10日午前、初日前の舞台稽古を見学。
 レプリーク最新号(vol.15)における、今作にまつわる瀬奈じゅん×霧矢大夢の対談を、私は「新たな『エリザベート』の地平へ」と題した。そして、誕生した舞台はまさに、これまでのプロダクションとはまったく異なる次元に展開されるものだった。これは、「エリザベート」の、宝塚における上演史のみならず、作品自体の上演史におけるコペルニクス的転回である。
 それを可能にしたのは、今回トート役に扮した瀬奈じゅんの、4年前の上演において男役ながらタイトルロールのエリザベート役に挑んだ経験であることは言を俟たない。その経験を不可欠とした上で、演出家・小池修一郎と瀬奈のコンビは、現在の宝塚を代表する白の正統派男役にしか演じることのできないまったく新しいトート像を舞台上に現出させることに成功した。それはまた、女性が男役を演じる宝塚においてのみ可能となるトート像でもある。今回、他組の若手男役を大抜擢し、タイトルロールを演じさせることが大きな話題を呼んできたが、その起用も、これほどまでの舞台効果を生むために狙ってなされた演出家の意図であるとしたら、恐ろしい話である。何しろ、ここで意図されているのは、一人二役と二人一役の同時進行に他ならないのだから。
 コペルニクス的転回を可能にしたもう一つの要因は、皇帝フランツ・ヨーゼフを演じる霧矢大夢の、これまたまったく新しいキャラクターの彫塑である。女性が愛の甘やかな夢を見るとされてきた宝塚歌劇の舞台において、甘い二枚目が、愛の対象であるはずの女性をここまで人間扱いしない様をはっきりと目の当たりにしたのは、2004年の宙組全国ツアー公演「風と共に去りぬ」で初風緑が好演したアシュレ・ウィルクス以来だ。一言でいえば、どこまで行ってもただひたすらに“ずるい”としか言いようのない男性像、そして、“ずるく”あるしかなかった彼の必然を、宝塚きっての実力派・霧矢が、持てる力のすべてを発揮し、淡々と演じてゆく。その男性像とは、突き詰めれば、野田秀樹が「THE DIVER」で問題提起したところの、日本において長らく続いてきた実にいびつな男女関係を成り立たせてきたものに他ならない。かくなる人物造形を可能にした、限りなく深い人間洞察と論理構築、感情の葛藤、つまりは、己自身も含めた人間一般へと向き合う真摯かつ峻厳な姿勢は、芸術家として、人間として、最大級の賛辞と尊敬に値する。宝塚での今後の活躍のみならず、相当に気の早い話ではあるが、退団後も役者として目の離せない存在である。
 二人の男役の対決が、今までの上演以上にはっきりした一つの軸として作品を貫く今回の「エリザベート」は、“愛”という名の戦場において、人々のエゴがぶつかり合い、火花を散らす、凄然なまでの生存競争を描き出してゆく。「誰も互いに愛がなかった。――だから、ナチスなるものが台頭した」とする、ウィーン版にきわめて近い精神ながら、宝塚版でしか成し得ないカタルシスを最終的に生み出し、宝塚歌劇を観る愉悦の極致を説く。それが、他の演出家による新たな発見ということではなく、日本における作品上演に長らくかかわってきた同じ演出家によってなされたことも、特筆すべきである。今回のプロダクション以上の舞台が可能になるのは、やはり、瀬奈じゅんがいま一度タイトルロールのエリザベートに挑んだときでしかないだろう。
 かくして、長らく構想してきた瀬奈じゅん論のパズルの最後のピースが嵌り、自分としても想像し得なかった絵図が展開されることとなり、嬉しくも驚いている。また、今回の舞台ではっきりと示されることとなった霧矢大夢の役者としての真髄についても、さらに詳しくふれる必要があるだろう。95周年を迎えた宝塚に、とんでもない舞台が誕生した。
 宝塚生活最後の大階段を黒燕尾服で降り、そして、そのままの姿で退団記者会見に現れた大和悠河の姿を見て、何だか、胸がしめつけられるような思いがした――。
 一作前の宙組本公演の“心の名場面”が、レビュー「ダンシング・フォー・ユー」で、黒燕尾服をまとった大和悠河が、宙組の男役たちを率いて颯爽と踊るシーンだったからである。それを観て私は、アルキメデスの「ユリイカ!」ではないけれども、今さらのように、「やっぱり男役は黒燕尾服だ!」と思ったのである。黒燕尾服姿にこそ、男役としての個性がはっきりと表れるものなのだと、改めて感じ入ったのである。
 大和のその黒燕尾服姿の踊りは、外へ外へと向かうものだった。大和の内面が、その一見ストイックないでたちからどうしようもなくあふれて、客席へと外向する黒燕尾服姿。伝えたい。つながりたい。そんな熱い熱い想いがほとばしっていた。
 “男役の制服”と呼ばれる黒燕尾服、顔と手以外はほとんどすべてを覆われた、周囲とまったく同じいでたちにおいて個性を出すのは、それほど容易なことではない。まずは、男役として黒燕尾服をきっちり着こなせるようになった上で、己の個性を確立し、それを表現できるだけの技量を身につけなくてはならない。キャリアを積んだ上級生のその姿は、わずかな仕草にもそれぞれの性格や生き様が現れるようで、観ていて飽きることがないが、男役としてまだまだの下級生のその姿からは、ひたすら若さのみが感じられるだけだったりする。
 私は、「ダンシング・フォー・ユー」での大和の黒燕尾服姿を見て、これほど“男役の制服”が似合うまでになったのだ――と、本当に感慨深かったのである。大階段のセンターに立つ姿もトップスターとして見事で、ああ、大和率いる宙組はここからさらなる旅を続けていくのだと、勝手に思い込んでいたのである。そう思っていたら、突然、退団が発表されて、半月くらい何だかがっくりしてしまったくらいなのである。
 だから、旅立つ日の盛装に、大和が黒燕尾服姿を選んだことに、深く心を打たれたのである。この人はそんなにも、宝塚の男役を愛していたのだなと――。

