安蘭けいが主演男役に就任してからの星組の舞台を観ていて、今さらのように気づかされたことがある。それは、「宝塚の歴史は主演男役の名前だけでは紡げない」という事実である。
 もちろん、限られた字数の中でまとめようとするとき、そこに、そのとき組に在籍して共に舞台を創り上げたすべての組子の名前を書くわけにはいかない。便宜上、組の代表として、主演男役の名前を記さざるを得ない。
 けれども、今、安蘭が主演男役として務めた舞台を振り返ってみれば、彼女がこのときこんな表情で誰誰とセリフを交わしていたとか、こんな演技をしていた誰誰に対してこんな感情を表していたとか、そんな、誰かと共に舞台に在った場面ばかりが思い出される。宝塚の舞台は主演男役一人で創るものではない。その役柄を人間としてヴィヴィッドに生きるという安蘭の演技が生きたのも、周りの全員が役柄をヴィヴィッドに生きようと努めた結果あってのことだ。その姿勢は、彼女が去った4月26日以降もきっと受け継がれてゆくのだろうとは、昨年秋、若手中心のメンバーで正塚晴彦作品に挑んだ「ブエノスアイレスの風」を観ていて思ったことではあるけれども。
これから、安蘭時代の星組についてしたためるとき、私はいつも、“安蘭けい”と書きながら、彼女の傍らにいた人たちを思い出すことになるのだろう。

 そして。
 安蘭のあの精緻極まる演技を成り立たせている要素の大きな一つとして、彼女の、あたたかみあふれる人間への眼差しがある。安蘭の演技を観るとき、我々は、彼女が実際に生きてきた中で出会った数多くの人々と知らず知らずして出会い、彼女がその人々に愛をもって接して得たひとかけらの記憶を追体験している。安蘭が今後も舞台に生き続ける以上、今共に舞台に立っている人々ともまた、記憶の追体験という形で、安蘭の演技を通して出会えるに違いない。
 だから、さよならじゃない。“ア ビヤント”、“またね”なのである――。
 そんなことを思って舞台を観ていたら、作中もっとも心揺さぶられる場面、安蘭扮するレビューのスターが旅立ちを決意し、「生まれてきたことが間違いじゃないと勇気を与えて」と絶唱すると、するすると上がった幕の奥、舞台奥に居並んだ星組生たちがアカペラで「ア ビヤント」と返すあの場面が、何だか、安蘭が人生で出会ってきた人々全員が、これから表現者として新たな道を生きる彼女に福音を与える光景に見えてしまったのだった。
 宝塚も一ヵ月公演になってしまったので、何事も早目早目ということで、恒例のお楽しみ企画、“心の名場面”発表!
 ダンスっていうより武術の先生じゃないの? と思わずツッコミたくなる、朝峰ひかりの振付師が如意棒? 持って大ハッスルの場面と迷ったのだが、今回“心の名場面”に輝いたのは、“フルフル”の場面! 夢咲ねね扮するかわいこちゃんを追いかけ、8人の男たちが浮かれはしゃいで銀橋を渡るこの楽しいシーン、なかでもMVPを贈呈したいのが、先頭切って追いかけてゆく“フルフル”切り込み隊長、美城れんである。キューピーちゃんみたいなつぶらな瞳をしばたかせての一挙手一投足に浮かれはしゃぎ感が満ちあふれていて、いまだに浮かれてときどきスキップとかしてしまわなくもない自分にとっては(もちろん、絶対人のいないところでですよ!)、己の姿を鏡に映しているような気恥ずかしさなきにしもあらず。振りを踊り切ってしまわず、一種夢遊病状態にあるような浮かれはしゃぎっぷりが醸し出されるところで絶妙にセーブしているのが見事。夢咲のキメを受けての笑いが、「デハ〜」だの「ダハ〜」だの、つぶらな瞳と思いっきりギャップがあっておっさんくさいのがまた、たまらない。
