折悪しくやけどしたり体調を崩したりが重なり、昨年一度も花組公演について書けていなかったことに気づきました…。いつもあんなに楽しんでいたくせに、もう。ということで、「相棒」総集編に行く前に2009年花組総集編、行ってみよう〜。「あの、もう2010年なんですけど」というツッコミはどうか、ご容赦を〜。
 人気韓流ドラマとのコラボレーション成った「太王四神記」の“心のキャラ”は、…ドゥルドゥルドゥルドゥル、ヒョンミョン役の望海風斗〜! 聴かせる歌声と軽妙な演技に、「こんなに巧い人、今までどこに隠れていたんだろう?」と心がざわめき。そして、そうだ、まだ新人公演学年だったんだ! と二度びっくり。芝居心を非常にストレートに発揮して造形するキャラクターが好感度大。そして、“この人がいなかったらそもそも「太王四神記」は全然楽しめなかったで賞”(長いなあ)は、ナレーター的役割を務めたヒョンゴ役の未涼亜希! 実はあひる、ファンタジーが割に苦手。というのは、最初にその作品世界のお約束事を語られるときに、「…設定、嘘っぽい…」と思ってしまうとどうにも物語に入ってゆけなくなってしまうから。「太王四神記」も、どうしよう、最初の説明についてゆけなかったら振り落とされてしまう〜とかなり必死に観ていたのですが、未涼ヒョンゴの、「大丈夫、私の言葉についてくれば安心ですよ」とでも言いたげな美声に落ち着いて心を任せたところ…、楽しかった! というわけで、未涼ヒョンゴの存在なかりせば、苦手意識を覚えてしまい、その後の星組版すら楽しめなかったはず。多謝! ナレーターの役割のときと役を演じているときとできっちり時制と感情を分離させて語っていたのがさすがの技アリ。
 青年館公演「オグリ!」は、センターに立っての「よきにはからえ」演技があまりにも堂に入っていた主人公・小栗判官役の壮一帆が文句なしに“心のキャラ”! 和の貴公子ぶりも思わず見惚れる美しさ。脇での華形ひかるの活躍も印象的。

 さて、昨年12月26日付の「元気です!&ニューヨークに行ってきました」(http://daisy.stablo.jp/article/448444498.html)でも記したように、秋の「外伝 ベルサイユのばら−アンドレ編−」&「EXCITER!!」は、「COCO」、「ドリームガールズ」と並んで、2009年のあひるの三大消費喚起作品。2010年最初の消費喚起作品は「ファニーガール」だったりするのですが、今はおいておいて。この花組の二本立ては、「消費を大いに喚起させられる作品とそれほどでもない作品、その違いは?」という問いに気づき、己の消費行動の分析ができるようになっただけではなく、舞台の衣装についてさらなる興味を拓いてくれた、大変に意義深いと同時に、買い物心を大いに刺激するという意味では大変に罪深い作品であった…。はは。
 ある日、行きつけのお店で、前から気になっていたけれども買うには至っていなかったアイテム、見せコルセット、盛大にフリルのついたパラソル、羽根のついたブローチを買い、「どうして今日に至って決断を?」と自分でもよく己の消費行動がわからなかったあひるですが、次の観劇の機会で気づいたのであった…。
 「そういえば、お買い物したあの日、花組の舞台稽古観たんだった〜!!!」
 「ベルサイユのばら」でロココのわっかドレスを観ただけでは、自分とあまりに程遠い世界だよな…と思えてどうも消費には至らない。ま、人生一度くらいは着てみたいなあと思っているのですが、そのへんに売っている代物ではない(と思ったのですが、最近になって知りました。ラフォーレ原宿B1.5Fには割に近いものが売っている! いや、まだ買ってはいません)。それが、「EXCITER!!」の“Beautiful Exciter!!−美の革命−”の場面で、デザイン画の中から飛び出したラブリーモデルたちがそれぞれ着ている、わっかドレスから20年代風、50年代風と意匠の凝らされた衣装を目の当たりにするうち…、そうよね、こうしてファッションは時代を越えてつながっていくものなのよね! とダメ押しされたというか、俄然今を生きる自分に近いものを覚えてあれこれ買ってしまったと、どうもそういうことみたい。ちなみにあの中で一番気になったものの、よほどスタイルがよくないと着こなせないだろうなあ…と思ったのは、華月由舞着用のパンツの裾部分がフリルになったオールインワン!
 …ということで、あひる大散財の結果を招くに至った“心の名場面 キューティー編”でしたが、“キューティー編”があれば“マイティ編”もある! それは、「外伝 ベルサイユのばら」で、衛兵隊士が荒くれ者ぶりを発揮している場面。これがもう、唇が笑みでにっと上がってしまうほどの荒くれぶり。荒くれ者を演じたらピカイチ、の切り札、荒くれ隊長アラン役の壮一帆を温存しているのにこの荒くれぶり! と感動。そして気づいた、こうした場面の充実こそ、真飛聖率いる今の花組の男役陣の充実を物語っているのだと。実際、ショー「EXCITER!!」での真飛以下男役陣のイケメン競い合いぶりは凄かった! 真飛、壮、愛音羽麗の三人が銀橋でセクシーさを競い合う中詰め後の場面なんて、ウィンクの音がバチバチ、きざりっぷりがバリバリ、と本当に聞こえてきそうで、男役の宝庫、花組はこうでなくちゃ! と快哉を叫びたい気分に。その一方で、娘役陣には男役陣に拮抗するかっこよさあり。桜乃彩音も、粋な花組男役陣を率いてセンターで踊る姿が人一倍男前なところがさすが、花組トップ娘役。それから、真飛が“Mr.YU”に扮してのコミカルな演技で魅了した“Men’s Exciter!!−男の革命−”は、「ハウ・トゥ・サクシード」に「ビッグ」、「ヘアスプレー」と、ハッピーなアメリカン・ミュージカルを彷彿とさせる楽しい場面だったので、花組、アメリカン・ミュージカルも大いにいけるんじゃないかな…と思った次第。
 二年越しでやっと書けた〜。ということで、次回こそ「相棒」総集編〜。
 人気テレビドラマとの異色のコラボレーション、宝塚花組「相棒」(日本青年館大ホール)の初日前の舞台稽古を見学。いやあ、笑った。舞台稽古なのに申し訳ないくらい大きな声で。そして、気づいた。今年のあひるのお正月に足りなかったのは初笑いだったと。もう、心の名場面&心のキャラのオンパレードのような作品! 主人公・杉下右京役の真飛聖、神戸猛役の壮一帆をはじめ、それぞれがキャラクターとして息づいているだけなく、男役としての個性&魅力もきっちり発揮していて、おもしろい! そして、かっこいい! こういう作品でもやっぱり、どうしてもつくんだ! と今さらながら驚きをもたらす宝塚流のフィナーレ、トップコンビ+壮で繰り広げる華麗なダンスのオチにもしゃれっ気が効いていて◎。最後に一人一人出てきてお辞儀するところでまで、それぞれの仕草の数々が甦ってきて、たまらず思い出し笑い。笑う門には福来る、免疫力もアップするそうだし、もっと人生に笑いを! ということで、遅ればせながら初笑いを満喫〜。