 彼女を初めて取材したのは、2003年の日生劇場公演「雨に唄えば」の製作発表記者会見の日のこと。日生劇場のロビーで行なわれたその会見で、彼女は、登場しての開口一番、集まった取材陣に対し、「みんな、聞けよ〜!」と一発かまして、自ら振り付けたという踊りと共に、「笑え!」のナンバーを大熱唱した。あまりのはっちゃけ具合にほとんど度肝を抜かれてしまったのだが、その後、対談形式での取材で、主演の安蘭けいさんに、「『聞けよ〜!』って、みんな、聞きにきたんやん」と突っ込まれ、「そうですね、そうでしたね」と神妙に生真面目に答えている姿とのコントラストがあまりに落差が激しくて、ああ、何だかこのギャップこそが大和悠河らしいなあ……としみじみ思ったことを覚えている。
 相手役の陽月華も、この製作発表での印象が忘れがたい。会見後の懇親会の席で、「陽月さんは、ボーイッシュだったり、現代的だったりする役が似合うから、今回のヒロイン、本当に楽しみですね」と声をかけたところ、「でも、私、正統派の娘役もできるようになりたいんです」と返された。そのとき、会場の薄明かりの下で一瞬見つめた、彼女のハッとしてちょっと思いつめたような表情と、着ていたワンピースの色と模様と質感が、不思議なくらいいつまでも心にあざやかに残っている。
 二人はお似合いのコンビだった。まるでファッション・ドールのようなルックスとプロポーションと現代的センスをたまらなく魅力的な個性として持ちながら、古き良き宝塚をこよなく愛し、そこに何とか自分の個性を融合させようとしてあがく、不器用さが二人の共通点だった。二人して手に手を取って“ハッピーエンド”(!)へと爆走して行ってしまうロミオとジュリエットのようなコンビは、観ていて微笑ましかった。公演については後日、某誌に書く予定があるのでここで多くはふれないが、そんなコンビの最後の作品が「薔薇に降る雨」「Amour それは・・・」の二本であったことを、早すぎる退団の残念の中の僥倖だったと思っている。
 そして、七帆ひかる。個人的には、雪組の葵吹雪、星組の和涼華と並んで、今年の宝塚三大もったいない退団の一人である。宝塚一パリッとしたサラリーマンルックが似合う男役として、今後の活躍を楽しみにしていたのに――。美羽あさひも、現代性と“娘役”とをきっちり両立させていた、大和の宙組に似つかわしい人だった。

 退団会見での大和さんの、「幸せでした!」との言葉と表情が、本当にすがすがしく感じられた。そして、気になる今後については「(具体的には)ないです」としながらも、「歌も芝居もダンスも、楽しいですね」と満面の笑みを浮かべていたので、必ずやこの世界に戻ってきてくれると信じている。コンビ揃って、女優姿にまったく違和感のない二人だから、違う世界でまた、それぞれに爆走を見せてくれるのではないかと期待している。
 安蘭けいは、彼女の後を継いで星組主演男役に就任する柚希礼音が“ダンサー”であるという意味では、確かに“ダンサー”ではなかったかもしれない。それでも私は、彼女の踊りを観ていて決して飽きることがなかった。それこそ、指一本一本の開き方や反り方といった細部に至るまで、一挙手一投足に男役としての美学が徹底されていたからである。彼女の一つ一つの細かな仕草に、男役として美しく見せるためのこだわりに、心惹かれてならなかった。
 男役を究めれば究めるほど、結局のところ、その制服と言われる黒燕尾服姿にすべてが収斂されてゆくのだと、最近ますます思うようになった。だからこそ、それぞれが個性を競い合う黒燕尾服でのダンスシーンは宝塚歌劇においてもっとも見応えのある場面の一つなのだが、私にとって、安蘭けいのその姿はなぜか、自分の中に原体験としてある男役のイメージにもっとも近いのである。ストイックに、どこまでも自らの内へ内へと向かう黒燕尾服姿。内へ内へと向かううちに、その内的世界がどこか突き抜けて宇宙的広がりすら感じさせてゆく。

 そして、退団公演でさらに凄みを増した歌。心の震えをそのまま言葉に紡いで音に乗せたようなあの歌。決意を告げるときは力強く、神に己の生を問うときは畏れ、愛を歌うときは陶酔に満ち、ときに、それほどまでにナイーブな心の内を知ってしまってもいいのだろうか…? といささかの当惑さえ感じさせずにはおかない歌。聴く者の心が震えるのは、安蘭の歌声を通じて伝わるその心の震えに共鳴すればこそである。