 振り返ってみれば、「エル・アルコン−鷹−」のときに“心のキャラ”があったなら、受賞していたのは美城だった。悪徳商人コールサックのいやらしいまでの浅ましさを体現して、ダーティーヒーロー、ティリアン・パーシモンのダークな世界に彩りを添えていた。昨年秋の「ブエノスアイレスの風」では唯一笑いを取れる役どころで、“心のキャラ”かなとも思ったのだけれども、むしろ助演男優賞(って男役に言っていいのかな?)ものだったと思う。お膳立てしたオーディションに主人公ニコラスが現れず、顔をつぶされて自分だって困っているのに、すっぽかされて途方に暮れるヒロイン・イサベラを励ますシーンに実に人間味とあたたかみがあった。これからまたどんないい味を出して星組の舞台を盛り上げていってくれるのか、楽しみな存在である。
 「My dear New Orleans」の主人公ジョイは、「Music is my Life」のナンバーで、貧困の絶望の中でも常に心をなぐさめてくれた優しい音楽への想いを歌う。最終的には自ら、人々の心に音楽を響かせる人生を選ぶわけだが、そんなジョイの絶唱を聞いていて、数年前のある時期、自分が毎晩のように繰り返し聞いていたとある曲のことを思い出した――。
 日本でも絶大な人気を誇ったノルウェーの三人組バンド、a-haの「Stay on These Roads」。同名アルバムが出たのが1988年のことだから、初めて聞いたのはもう二十年以上も前! 少女老い易く学成り難しとはよく言ったものだが、どういうわけだか数年前のその時期、この曲を聞くことが何より私の心の慰めとなっていた。
 北欧の凍てついて澄み切った寒空を思わせる雄大なメロディラインにのって、「この道を進み続ければ、いつかきっと会える」と繰り返されるこの曲を聞いて、その時期の私は、”my love”と呼びかけられるその出会いの相手は、自分自身であるとしか考えられなかった。未知なる自分、自分がこの道を進み続ければ、いつか出会えるのかもしれない自分。その道でまったく別の誰かにめぐり会えるのかもしれないという可能性は、一切頭をよぎることはなかった。とにもかくにも一人、ひたすら歩み続ければ、今とは違う自分に出会えることもあるのかもしれない、そう思って日々を生きていたのである。
 自分は孤独だ、一人ぼっちでさみしい…と思っているうちは、人はまだまだ孤独ではない。あまりにその状態に慣れてしまって、それが当たり前のことになっていて、自分が孤独であるなんて思いすらしなくて、その状態から抜け出してからようやく、「そんなに追いつめられてたんだ…」と気づいて恐ろしくなる、それが、本当の意味での孤独なのである。
 不思議なものである。今の私に、「Stay on These Roads」はかつて聞こえたようには響かない。むしろ、予見された出会いを祝福する、晴れやかな、幸せな歌に聞こえる。人間一人一人に定められた道があって、その道中で、それぞれの道が交差したり、重なり合ったり、合流したりして生きていくものだということを、その後の数年で知ったからかもしれない。