 ちなみにあひる、週に15分以上テレビを観れば「長いかも」ってなくらい最近ではテレビを観ない(というか、観劇&執筆で忙しくて観る時間がないのです)人間で、ドラマ版も観たことがなく、水谷豊と及川光博が出ている以上の知識はない状態で観劇に臨んだのですが、それでも、「このキャラをテレビ版で演じているのは六角精児! ピンポンピンポン!」とわからせてしまった、鑑識課・米沢守役の華形ひかるの芸や凄し。早速、今回の心の特別賞に決定! 心の諸部門は追って発表〜。
 2009年12月27日は、宝塚を代表する白の正統派男役、瀬奈じゅんの新たな旅立ちの日である。
 さよなら色をあまり感じさせないところが逆に、瀬奈じゅんという、シャイなところもまた魅力の男役に合っていて、だからこそ、観ている方としては一層しんみりしてしまう退団公演だった。
 それにしても、退団公演において、この人の男役姿、その芸が二度とは同じ形では観られなくなってしまうのだ…ということだけではなく、物語そのもので泣くことができるというのは、何とも贅沢だなとも思ったのである。「ラスト プレイ」は作・演出の正塚晴彦にとって演劇的良心との対話を描く作品であって、瀬奈扮する主人公アリステアはほとんど正塚の分身である。同じ正塚の「マジシャンの憂鬱」で瀬奈が演じていた主人公のマジシャン、シャンドールもまた、クリエイターとしての正塚の分身であった。このとき、ほとんど宝塚のアナロジーとも思えるその“マジック”について、テーマ曲では「♪命を賭けたりしません」とさらっと歌われる。その裏に必ずやあるであろう、命を賭けるような思いをこうして隠す矜持、そしてシャイネスの通底が、瀬奈じゅんを正塚役者たらしめていたのだと思う。
 そして、「Heat on Beat!」の第14場は、瀬奈じゅんの、男役、そして、トップスターとしての到達点を表す象徴的な場面である。ここでは、ワインカラーの衣装に身を包んだ瀬奈が持ち歌「EL VIENT」を歌い、白の衣装に身を包んだ月組生がエネルギッシュな踊りを繰り広げる。瀬奈が白で、他の者が白以外の色なのではない。つまりこの場面では、月組生一同が、白の正統派男役、瀬奈じゅんの内面となって踊っているのである。白は、強い色である。“漂白”という言葉もあるくらい、ときに強すぎる。正しく色の個性が発揮されたとき、他の色を消しかねない危険がある。けれども、ここで表現される“白”は、瀬奈の内面を映して、観る者をやわらかに包む。
 白の正統派男役、瀬奈じゅんは、ここにまったき完成を遂げて、瀬奈じゅんが率いる月組も完成を遂げて、だからこそ、瀬奈じゅんは月組を、宝塚を去らねばならない。それは何も、宝塚にのみ当てはまる真理ではない。すべての“完成”は、新たな“完成”を目指す出発点に他ならない。

 しかしながら、“白”が“完成”に至るまでには“喪失”の過程もまた必要だった。相手役・彩乃かなみの退団である。
 「ミー・アンド・マイガール」の制作発表会で覚えた感覚を、私は今も忘れることができない。瀬奈と彩乃の二人が主題歌「ミー&マイガール」をデュエットする。と、それだけで、恋する二人のハッピーな気持ちが会場を包んでしまったのである。トップコンビを務める二人の間に深い信頼関係が存在すると、これほどまでに深い絆を伝え得るのか――。
 その後、レプリークで行った二人の対談においても不思議な感覚を味わった。トップスターの真摯な話しぶりににこにこ耳を傾けている相手役は、ときに慈愛に満ちた聖母のような、ときに悪戯っ子の天使のような、実に興味深い表情の七変化を見せるのである。この人はこうしてトップスターのかたわらにいるのだろうな…と思った。だから、「A-“R”ex 」は、作品としてはともかく、宛て書きとしては秀逸ではあった。
 無論、表現とは信頼関係だけで成立するものでもない。そして私は何も、二人がプライベートにおいて仲がよかったかどうかを殊更論じたいわけではない。けれども、宝塚においてトップコンビというシステムが取られている以上、その二人の間に信頼関係があって、だからこそ、深い絆を表現することができた、そのことは非常に美しいと思うのである。
 その彩乃が昨年「ミー・アンド・マイガール」で宝塚を去って、瀬奈は一人になった。公演の千秋楽近く、御邸に戻ってきた彩乃扮するサリーを迎えるシーンで、瀬奈演じるビルは盛大に笑って、けれども、心で盛大に泣いていた…。それ以来、特別イベント等で瀬奈が作品のナンバー「街灯によりかかって」を歌うたび、笑顔で歌われるナンバーを聴いて泣いてしまうというおかしい絵面に陥る私がいる。

 もっとも、相手役不在を逆手にとって卓抜な宝塚論を展開した者もいる。「夢の浮橋」の作・演出を手がけた大野拓史である。「源氏物語」の「宇治十帖」を脚色したこの作品におけるキーワードは、“形代”である。瀬奈が演じた主人公・匂宮は、一世を風靡した光源氏を思わせる存在、つまりは“形代”であって、違う女性の“形代”として薫に愛されるヒロイン、羽桜しずく扮する浮舟との間に愛を交わす。このとき、光源氏の“形代”とは、宝塚における正統派男役の象徴を意味する。宝塚の至宝、“永遠の男役”春日野八千代の最大の当たり役の一つが光源氏であることを考えてみても明らかである。浮舟を“形代”から解放し、自らは“形代”を全うすべく、すべての人の咎を背負うと宣言して宮中深く消えてゆく匂宮はすなわち、宝塚という夢の世界における、瀬奈の男役トップスターとしての一つの覚悟をはっきりと描き出そうとする、劇作家の実に鋭い造形ではあった。

 そして、「エリザベート」で演じたトート役は、観る者の心を映し出す白の正統派男役にしか可能とはならない、そして、一度はタイトルロールを自身、演じた者にしか可能とはならない造形だった――。
 瀬奈の演じるトートはほとんど、発したそのセリフの後に、「と、エリザベートがトートに言わせている」と書き加えられるような造形だった。例えば、「お前には俺が必要だよ、と、エリザベートがトートに言わせている」といった具合に。これは、トートとはエリザベートが生み出した幻想の存在に他ならないという物語の基本設定にきわめて忠実な造形である。死を司る黄泉の帝王が、タブーを超えて自分の愛を求めている、そんな、実に自己中心ともいえる幻想を抱かずにはいられないほど、現実世界のエリザベートは追いつめられ、“死”にいざなわれている。だからこそ、幻想の産物であるトートと、その幻想の造形主であるエリザベートとを一人二役で演じるかのような、そして、実際のエリザベート役の凪七瑠海と二人一役でエリザベートを演じるような、実に不思議な舞台が現出したのである。

 瀬奈さんには何度か取材する機会に恵まれたが、こちらが申し訳なく思うほどに気を遣ってくださる方で、でも、ガラス細工のように繊細なところのある人が、繊細な心を言葉にしてそっと差し出してくれるのが、何だか宝物を手渡されるようにうれしくて、その宝物をそのまま読者に手渡さなくてはと身が引き締まる思いがしたものである。