 その演技の成立については、私は長らく、こんな風に考えてきた――。
 安蘭の心には、そのやわらかな感受性ゆえ、無数の“傷跡”がある。どんなささいなことでもかまわない、何かにふれるたび、その“傷跡”は一つずつ増えてゆく。そして、実際に舞台に立ち、役として演技を見せるとき、そのつど必要な感情のバリエーションが、数限りない“傷跡”から瞬間的に、実に適切に引き出されてくる。昨日と今日、今日と明日では、同じ演技でも、刺激される“傷跡”、そこから引き出されるものが異なる。そのあまりに豊饒な多様性を味わうには、生の舞台をもって他にない。
 瞬間的にふさわしい“傷跡”を心の内に探り当て、適切な感情を縦横無尽に引き出して舞台を生きる、そんな安蘭を観ていると、私は、劇場とは何より、人の心を観る場所であり、そして、表現とは、形なきその心をでき得る限り形にして見せる手段に他ならないと思うのだ。
 美という、およそそれ以外の目的にとって実用的ならざるものを追究する心。矛盾にさえ満ちた複雑性を内包してときにその人間本人をも翻弄して揺れる心。不確実性に満ち満ちた世界を生きる上で、その不確実性を一層増幅させる心。心あればこそ、人間は人間たり得る。その心の動きの一瞬一瞬こそが、生きる喜びに他ならない。
 安蘭けいは、悲しみも苦しみもすべて含めた、実に複雑極まりない人間の生きる喜びを、その演技のうちに描き出すために生まれてきた人間なのだ。そして、安蘭の演技を見守ることは、同時代に生まれた者だけに許された、生きる喜びなのである。

 愛とは何度も苛酷な試練を問うものであって、表現への愛もまた例外ではない。退団作「My dear New Orleans」で安蘭扮する主人公ジョイは、音楽への愛を高らかに歌い上げた刹那、歌う場を失くすという試練に見舞われる。結局は、彼の才能を見込んだ音楽プロモーターの誘いを受けてニューヨークへ行き、成功を収めることとなるのだが、表現者の誕生を描く上で重要なのは、安易な成功譚ではなく、試練をどう乗り越えたかの方なのである。
 試練はそれは何度もやって来る。うんざりするほど、手を変え品を変えて。だから、あきらめそうになる。くじけそうになる。実際、どこかであきらめ、その道を挫折する者も多いだろう。それでも、実にあきらめの悪い一握りの人間だけが、愚直なまでに表現への愛を貫き通す。才能がより必要なのは、続けることの方なのだ。愛を貫き通すことの方なのだ。そうして続けていくうちに、いつしか愛は豊饒な実りを見せる。
 2009年4月26日、安蘭けいは宝塚歌劇団を旅立つ。
 その長い在籍期間中に彼女が培い、勝ち得た表現。それは、主演男役という称号を超えて、安蘭に、安蘭のみに輝く、唯一無二の栄冠である。
 まずは、心のキャラ候補から。
 芝居の冒頭の方で、1917年のニューオリンズへといざなう歌を熱唱する英真なおきのクレオールシンガーを観るたび、東京ディズニーランドで一番好きな場所、“ブルーバイユー・レストラン”を思い出すあひるであった。「カリブの海賊」の乗り場の向こうに見えるこのレストランは、南部アメリカ、ニューオリンズを流れるミシシッピ川の夕暮れをイメージしているから、いざない方ドンピシャなのである。芝居では続いてジョイの母親を演じ、ショーの方では掃除夫に扮して実にキュートな魅力をふりまいているが、英真の持ち味の真の爆発力は、まだまだ発揮されるに至っていないと思う。これは、花組の壮一帆とも共通する話なのだが、毎公演、二人は心のキャラの最有力候補なのだ。ただ、心のキャラとして評したいのは「英真なおき」「壮一帆」の方であって、二人が演じている役柄自体ではない……と引っかかる何かがある。役柄を演じて出るおもしろさが、もともとの個性のあまりのおもしろさを凌駕するに至っていないように思う。問題は役柄か、表現方法か、それともその両方なのか、引き続き考えてゆくことにしたい重要テーマではある。
 ジョイのバンド仲間のうち、お笑い担当&どうやらかなりの食いしん坊キャラでもあるらしいオリヴァーを演じているのが彩海早矢である。今回芝居の方が黒塗りということで、かなり手間取ったのだが、ショーを観ていて遂に気づいた。個性派、面白キャラへの道を懸命に模索しているようだけれども、実は“白”の正統派ではないですか!(ちなみに、前にも書いたように、“白”は立派な個性である) 無理に“個性”で味付けするより、内面にある過剰さ(はもちろん、ほめ言葉である)を素直に出す道を模索した方が、まだまだ隠れている繊細な持ち味も生きるように思う。おそらく参考になるのは、宙組の大和悠河である。
 本物の黒人女優! と見まがうルックスの娼婦ローズ役の花愛瑞穂は、魅惑の声でささやく「思い通りにいかないのが、男と女」が強烈。歌声の表情が実に豊かで、「スカーレットピンパーネル」東京公演後半はいささか表情がつき過ぎかなと思わないでもなかったが、今回はそのあたりのコントロールも抜群である。退団した名シンガー矢代鴻の後継者路線として期待の人。また、百花沙里、華美ゆうか、音花ゆり、如月蓮は、今後の心のキャラ候補としての活躍を楽しみにしたい人材。