 本当の意味での孤独を人に気づかせるのは無論、愛でしかない。孤独という暗闇からすっぽり包み込んでくれる、あたたかな愛の光。
 ただ、真の意味での孤独を知り得たことを、自分自身は決してマイナスであるとは思っていない。むしろそれは、表現者を志す者にはとりわけ欠くべからざるもの、出発点なのだろうと思う。だから、また今度、あの孤独の状態に戻るようなことがあったとしても、大丈夫! …とは言い切れず、愛の手を離せず固執してしまうのは、「そんなに追いつめられてたんだ…」と気づいた瞬間の恐ろしさがどこか忘れられない弱さが、まだまだ自分に残っているからかもしれないけれども。
 もともと、古びた近代建物や廃墟が好きである。ささやかな自慢は、こんなに廃墟がブームになる前、記者をしていた雑誌で廃墟特集を手がけたことである。だから、古びたレビュー小屋が甦り、一夜限りのレビューを上演する…という設定の「ア ビヤント」のオープニングには、わくわくする。映画「タイタニック」で一番好きなシーン、海底に沈んで廃墟となったタイタニックが豪華客船へと甦る場面をいつも思い出す。そして昨年、我が身に起きた、ちょっと不思議な体験も。

 昨年五月、あまりに精神的にスランプが続いていたので、出張がてらとある湖を見に行った(あひるだからか魚座だからか、水辺に行くと不思議と元気が出るたちなのだ。なかでも一番よく効くのが、湖)。旅先ではだいたい古い建築をチェックして回ることにしているのだけれども、湖畔にあった、とある古びた建物の中に入ったときのこと。開いていた扉に誘われて、昔、演劇の公演も行なわれていたという講堂に足を一歩踏み入れた瞬間、「ああ、前に夢で来たことがある」と気づいて、あまりの衝撃にその場にしゃがみこんでしまった…。窓の横にかかっているカーテンの感じ、その横に自分が立っていた記憶まで鮮明だったから。気持ち悪くなるほど激しいデジャヴの感覚は、その2年前、シンガポールの占いデパートの前で味わって以来。まるで、朽ち果てた廃墟が甦って、往時の華やかなりし様をあざやかに見せるように、いい感じに古びた外観から感じていたのとはまったく異なる激しい感情を味わわされて、やっぱり、古い建物はどこか底知れないところがあるな…と、そっと扉を閉めたのだった。

 それはどこか、劇場という空間で味わう経験ともまた、似ているのかもしれない。
 幕が開く。と、それまで予想もつかなかった世界が、目の前に広がる。幕が降りれば、いっとき心を遊ばせた世界は消える。そう、まるで一夜限りのレビューのように。
 それはどこか、人の心の奥深くにふれてしまう経験にもまた、似ているのかもしれない。外から見ているだけでは決してわからなかった内面が、ふとほとばしる刹那。
 とりわけせつないのは、劇場という空間で、演者の心の奥深くにふれてしまうことかもしれない。まるで開花時期が限られている幻の花のように、舞台上においてしか開こうとはしない心。舞台上に見える有様があまりに美しくて、思わず手を伸ばしても、劇場以外の場所ではけっしてふれ得ない花。舞台上でのみ美しく咲いて観る者の心を惑わし、そして、幕が降りれば消える花――。廃墟の甦りを夢見、幻の花を夢見て、今日も私は劇場に足を運ぶのかもしれない。
 大劇場観劇時に感じたこと。
 ニューヨークでミュージシャンとして成功した主人公ジョイが、ニューオーリンズに戻り、故郷への想いを歌い上げる場面。巨大な劇場空間いっぱいに、それこそ、二階席のてっぺんまでその声を響かせんと歌う安蘭けいの姿を観ていて、ああ、ああして大劇場にさよならを告げているのだ、退団公演とは、劇場との別れの儀式でもあるのだ…と思った。
宝塚を退団した人間は、特別なイベント等の機会を除いて、二度と東西大劇場の舞台に立つことはない。不思議な話である。宝塚を退団するとは、舞台人として自分が生まれ育った劇場とも永遠に別れを告げなくてはならないということを意味しているのだ。それに改めて気づかされて、宝塚のシステムとは、実に幾重にもせつなさの張りめぐらされているものであることよ…と、嘆息せずにはいられなかった。
 宝塚歌劇という表現形式は、まずもって、大劇場の巨大な劇場空間と分かちがたく結びついている。大階段をはじめとする舞台装置は言うに及ばず、演技や発声、メイクといった演者の領域の技術についても、劇場空間と切っても切り離せないところがある。唯一無二の巨大な劇場空間に供するために磨き上げた技術はやはり、唯一無二の特性があることは言うまでもなく、退団後、その技術に少なからず別れを告げなくてはならない部分さえあるのかもしれない。

 そしてまた、宝塚歌劇は、宝塚という街自体とも深く結びついた表現形式でもある。
 宝塚の街を訪れると、宝塚歌劇こそが最大の産業であることに、わかってはいてもいつも驚かされずにはいられない。一つの演目の動員は、大劇場内のレストランやショップのみならず、近隣の商業施設にも影響を与えていることだろう。トップスターの背中に、華やかで大きな羽根とともに背負わされたあまりに大きな重責に気づいたときもやはり、私は嘆息せずにはいられなかった。タカラジェンヌの年齢の話はタブーではあるけれども、2、30代の女性でそこまでの重責を背負う人間は、日本広しと言えどもそう多くはあるまい。
 羽根とともに重責を背負って、けれども、そんな重みは決して感じさせない笑顔で、彼女たちは舞台に立つ。トップスター経験者にときに、人生の何を見てきたのだろう…という凄みさえ感じさせるパフォーマンスが可能な所以である。