 今回の公演の初日前の囲み会見では、私から、退団色のないのが逆にしんみりしてしまう作品だけれども、舞台を務めていて内心感慨深い場面について尋ねると、大劇場の舞台をひとり裸足になって踊る場面で、床のこのキズをいつも見ていたなとか、あの作品ではこのセリを使ったなとか、そんなことを思い出して感慨深い――と、そっと語ってくれた、その表情が忘れられない。
 こんな機会だから言ってしまうが、瀬奈さんと私は同郷である。かなり前のことだが、とある本で瀬奈さんが好きな場所として挙げていた「中杉通り」は、雑誌「東京人」の杉並区特別号でも表紙を飾った、区民の誇りスポットである。いつか、故郷を盛り上げるお仕事でもご一緒できたらいいな、などと願いつつ。

 瀬奈じゅんを見る。心に映す。一面、白が広がる。その広がりに、限りなく安堵する。そんな感覚を、またいつか劇場で必ずや味わえることを願って。どうか、志高き道を――。
 原稿が書けなくて、手を変え品を変え自分を励ましてみてもどうにも書けなくて、そのまま一ヵ月くらい経過して本当に困ってしまったある日、宝塚に出張して、取材終了の後、キャンセル待ちして月組公演「ラスト プレイ」「Heat on Beat!」の二度目の観劇をしていた。ピアノなんてもう弾けないと訴える瀬奈じゅんのアリステアに対して、霧矢大夢扮するムーアが、死ぬわけじゃないんだからとにかくピアノの前に座って何とかしろ! と檄を飛ばしていて、…何だか、死ぬわけじゃないんだからとにかくパソコンの前に座って何とか書け! と自分が言われているようで、胸が衝かれる思いがした…。そして、アリステアじゃないけど、弾けない、じゃなかった、書けないって、本当に、本当につらいんだよ…と、心の中で思わずムーアに訴えかけていた…。そんなこと言ったら「甘いっ!」ってまた怒られてしまうかもしれないけれどもと思いつつ。
 書けない理由はわかっていた。文章はほとんど私自身とイコールである。文章を否定されることを通じて私自身を否定されるという手痛い経験をくりかえすかもしれないと思ったら、そんなことまっぴらだ、今度はもう耐えられるかわからないし…と思って、だから、一字たりとも書けなくなってしまったのである。しかし、それは一方で、ある意味、私自身の“死”をも意味していた。――私は何より、すばらしい芸術、美にふれること、それを自分の思い感ずるがままに文章に書き表わすことによって、生きる喜びを得ている人間だからである。生きて何かを感じ、考えている以上、書きたいことはあって、けれどもそれが書けなくて、書けない以上、もはや自分は死んでしまった方がいいとさえ一時は思いつめていた。何だか不思議な話である。たとえ表現を通じて自分自身を否定されたとしても、別にそれで死ぬわけじゃないだろう、とムーアは励ましているわけだが、その言葉に大いに納得する一方で、死ぬわけじゃないそのことがどうしてもできなくて、死んでしまった方がいいと思っていたのだから。――そこまで考えて、ああ、そうか、「ラスト プレイ」とは、作・演出の正塚晴彦にとって、自分の演劇的良心と対話を遂げる話なのだなと思い至ったのである。物を書く人間である以上、正塚自身、筆が進まなくて苦悩することも大いにあるだろう。そして、書き上げた脚本を酷評され、自分自身が否定されたと感じて思いつめたことが一度もなかったとは言いきれまい。もう書けない、書くことなんてできなくていい――そこまで追いつめられたときに、劇作家自身が、自らが演劇に向かう初心、良心といま一度向き合って、交わす会話。それが、アリステアとムーアのあの、「弾け!」「弾けない!」の火花を散らすようなやりとりなのである。だから、アリステアとムーア、あのときのどちらの言い分が正しいとも言い切れない。どちらも同様に正しくて、そして、どちらを選ぶかは、その者自身が自分の表現に対してどれだけ愛と勇気を揮えるかにかかっているのだろうと思う。。いま一度、自分の心を打ちのめされることがあってもかまわない、それでも書きたい、と思えるほどに。
 私が、書くに書けなくなっていた原稿に再び取りかかり始めたのは、その観劇から三日後のことだった。

 さて、ここで気分を変えて、楽しい部門の発表とまいりたく。今回の公演の“心のキャラ”は、「ラスト プレイ」のちょっとというか大ボケのチンピラ、ヴィクトール役の桐生園加! 相棒のジークムント相手に「俺は去る」「猿になるのか?」なんて珍問答を繰り広げ、ついには歌ってしまう役どころに、「キス・ミー、ケイト」で「学ぼうシェイクスピア」を軽快に歌い踊る二人組のギャングを思い出した次第。いやみなく屈託なくさらっと笑いを取れるところがいい。
 桐生といえばダンサーとして知られる人材だが、前回大劇場公演「エリザベート」の黒天使役でも、そのキレのあるダンスにコミカルな味がピリリと効いて、秀逸な表現となっていた。トートおよび黒天使のそもそもの造形には、ペスト流行後の13〜15世紀のヨーロッパで流布された“死の舞踏”なる表現様式の影響が少なくないと思うのだが、この“死の舞踏”の絵画・版画においては、“死”によって先導された人々の墓場への行列が、グロテスクかつほとんどコミカルというような動きの骸骨で描かれている。皇太子ルドルフを死にいざなうシーン、ルドルフと一瞬絡む桐生の踊りには、カクカクとした鋭角的な動きに、“死の舞踏”の骸骨のヴィジュアルを思わせるコミカルさを感じさせるものがあった。
 男役としては、さわやかさ薫る明るい“白”の個性の持ち主である。花組仕込みの黒燕尾服姿も粋な限り。今後もダンスリーダーとしての活躍を大いに期待。
 ちなみに、前回発表し損ねてしまって非常に申し訳なかった「エリザベート」の“心のキャラ”は、一色瑠加扮するツェップス。ルドルフやハンガリー貴族たちを革命へと導きつつ、人々が熱い情熱に駆りたてられている傍らで、「こいつら、こんな甘ちゃんばっかしで大丈夫かな〜」とどこか達観しているようなクールな眼差しが印象的だった。その読み通り?、ルドルフは父帝を説得できず、蜂起は失敗に終わってしまうわけだが、それに懲りた一色ツェップスが、「やっぱり貴族は、だめだな」と思って今度は市民革命を準備した…かどうかは神のみぞ知る。一色は今回の「ラスト プレイ」でも、一人いい感じに空気の読めない、融通の利かない殺し屋を、これまた笑いを取りに行くわけでもなく実に淡々と演じていて、結果笑いを取っていたのが◎。

 そして、今回の“心の名場面”は、ショー「Heat on Beat!」で“S”こと瀬奈と“K”こと霧矢がフランク・シナトラのメドレーをデュエットする「S&K」のシーン! 先日、全然違う公演を観に行ったら仲良しの某社演劇担当H嬢と会って、終演後の楽しいお茶のひととき、観に行った公演そっちのけでこのシーンの話で盛り上がり、帰宅後、「藤本さんのせいとは言いませんが、あれから頭の中でずっと瀬奈さんと霧矢さんが歌っていて、昼の公演で聴いた歌が全然思い出せません…」とのメールが。ふふ、“心の名場面”の威力や恐るべし。
