲と明日海りお、二人の個性異なるアルマン相手に、包容力と甘えの配分を巧みに変えて対応する臨機応変さも特筆もの。今回の“心の女友達”である。
 タンプル塔に幽閉されている王太子ルイ・シャルルを見張っている靴屋のシモンの妻ジャンヌ役の美鳳あやは、「ヘンゼルとグレーテル」に出てくる残忍な魔女のように禍々しい熱演。民衆の一人に扮していても、小柄な身体から発する生命エネルギーに凄まじいものがあって、「みっぽーが、めっぽー怖い…」などとダジャレめいた戯言であまりの怖さをやり過ごそうとするあひるであった……(念のため、みっぽーは美鳳の愛称である)。個人的には、小柄な身体からありあまる生命エネルギーを発散していて、目にときに狂気の宿る男優に何だか惹かれがちなのだけれども、女優さんで初めてそんな存在を発見〜。洗濯屋に化けてパリから逃亡しようとしたところを、ピポー軍曹に手を掴まれて動揺する、貴族の女ルネ役の天野ほたるは、軍曹の嗜虐性を誘わずにはおかない、はかなげな令嬢芸がさすが。
 そして、ドゥ・トゥルネー伯爵夫人役、花瀬みずかの、いつまでも瑞々しく美しいこと。華奢な肩で着こなすドレス姿のあでやかさに、出席した夜会のゴージャス度もいや増すというものである。しかしながら、副組長でありながら今なお正統派娘役であり続ける花瀬が演じたヒロインの中でとりわけ好きなのが、男装してひざまずくシーンに颯爽とりりしい魅力を感じさせた、「十二夜」のヴァイオラだったりするあひる。やっぱり月組娘役は元気が一番!
 月組版「スカーレット ピンパーネル」について今、ビシバシ文章を書いている自分に改めて思うのは…昨年の秋からこの春までずっと、気力体力ともにホントに低下してたんだな…ということ。この間、宝塚だけではなく、さまざまな舞台について、書きたくても書き切る気力がなくて、ブログに書けなかったことがいっぱいあって、今になって、あ、この話書いておかなかったから話がつながらない…と思ってあせることしばしばなのですが。どうぞ皆様、「いつの話だ」と盛大に突っ込みながらお楽しみいただければ。今回も、そんな話の一つをば。

 月組の前回大劇場公演「ラストプレイ」について、「喪失感」なるタイトルで文章をしたためたことがある(http://daisy.stablo.jp/article/448444495.html)。「ラストプレイ」の主人公、ピアノに生きる道を一度は見失いかけた、瀬奈じゅん扮するアリステアの心境に思いを馳せての文だった。その後、同じ公演を観に行ったとき、私は、アリステアをピアノの道に引き戻そうとする友人ムーア役の霧矢大夢の演技に、こう問いかけられた気がしたのだった――。
 あひるさんはアリステアの喪失感に共感を寄せているのかもしれないけれども、それなら、私が演じているムーアについてはどうなります? アリステアは、両親がいなかったとはいえ、孤児院でピアノの才能を見い出されて、英才教育を受けることができた。でも、ムーアは、両親がワルだったために、ワルの道に手を染めざるを得なかった。誰も、ムーアの才能を見出して、それを育てるなどということをしようともしなかった。だから、彼は自分自身で何とか生きる道を見つけざるを得なかった、自分にどんな才能があるかも知らずに。ピアノが弾きたいのに弾けないアリステアの喪失感に共感するならば、そのような喪失感すらあらかじめ失われているムーアの喪失感については、いったいどう考えますか――と。
 思わずハッとした。そして、「エリザベート」のフランツ・ヨーゼフに続いて、またしても霧矢大夢に一本取られた〜、やられた〜と思って、悔しくて、でも、何だかとってもうれしかったのだった(フランツ・ヨーゼフ役の演技については、2009年のあひるブログの心のベスト原稿、<ずるい貴方〜宝塚月組「エリザベート」霧矢大夢のフランツ・ヨーゼフ>http://daisy.stablo.jp/article/448444477.htmlをどうぞ。そういえば、今年もそろそろ流しそうめんの季節になりました)。
 「エリザベート」の霧矢大夢を観たとき、私は本当に衝撃を受けたのだった。ああ、私がぼーっとしている間に、この人の芸はこんなにも深化していたのだ…と思って。その後、霧矢が主演した2008年夏の博多座公演「ME AND MY GIRL」を映像で観る機会があって、そのときもまた衝撃を受けた。生で公演を観なかったことをあんなにも後悔したことはない。昨年の秋ごろ、精神的に本当につらくて、もう文章なんて書けないかもしれない…と思ったとき、「ラストプレイ」の彼女の演技に、とにかくパソコンの前に座って書け! と喝を入れられたような気がしたし(<「書けない!」もとい「弾けない!」〜月組公演総集編>http://daisy.stablo.jp/article/448444499.html)、その後も、文章を書いていて願ったのは、舞台の上で日々真剣に芸を構築している彼女に、自分も決して恥じない仕事をしたい…ということだった。心から尊敬していて、だからこそ、その舞台に真剣に向き合うことで、いつの日か自分もその人に絶対に追いつきたいと思っている演劇人は、上の世代に何人かいる。そして、これからずっと一緒に歩いていける同じ世代に、この人に恥じない仕事をしたいと思える存在を発見して、昨年の私は、救われたのである。
 「エリザベート」以来、何だかずっと、舞台上の霧矢大夢と“対話”しているように感じる。とは言っても、別に、取材でお会いしたときに、「いやあ、あの演技には一本取られましたよ」と直接言うわけではないけれども。向こうは演技を通して、こちらはそれを観ること、そして書くことを通して、作品や役柄について、お互いの思考をやりとりしている感覚というか。
 そして、負けないぞ! と思って臨んだ「スカーレット ピンパーネル」でも、トップお披露目公演から、この大作で、いきなりこの完成度で来るのか…と思って、またもや衝撃を受けて一本取られたわけで…。何だかいつも一本取られてるみたいな(笑)。でも、それでいいのだと思う。一本取られて、何を〜と思って、こちらもさらに本気になって舞台を観て、そこに新たな発見があれば、新たな美の現出に貢献することができるのだと思うから。