 宝塚大劇場で観劇する際、幕間等の空き時間に、私は、武庫川のほとりに腰かけ、向こう岸を眺めていることが多い。特段何があるわけでもない、立ち並ぶビルの裏側が見えるだけなのだけれども、星組公演中、いましがた聴いたばかりの「My dear New Orleans‐My Home‐」の歌を思い出して、胸がいっぱいになってしまったことがある。
 この街が、すべてのタカラジェンヌの故郷なのだ。この街に青春の長きを住まい、汗と涙を流す彼女たちがいて、宝塚の舞台は創り上げられる。宝塚の舞台のすべては、宝塚という街で生まれる。退団後、それぞれの道は分かれても、この街は永遠に彼女たちの故郷なのだ。――そう考えて、今まで観劇や取材の際に立ち寄る場所という意識のみ強かった街が、何だか急に愛しく思えたのだった。
 27日午前、初日前の舞台稽古を見学。人種差別や貧困という実にデリケートな問題をデリケートに扱い切れていないという点で脚本・演出に非常にツッコミどころの多い「My dear New Orleans」だが、主演男役・安蘭けいが“表現者/表現が生まれる”物語に着地させ、新たな世界へと羽ばたこうとする舞台人としての矜持を見せる力演。最終的には“にしき愛問題”に収斂していくように思われる脚本・演出のツッコミ点については後日。「ア ビヤント」は、作・演出の藤井大介が、退団作品として秀逸であるのみならず、「モン・パリ」に始まる宝塚レビューの歴史に連なる作品を創出、月組公演「Apasionado!!」に続いて素晴らしい仕事ぶり。とりわけ、安蘭が舞台上で女性姿から男役姿へと変身する場面は、男役、男装の麗人の根源的魅力を表しきっていて見事。それにしても、退団公演ともなれば、演者も、観る側も、通常とは多少異なる精神状態で舞台と向き合っているからか、何だか恐ろしいまでの発見、多し。
 終演後、安蘭さんの囲み取材。狭いスペースに報道陣超密集状態。退団時とあって、いつもの囲み会見より心なしか真剣極まるやりとりながら、やっぱり笑いのポイントは外さない姿勢に感服。通常、皆さん、フィナーレのキラキラ衣装で現れることが多いように思うのですが、最後の囲み会見は男役の“制服”、黒燕尾服姿での登場でした。
 あけましておめでとうございます。2009年も「突撃! あひる観劇日記」をよろしくお願いいたします。
 年明け恒例、東京宝塚劇場お正月公演初日前の舞台稽古へ(3日午前)。宝塚の男役として、トップスターとしての瀬奈じゅんの決定打となる二作品。芝居、ショーとも、要所要所で瀬奈が白系の衣装で現れるたび、我が意を得たりという気分。
 「源氏物語」の「宇治十帖」に材を採った「夢の浮橋」は、冴え冴えとした冬空に浮かぶ月の光のように美しい作品。大劇場の舞台を適切な空間感覚で生かし切った演出も◎。これが大劇場の作・演出デビューとなる大野拓史が効かせた“毒”に痺れる。キーワードは“形代”。人々の抱くイメージを生きることを宿命付けられた男・匂宮と、愛の身代わりとなって生きる女・浮舟が束の間交わす心のせつなさ。身代わりとしての人生から女を解き放ち、自分がすべてを背負って生きると宣言して一人去りゆく男の哀しさ。その舞台世界が蠱惑的であればあるほど、観る者それぞれが抱くイメージを投影される傾向にある宝塚歌劇とそこに生きるスターたちをめぐる、大野の洞察眼の鋭さ。そして、思い至る。先の宙組東京公演「Paradise Prince」の若干の後味の悪さとは、「夢の浮橋」で大野が疑問を呈した“イメージとしての消費”を肯定するかのような言及にこそあったのではなかったかと(詳しくは、「観客は“消費者”か」なる論点で考えたい)。芝居作品とは対照的に、ラテンの空気が劇場内の体感温度を上げる「Apasionado!!」は、ストーリー仕立ての“ヴァレンティノ”のシーンや、区切って使用した大階段、銀橋でのロケットに新味あり。芝居、ショーとも、“主演男役の相手役”という制約を離れ、男役陣との程よい緊張感の中で生命力をほとばしらせる城咲あいの活躍が嬉しい限り。
 終演後、瀬奈さんの囲み会見。「源氏物語」が原作ということもあってか、外国人報道陣の姿も。あひるからは二作品の見どころをお聞きしました。
 これは、本当に「ベルサイユのばら」なのだろうか。いくら「外伝」と銘打ってはいても、あの、様式美で見せていく度合いのきわめて高い作品群と本当に地続きの世界なのだろうか――。星組全国ツアー公演「外伝 ベルサイユのばら−ベルナール編−」を観劇しての偽らざる感想である。
 2006年の星組東京公演「ベルサイユのばら−フェルゼンとマリー・アントワネット編−」の一場面、安蘭けい扮するオスカルが、武器を取り、市民と共にバスティーユで戦おうと呼びかけるシーンを思い出す。様式美の世界で敢然と人間を生きようとするその姿から立ち昇る生体エネルギーの美しさに、はっと胸を衝かれた覚えがある。それから約三年。「ベルサイユのばら」は、登場人物全員がリアルにヴィヴィッドに人間を生きる舞台となって我々の前に姿を現した。
 宝塚歌劇とは決して、美しく着飾った人形のような役者たちが、夢の世界でしかありえないような恋物語を演じる場所ではない。男役、娘役という、宝塚歌劇にしか存在しない手法を用いて、舞台上に人間の真実の姿を具現化しようとする場所である。それが、主演男役に就任して以来、安蘭けいが舞台を務める中で心を砕いてきたテーゼに他ならない。
 そのテーゼは、「ベルサイユのばら」という様式美の世界においてさえ全うされることとなった。リアルによる、様式美の超克。それはほとんど、革命である。「外伝 ベルサイユのばら−ベルナール編−」は、安蘭けいが主演男役となって宝塚に残した軌跡の一つのメルクマール、作中の言葉を借りるならば“オベリスク(記念碑)”なのである。