 このシーンを形容するにもっともふさわしい言葉はと言えば、先の雪組公演「ロシアン・ブルー」で汝鳥伶のミハイル・ゲロヴァニが水夏希扮するアルバート・ウィスラーのルックスを形容するに捧げた「ゴ〜ジャス」、その一言に尽きる。タキシードに白スカーフという、粋とはいえ実にシンプルな装いで、あの大劇場空間に出ているのはたった二人だけ、それでも「ゴ〜ジャス」なこと極まれり。ということは、このシーンは、“ゴージャス”とはいかに表現され得るべきかを問いかけるものでもある。それは必ずしも、人数の多さや衣装の華美さで表現されるものではない。真のゴージャス、豪華さとは、その人間のもつ格やオーラによって表現され得るものなのである。これぞ、スターの輝き。

 最後に、今回の特別部門の発表。
 2002年、「TAKARAZUKA SKY STAGE」の開局記者会見の後、初代スカイ・フェアリーズのコメント取材をしたことがある。10人一緒の座談会形式で、それぞれに話をふるのに四苦八苦した覚えがあるが、そのとき、出演してみたい番組は? という問いに、「どっきり番組をやってみたい」と、特にウケを狙ったというわけでもなく実に素直に答えて、娘役なのに気取ったところがなくておもしろい人だなと思った、それが城咲あいだった。
 新進娘役時代は、当時の娘役トップ、映美くららが子供っぽい個性の持ち主だったゆえに、何だか大人っぽい役をふられることが多かったけれども、ダンス場面等で彼女と同期の憧花ゆりのが並んではじけて踊っているのを見ると、「さすが夏河ゆら率いる月組の娘役陣、元気がいいなあ」と、観ているこっちまで元気がもらえる気がしたものである。コメディセンスも抜群だった。「暁のローマ」の新人公演でカエサルに群がる愛人ズの一人に扮したとき、一挙手一投足のおかしみに目が釘付けになったこともある。「HOLLYWOOD LOVER」のヒロイン・ローズ役では、大女優のゴージャスな衣装の着こなしに目を見張ったばかりでなく、大空祐飛とのフィナーレでのデュエット・ダンスには、星奈優里以来の大人の女性の色気を感じさせて圧倒するものがあった。そしてもちろん、海外ミュージカル作品において娘役としての地平を拓いた「ミー・アンド・マイガール」のジャッキー役と「エリザベート」のゾフィー役。「Apasionnado!!」と今回の「Heat on Beat!」で発揮した、ショー・スターとしての魅力――。
 色っぽくて、かわいらしくてコミカルで、無心にはじけまくったダンスがエネルギッシュで魅力的。それでいてどこか、自分の生き方を通すしかない自分のかたくなさ、愚直さを自分自身よく知る知性を感じさせる、彼女の娘役像が大好きだった。城咲あいは、私の中では、“心のトップ娘役”だ。
 一陣の秋風に、ショパンの「別れの曲」がふと胸に呼び起されたりして、何かを失うことの痛みに想いを馳せずにはいられなかった今日この頃だったのだけれども……、宝塚大劇場にて公演中の月組公演「ラストプレイ」も、日本青年館大ホールで30日に初日を迎える星組公演「コインブラ物語」も、共に“喪失”をテーマにした作品なのだった――。前者は、ピアノの道、芸術と共にある人生を失うこと、後者は、愛する者を失うことについての物語なのだけれども。
 何かを失うこと。それは、その存在ありきでできあがっていた生活、人生を、その存在なしでもやり過ごせるよう、再構築する必要に迫られること。その存在に代わる何かを、どうにかして探し出そうと腐心すること。その過程で、かすかな風のざわめきにも心の空虚を見破られること。心の中でこう、自問自答を繰り返し続けること。
 一体、何故、失わなくてはならなかったのだろう――。
 永遠に続くと思っていた幸せ。あの日、目に映った美しい光景。分かち合いたかった美しいものすべて――。叶えられなかった夢と約束のかけらが、透き通るように空気に溶けて、胸の中、音もなく降り積もる。
 悔恨ばかりが、波打ち際に押し寄せる波のように、繰り返し、繰り返し、心を苛む。そして、ある日、気付くのだ。心の傷は、時間と、そして美しいものだけが、あるいは癒すことができるのかもしれない。けれども、長らく構成物の一つとして在った何かを失った心は、二度とは元の形に戻ることはないのだと――。
 ポンポン二回目、家での練習の甲斐あって、無事振れました。それはさておき、「RIO DE BRAVO!!」の“恋泥棒”の場面、銀橋を渡る水夏希の男役姿があまりに粋で、かっこよくて、息をひそめて凝視していたら、…宝塚歌劇、男役という芸術様式に対して水が注いできた愛、情熱の限りがただただ心に流れ込んできて…、楽しいショーなのに泣けて泣けて、困った。こんなにも楽しい世界がこの世に本当に存在するんだ、男役ってすごい芸だな…と思って。
 そして、水夏希は、今回の公演で新たな段階へと覚醒したのかもしれない、と思ったのである。これまで、水の繊細な美意識は、劇場空間における、理性と熱狂、陶酔の危ういバランスをつないで、やや理性へと傾いていたような気がする。それが今回、陶酔へと一歩踏み込んだことで、水の舞台に新たな世界が拓けたように思う。だからこそ、あのとき、舞台に賭ける水の想いが、観る者の心に流れ込んでくることとなったのではないだろうか。雪組トップスター水夏希、充実&飛躍の時である。
 その新たな相手役、愛原実花は、すでに実力を発揮している芝居とダンス、そして課題なしとはしない歌唱についても、大舞台で経験を積んでいけばさらなる進化を遂げることと思う。品と華があって、何より、宝塚の舞台に立つ喜びを全身で味わっている生き生きとした姿がチャーミング。舞台を楽しむ余裕が出てくればさらに輝きを増すことだろう。
 彩吹真央は、今回の公演でも、芝居に、歌に、ダンスに大活躍を見せた。奥ゆかしいところのあるこの人は決して自らの才能を見せびらかすということをしないが、その芸はとんでもなく精度が高い。タップ対決の際の足のさばき具合など、あまりに流れるようで、見惚れる。フィナーレのトップコンビのデュエットダンスの際の熱唱に、聴き惚れる。宝塚に限らず、大して見せるべき芸もないくせ、「私って素敵でしょ」「俺ってかっこいいだろ」という“自意識芸”を見せる演者も少なくない中、彩吹には確かな芸がある。だから、その芸にふさわしく、もっと誇っていいと思うのである。その奥ゆかしさゆえ、多少誇っても決して下品になることはないのだから、臆することはない。彩吹に今必要なのは、いい意味でのハッタリである。
 音月桂は、ときに、受け取られ方を非常に限定しがちな演技や表情を選択するきらいがなきにしもあらずだが、その天真爛漫な明るさ、無邪気さは、どこまでも素直な心で発揮してこそもっと生きるものだと思う。音月が、彩吹とはまた異なる男役の魅力をもつからこそ、今の雪組の布陣は鉄壁である。
 今回、大きな成長を見せたのが、二番手娘役格の大月さゆである。芝居作品でははじけたコメディエンヌぶりを発揮、ショーでは大人の女の魅力やかっこよさ、男前っぷりを見せて、芸の幅の広いところをアピールした。元気で個性あふれるスターが多ければ多いほど、組全体が活気づく。

 ここで恒例、“心のキャラ”を発表〜。…ドゥルドゥルドゥルドゥル(←ドラムロール)…。
 今回の“心のキャラ”は、「ロシアン・ブルー」で緒月遠麻演じるユーリ先輩こと、ユーリ・メドベージェフ!