 演劇の話からちょっと離れてしまうけれども、以前、秋の中禅寺湖に夫と遊んだことがある。その際、少し離れた場所から、中禅寺湖を見上げる感じで眺める機会があって、私は、あんな高い位置にあんなにも豊かに水が湛えられているなんて、なんて神秘的なのかしら!…などと乙女? っぽいことを考えていたのである。すると、隣に立って同じように眺めていた夫が、「ふむふむ、火山活動の影響によって堰き止められた湖の典型ですね」などと言っていて、同じ景色でも、見え方は本当に人それぞれなんだな…と感じ入ったことがある。私は、小学二年生の理科の授業で金魚を観察したとき、観察日記に「ひらひらちゃんと名づけました」と書いて先生にそれは怒られた、科学的視座にいささか問題のありそうな人間なので、自分と異なる夫の視点が非常に興味深かった。そして、大げさかもしれないけれども、立場や視座の違いで自分の世界を拓いていってくれるからこそ、他者との対話は人間の成長によって必要なのだなと思ったのである。
 人間、まずは一人で努力することが肝要で、でも、他者の存在に触発されることによって、一人だけでは達し得ない境地に至ることができる。だから私は、霧矢大夢に演技で一本取られると、何を〜、負けていられるものか〜と思って、そう思える存在が同じ世代にいることを、本当に幸せだなと思うのである。
 月組版「スカーレット ピンパーネル」は、ミュージカル作品として、宝塚歌劇作品として、そして、人はなぜ仮面をつけるのか、すなわち、人はなぜ“演じる”のかという、演劇の本質を問いかける作品として、完成度が高い。その際、必要不可欠であったのが、プリンス・オブ・ウェールズ殿下役の桐生園加のパフォーマンスである。秘密結社の首領として妻にも言えぬ顔を持ち、得意の変装でさまざまな人物を演じ分ける演劇的人間、イギリス貴族パーシバル・ブレイクニーと、桐生演じるプリンスとの関係は、2007年に星組が日生劇場で上演したミュージカル「キーン」(2007年)における、主人公の名優エドモンド・キーンとプリンス・オブ・ウェールズとの関係を彷彿させるところがある(両者の関係については、<役者とは何者か〜宝塚星組日生劇場公演「キーン」>http://daisy.stablo.jp/article/448444290.htmlに記したところである)。パーシー役の霧矢大夢がその演技を通して体現し得た演劇の本質を、桐生の演技が好アシストで支えている。
 桐生扮するプリンス・オブ・ウェールズは、パーシーがスカーレットピンパーネルとして革命の混乱続くフランスから貴族たちを救い出していることをほぼ間違いなく知っている。その上で、何知らぬ顔をしてパーシーたちの活動を黙認している。イギリス皇太子としては、己の支配者としての立場を危うくしかねるような事態、例えば、民衆が王室および貴族たちに反旗を翻したような革命の嵐が自国まで波及してくるような状況は防ぎたい。他方で、革命が頓挫し、貴族が復権するようなことのあった場合に備えて、フランス貴族たちに恩を売っておくに越したことはない。だが、フランス革命政府に対する臣下の敵対行為を容認していると受け取られることは、フランスとの関係を考えたとき、非常にまずい。王宮での仮面舞踏会のようなパブリックな場面で、彼がパーシーに「今話題のスカーレットピンパーネルとは、君ではないのか?」と問い質すのは、スカーレットピンパーネルの活動に対し憂慮していると見せる、世間へのアピール、“演技”であって、パーシーが否と答えることも当然、計算済みである。パーシーがスカーレットピンパーネルであったなら仲間に入れてほしいなどとおちゃらけたことを言うのも、はたしてこの皇太子は切れ者なのか道化者なのかと、世間の目を煙に巻くため。すべて計算づくなのである。フランスとの関係悪化の懸念が生じた際には、プリンスはパーシーの正体を革命政府に売りかねない。その目は、真顔でありつつ笑い、戯言を言いつつ笑わず、ときおり鋭くキラリと光る。道化者の仮面の下には、切れ者の権力者であるプリンスの真実の姿が見え隠れする、と見せて、再び戯言で決定的印象をかわす。暗く重厚な雰囲気を漂わせるのではなく、明るくキレている風なのが、よけいに凄みを感じさせる。
 もちろん、パーシーの方でも、プリンスが己の正体を見破った上で演技していることをわかっていて、平気で冗談で話を合わせ、スカーレットピンパーネルごっこをしようなどというプリンスの提案にあまつさえ笑顔で賛同する。仲間に入れてほしいなどというプリンスの頼みを真正直に受けたら、いつ裏切られるかわかったものではない。どちらが王で、どちらが道化か。お互い、本心を、真実の顔を知りつつ、本気と冗談のあわいをゆくスリリングな会話を交わし、“ごっこ遊び”に興じようとするパーシーとプリンスの関係は、多分に演劇的である。
 二場面にしか登場しないプリンス・オブ・ウェールズだが、桐生の風貌はインパクト大、その役作りは冴え渡っている。「プリンス・オブ・ウェールズ殿下」と呼ぶ声の音とリズムに合わせて華麗にステップを踏んで登場し、日替わりのアドリブポーズを披露して観客の度肝を抜く。碧いアイメイクが映える金髪貴公子姿ながら、お腹はメタボ。麗しくもおもしろいそのいでたちからして、どこまで本気でどこまで冗談かつかぬプリンスのキャラクター設定を際立たせている。名ダンサー桐生園加による、月組助演陣らしく個性豊かな、最優秀助演賞ものの演技である。
 前回大劇場公演時、私は桐生を、“白”の男役であると評した(http://daisy.stablo.jp/article/448444499.html)。その後、中日公演「紫子」を観て、この人には、もう一つ、“頭脳派”という言葉がふさわしいと思い至ったのだった。「紫子」で桐生は忍びの丹波役を演じたが、忍びとしての職務を全うせんとしながらも、仲間に対する想いの深さをにじませて、さわやかながらも深みのある二枚目ぶりを発揮していた。“白”といっても、桐生の“白”は、白しかないのでも、白でない部分を切り捨てて成立させているのでもない、白でない部分をきちんと認識した上で成立させている白なのである。だから、その“白”は、奥行きが深く、陰影に富んでいる。そうした“白”の成立に不可欠なのは、知性であることは言うまでもない。