 新聞記者でありながら、義賊“黒い騎士”となってベルサイユ宮殿にまで忍び込み、革命後のフランスの有様を嘆いてナポレオン暗殺に向かおうとする血気盛んな主人公ベルナール。書く人間として彼が抱える苦悩には多分に共感するところがあり、別項を設けて論じることとしたいが、今回、安蘭演じるベルナールの人間像が集約されているのが、後に妻となるロザリーに向かって言う、「好きになっても、いいか」とのセリフである。
 貴族である父と、その囲われ者である貧しい商家出身の母との間に生まれたベルナールは、五歳の時、父に新しい愛人ができたため、住んでいた家を追われ、母のセーヌ川への入水自殺の道連れとなり、自分だけ生き残ったというトラウマを抱えている。新聞記者となってから後、ベルナールは貴族の馬車に母を引き殺された幼き日のロザリーの面倒をいっとき見るのだが、そんな二人はオスカルの邸で再会を果たし、惹かれ合ってゆく。
 「好きになっても、いいか」。そう口に出して言わねばならない必然が心に生まれた時点で、もはや想いはいかばかりかと思わずにはいられないのだが、この上なくナイーブなこのセリフを、安蘭ベルナールは、もし断られたとしたら消え入る他ない――とでもいうように、決死の覚悟を振り絞って、発する。その様相が、彼が心に抱えたトラウマの深さ、それだけのトラウマを抱えざるを得ない心の優しさを物語る。義賊として大胆にもベルサイユ宮殿にまで忍び込み、ときに荒々しい物言いと振る舞いで相手を圧倒しようとする彼は、実のところ、オスカルに見破られてしまうように、どこまでも優しい心の持ち主である。自分の胸の中で母の死に震えて涙する少女の痛みを我が事として感じてしまうほどに。
 そのベルナールが、武器を取らねばならないと市民に呼びかけ、バスティーユに向かい、戦う。優しさとどこまでも比例する想いの激しさに、嘆息する。優しい人間が戦う、それは、相手を倒すためではなく、自分の愛する者、大切なものを守るときだけでしかない。
同じ痛みを抱えた人間だからこそ、人生を共有できる。そう感じたからこそ、ロザリーに「好きになっても、いいか」と愛を打ち明けたベルナールは、後に彼女の“裏切り”に遭うこととなる。彼に生きて書き続けてほしい妻、そして友人の愛から出た“嘘”ではあるのだが、裏切られたと思った際のその怒りの激しさも、この人ならばと信じた妻への想いの深さに比例している。
 思えば、主演男役となって以来、安蘭がその舞台で一貫して現出させてきたのは、傷ついた魂の愛による再生に他ならない。その意味でベルナールは集大成ともなる役柄だったと言えよう。