 ヒロイン・ルルとレニーの母親ジョゼフィンを演じた万里柚美は、心理的欲求と物質的欲望とが対立軸となる今回の作品において、助演女優賞ものである。“黒いヴィーナス”ジョセフィン・ベイカーや、黒豹のしなやかな美しさを連想させるゴージャスないい女が見せるあまりの因業ぶりに、思わずゾクゾク。けれども、彼女がそんなにも金銭、損得に執着するのは、結局のところ、子供たちを思ってのことなのだ……と、終わりの方で見せる愚かな母親ぶりが愛おしくすらある。
 これが退団となる遠野あすかの真骨頂は、ショーでセンターを務めるカンカンの場面で見せる、生き生きとしたエネルギーに満ちたコケティッシュさ、永遠の少女のキュートさにある。だから、今回のヒロイン・ルルは、必ずしも彼女にもっとも合うタイプの役ではなかったのが残念だ。もっとも、芝居でもショーでも、彼女にしか似合わないような難易度大のコスチュームを見事着こなし、大輪の花のようなあでやかさで娘役の集大成を見せている。彼女のポテンシャルは、宝塚の娘役、相手役というポジションでは決して開き切ったとは思えないので、もし今後も舞台を続けるようなことがあれば、さらなる飛躍を期待したい。
 次期主演男役の柚希礼音が演じたルルの弟レニーは、今回の作品においてもっとも難しい役ではなかったかと思う。何といっても、「どんな男に抱かれたって、姉ちゃんの心は、俺だけのものだ」と姉を抱きしめるシスコンぶりが???だからだが、柚希はこのセリフを、娼婦という生業をしていても、姉の心に穢れなきことを知っているのは、この世で弟の俺だけだ……と響かせて、不思議キャラに見事整合性を与えた。レニーの演技を観ていても、ショーでのさまざまな場面を観ていても、男役として実に表現の幅が増えてきたなと頼もしい。大人の男のやさぐれ感、無力感、子供のような純真な笑顔。ショーの中詰めで見せる、セクシー・ダンシング・スターぶりに感じた昂揚は、安蘭けいが主演お披露目作で見せた「クンバンチェロ」の熱狂にも似たものがあって、このあたり、熱い熱い星組は変わらないんだろうな……とうれしくなった。主演男役という立場に立ったとき、いたずらに重圧を感じるのではなく、自分の個性をよりよい形で発揮できるポジションととらえれば、柚希の主演男役としての道が自ずと見えてくる。その暁に、柚希礼音論をしたためるのを楽しみにしている。
 柚希の相手役を務めることとなる夢咲ねねも、今回のようなしどころのない役では限界があるが、あれこれ違った演技を試していたのは芝居心の表れとして買いたい。役の人となりに一本筋を通すようにすれば、凝らした工夫もさらに生きてくると思う。
 他に娘役では、蒼乃夕妃がやはり目を引く存在だ。「ブエノスアイレスの風」や、今回の新人公演のように、大人っぽい役を演じたときには語尾のあたりがちょっとさみしくなりすぎてしまうきらいがあるのだけれども、「キーン」のヒロインや今回の本公演の役どころのように、生き生きとエネルギーをふりまける役だと彼女の魅力が前面に出てくる。ショーのポワソンの場面を観るだに、えらく男前かつセクシーなダンスができる人なので、かっこいい娘役路線で頑張ってほしい。

 和涼華は、退団が本当にもったいない今回の舞台である。今まで肩に力が入り過ぎて舞台を楽しめていないように感じられたのが、ショーでセンターを務めるダンスの場面など、実に自由に、生き生きとしていた。この場面で、彼女は舞台への夢を歌うのだが、彼女自身が宝塚の舞台に見た夢が叶っているといいのだけれども――。
 今回も人生の枯淡を感じさせる演技を見せている紫蘭ますみは、「キーン」で見せた道化的演技の味わい深さが忘れ難い。おっかない系おかみさんのイメージが強い朝峰ひかりだが、「レビュー・オルキス」のコミック・ソングで見せた、ほのぼのとしたかわいらしさも印象的だった。星風エレナは、「ヘイズ・コード」や「エル・アルコン」での怪演ぶりが心に残っている。麻尋しゅんも、男役姿が様になってきたと思いきや……。退団は、さみしいものである。

 今回、専科からは汝鳥伶と美穂圭子の二人が特出。汝鳥は、今回のスティーヴン牧師を観ていて、すぐには「黎明の風」で吉田茂を演じていたことを思い出せなかったほど、何だか一役一役ごとに擬態のように色合いが違う。美穂圭子は、同じ作者の作品「Paradise Prince」で、これまた息子溺愛ぶりが???の母親を演じていて、せっかくの美声の持ち主をこういう使い方せんでもらいたいと思ったものだが(声が本当にかわいらしいだけに、溺愛ぶりによけいに???が増すのだ)、今回のショーではセクシー・ダイナマイトな歌唱をたっぷり聴かせてくれて大満足。この人の本領はキュートでありながら実に艶っぽい表現にあるわけで、まだまだ母親役に落ち着く人ではないだろう。