 登場の瞬間の華麗なステップ、そして、二幕冒頭のナンバー「ここでも、そこでも」のラストで、パーシー役の霧矢の歌声に合わせて階段を降り、舞台中央に進んでくる足取りの確かなリズム感を観ても、桐生は、音に敏感に反応でき、基本に忠実に、端正に踊ることのできるダンサーである。世の中には、身体能力だけで踊るダンサーも少なくない。その身体能力が衰えた瞬間、いったいどんな踊りを表現として展開できるのだろうかと思わずにはいられないが、頭脳派・桐生の場合、その心配は無用であろう。そして、花組育ちゆえ、黒燕尾服姿が颯爽と決まる。例えば、前回までの雪組公演での水夏希と彩吹真央のように、黒燕尾服のダンス場面で花組育ちが二人フロントラインにいると、そのシーンの印象が際立つ。霧矢、桐生の二人がフロントラインに並ぶ、月組の黒燕尾服場面も今後、大いに楽しみである。
 月組で「スカーレット ピンパーネル」が上演されると発表されたとき、真っ先に思ったのが、セクシー組長・越乃リュウがロベスピエール役を演じたらぴったりだろうな…ということだったので、願いがかなって非常にうれしい。
 初演の星組版でロベスピエール役を演じたにしき愛が、実在の革命家の魂を降臨させるような名演を披露したのに対し、今回の月組版の越乃ロベスピエールの演技は、独裁者なる存在の見事なカリカチュアとなっている。革命を批判する者は粛清しろだの、お前を降格させるだの、王太子は外交の切り札だから決して殺さず監禁しておけだの、スカーレットピンパーネルの正体を吐かせるために昔の恋人の弟を拷問しろだの、残忍な命令を次々と下し続けるゆがんだ顔の下、あざやかな白の襟が彼の冷酷無比ぶりを引き立てる。こんなひどい人が、現代日本に、自分の身近にもしいたとしたらどうしよう、こわいよう〜と、客席でぶるぶる震えるあひる。
 人間存在に対する不信感に満ちあふれながらも、自分の崇拝者はなぜか盲信する、孤独な独裁者。その愚かさが、彼をして、ベルギー人のスパイなるふれこみで登場した、実はパーシー扮するグラパンを寵愛させ、結果的に破滅をもたらすわけだが、越乃ロベスピエールを観ていると、独裁者と民衆との関係が、スターとそのファンとの関係に似たものにも思えてくる。民衆あふれるバルコニーの上、こぶしを振り上げてシャウトしている越乃ロベスピエールはまるで、ロック歌手のようだ。
 というのも、越乃はロックが実に似合う男役なのである。この人の名が初めて脳裏にくっきりと刻み込まれたのは、2000年のショー「BLUE・MOON・BLUE」の銀橋、ギンギンのロックを歌う姿を観てのことだったと思う。二月の日本青年館公演「HAMLET!!」で、髪型も激しくノリノリで歌う、この人演じるクローディアスを観ていて、十年前の記憶を懐かしく思い出した。フランス革命最大のカリスマ・スター、それが、越乃がカリカチュアライズするところの革命家にして独裁者、ロベスピエールの姿である。
 そんな越乃ロベスピエールを観ていて、先に上演された「ドリームガールズ」に出てきたスター歌手ジミーを思い出さずにはいられなかった。いささか人気が落ち目のジミーは、ステージで気絶するのは自分が最初に始めたネタなのに、みんなが真似するからもうウケない、他のネタを考えないとなんてあせって、ついにはふらちな振る舞いに及び、マネージャーに縁を切られてしまう。民衆の目をくらますため、劇場に派手な出し物をかけさせろなんて部下に命ずる越乃ロベスピエールは、自分の人気が落ちてきたことを気に病み、客ウケしそうな安易な手をあれこれと考え出す、わがままで小心者のスターなのである。もっとも、「劇場に派手な出し物」なんて聞くと、あら、どんな出し物かしら、今だったら、「エリザベート」とかそれこそ「スカーレット ピンパーネル」みたいな海外ミュージカルみたいな出し物かしらなんて、不謹慎にもわくわくしてしまう劇場好きあひるなのであるが(苦笑)。
 越乃が伝える、冷酷無比な独裁者の物語は、どこか悲しさに満ちている。人間存在を信じられないくせ、人気なるものは己の打つ手で何とかできるとあさはかにも考えてしまった者の悲しみが痛切に描き出されている。人々の受け取りよう、気配、それが人気。政治家もスターも、人間ではなく、その受け取りようや気配の方を信じるようになってしまったら、おしまいである!
 フィナーレの剣舞では、先ほどまでの冷酷な顔はどこへやら、セクシー組長は世にも色っぽい笑顔で踊る。踊っているうちに、その心が解放されて、ほとんど、幸せの彼方へ昇天していくかのようである。けれども、決して独りよがりではなく、観る者をも幸せとセクシーの彼方にいざなってくれるのは、この人が天才的な色気の持ち主なればこそである。なんせ、新緞帳贈呈式の後の囲み会見で、緞帳の前で挨拶する機会が多いので、緞帳と共に気持ちも新たに歩んでまいります…なんて、袴姿で顔を赤らめコメントする様も、見ているこちらまでなぜか顔が赤らんできてしまうほど色っぽい人なのである。男役の色気が出ないと悩んでいる向きは、セクシー組長・越乃リュウを一度見習ってみるべきである(もっとも、天才すぎて真似できない可能性もあるかもしれないけれども…)。
 今回の月組版のフィナーレには何だかとっても物語を感じるあひる。場面ごとに、心の中でつけた副題を一挙ご紹介〜。
 海外の劇場だと、カーテンコール、悪役を好演した役者に向かって観客が盛大に「ブ〜〜〜」とブーイングするのがほめ言葉のかわりだったりするのだけれども、宝塚にはフィナーレがある。ということで、“悪役”ショーヴランを役替わりで演じている龍真咲&明日海りおが、フィナーレのトップバッターで登場〜。二人とも、ここで歌う「ひとかけらの勇気」までフルに使って、ショーヴランの物語を構築しているのが非常に印象的。二人のショーヴラン論に関わってくるのでここでは詳細は控えますが、龍版には<ショーヴランの本心>、明日海版には<ショーヴランの教訓>なんて副題が浮かんでくる次第。
 続いては、これがなくっちゃ宝塚じゃない! のラインダンス。マルグリットの分身風の衣装&帽子がかわゆいのだが…、何だかとっても野郎度大。途中で飛び出しセンターで踊る三人、鳳月杏&星輝つばさ&珠城りょう、とりわけ鳳月のキメ&目線ゆえと思われ。ということで、ここは蒼乃夕妃のマルグリットの分身にふさわしく、<男前ロケット>と命名〜。