 実は緒月は、二公演連続“心のキャラ”獲得だったりする(“心のキャラ”は、該当者なしのときと、あひる多忙につき発表しきれていないときとがあります。そして、何も宝塚公演に限られるものでもありませぬ)。ちなみに前回公演では、「風の錦絵」の小僧さんのラインダンスのセンターと、「ZORRO 仮面のメサイア」のヒロインのとぼけた幼なじみ役の合わせ技一本だったが、実のところ、合わせ技ではなく、それぞれの役柄できっちり一冠ずつ獲得してほしいなと思っていた。今回は堂々の一本勝ちである。
 十月革命に感動して軍に入るも、上官の不正を告発して除隊となり、諜報員となってアルバートとイリーナを監視するユーリ先輩は、コメディ部分に一切絡まず、終始シリアスで通し、メインの芝居に絡む箇所もさほど多くはない。しかしながら、ラスト、主人公アルバートよりある意味ヒーロー的な活躍を見せるこの役柄は、確かな男役芸を持った役者がきっちり演じればおいしい役どころであって、また、その存在感が増せば増すほど、作品全体の味わい深さもさらに増すというキーパーソンだった。これは、前回公演ではお笑い担当になっていた緒月が、男役としてどれだけの力量を持っているか広く知らしめようとする、作・演出の大野拓史の愛にあふれたあて書きだったと思うのだが、緒月も応えて好演を見せた。窮地に陥ったヒーロー、ヒロインを颯爽と助けて、ユーリは言う。
 「革命が俺を裏切ったとしても、俺は革命を裏切らない」
 こんなセリフが似合う人間に、あひるもなりたい。
 湖月わたるを思わせる、いかにも男役らしいルックスに、切れ味鋭すぎるダンスとシャープな魅力。「RIO DE BRAVO!!」でも緒月の個性が光る。そして、“恋泥棒”の場面の、サンタクロースと見まがうようなおヒゲがキュートな警察署長役で、コメディセンスもいかんなく発揮している。男役濃度がきわめて高い男役の、今後の活躍に期待大である。
 “心のポーズ”は、汝鳥伶演じるスターリンのそっくりさん、ミハイル・ゲロヴァニが、登場の瞬間に取る、部屋に掲げてあるスターリンの肖像画とそっくりのポーズ。「来るぞ」とわかっていても、笑わずにはいられない! 緩急自在で縦横無尽、キュートでかつ貫禄十分。いつ、どの作品で観ても、汝鳥の芸は決してブレずに、心にストレートに響く。それにしても、「黎明の風」の吉田茂といい、近現代の実在の政治家を演じてどうしてあんなにハマるのだろう。汝鳥による“一人ヤルタ会談”なんて観てみたいものである。
 “心の名場面”は、魔女軍団ネコタナちゃんたちが、愛原演じるイリーナに、惚れ薬を使うためにいざ、笑顔でアルバートを攻略! と檄を飛ばすシーン。しかめっ面のイリーナに向かって、♪笑う〜なんて歌いながら垂直にぐるぐる回るのがかわゆくておかしい。歌詞もとってもキュート! 行きつけのお店のハロウィーン・キャンペーンでくじを引いたらうさぎの耳つきのカチューシャが当たったので、猫耳のかわりに装着して一人、真似してみたあひるであった(しかし、「スカーレット・ピンパーネル」の“心の名場面”同様、一人での再現は無理でした〜)。娘役陣の活躍の場面があると、作品の醍醐味も倍増するというもの。今回、専科から出演の五峰亜季と美穂圭子が雪組出身であることからもわかるように、雪組は、セクシーでコケティッシュ、それでいて、ふんわりとした娘役らしい魅力を忘れない娘役の宝庫だったことを思い出した。
 2006‐7年の星組公演「ヘイズ・コード」で、作・演出の大野拓史は、1930年代後半のハリウッドで、“PCA(映画製作倫理規定管理局)”なる組織が“ヘイズ・コード”なるルールを盾に創作活動、映画作りに介入する様を描いてみせた。東京宝塚劇場にて上演中の雪組公演「ロシアン・ブルー」で、大野は再び、権力による創作活動への介入を描いて冴えを見せている。
 1937年、モスクワ。ロシア革命20周年を記念して、アメリカ民主党の下院議員アルバート・ウィスラーは、レビュー団を引率してこの地を踏む。だが、理由が明らかにされないまま、レビュー団の上演許可は下りない。アルバートのこの訪問の裏には政治的な野心があった。事業当局の担当者イリーナ・クズネツォワと彼は反目する。
 実は、アルバートとイリーナは、特殊な能力をもつがゆえにかつて魔女狩りによって迫害された一族の末裔同士だった。そうとも知らず、互いに一族の秘伝の惚れ薬を使い、相手を惚れさせ、利用して目的を遂げようとするが、二人して誤って自分自身が薬を飲んでしまい、互いに恋心を抱いてしまう。その一方で、イリーナは腐敗した共産党中央委員の罠にかかり、かつての魔女狩りよろしく罪なくしてスケープゴートに仕立て上げられる。イリーナの命運は? そして、アルバートとイリーナの恋の行方は? それが、物語の大きな流れである。
 「ヘイズ・コード」のときと同様、創作活動へ介入する“権力”を敢えて明確には描き出さないことで、大野は、この手の介入行為が内包する理不尽を鋭く看破する。今回の作品では、スターリンその人ではなく、そのそっくりさんとして名高い実在の俳優、ミハイル・ゲロヴァニを登場させることで、得体の知れぬ“権力”に不安を抱き、あたふたする人々の姿をコミカルに皮肉ってみせる。“敵”は常に、正体が知れない。人々がおびえ、恐れるのは、ときに、権力そのものではなく、権力の“影”に過ぎないこともある。レビュー団が上演しようとした作品の何がいったい問題なのか、それが明らかにされることはない。事業局なり政治局なりの責任者が実際何を言ったのか、そもそも本当に何かが言われることがあったのか、それすら明らかではない。「誰かがどこかで文句を言うかもしれない」、それだけの理由で許可が下りないという可能性だってなきにしもあらずなのである。
 クリエイターは、己の創作活動、クリエイティヴィティの発揮を阻害する要因とは、これと断固として闘わねばならない。その闘いの志の高さこそが、その人間の創作活動の行程を形作ってゆく。宝塚歌劇の座付き作家としての大野の力量が優れているのは、無論、芸術の行為が本来的に直面せざるを得ないこうした理不尽との闘いを、宝塚歌劇の本質、その醍醐味と両立させる巧みさゆえである。
 「ヘイズ・コード」、そして今回の「ロシアン・ブルー」において試みられたのは、1930年代から40年代にかけて一世を風靡した“スクリューボール・コメディ”の手法に則って、宝塚の“清く正しく美しく”の精神から男女の愛を描くことだった。ミュージカル映画華やかなりし頃を思い起こさせるダンス・シーンに、タップ対決も盛り込まれ(今回は、彩那音扮する実在の演出家・佐野碩による下駄ップまで!)、メイン・キャストのあて書きも的確ながら、アンサンブルの有機的な用い方も冴え渡っている。なかでも、普段あまりきちんとした光が当てられない傾向にある娘役陣の活かし方が素晴らしく、今回の作品でも、“ネコタナ”なる名前をもつ、どこか猫っぽい雰囲気をたたえた魔女軍団をコケティッシュに描いて、層の厚い雪組娘役陣にキュートな魅力を発揮させることに成功している。大野のこの有機的な作・演出の手腕は、組が新たな体制でスタートを果たす際に非常に有効である。組を構成する一人一人が、作中、そして舞台上において自分の果たすべき役割を明確に認識できるようになり、その結果、組全体にさらなる活気と創造性が生まれるという効果をもたらすからである。「ヘイズ・コード」は、星組前トップ、安蘭けいと遠野あすかの新主演コンビのお披露目公演だったが、この公演を経た星組の充実ぶりは、後に、ブロードウェイ・ミュージカル「スカーレット・ピンパーネル」の日本初演の大成功という形で結実した。