 新生星組を占う上で、最大のキーパーソンではないかと踏んでいるのが涼紫央だ。主人公ジョイの才能に惚れ込み、彼がミュージシャンとして成功する足掛かりとなる人物、アルバート役を演じ、退団する安蘭けいへの餞の言葉とも言うべきセリフを、何とも心地よい温かみをこめて語って最高級の好演を見せているが、芝居巧者のこの人にとってはやはり、役不足だろう。難役に挑んで拓く新境地に期待。
 若手に目を転じると、夢乃聖夏は、こういう黒人の男の子って絶対カナダ時代の友達にいた! と思ってしまった。包容力を感じさせるようになってきたのが◎だが、セリフの間をもっと自由自在に操れるようになると演技がより生きてくると思う。紅ゆずるはセリフに心情をこめようとするあまり顔の表情がおもしろくなってしまう点に気を付けて、かっこよさとおもしろさの両立を心がけてみてはどうだろうか。壱城あずさは、この学年でよくもこれだけ男役の「俺について来い」の目&表情ができるものだと感心。ショーのダンス場面での回転の猛スピードには毎回、目が釘付け! 紅と壱城が、ブルーのアイシャドウも麗しく、「キザッてなんぼ」を並んで体現しているショーの銀橋を観ていると、やっぱり宝塚の男役はそう来なくっちゃ! とうれしくなってくる。創りに創り込んだ後でなければ、人それぞれの男役の表現など生まれて来ようはずがないのだから。
 ジョイの言葉を借りてしめくくることとしよう。
「この街からまた新しい未来が育っていく。こんなに嬉しいことはありませんよ」
 出張していたりしてすっかり遅くなってしまいました。恒例、心のキャラ発表!
 人材豊富で心のキャラ激戦区の星組、今回も候補者多数の中を勝ち抜いたのは、…ジャーン、美稀千種扮する“ポン引きのボブ”! セリフは「旦那、どうだい」、「やばいぜ」「冗談じゃねえ!」の三つ、ソロは「今夜はお楽しみだ」のみながら、歌舞伎の定式幕のような配色のジャケットを着たこのボブ、何だか妙に気にかかる。なんてったって、めっぽう色っぽい! 身のこなしもさっそうと粋で、でもちょっと抜けたところがあるのが癒し系で、娼婦たちの信頼も厚く、街の住人ともしっかり交流していて。自分が生活ベタという意識が強いので、男の人は生活力(経済力ではない)がある方がいいなというのがあって、今までヒモをもつ女性の心理がいまいちわからなかったのですが、こういう男の人ならありなのかも…と新しい心境を拓かれた感じ。ジョイの世界とルルの世界、二つのかけ離れた世界を、ルルの弟レニーを追って来たボブが一瞬つなぐのも、ストーリーヴィルという街の奥行きを出して。十年後のチャリティ・コンサートのシーンでは、さっぱりこぎれいな身なりで登場するボブ、ストーリーヴィルがなくなった後はポン引きから足を洗って正業についたのかしら、娼婦の誰かと所帯を持ったのかしら…等々、何だかボブのことばかり考えてしまう。
 物語的にも、ボブの“ポン引き”という職業のもつ意味は決して小さくない。レニー曰く、「愛なんて金で買うもんだって、子供だって知ってるさ」というこの街で、ボブは“愛”を金銭で売買する手助けをする人間である。その対極に、ジョイがルルに捧げる愛、愛のみを対価とする愛がある。ジョイが歌う「スイート・ブラック・バード」にこめられた愛の重さ、深さは、“愛”が金で取引される場所から生まれ出たがゆえである。

 昨年秋の全国ツアー公演においても、美稀は、「外伝 ベルサイユのばら」でばあやのマロングラッセ役を好演し、その後のショー「ネオ・ダンディズム!V」の“アディオス・パンパミーア”の場面では男役として、誰よりも激しく肩をいからせて踊っていたりして、ギャップの大きさで楽しませてくれた。今回は、芝居作品で最高に粋な男を演じた後に、ショーのフレンチカンカンの場面でキュートな踊り子に! ショッキングピンクのかつらをかぶった姿が意外と言っては失礼だが何だか妖艶で、でも、コミカルな展開の場面では計算された動きで笑いをきっちり取ることも忘れない。芸達者やなあ…と感服。今後も大いに期待!
 4月27日以降、宝塚の劇場で、立樹遥のあの笑顔に励まされることはもうないんだ…と思ったら、何だか無性にさみしくなってきてしまった…。

 私があの春の太陽のような笑顔の真価に思い至ったのは、恥ずかしながら、ごく最近のことのような気がする。
 人間、笑顔でいられるときばかりとは限らない。肉体的にも、精神的にも、笑顔でいることを妨げる要因は枚挙に暇がない。けれども私は、立樹が心からの笑顔を絶やすのを観たことがない。
 あの笑顔は、彼女の意志の表れなのだ。世界を、向き合う相手を、常に温かく受け入れ、包み込みたいという強固な意志の。そのことに気づいてから、彼女の笑顔が一層貴く感じられるようになった。そして、自分でも…と心がけて知るのは、その意志を貫くことの難しさである。