 次はお待ちかね、新トップスター霧矢大夢、大階段センターに、娘役陣に囲まれてスタンバイ! の場面。ここで歌う「謎解きのゲーム」が、実は、今回の「スカーレット ピンパーネル」の核心を衝く歌唱ではないかと思うあひる。霧矢が「♪月さえも形を変え/人の目を欺く」と歌う先には、「いわんや人間をや」という詠嘆が隠されている。ということで、ここは題して<詠嘆の場>。詠嘆の主体である歌い手はここで、変わりゆく月を見つめながら、そこに、つれづれによって変わりゆく自分自身の心を映す。そして、人間存在の深淵を覗き込んでしまう。月に己の心を映す人間と同じように、人間存在の深淵を覗き込む舞台上の役者を目の当たりにした観客は、自分自身の心の深淵を覗き込まざるを得ない。それこそ、役者・霧矢大夢が「スカーレット ピンパーネル」という作品、その中で演じているパーシー/グラパンを通じて観る者に投げかける、人間の本質、真理をめぐる問いに他ならない。
 そして、以前、<“指環”の意味〜新国立劇場オペラ 楽劇「ニーベルングの指環」第2日「ジークフリート」>(http://daisy.stablo.jp/article/448444509.html)で、ミーメ役のヴォルフガング・シュミットの他にも三拍子の艶めかしさそのものになれる人を“再発見”したと記したことがあったけれども、実はその人物こそ、他ならぬ霧矢大夢である。2月の「Heat on Beat!」のフィナーレでミュゼットを歌っているとき、今、“艶めかしさ”そのものになった! とドキドキした瞬間があって、霧矢大夢は歌と踊りの両側面から音になれる人であることを改めて確信した次第。今回の「謎解きのゲーム」でも艶めかしさそのものに変容するのだけれども、歌があまりに短いので、”艶めかしさ”のまま、元気&キュートな月組娘役陣とのダンス・シーン、<霧矢大夢セクシー・タイム>に突入! 「もう少し男役としての色気があればいいのに…」などと観る者を心配させていたのも今は昔、男役として艶めかしく進化を遂げた姿を、銀橋上でとくとお披露目〜。わかりやすい色気ではないかもしれない。けれども、ああ、綺麗な花だな…と思って、近づいてじっと見入ったら、その中にとんでもない造形美が隠されているのを知ってしまってもう抜け出せなくなるような、そんな深遠な色気。
 そして、大階段を降りてきた月組男役陣と繰り広げる剣舞はといえば、<Repeat After Me!(私に続け!)>。外国語講座なんかで先生のお手本をまねぶ場面で出てくる、あのフレーズです。霧矢先生のお手本のような舞に続き、男役陣がキレよくダンシング。先生去って後は、月組が誇るダンスリーダー桐生園加が、短いながらも見応え十分のソロを披露! ものすごく回転しにくそうな衣装なのに颯爽とワザを決めていて、心の中で思わず拍手〜。
 ちなみに、星組版にも剣舞はあったのだけれども、今回、見比べて両組の違いが非常によくわかるなと…。観ていて体温がぐんぐん上昇する熱さは共通するのだけれども、星組の場合、湿度も上昇してムンムンする感じだったのが、月組の場合はからっとしたさわやかさあり。組カラーとは確かに存在するものなのだと深く実感した次第。
 そして、心が寄りそうデュエットダンスへと続いて、月組「スカーレット ピンパーネル」フィナーレ物語、ここに幕〜。
 心は見えない。だから、心と心が寄りそう様も、目で見ることはできない。
 けれども、見えた。今回のフィナーレ、霧矢大夢と蒼乃夕妃によって踊られるデュエットダンスで。完璧な呼吸の調和。ひらひらと舞う二匹の蝶が、やがて一つに重なり合う、一編の美しい詩のような情景。
 宝塚のデュエットダンスでここまでしびれたのは、2001年の星組全国ツアー公演「風と共に去りぬ」のフィナーレの「ナイト・アンド・デイ」で、隣の稔幸を全然見ないのにどうしてすべての動きのタイミングが完璧に合っているの!? と驚愕させられた、名ダンサー娘役、星奈優里の神業を観て以来かもしれない。
 個人的には、宝塚のデュエットダンスには、今回のように、リフトはない方がいいくらいに思っている。体格差のあまりない中、一方が他方を持ち上げることで、男役が女性であることがかえってあらわになってしまいかねないからだ。それに、リフトはどちらかというと乗る方の技術が問われるものであって、持ち上げる側の男役としては、力自慢に見えるに過ぎないように思うことが多い。男役の包容力を示す上で表現として意味があった…と思えたのは、この十年でいえば、2001年雪組公演「パッサージュ」での、湖月わたるによる月影瞳のリフトくらい。今の男役陣でそのような表現が可能となりそうな体格と包容力とを兼ね備えているのは、宙組の悠未ひろ、もしくは雪組の緒月遠麻あたりだろうか。

 そして、霧矢と蒼乃によるデュエットダンスには、宝塚のトップコンビの意味を如実に示すものがある。
 宝塚の男役がときに不自然に見える可能性があるのは、これを演じることを志す者が、そのとっかかりとして、己の中の女性性を隠し、男性性のみを表現しようとする部分にあるからだろうと思う。人とは何も、男性だからといって男性性のみ、女性だからといって女性性のみで成り立っているものではない。また、そもそも、男性性と女性性という観念からして、人や時代、文化によって捉え方も考え方も異なる。無論、“女らしさ”と思える部分を消して、“男らしさ”と思える部分を取り入れる、男役とはそう思うところから創り上げてゆくしかない芸ではあるのだが、男役芸がその演者と一体となったとき、この消去と添付の不自然性は消え、男役はもはや、自分の性別を意識することなく、自然体で舞台に立つことができるようになる。
 だから、男役芸が自然の極みに達した者は、女性としての魅力を感じさせつつ、それでいて、男役として決して不自然さを感じさせるところがない。霧矢大夢のみならず、トップスターともなれば、その境地に達した者が多い。
 自然体の境地に達した者の隣に立つ者として、娘役トップにも、娘役としての自然体が当然、求められるところだが、この自然体の方向性として、“男前”と“絶対的少女性”の二種類がある。今の娘役トップ陣でいえば、前者として抜きん出た存在感を示すのが蒼乃であり、後者として圧倒的魅力を放つのが雪組の愛原実花である。