 今回の「ロシアン・ブルー」は、トップスター水夏希の相手役に愛原実花が就任しての、新トップコンビお披露目公演にあたる。芝居とダンスに息の合う新しい相手役を得て、水が、まさに水を得た魚のように生き生きとした舞台を繰り広げ、男役としての充実を大いにアピールする。男役・水夏希の本領は、例えば、ホットさとクールさ、都会感覚と一種の泥臭さ、男性性と女性性といった、相反する二つの要素を巧みにつなぐ繊細な美意識と、かゆいところに手が届くような細やかな優しさ、包容力にある。「こんな優しさもうれしい、あんな優しさもうれしい」と、その細やかな優しさを漏らさず拾って拾って拾いまくる相手がいればこそ、そんな水の男役としての魅力も生きる。その意味で、トップ就任後の水を誰より支えてきたのは彩吹真央に他ならない。しかし、ここで、芝居勘にも優れ、細部にまで美意識が貫かれた水の踊りの一挙手一投足に優美に寄り添おうとする愛原が娘役トップに就任したことで、水体制の雪組の可能性が爆発的に広がったことは言を俟たない。今回も、スクリューボール・コメディの常として、ケンカを繰り返しながらも互いに心惹かれてゆき、それでも恋心を惚れ薬のせいにし続ける、意地っ張りぶりが何ともいじらしい男女を演じて、水・愛原コンビ、絶好調である。薬のせいだと言い訳しつつ、「好きだー」「私もー」と愛の言葉を交わしあう様など、じれった過ぎて愛おしくなってしまう。
 それほどまでに愛し合いながらも、このカップルは終幕、別れることとなる。例えば、イリーナがアルバートと共にアメリカに渡るとか、そこまで具体的に行動しないまでも近いうちにアメリカに渡ることを決意して終わってもよさそうである。それなのになぜ、作者は、ビタースウィートなエンディングを選んだのだろう。実はここにも、大野の秀逸な演劇観、宝塚観が隠されている。
 そもそも、アルバートとイリーナがその末裔であるところの“魔女の一族”とは、一体何のアナロジーなのだろうか。直接会話をしなくてもお互い心がわかる。特殊な能力をもつとはいえ、空間移動といった大掛かりなことはできず、わずか一夜の効果しかもたない惚れ薬を作ったり、髪の毛を人形に入れてその人間を操ったり、二人力を合わせてほうきを空に飛ばすくらいが関の山の“魔法”。ときに、時の権力者にすがって生きざるを得ない“魔女”とは――?
 ヒントは、「ロシアン・ブルー」の前編ともいえる「ヘイズ・コード」にある。あのとき、安蘭けい扮する主人公レイモンド・ウッドロウは、ヒロイン・リビィに向かってではなく、客席に向かってこう歌ったのではなかったか。
 「忘れ物を探しに行こう/ガイドブックなくても/君とならば見つけられる/自分を信じて」
 “ヘイズ・コード”を明記したガイドブックがなくても、“君”とならば見つけられる、そんなレイモンド・ウッドロウの“忘れ物”とは、一度は失くした演劇・映画創作への志、演劇的良心であった。それを客席に向かい歌うとはすなわち、ここでいう“君”とは、客席にいる人間、観客であることを指し示している。そう、今回、タイトルで、一度は絶滅の危機に陥った猫の品種“ロシアン・ブルー”になぞらえられた“魔女の一族”とは、演劇、宝塚という“魔法”、すなわち、演劇的良心、演劇・創作活動への志の高さ、宝塚で言うなら何より“清く正しく美しく”の精神――レイモンド・ウッドロウが一度は失くしたもの――を信じる人々に他ならない。そして、アルバートとイリーナの別れは、“終幕”という形で常に訪れる、演者と観客の別れと重ね合わされているのである。
 “演劇”という魔法は、それを信じる者にしか効かない。女が男を演じる“男役”も、「そんなことあるか、特殊な」と言ってしまえばそれでおしまいである。何も、宝塚に限らない。すべての舞台、演劇は、その日その場で起こることを、ときに現実を超えたリアルとしてその場にいる人間が信じられるか否かにかかっている。だから、舞台サイドの人間と客席サイドの人間双方がその夢、その“魔法”を信じなければ、舞台なるものはそもそも成立しない。しかしながら、その“魔法”を信じ難くする何かが、例えば、“介入”という形で発生してはいないか。――それが、この「ロシアン・ブルー」という作品で大野が鋭く投げかけた問い、副題を借りれば、“魔女への鉄槌”なのである。
 終幕のアルバートとイリーナの別れは、だから、あまりにつらく、せつない。二人が別れてしまえば、舞台は終わる。舞台上の人々に観客がどんなに愛おしい想いを抱こうとも、別れを告げなくてはならない。
 劇場でしか会うことのない、愛しい人。二人、信じていれば、空にほうきだって飛ばせた。どんな魔法だって叶う気がした。言葉を直接交わさなくとも、心を、愛を交わすことができた。けれども、もう終わり。物語が、舞台が、信じ合う気持ちが、魔法が終われば、それでおしまい。愛しているから、今はお別れ。「ダスビダーニャ」――また心通う日まで、さよなら。
 舞台稽古に記者招待日、あひるは耐えた。そして先日、雪組の熱い熱いショー「RIO DE BRAVO!!」で、ついに念願のポンポン・レビューじゃなかったデビューを果たしたのであった…!(笑) いやあ、最初からものすごく振りたかったんですが、さすがに仕事モードのときはまずいと思い。で、振ってみたら…、めちゃめちゃ楽しい! 楽しすぎる! 夏に、「ドラムストラック」でジェンベを激しく叩いたときと似た感覚。自分も公演に参加してる! という気持ちが、300倍くらいアップ。心の盛り上がり方が違う。「ドラムストラック」のときと同様、最初は慣れなくてちょっと目を白黒、我ながらドンくさいなあ…と自分で自分にツッコミつつ振っていたあひるですが、トップスター水夏希先生の熱血指導に必死でついていき、何とかサマになったかなあと…。いやあ、何事もぶっつけ本番はいかん。次回観劇時までに家で練習する所存。
 このポンポン、先日取材した「ファニー・ガール」の赤坂ACTシアターでのユニークな記者会見でも見かけたことを思うに、いろいろ活用されている模様。あひるも、人生つらくてめげそうになったとき、「フレーフレーあひる」と自分で振ったり夫に振ってもらったりと活用中〜。ということで、キャトルレーヴの回し者ではございませんが、雪組観劇時にはポンポン、お勧めです。