 もっとも、今回の芝居作品「My dear New Orleans」では、その笑顔は封印されている。演じるはニューオリンズの歓楽街ストーリーヴィルの顔役、ジュール・アンダーソン。主人公ジョイが愛を寄せるヒロイン・ルルのパトロンである。
 安蘭けいが主演男役に就任して以来、立樹が演じてきたのは難しいところのある役柄が多かったように思う。というのは、物語上は重要な意味合いを占めながらも、どうにも書き込み不足のケースがままあったからだが、立樹は真摯な取り組みでいつもきっちり成果を出してきた。今回のアンダーソンも、恋敵、悪役かと思えばルルを心から愛する貴族的紳士で、どこか捉えどころのなさは否めない。さらに言えば、アンダーソン/ルルの関係は、白人/有色人種、男/女、権力者/囲われ者と、支配/被支配の関係が幾重にも成立しているのが、恋心という力点においてあざやかに反転してしまう面白さがあるのに、どうにも演出しきれていない。そのあたりの不足を補う力演で、立樹は男役の集大成となる舞台を見せた。捉えどころのなさはミステリアスな雰囲気を漂わせる造形で魅せ、去りゆく宝塚への想いと重ね合わされる、ストーリーヴィルへの挽歌は情感たっぷりに歌い上げる。ルルに、多くを、愛を求めはしない…と歌い上げる四重唱のせつなさあればこそ、男役最後のセリフ、「私にできないことなどない」のせつなさが一層際立つ。権力者が唯一できなかったこと、それは、愛する女の心を手に入れることだったのだから。
 ショーでも、ジョイ/ルル/アンダーソンの三角関係をなぞるような場面で、安蘭と男役同士の火花散る対決を見せて圧巻である。その後の中詰めからは一転、笑顔満開。春の太陽の人だから、オレンジの衣装が実によく似合う。そして、そのオレンジの温かみに負けない笑顔が、逆にさよならのさみしさを感じさせずにはおかない。

 彼女とは不思議なくらい縁がなくて、結局一度も取材できずに終わってしまったことが残念でならない。宝塚への想い、男役への想い、聞いてみたいことは多々あったのに……。一度だけ、懇親会の席上で言葉を交わしたときの、やはり明るい笑顔は今も心に残っている。これからの人生も、彼女は温かな笑顔で、その道程を照らしてゆくのだろう。どうか、あの笑顔が人々の心にもたらした以上の幸せに恵まれんことを。
 宝塚歌劇においては、座席がセンターに近ければ近いほど、舞台上に異なる光景が広がるということを知ったのは割と最近である。あまりそんな場所に座った経験がなかったからなのだけれども、考えてみれば、演出家的にはセンターがデフォルトなわけで、他から見える光景こそが異なるという話なのかもしれない。
 それはさておき、とりわけその真価が発揮されるのは、大階段を使用してのレビュー・シーンである。あまりにすべてがシンメトリーを成していて、ちょっと恐ろしくなるような、悪魔的な美しさがある。あまりのシンメトリーゆえ、舞台上で展開されている三次元の出来事が、二次元的、絵画的に見えて、それでも実体を伴って動いているという事実を、慣れないうちは目と脳がなかなか飲み込めない。その完璧なシンメトリーの中心に、トップスターがスポッと入り込む刹那、いまだかつて味わったことのない昂揚感に圧倒される。
 しかも、今回の「ア ビヤント」では、そのシンメトリーの中心人物が、客席に向かって手をまっすぐに差し伸べる振りがある。まるで悪魔的な美の世界にいざなうかのようなその仕草に……心は浮遊し、舞台上へと彷徨い込んでしまう。それは、ベルギー人画家、ポール・デルヴォーの絵画の不思議世界に心彷徨い込む瞬間とも似ている。二次元の世界の中に入り込む瞬間。この世には絶対にありえない、けれども、舞台上には確かに存在する、魅惑極まりない矛盾を孕んだ完璧なる美の世界に彷徨い込む瞬間。デルヴォーの絵の世界に入り込んだときも、これ以上絵の中の道を歩いていってしまっては引き返せなくなる……と恐ろしくなったものだったけれども、客席でのその一瞬も、あまりの不可思議さに息が、心臓が止まりそうで……もしかしたらあの手は、黄泉の国からやって来た使者の手だったかもしれないとも、思わせるものがあったのである。
 演劇について書き綴ることへの自問自答は、常に私の中にある。その行為を通じて自分はいったい、どの程度まで演劇という創造の行為に貢献できているのだろうか――という問いである。
 同じ営為に従事する中には、創造しているという一点において創り手の方が立場は上なのだから、書く上ではそのことを当然斟酌すべきだという意見、つまり、自分はまったくもしくはほとんど創造には関わっていないとする者もいて、その割り切りを私は羨ましく思う。そこまで割り切れたならば、その虚しさに、私は演劇について書き記すことをきっぱりやめるだろう。
 私の理想は、「ゴドーを待ちながら」に演劇としての新たな価値を認めたケネス・タイナンのように、いまだかつて発見されていない新たな美を舞台作品の中に見出すことにある。新たな美が創造されたとて、それを見出す者なかりせば、美はいまだ美ではない。その発見の行為ははたして、創造の行為の一部分と言えるのか。