 中日劇場公演「Heat on Beat!」の終幕近く、黒燕尾服をまとった霧矢をはじめとする男役陣に、ドレス姿の蒼乃が一人まじって踊るシーンがあった。“男前”とはしばしば、肩の動きによって秀逸に表現され得る(最近観た公演の中では、「ドリームガールズ」でミシェル役を演じていたマーガレット・ホフマンが、粋な肩使いでそれは男前にかっこよかった!)。黒燕尾服姿の男役は、衣装上の制約もあって、肩をあまり動かさない方が美しく見える。そんな中で、蒼乃は一人、肩を入れて颯爽と踊っていて、男役陣の中にあって人一倍、男前でかっこよかったのである。
 今回のデュエットダンスでも、クラシック・バレエの技巧と男役としての技巧を高いレベルで融合させた霧矢の隣にあって、蒼乃はダイナミックに粋に踊る。男役と娘役、それぞれが、男性性と女性性とを兼ね備えていて、それでいて、並んだとき、男性性と女性性とが対照として表現される。現実社会にある男女の並びとはそもそも、そのようにできあがっているものである。ここに、並び立つ二人は完璧な調和をみる。宝塚のトップコンビの究極の在り方である。
 あひるとて家庭にあっては主婦、スーパーにお買い物に行けば「あら、今日は鶏卵がお安いわ」なんて特売品を買い込んだりもする。この不況、生活自衛のための節約も大切である(もっとも、買い込んだ特売品を腐らせてしまったりもするけれども…)。人間、ときにはケチになることも必要であろう。
 だが、どうにも苦手なのは、愛についてケチくさいことである。人への愛を出し惜しみしたり、人からの愛を分け与えず、自分一人で独占しようとする人間。別に減るもんじゃなし、ケチケチしないで! と思ってしまう。
 もちろん、愛を実現するには、時間や体力をはじめとするさまざまな力が不可欠であって、その点において限りはあるが、それは決して、愛をケチることではないと思うのである。
 舞台作品も同じである。自分は観客、つまりは世界を愛していないくせに、自分だけは愛してほしいという、キャストなり、クリエイターなりのエゴばかりが透けて見える作品は、興醒めする。自分は愛において特権的な人間であると、どうしてそんなにも勘違いできるものなのだろうか。美と同じように、愛とは万人に開かれたものなのに。
 芸術作品において、愛とは、そのクリエイターの芸術性と人間性、それぞれの深みがかけ合わされたところに成立する。人間存在をどれだけ愛しているか。世界を、人生をどれだけ愛しているか。その愛の深みを、どれだけ高い技術力でもって示し得ることができるか。芸術家とは、そうして世界を愛する力を与えられたという意味ではある意味、特権的な人間なのかもしれないけれども、その力は決して、自分だけが富や栄誉を得ようという目的ばかりに使ってはならないと思うのである。その力は何より、この世に未だ存在し得なかった美を現出せしめることで、この世界とは生きるに、愛するにふさわしい場所であることを示すために与えられたものだと思うからである。
 舞台評論家という道を選んだ以上、私に与えられた使命とは、舞台芸術の場における新たな美の創造を一つでも多く目撃し、正しい深みでもってそれを書き表すことにあるだろう。

 五月のある日、大阪・中之島の国立国際美術館で行なわれている「ルノワール−伝統と革新」に足を運ぶ機会があった。そして、展覧会を通じて、自分と同じ日に生を享けたこの印象派の巨匠の絵画がなぜこんなにも人の心を捉えるのか、改めて深く実感したと共に、――何だか、霧矢大夢の舞台から受ける印象と似ているなあと、微笑みが口の端にのぼってくるのを抑えきれなかったのである。
 ピエール=オーギュスト・ルノワールの人物画は、特に女性画は、描かれた対象に対する愛に満ちている――もちろん、モデルによっては、「あ、この人のこと、あんまり好きじゃなかったのかもしれないな」と思うことなきにしもあらずではあるが。眺めていると、何だか、描かれた人物が今にもしゃべり出しそうに思えてきて、私は絵の前にじっと立ち止まる。そして想像する。その絵が描かれたとき、画家とモデルの女性や少女との間に交わされたであろう会話を。「私のこと、いったい、どう見えているの? いったい、どう描くの?」、そんなことを聞かれて、「どうって、こう見えているんだよ!」と画家が描いた答え、それが、陶器のような肌、薔薇色の頬、幸福を具現化したかのような、女性美の極致を捉えたあの絵に他ならないと思うのである。

 「スカーレット ピンパーネル」で霧矢大夢演じるパーシバル・ブレイクニーを観て、心打たれるのは、その愛の深さである。彼は、妻マルグリットが自分を愛しているかどうかより、むしろ、自分の愛が妻に伝わらないのはいったいなぜなのかについて思い悩む。自分の愛の力が足りないのか、自分が正すべき問題は何なのか。霧矢大夢が体現するのは、愛されることを望むより、愛することを望む人間である。なればこそ、イギリス貴族であるにもかかわらずわざわざフランスまで出向き、ときに己の命を賭してまでフランス貴族救出にあたる正義のヒーロー像に説得力が増す。粛清の嵐吹き荒れる他国に赴いて人を救いたいと願うほどに、彼は人間を、世界を愛しているのである。
 霧矢がパーシー役を通じて表現するその愛とは、霧矢自身の、舞台への愛、宝塚への愛とも大いに重なる。当たり前である。霧矢大夢は舞台人である。舞台人とは、己の舞台を通じて世界への愛を表現する人々である。その演技に、その歌声に、その踊りに、どれだけ万物への愛が満ちているか。舞台人の価値は、その愛において量られるべきものである。

 二月の中日公演「Heat on Beat!」の「EL TANGO」の場面、裸足になって一人踊る霧矢を観ていて、彼女自身の人生を踊っているのだと心を衝かれたことを思い出す――。
 ちょうどそのころ、男子フィギュアスケートの高橋大輔選手がバンクーバーオリンピックで銅メダルを獲得したけれども、そのフリーでのプログラムで表現された世界と同じである。映画「道」の楽曲にのって舞われたあのプログラムは、高橋自身が、これまで生を尽くして賭けてきたフィギュアスケーターとしての“道”を描き出していた。何度も何度も困難に出会い、くじけそうになり、それでも決してフィギュアスケートという表現手段から逃げなかったこと。彼自身の人生が氷上にそのまま描き出されたあの舞は、“芸術”だった。