 雪組にとっては久々の通常モードのショーとなった「RIO DE BRAVO!!」、前物の「ロシアン・ブルー」が非常にせつない物語なので、ホットな盛り上がりがバランス的にいい感じ。デビュー作にして伝説のショー「BLUE・MOON・BLUE」を放った斎藤吉正が、「ノバ・ボサ・ノバ」や「サザンクロス・レビュー」といった傑作ラテン・ショーの系譜をも汲んで仕上げた楽しい楽しい作品。陽気なオープニングから、水夏希の粋な男前っぷりを堪能できる“怪盗ガロ”のシーン、問答無用! の盛り上がりを見せる中詰め、水&愛原実花の新トップコンビの息の合ったデュエット・ダンスが優美なフィナーレまで、見どころいっぱい。「キャリオカ」をはじめとするスタンダードなラテン・ナンバーからジュリーにタンゴ、「風になりたい」まで選曲も◎。ちなみに今回の“心のダンシング”は、愛原の“イパネマの娘”と大月さゆの“コパガール”が彩吹真央の“セニョールコパ”を競い合うコミカルなシーンのクライマックスで、「コパカバーナ」の軽快なメロディにのって、両手を身体の前でくるくる回しながら花道から舞台へと突進してゆく“ゴッドファーザー”汝鳥伶! 猪突猛進ぶりが何だか愛おしいかわゆさ。中詰めのエンディングの、水、愛原、彩吹、音月桂、大月の五人衆揃い踏みシーンも、女性メンバーが二人参加の戦闘ものヒーロー隊みたいでかっこいい! 2016年のオリンピックもリオデジャネイロに決まったことだし、この夏に生まれたばかりのあひるの姪の名は「りお」だし、何かとめでたい気分でユーフォリックな主題歌を口ずさんだりして、秋がどうにも苦手なあひるも、今年は「RIO DE BRAVO!!」で乗り切れそう。
 アナーキーな魅力にあふれていてあひるの大好きな本屋、ヴィレッジ・ヴァンガード高円寺店に、「マイ流しそうめん機」が入荷している。店頭、うず高く積まれた在庫の上に、ペコちゃん人形が立ち、頭に「もう流すしか無い」とのポップが飾られていて、その前を通るたび、「己は霧矢フランツか〜」と激しい怒りを禁じ得ないあひるであった――この暑いのに。
 そんな憤りを誘うほどに、霧矢大夢演じるオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフは流す。すべてを流す。流したそうめんを拾わないどころの騒ぎではない。もう、人生のあれやこれやを流しっぱなしである。それも、確信を持って。
 無論、このキャラクター造形には、霧矢の役者としての実に知的な計算がある。レプリークvol.15で行なった取材において明らかにしているところではあるが、霧矢は、実際のフランツ・ヨーゼフが何故、68年もの長きにわたって皇帝に在位し、86歳という天寿を全うすることができたのかというところから逆算して役作りしているのである。国内においても、国外においても、家庭内においても、あれほどまでに諸問題に苦しまされていたはずなのに、何ゆえ長寿? と。そうしてたどり着いたのが、「いろいろなことを割り切って流すことのできた」「一番ずるい人間だったんじゃないか」という結論なのだ。
 実は、これまでの「エリザベート」上演で多少ひっかからないでもなかったのがこの点だった。死だの何だの言っている割に、フランツもエリザベートも当時としては長寿の方なのである。もちろん、かくも苛酷な生に耐える宿命を神が与えたもうたという、運命論的解釈もあり得る。しかし、霧矢は、人間の生に対して実に知的で合理的な解釈を導き出した。
 流す。要するに、心を動かさないということである。日々直面しなくてはならない出来事すべてに、心を揺らさない。いちいち反応していては、消耗してしまう。同情など、もっての他である。
 霧矢のフランツは、登場シーンからすでに、確固たる信念をもって確固たる責任を負わないことに腐心している。政治マターの判断内容を母である皇太后ゾフィーや重臣たちに任せるのみならず、ときには判断を下すか否かさえ人に委ねる。自分では何も決めない。ずるいのである。
 もちろん、フランツにはそうせざるを得ない必然がある。皇帝である自分が元気に長生きして、オーストリアという国家とハプスブルクの御世を守ってゆくこと。それが、ただ一つの彼の生における責務なのである。それを全うするためには、すべてを流すずるさなど大したことではない、そう彼は信じている。というより、それ以外の生き方を彼は知らない。弱い人間なのである。
 そんな人間に愛を求められてしまったところに、エリザベートのかくも深き絶望と苦悩は始まるのである。

 今回ほど、バート・イシュルで、フランツが本来の見合い相手のヘレネではなく、その妹のエリザベートを見初めてしまうことに憤りを感じたことはない。フランツ的には、どうせ長い人生を一緒に過ごすなら自分の好みの女の方がいいし、姉も妹も大した違いはないだろうくらいに思っているのである。そして、エリザベートに愛を告げる銀橋での「嵐も怖くない」で、早速ずるさを発揮する。エリザベートの同情にいわばつけこみ、その愛を得て、自分と同じ責務を彼女の人生にも負わせようとする。愛という場においても彼は、判断を他者に委ねている。
 流すことのできるずるさをもった人間に愛を求められるとは、求められた側にとっては実に残酷な事態である。愛という、心の領域に関わる問題においても、ずるい人間は、自分の心を動かすことなく、愛だけを貪り得ていこうとするからである。愛という、それだけでは無力な、実にふわふわとした感情を、“関係”という形でこの現実にしっかり根付かせるためには、本来ならば、その両サイドにいる人間双方の努力が必要なのである。しかしながら、ずるい人間は、その努力を相手のみに委ねる。「愛している」といえば、それですべてが通ると思っている。
 だからエリザベートは、ときに“最後通告”のような極端な形で、フランツに問わねばならないのである。「貴方は私を本当に愛しているのか」と。「愛しているならば、それを今回ばかりは形に示してはもらえないものだろうか」と。「何故なら、こちらとしては、この関係を続けていく上ででき得る限りの努力をしてきたけれども、ここに至ってはそれももはや限界である。私という存在が貴方にとって大切というならば、この関係が貴方にとっても大切だというならば、貴方の方でもそれを大切だと思い、努力をしているという証拠を見せてはもらえないだろうか。それが実際、何かの役に立つかどうかはわからないにせよ、証拠を与えられたという一点において、こちらとしても、困難な努力を続けていく覚悟ができるかもしれないから」と――。
 皇帝という立場の人間を愛で支える方の人間にだって、感情があり、人生があるのである。人は、自分という人間の精神的限度を超えてまで人を愛することはできない。フランツにとっては国家と御世を守ることが一番大切なのかもしれないが、妻だからといって、エリザベートにとっても必ずしもそうとは言い切れない。けれども、“愛”という魔法の言葉を使えば、フランツはその差異を不問に付せると思っている。自分にはそうするだけの権利があると思っている。“国”のトップだから。帝国随一の“スター”だから。忙しいから。他にやることがあるから。時間がないから。