 「外伝 ベルサイユのばら−ベルナール編−」において、安蘭けいが演じた主人公ベルナールは、フランス革命の混乱期、パリで新聞記者をしている。貴族の圧政のもと、市民が貧困にあえぐのを見るに見かねて、彼は貴族の館に忍び込んでは盗んだ物を人々に分け与える義賊“黒い騎士”となる。ベルサイユ宮殿に盗みに入った際にオスカルと出会い、彼女の思想に共鳴したベルナールは、オスカルの死後、ナポレオンの独裁を苦々しく思い、その暗殺を決意する。しかしながら、同じようにオスカルの遺志を継ぐアラン・ド・ソワソン将軍によって、彼は暗殺計画から排除される。生きて、オスカルの遺志、フランス革命の尊き精神を語り継いでほしい、それがアランの願いだった――。
 新聞記者、つまり、物を書く人間は、社会を変えねばならないとするならば、それは何より、自らの記した文章に依ってでなくてはならない立場の人間である。それなのに、義賊になってしまったり、ナポレオンを剣の力で倒そうとしたりするベルナールという人間の血気盛んさが何に起因するものであるか、私にはよくわかる。一言で言えば、無力感である。直接行動と比べて、自分が書いている文章にはたしてどれだけの力があるというのだろう。変えたい、変えねばならない世界が歴然とあって、その前で、自分の文章などはたしてどれだけのことを成し得るというのか――。
 文章を書くとは、ときに実に手応えのない営為なのである。どこの誰が読んでいるかわからないし、そもそも読まれているかどうかすら疑わしい。「読んだよ」と言ってくれる人がいるだけで、ありがたい。ましてや、自分の真意が読んだ者の心に響いたかどうかを知ることは難しい。せつない話、自分の文章が人の心に大きなインパクトを与えたんだな――と一番感じるのは、そっくりそのまま書き写されているときだったりする(“引用”ならばよいが、“剽窃”もままあるのが実にせつない)。
 自分は直接社会と関わっていないのではないかという、実世界からの疎外感。疎外感をさらに促進する要因に、書くという行為に内在するタイムラグがある。作中、バスティーユでの戦闘シーンで市民と一緒になって激しく踊るベルナールとその同僚のルシアンを観ていて、私は内心、「その二人は戦闘が終わったら社に戻って記事書くんだぞー。戦闘で燃え尽きると、後が大変だぞー」と思っていたのである。観劇の後、一人家に帰って文章を書く。劇場という場では完結することのないその物書きとしての宿命故に、ますますもって高まる疎外感。
 多くの場合、演劇の創り手に寄生するだけの職業と思われ、人が楽しんで観ているものに苦言を呈して“いちゃもん”と言われかねず、そこまでの思いをしてなぜまだ自分が演劇について書きたいと考えるのか、ときに自分自身ですらわかりかねるときがある。それでも、なぜ私は書くのか。
 人が他者なくして生きてはいけないように、観る人がいなければ舞台もまた成立しない。そして、書くことなくして、舞台は残らない。一時の夢に消えてしまう。映像では、客席にいて感じる、役者の想いや体温、そしてそれに呼応して自分が抱いた想いまでは残らない。何より、自分がこの目で観た、感じた、自分にしか書けない何か、自分にとっての真実を言葉にして、残したい。そう思ったら、書くしかない。そうして書いた文章に、何らかの意味を見出してくれる人も、もしかしたらどこかにいるのかもしれない。
 アランが告げた偽りによって、ナポレオン暗殺計画に加われなかったベルナールは、憤る。最終的にアランの真意は伝わり、誤解は解けるのだけれども、私にはベルナールの憤りが、手に取るようによくわかる。わかって、そして、こう信じるしかない。アランがベルナールに、オスカルの遺志、それを受けての自分たちの行動、その真実について語り継いでほしいと願ったのは、ベルナールが、他の誰より、自分たちの行動について理解する人間であったからだと。
自分も一緒にその直接行動に加わりたい、それほどまでに志を同じうする人間でなくしては決して書けない何かがある、分け入れない心の深淵がある――。安蘭扮するベルナールに、そんな真理を教えられたように思うのである。
 作品におけるにしき愛の役作り・演技が問題なのではない。にしきの扱いに端的に見られる作劇・演出が問題なのである。
 「My dear New Orleans」の作・演出を手がけた植田景子は、女性演出家を採用して来なかった歌劇団に初めて入団を果たした存在である。女性で演出を担当した者がいなくはなかったにせよ、多く男性演出家が舞台に夢を紡いできた宝塚の世界に、女性たちの夢を背負って登場した人物である。期待は当然大きくなる。しかしながら、バウホール公演には「エイジ・オブ・イノセンス」「THE LAST PARTY」「HOLLYWOOD LOVER」等、秀作が多いものの、大劇場作品となると今一歩ふるわない。ラスト15分ほど前まで「宝塚に久々名作が誕生した!」と心震わせて観ていたものの、生まれが賤しいがゆえに悲恋に悩んでいた主人公が、実は貴族の血を引いていて…なる急展開にずっこけた「落陽のパレルモ」。バウホール作品で評判のよかった森鴎外原作の「舞姫」も、第一幕は巧みな展開を見せていたものの、ヒロインがもともと精神を病んでいた…との第二幕のこじつけで興醒めしたのが残念でならなかった。