 二月、中日劇場の舞台を裸足で踊る霧矢もやはり、人生を踊っていた。あきらめそうになったこと、くじけそうになったこと、それでも――と歯を食いしばり、思いとどまって、踊り続けてきたこと。そのとき私には、裸足のはずの彼女の足に、“赤い靴”が見えた。いったん履いたら死ぬまで踊り続けなくてはならない、赤い靴。子供のころに観た、アンデルセンの童話を元にしたモイラ・シアラー主演の同名バレエ映画は、私の心に、畏れにも似た深い跡を残している。そこまで何かにとりつかれるとは、いったい、どういうことなのだろう。そんなことははたして現実にあり得るのだろうか――。心のどこかにそんな思いを抱いて長らく生きてきて、はたして、裸足のはずの足に見えない“赤い靴”を履いて踊り続ける人間を目の当たりにして、――私はほとんど声を上げそうになったのである。
 この人から踊りを取り上げたら、この人の魂は、死んでしまう――。
 そして、そんな叫びを押し殺して舞台上の彼女を凝視する自分もまた、何かを“観る”、そして“書く”ことにかくもとりつかれた人間であることを自覚せずにはいられなかったのである。私が装着してしまったのは、赤い“眼鏡”、それとも、赤い“ペン”? 靴に比べるとどうも、かっこよさには多分に欠ける感じがしないでもないけれども――。

 「スカーレット ピンパーネル」での霧矢パーシーは、「祈り」の楽曲において、己の愛にまつわる疑念を吐露し、勇気の力によって愛の与えしハードルを乗り越える覚悟を決める。終幕近く、疑念晴れて歌う「目の前の君」はもう、目の前にいる存在、他ならぬ観客に向かって歌い上げる、舞台人・霧矢大夢による敢然たる愛の決意表明である。
 何度も迫り来る困難を越えて、霧矢大夢はそれでも、宝塚の舞台に立ち続けることを選んだ。今、霧矢がトップスターとして見せる舞台は、彼女が乗り越えてきた困難の分だけ、深い輝きに満ちている。彼女だって、人生を呪いたくなる日もあったはずである。舞台を、宝塚をやめようと思った日もあったはずである。それでも、彼女はそうしなかった。その都度、より深い愛を心にみなぎらせて、困難の一つ一つを乗り越えてきた。舞台に対する愛でもって、より芸術性の高い舞台を実現することで、世界がより愛に満ちた場所になるよう、心を尽くしてきた。そう、何も、困難とは、挫折とは、愛を奪うものではない。世界により深い愛を捧げることができるか、その者の生きる覚悟が問われる機会なのである。彼女が世界への愛を歌うその「目の前の君」が、聴く者の心を愛と生きる喜びとで満たさずにはおかないのは、彼女自身がこれまで生きて体現してきた深い愛ゆえである。
 世界を愛する霧矢大夢だが、その愛をひときわ享受できるのが観客であることは言を俟たない。舞台人・霧矢大夢の愛は他のどこでもない、劇場において実現されるものだからである。
 霧矢大夢が世界を愛する。その演技で、その歌で、その踊りで。その深い愛に、いつまでも包まれていたい。――その愛を、いつまでも書き記していたい。
 「番外編はいいから本編を進めろ〜」という声が聞こえてくる気がしないでもないですが、現在あひる脳がヨレヨレ&他の媒体と執筆内容調整中なので、自分の脳に優しい内容でひとまずお送りいたします。
 宮廷の仮面舞踏会にて、桐生園加扮するプリンス・オブ・ウェールズ殿下が、「みんなでスカーレット ピンパーネルごっこをしよう!」とお茶目に提案しているのがとっても楽しそうなので、最近あひるが思いついたものもご紹介したく。

 6月の初め、思うところあって赤坂の山王日枝神社にお参りしたあひる。「この世に心ない舞台が蔓延しませんように。世界の劇場に志高い舞台があふれますように」とお祈りした後、山王橋を降りようとしてはっと気付いた。
「これは、宝塚の大階段を降りる疑似体験をするのに格好の場所では!?」
 というわけで、外堀通りへと降りるあの大きな階段を、背筋伸ばして、下を見ないで、「♪遠国に嵐吹き荒れても僕は見逃しはしない〜」と「ひとかけらの勇気」を胸の中で口ずさみながら降りてみたところ…、きゃ〜、こわい〜〜〜。このまま外堀通りに転げ落ちて車に轢かれたらどうしよう〜と何ともスリリング。しかし、大階段の一段の幅はもっと狭く、皆さん、手にはシャンシャンもって、ヒールだの長い裾のドレスだの着用されていて、トップさんともなれば何十キロもある羽根まで背負っていたりするわけで、すごい技術だなあ…と改めて思った次第。…後で夫に、「一人でそんなアホなことして、落ちてケガでもしたらどうするの!!! 危ない真似はやめて!!!」とさんざん叱られました…(二人でやるならいいのか???)。
 そしてまた別の日。今度は日比谷公会堂に「〜スピリット オブ ハワイ〜ハラウ・オ・ケクヒ」を観に行ったあひる(6日16時の部)。フラダンスの公演ともなれば、観客も圧倒的に女子ばかり、そしてトロピカル&ロハスな感じのいでたちが主流。受付にいた主催某社のK嬢もハワイアンなプリントドレスを着て髪に花をさしていて、とってもプリティな装い。開演前から会場全体、和みムード。そして、公演が始まり、あひるの目を激しくとらえたのは…。
 プリンス・オブ・ウェールズ殿下もまっさおな腹周りの男性ダンサー!!!
 しかしながら、その踊りはといえばキレキレにスピーディー、巨岩がこっち目がけて山肌を落ちて来るような、迫り来る迫力あり。思わず目が釘付けになってしまったあひるの頭に、疑念が一つ…。いったいどうして、この運動量でこの腹周りを保てるの??? ゆるやかに激しく踊るって、実はものすごく体力使いそうな気が…。
 いや、まあ、そうは言っても、何がやせないって、人が踊っているのを来る日も来る日も凝視する人生が一番、やせないよな…と我が身を振り返りつつ、公会堂の二階に上がってみたところ…、日比谷公園の噴水や帝国ホテル、東京宝塚劇場のビルの尖塔が見えるバルコニーが! 今、あひるがバルコニーに昇ってしたいことはただ一つ、“ロベスピエールごっこ”!
 というわけで、ロックコンサートを開催中とおぼしき隣の野音に負けない心意気で、心の中で、越乃リュウのロベスピエールを真似して拳を振り上げてシャウト!!!