 ――ずるい、あまりにずるい人。弱い人。他人を本当に愛したことのない、かわいそうな人。ずるい、ずるい貴方。

 心を動かさずに生きてきたそんな人間の心のうちにも、愛を求めてやまない弱さがある。そんな人生の陥穽を、霧矢はフランツ・ヨーゼフの一生の中に淡々と描写してゆく。その哀しさのクライマックスが、「夜のボート」のデュエットである。人生の黄昏時に至ってもなお、フランツは人を愛するということの何たるかを理解してはいないし、しようともしていない。それぞれの人生に違う運命を背負った人間が、互いに自立した人間として向き合い、心のうちを互いに傾けること。生まれながらにそれぞれ孤独な人間が、その一点において、確かにつながり、一人では到達し得ない境地に至ることのできる至福。愛は結局、究極的な意味においてはフランツの人生に訪れることはなく、晩年に至ってその事実ももはや十分知りながらも、なおも己の無理解を理解しようとはしない。
 「一度私の目で見てくれたなら/君の誤解も解けるだろう」
 そう歌うフランツこそ、人生、エリザベートの目で見ようとしたことなど一度たりともない。
 愛の喜びを説いて観客にいっときの夢を与える宝塚歌劇の舞台において、かくもはっきりと愛の不可能性を示し、それでいて、かくも魅力的な貴公子として立ち現れる矛盾。名演である。
 思えば、前回2004年の月組での本作上演時も、霧矢は一ひねりも二ひねりも施したルキーニの造形で驚かせてくれた。このときの「エリザベート」は、すべてが、霧矢ルキーニが創り上げ、観客を幻惑する光景に見えた――。自分がエリザベートを暗殺した理由を説明するために、トート=死というキャラクターを持ち出す。このときトートは、皇后と一介のアナーキストという身分、立場の違いゆえ、決して結ばれることのないエリザベートと愛し合うためのルキーニの“形代”であった。何とも不思議な見え方のする「エリザベート」だった――との、そのとき受けた非常に強い印象は後に、霧矢本人との取材の場で確かめられることとなり、優れた表現を受け取ることのできた幸せを覚えた。
 知的で、実に深遠な人間観察眼。――ときに、観ている人間の背後にそっと回り込み、その首筋に冷たいナイフの刃を当てるような。こんなにも人間存在について達観してしまったところのある、しかも、それを表現する力にも不足のない役者が演じる人間ならば、男であれ、女であれ、楽しみでしかないというものであろう。
 白の正統派男役を語るとは、ある意味、宝塚歌劇を正面切って語ることである。
 というわけで、構想二年余、瀬奈じゅん論、いよいよ登場である。

 明日は瀬奈の舞台を観る、会見や取材がある…というとき、無意識のうちに白い服に手が伸びている自分におかしくなるときがある。それくらい、私にとって瀬奈は“白”の人である。
 瀬奈じゅんという存在によって、私は、ある色が似合うということは、その人間の内面とどのような関わりをもつのかという、色彩心理学的にも非常に興味深い問題について、実に多くの発見と示唆を与えられた。この人は“白”の人であるという判断が下せるようになったのは、瀬奈の存在あったればこそである。もちろんこれは男役の判断のみにとどまるものではない。例えば、「三文オペラ」と「オットーと呼ばれた日本人」で主役を演じて大いに魅力を放った吉田栄作は“白”の役者である。
 瀬奈がある色を着る。すると、その色のもともとの明度と彩度が際立ってはっきり示される。赤とは、青とは、本来このような色であったのかと、目が拓かれる思いがする。クリームイエローのような微妙な色合いにおいても然り。
 もちろん、“白”の男役がもっとも似合うのは、白である。瀬奈の白は、無垢の白である。穢れなき白。まばゆい白。人生の何にも汚されていない、生まれたばかりの人間を思わせる白。
 色があるばかりが個性ではない。白は、個性である。ときに、実に強い。白をまとった瀬奈の舞台姿が、そう教えてくれた。

 宝塚のトップスターは白い二枚目の役が多いとはよく言われることである。個性派で鳴らしてきた男役の場合、二番手時代の方がおいしい役どころが回ってきて、トップになると白い役ばかり回ってきて似合わなかったりということはままある。では、白の男役が白い主人公を演じるとなると、どうなるか。
 正統派が正統派を演じる、まったき正統が現出する。つまり、瀬奈が演じれば、そこが、宝塚歌劇の正統の真センターなのである。かくして、トップになってからの瀬奈は、演出家思い思いの描く宝塚歌劇の正統をふられてきた。これは、トップになってさえ、己の野望のためには人殺しさえ厭わないようなダーティ・ヒーローをふられた、つまりはどちらかといえば“異端”と目されていた安蘭けいの、「安蘭で通れば宝塚の陣地拡大」とはまた別の、しかしながらそれぞれに重い苦労ではあった。
 トップ就任後、瀬奈の白の持ち味をもっとも興味深い形で生かしていたのが、正塚晴彦が作・演出を手がけた「マジシャンの憂鬱」である。このとき瀬奈は、透視能力があるとのふれこみで一躍寵児になるも、実際にはその能力のないことに“憂鬱”を抱いているマジシャン・シャンドールに扮した。
 私は、いわゆる“霊能力”の類は信じていないが、人間のもつ潜在能力はすべてがすべて発揮されるには至っていないと考える人間である。そうでなくては、極限状態に置かれた人間がときに人智を超えた力を発揮することの説明がつかない。当初、仲間の事前調査に多くを負うていたシャンドールには確かに、透視能力とまで呼べる力はないのかもしれない。けれども、瀬奈の白に宛て書きされたことを鑑みるに、シャンドールは、人の心を自分の心に映す能力がきわめて高く、それゆえ、普通の人間が見えないものがある程度以上見えてしまう可能性の高い人間であるように思われる。そう、まるで、白が、他の色の明度や彩度を際立たせてしまうように。
 そう考えると、白の“憂鬱”も納得がいく。白でない人間からすれば、自分の中のわずかばかりの白が相手の白に映し出されて満足かもしれないが、たとえどんなどす黒い色でも映し出さねばならない白の方はたまったものではないだろう。
 作中、そんな白の困惑をもっとも象徴的に示す場面があった。“超能力マジシャン現る”とはやりたつ世間の人々が珍妙な振りのダンスを繰り広げるのを、センターに立つ瀬奈が横目に眺め、一人遅れて振りを繰り返す、そのおかしさ。振りに、瀬奈が何か付け加えておかしく見せるのではない。その振りのもともとのおかしさを、“白”がそのままの通りに映し出すからおかしいのである。人の心や振る舞いのありようをそのまま映す“白”の魅力をあざやかにとらえた名シーンだった。