 「エル・アルコン−鷹−」の女海賊、「スカーレットピンパーネル」のフランス人女優、宝塚の娘役らしからぬ役柄が続いてきた遠野あすかだが、今回のロザリー役で、娘役の正統も十分行けるところをアピールしてみせた。とはいえ、そこは娘役の領域を拓いてきた彼女のこと、いかにも娘役らしいたたずまいの中に、恋人となる前のベルナールにちゃっかり嫌味を言ってのける毒や、終幕、生きて書き続けるよう夫に諭す場面の真剣度合いに見え隠れするような人間味をきちんと用意している。
 安蘭と遠野のコンビは、その実力からか、宝塚を逸脱しているかのように言われることもあったように思うが、芝居においても、ショー「ネオ・ダンディズム!V」のデュエット・ダンスの場面等においても、二人が寄り添う姿は、宝塚のトップコンビの一つのあり方として立派に成立していた。逸脱とは、全うの果てにしか現れない境地であることを改めて思う。

 雪組ジェローデル編、花組アラン編、そして来年二月の中日劇場での宙組アンドレ編と、連作となっている外伝シリーズのつなぎ役を担ったのが、他二作品の主人公であるアンドレとアランを二役で演じた立樹遥である。好演で、前二作からのバトンを受け、宙組編へと渡す重責を見事に果たした。
 眼帯をしていて表情が見せにくい上、ほとんど受ける芝居ばかりと、アンドレ役としては決して見せ場は多くない。しかしながら、「私の愛に墓標はない」とオスカルへの愛を高らかに誓う「愛の墓標」の歌唱は実に心に染みるものだった。ここでオスカルへの愛の深さを存分に表明するからこそ、後にアラン役として登場した際、いきなりオスカルへの愛を語っても、観る側として自然に想いを重ね合わせられるところがある。アラン役としても、ナポレオン暗殺を言い出すベルナールと対峙する一場面しか登場しないのだが、ベルナールの本気につい自らの暗殺計画を明かしてしまうあたり、そして、暗殺に同行すると言って聞かないベルナールを止めきれない苦悩の心理が自然に流れ、生きて自分たちの想いを語り継いてほしい…とベルナールに諭す手紙、声だけの場面に説得力がいや増す。
 涼紫央が演じたオスカルは出色の出来だった。りりしさとかわいさ、潔さと優しさのバランスが絶妙で、彼女を取り巻く人々への愛にあふれていて、今回の外伝では流れなかったものの、名曲「愛あればこそ」を主題歌とする「ベルサイユのばら」が何より愛の物語であることを思い起こさせてくれた。アンドレと愛を確かめ合う名場面“今宵一夜”こそないものの、立樹アンドレに向かって、お前の存在あってこその自分…と語るセリフが、どんなに鈍いアンドレでも愛されているだろうと気づかなければおかしいというほどに、愛が深い。
 そして、粋で洒脱。ベルナールを盗賊扱いせず、盗んだ品物の代金を払えと言ってトランプを投げるシーンの小気味よさと言ったら。一歩間違えればキザなだけにしか見えない場面の、ギリギリでの造形。盗賊として自分の前に姿を現したベルナールの言葉に本気で耳を傾け、彼を終始一貫して対等に扱う人間性の大きさも光る。女でありながら男装して生きざるを得ないオスカルという役どころは、言うまでもなく、宝塚の男役という存在と多分に重なり、男役としての一つの決意表明として作用するところがある。涼オスカル、ここに堂々の決意表明である。