「♪革命を否定するものは全て〜っ/粛清しろ 情け容赦はいらな〜いっ」
 ううむ、あひるにゃよくわからんが、上に立って人を見下ろすと、人は何だか自分が偉くなったと勘違いしてしまうのかしら…などと独裁者の心境に思いを馳せつつ、恰好のロケーション(そもそも公会堂自体、政治の場だった建物ですし)で「スカーレット ピンパーネル」ごっこができて、あひるすっきり。何をアホなことを…と思われる向きも多いかもしれませんが、“ごっこ”遊びは演劇の基本、これも作品をより深く理解するため〜と言い訳しつつ…。
 もう二度と完全徹夜で国内出張はすまいと深く心に誓ったあひる38であった…。明け方家を出て、品川始発の新幹線でちょっぴり寝て、宝塚大劇場に着いて、朝取材して、昼観劇して、夜取材して、神戸のホテルでバタンキュー。次の日、お気に入りのテラスで朝ご飯食べて、無事帰ってきました。あ、取材は大変充実&向こうでいろいろな方々にお会いしてお話することができて、楽しい出張でした〜。
 その際、宝塚大劇場にて観劇した宙組公演ですが、天才コスプレイヤー大空祐飛以下、宙組男役陣のりりしい軍服姿に嘆息せずにはいられない「トラファルガー」に続いて、ショー「ファンキー・サンシャイン」、めちゃめちゃおもしろいではないですか! 大空祐飛の無邪気な魅力を太陽にたとえるあたり、なるほどという感じ。オープニングなんて、セットのきらびやかさと蘭寿とむのグラインドだけで刺激が過ぎて、徹夜していたあひるの目、まばゆさでつぶれるかと(笑)。そして、蘭寿が太陽族に扮し、あひるの母の愛唱歌である「太陽の彼方に」(「♪のってけ、のってけ、のってけサーフィン」)を含む懐メロでモンキーダンス等々激しく踊りまくるシーンが、徹夜ハイのあひるのツボに入りまくってしまい、客席の暗闇の中、一人声なき笑いを抑えきれず腹筋が…。その後も、大空祐飛のコスプレ七変化、蘭寿とむの超絶ダンス、北翔海莉の癒し歌唱と見どころ聴きどころ満載。タカラヅカスカイステージを見ていたあひる夫によって“紫吹淳祭り”と命名された、男役陣が腕まくりして大階段に居並ぶ場面も夫より先に堪能〜(家庭内で自慢)。曲調的に、関西より東京で大いに受けそうな。
 <「ベルサイユのばら」5:「エル・アルコン」4:「スカーレット ピンパーネル」1>みたいなブレンドの「トラファルガー」は、様式美に寄るのかミュージカルに寄るのか、それとも不倫の“よろめき”ドラマに寄るのか、何だかとっ散らかってしまった感じがしないでもなく…。ここは、単なる「登場人物が漫画のページからそのまま飛びだしてきたみたい!」を超えて、「漫画のページからそのまま飛びだしてきたみたいな登場人物が、ごく普通に隣にいる人みたいに自然に生きて動いてしゃべってる!」という激しいギャップが観る者の度肝を抜く大空祐飛の持ち味を存分に生かして、「カサブランカ」同様、周囲も含め、大空直伝スーパーナチュラルセリフ回しで徹底してほしいような。そして、大空ネルソンが、いけないと思いつつ不倫相手のヒロインを訪ねてきてしまうシーンで宝塚心のベストワン作品を思い出さずにはいられなかったあひるとしては、「プロヴァンスの碧い空」(も、考えてみれば、まごうことなき“よろめき”なのであった)もブレンドされると、さらに物語に酔えるかな〜、なんて、帰りの新幹線でうたた寝しながら夢見たりしてzzz。東京公演、楽しみにしています!
 月組出身の大空祐飛が宙組トップになり、東京宝塚劇場お正月公演「カサブランカ」でお披露目を果たし、そして、月組では霧矢大夢がトップの座に登り詰めた今年は何だか、お正月から、十年ほど前の月組の舞台を思い出すことが多かった。
 今は宝塚を去った演出家・荻田浩一が「螺旋のオルフェ」で衝撃的なデビューを飾り、異国の地で宝塚の舞台を楽しむという貴重な経験ができた中国公演が行なわれ、そして、私の心の中にほとんど“聖痕”ともいっていいほどの深い刻印を残した「プロヴァンスの碧い空」の初演があったのが、宝塚創立85周年の1999年。演出家・齋藤吉正が大劇場デビュー・ショー「BLUE・MOON・BLUE」で新風を巻き起こし、売り出し中の若手ホープ、霧矢大夢と大和悠河がバウホール作品「更に狂はじ」でダブル主演した2000年。2001年、新装成った東京宝塚劇場のお正月公演では、霧矢が新しい劇場に「今、すみれ花咲く」と第一声を響かせ、当時のトップスター、真琴つばさが退団。夏には紫吹淳がトップお披露目、秋には大空が汐美真帆と共に「血と砂」でバウホールダブル主演した。
 「あれから十年経ったわ」といえば、「螺旋のオルフェ」での夏河ゆらのセリフである。ちょっと本題から外れるが、先月、日本青年館で星組公演「リラの壁の囚人たち」(美城れんが素晴らしかった!)を観て、「螺旋のオルフェ」は「リラの壁の囚人たち」にヒントを得て着想された部分もあったのだなと、今さらながら感慨深かった。そして、「螺旋のオルフェ」の主人公イヴ・ブランシュ(“白”の名字を持つこの主人公を演じていたのは、瀬奈じゅんの前に宝塚を代表する“白”の男役であった、真琴つばさである)が、ナチスのパリ占領司令部にいながらレジスタンスに協力していた…と思い起こせば、大空のお披露目作「カサブランカ」が当然想起され、そして、どうやら主人公がナチスの戦犯を追うらしい雪組次回公演「ロジェ」が楽しみになって来と、追憶と期待がそれこそ螺旋のようにぐるぐる回り、人はこうして宝塚ワールドからどんどん抜け出せなくなってゆくのだなと苦笑せずにはいられない。
 不思議なことに、お披露目公演でのトップスターは、先輩トップスターを彷彿とさせる刹那がある。自分がいざその立場に立ち、客席と向かい合おうとするとき、自分が接してきた先輩にまずはお手本を求める部分があるからなのだろうとも思うが、観ている方としては、はっとしてしまうほど懐かしい感慨にとらわれることがある。