 どうも、ここぞというところでの“清く正しく美しく”の信じ方、貫き通し方が足りないように思う。それが、実に歯がゆい。そこのツメが甘いと、「結局は宝塚で上演されている舞台は、いつまでも大人になりきれない少女たちが見ている甘い夢に過ぎない」と揶揄されかねない。大人になっても“少女”を貫き通すこと、つまり、この世に生きとし生ける者すべての中に“清く正しく美しい”ものはあると頑なに信じ抜いてそれを舞台上に提示することには、それ相応の覚悟が要る。期待しているからこそ、決して安易に日和ってほしくないのである。観客と、そして何より演者をもっと信じて、一層の覚悟をもって“清く正しく美しく”を全うしては如何なものか。
 今回の作品でにしきに負わされたのは、あんまりといえばあんまりな二役である。まず一役は、少女時代のヒロインを金で買い、主人公ジョイが留置所に入るきっかけを作った“白人の金持ち男”(という役名も、あんまりである)。もう一役は、ジョイのバンド仲間ゲイブの妻を、黒人であるという理由で看ようとはせず、ゲイブを死に追いやる白人の医師。いずれも、作中、何らかの差別的言動が必要であるという理由だけで登場するに過ぎない役柄だが、人種差別と貧困が大きなテーマとなっている以上、また、ジョイが音楽に生きる人生を選び取るまでの成長過程上、にしきに課せられた責務は決して小さくない。「この混血のガキが」「その子の父親に金を払ったんだ」と言い放つのみの“白人の金持ち男”はどうしようもないにせよ、もう一方の医師については、自分の妻を殺すと脅され、その奥にあるゲイブの心情を理解できなかったため、ゲイブが警官に撃たれる悲劇を招く振る舞いをとっても仕方がなかった、彼には彼なりにそう行動せざるを得ない事情があった…と役を造形してきたあたり、にしきの方が“清く正しく美しく”を全うする上で上手である。ステロタイプな悪役を振られた役者が成し得る最大の“復讐”は、役柄の心情を理解し、その者の中にある“清く正しく美しく”を汲み取って表現することに他ならない。
 不思議に思えるほどに悪役を振られることの多いにしきだが、何度も述べてきたように、この人の本質は白の正統派男役である。それが証拠に、ショーで見せる黒燕尾服姿は実にスマートですっきりとした味わいがある。そして、あんまりな二役を振られていても、ショーで晴れやかな笑顔を見せてくれることに、救われる。
 安蘭けいが主演男役に就任してからの星組の舞台を観ていて、今さらのように気づかされたことがある。それは、「宝塚の歴史は主演男役の名前だけでは紡げない」という事実である。
 もちろん、限られた字数の中でまとめようとするとき、そこに、そのとき組に在籍して共に舞台を創り上げたすべての組子の名前を書くわけにはいかない。便宜上、組の代表として、主演男役の名前を記さざるを得ない。
 けれども、今、安蘭が主演男役として務めた舞台を振り返ってみれば、彼女がこのときこんな表情で誰誰とセリフを交わしていたとか、こんな演技をしていた誰誰に対してこんな感情を表していたとか、そんな、誰かと共に舞台に在った場面ばかりが思い出される。宝塚の舞台は主演男役一人で創るものではない。その役柄を人間としてヴィヴィッドに生きるという安蘭の演技が生きたのも、周りの全員が役柄をヴィヴィッドに生きようと努めた結果あってのことだ。その姿勢は、彼女が去った4月26日以降もきっと受け継がれてゆくのだろうとは、昨年秋、若手中心のメンバーで正塚晴彦作品に挑んだ「ブエノスアイレスの風」を観ていて思ったことではあるけれども。
これから、安蘭時代の星組についてしたためるとき、私はいつも、“安蘭けい”と書きながら、彼女の傍らにいた人たちを思い出すことになるのだろう。

 そして。
 安蘭のあの精緻極まる演技を成り立たせている要素の大きな一つとして、彼女の、あたたかみあふれる人間への眼差しがある。安蘭の演技を観るとき、我々は、彼女が実際に生きてきた中で出会った数多くの人々と知らず知らずして出会い、彼女がその人々に愛をもって接して得たひとかけらの記憶を追体験している。安蘭が今後も舞台に生き続ける以上、今共に舞台に立っている人々ともまた、記憶の追体験という形で、安蘭の演技を通して出会えるに違いない。
 だから、さよならじゃない。“ア ビヤント”、“またね”なのである――。
 そんなことを思って舞台を観ていたら、作中もっとも心揺さぶられる場面、安蘭扮するレビューのスターが旅立ちを決意し、「生まれてきたことが間違いじゃないと勇気を与えて」と絶唱すると、するすると上がった幕の奥、舞台奥に居並んだ星組生たちがアカペラで「ア ビヤント」と返すあの場面が、何だか、安蘭が人生で出会ってきた人々全員が、これから表現者として新たな道を生きる彼女に福音を与える光景に見えてしまったのだった。