 「カサブランカ」フィナーレでの大空は、それはもう、“紫吹淳”を思わせた。着ていた紅色のベルベットのジャケットからして、紫吹が2004年の退団作「薔薇の封印」のポスターで着ていた衣装に似ていて、そして、娘役陣の波間、しどけなくポケットに手を突っ込んで揺れる仕草があまりにも“紫吹淳”で、「薔薇の封印」で紫吹が演じた役柄が時を超えて生きるヴァンパイアだっただけに、もしかして今、何か甦ったのかしら…と戦慄しそうなほどだった。無論、大空は何も紫吹のコピーであるわけではない。“黒”の洒脱な男役を継ぐ者として、歴史に新たなページを刻み始めた存在である。二次元的、デジタル的、脅威的なビジュアルの持ち主が、個性的な面々とリアルな心情に満ちた芝居を展開するギャップの醍醐味、それが、大空率いる今の宙組の見どころなのだが、詳しくは今度、宙組を論じるときにさせていただきたい。それにしても、宙組は、初代トップスター姿月あさと、そして大空の前の大和も月組出身であるのが非常に興味深いところである。
 一方、一人残って月組を継いだ霧矢はといえば、二月の中日劇場公演「Heat on Beat!」の中詰めを観ていたとき、個性が全然違うため、今まで連想して考えたことがまったくなかったにもかかわらず、トップとしての在り方が真琴つばさを想起させた瞬間があって、驚いた。そして何だか、新生月組が、十年前、それこそ、大空や霧矢が若手としてバリバリ活躍していた頃の月組をあまりに思わせて、これまた本当に懐かしかったのである。

 真琴時代の月組は、宝塚における組組織の一つの理想形だったのではないか−−。それが、彼女が退団して後、宝塚歌劇について改めてじっくりと考えて達した結論だった。組全体に目配りをし、組子一人一人の力を見極めて引き出し、これを一点に集結させたときに初めて、組として発揮できるパワーは最高潮に達する。トップスターばかりに負担がかかったり、あるいは、支える者ばかりに負担がかかったりする状態では難しいものがあるのである。
 真琴つばさというスターは、組全体のプロデュース能力にきわめて優れた人だった。組子それぞれからユニークな魅力と個性を引き出し、それを“白”の男役である自分が映し出すことによって、月組全体の魅力がさらに増して輝くことをよく知っていた。だから、あの頃の月組の舞台は、特に傑作ばかりに恵まれていなくても、組子それぞれの活躍を観ているだけで、本当におもしろかった。トップに相手役、路線スター、ベテランに中堅どころ、若手男役、若手娘役、それぞれ個性派揃いだった。宝塚における実績は何もトップスターに登り詰めたかどうかだけで必ずしも測られるものではないけれども、この時代に出てきた若手が、男役、娘役共々、力を蓄え、個性を発揮した結果、後にどれだけトップの座に就いたかを考えてみれば、真琴時代の月組の充実ぶりがわかってもらえると思う。
 そして、私は思うに至ったのだった。何も宝塚歌劇のトップスターに限らない。人とは、そのとき何を成し遂げたかだけではなく、自らが去った後に何を残していったかによってもまた、評価されるものなのだと。
 大空、そして、霧矢のお披露目公演を観ていて、二人の中に、私と同じ、あの頃の月組への強い想いがあったことに、2010年の私は、今さらながらはっとしたのである。――大空と霧矢にしてみれば、今さら何を? という話かもしれないけれども。そして、私は、何だか不思議な願いを心に抱いたのである。十年前にタイムスリップして、月組の舞台で、若さのエネルギーを放出している二人に、こう、言葉を掛けたいと――。
「あなたたちは十年後、こんなに素敵なトップスターになるんだよ!」
 無論、私がそんなことを言って励まさなくても、二人は自力で素敵なトップスターになってしまったわけであるから、あまりに意味不明でお節介な話ではあるのだが。
 そして、何もタイムスリップしなくても、その言葉は今、発するべきなのである。二人の後ろで一心に踊っている、今はまだ見えぬ、輝かしい未来を背負った組子に向けて。
「あなたたちは十年後、こんなに素敵なトップスターになるんだよ!」

 中日劇場公演、続く今回の公演と観ていて、新生月組では今、さまざまな個性の芽が開こうとしているのを感じずにはいられない。そもそも、新生月組が「スカーレット ピンパーネル」の再演に挑むと発表されたとき、一部で危ぶむ声を聞かないでもなかったのも事実である。例えば、私も初演の際、“心の名場面”キューティー編に選んだ、星組の若手娘役陣がキュートな個性をいかんなく発揮して活躍したあの場面、月組版では大丈夫かしら――等々。
 スタート時点では、比べて考える方が無理というものである。なぜなら、前回大劇場公演まで、月組にはトップ娘役がおらず、それに従って明確な新人公演ヒロインもなく、「この人が芯」という存在を設定できないがために、そもそも娘役に活躍の場を与えることが非常に難しかったのだから。もっとも、月組生には負担の大きかったであろう、トップ娘役不在というある種の“実験”は、瀬奈じゅんという男役がその“白”の個性を究極まで突き詰める上で不可欠であったこと、そして、宝塚歌劇における娘役、トップコンビの存在意義を改めて考えさせる上で、貴重な機会ではあったと私は思っている。それはさておき、いざ、「スカーレット ピンパーネル」が回ってきて、挑んでみたら――、大丈夫なのである。霧矢大夢の個性によって“ザッツ・ミュージカル!”なシーンへと変貌を遂げたこの場面ではあるが、宝塚大劇場での一ヵ月を経て、東京公演では、娘役一人一人が個性を発揮できるようになってきたのである。
 また、龍真咲と明日海りお、二人の若手ホープが役替わりで演じるショーヴラン。龍は、ヘタレなセクシーという魅力を開花させて悪の新機軸を打ち出し、一方の明日海は、「エリザベート」のトートと「エル・アルコン」のティリアン・パーシモンを足したような、骨太な男っぽさと妖しい悪の魅力を発揮している。詳しくはまた、公演がさらに進んでから項を改めたいけれども、チャンスを与えればきっちりものにしてくる人材が多い、それが宝塚歌劇の強みなのである。
 私が「スカーレット ピンパーネル」という宝塚作品が好きなのは、この醍醐味があるからである。トップスターから最下級生まで、一人一人が持てる力を存分に発揮しないと作品として成立しないけれども、一旦それが可能となれば、見どころたっぷりの場面が次から次へと波状攻撃で押し寄せてきて、瞬きする間さえ惜しい。本来、そういう作品こそ、宝塚歌劇にふさわしいのである。