 今回の心のキャラは、万里柚美扮するコンティ大公妃に。
 黒い騎士に宝石を奪われたと言って騒ぐ貴婦人達の間に割って入る大公妃。「危険な関係」の如き華やかな宮廷恋愛遊戯にふさわしき麗しい貴婦人ぶりなのに、宝石の一つや二つでがたがた騒ぐなんて貴族らしくないと片付け、あまつさえ、オスカルに責任が降りかかるのが申し訳ないから盗難などなかったことにしてしまえと言ってのける始末。その論理の展開に、思わず目がテン! しかしながら、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」ばりのこの無邪気さ、そして貴族としてのどこか悲しいまでの矜持の持ちようが実は、マリー・アントワネット不在の今回の作品において、フランス革命へと至る市民及びオスカルの心理の動きの大きな後押しとなっている。
 そして、実は危険なキャラでもある。オスカルと彼女を取り巻く貴婦人達の関係は、これまでの作品においても、男役とその信奉者との関係がどこか投影されているところがあるが、美しく着飾って夢だけ見せてくれればいい…とオスカルに言い放つコンティ大公妃の姿に、演出家のひそませた毒を感じずにはいられない。

 「スカーレットピンパーネル」でロベスピエールを悪役の縛りから解き放つ名演を見せたにしき愛は、若かりし日のロベスピエール役で登場した。
 バスティーユの戦闘、群衆を率いての中心となる場面、誰よりも高く、誰よりも大きく、颯爽と踊る様を観ていても、やはりこの人は白の魅力にあふれた正統派男役なのだとつくづく思う。だからこそ、その前の場面、安蘭ベルナールと並んで、「諸君! 我々もバスティーユに行こう」と民衆を鼓舞する姿に、感慨を覚えずにはいられない。巧い人間が悪役や難役ばかりをあてがわれる傾向がときに目立つ。芝居巧者が実にあっけなく辞めてしまうことがあるのも、そのことに原因があるような気がしてならない。その一方で、巧いとされた人間が、十年一日の如き芸を見せ続ける悪しき風潮もある。そんな中、一作一作、初々しくも思える造形で、このところ快進撃とも言える舞台を見せ続けてくれる存在のあることを喜びたい。

 朝峰ひかり扮するカロンヌ夫人と、百花沙里扮するランバール夫人が、失われた宝石について無益な見栄の張り合いをする、芸達者同士だからこそ見応えのあるものとできた場面(「赤と黒」の心の名場面、レナール氏とヴァルノ氏の馬談議を思い出した)、「ネオ・ダンディズム!V」で、ヒゲ姿の紳士たち(にしき愛、美稀千種、彩海早矢、天緒圭花、壱城あずさ)がダンディに歌い踊る場面、居並ぶ強敵? を押しのけて“心の名場面”に輝いたのは、…ジャーン、オスカルとアンドレとマロングラッセ(美稀千種)の三人の場面である。
 オスカルが「ばあや」とかわいらしく微笑んで帰宅を告げ、マロングラッセが泣いて取りすがり、アンドレが温かく見守る――。「ベルサイユのばら」のページから登場人物がそのまま飛び出してきたような、完璧なまでの漫画の3D化に、興奮さえしてしまった。美稀千種扮するマロングラッセは、それほどまでに私の漫画のイメージ通りなのである。ウェットな面を強調して演じられることも多いこの役だが、今回の美稀の造形は、オスカルに対する愛は温かいものを持ちながらも、人生の年輪を重ねた人物だけに許される、生きることへの諦念というか、いい意味での淡々と乾いた人間性が感じられて、…何だか自分の亡くなった祖母の姿を思い出して、ちょっと涙してしまった。

 その美稀マロングラッセとのやりとりにおいてコミカルな味で魅せたのが、オスカルの父ジャルジェ将軍を演じた専科の箙かおるである。娘オスカルの溺愛ぶりが微笑ましいキュートさと、軍人としての威厳とを自由自在に行きつ戻りつする演技で客席を沸かせた。

 「ネオ・ダンディズム!」が再演を重ね、同じ場面が再び観られるということもあって、若手男役の成長ぶりが如実にうかがえるのも頼もしい。近衛士官と衛兵隊という難しい二役を、立ち振る舞いからセリフの言い方まできっちり演じ分けた彩海早矢と麻尋しゅん。すっとした立ち姿にも彼女らしい個性をにじませるようになってきた彩海は、熱い部分との意識的な使い分けでさらなる新展開が望めるように思う。麻尋はショーでのソロに甘い魅力あり。ベルナールの同僚ルシアンを演じた夢乃聖夏は、立ち姿やセリフ回しの力の入り方、抜き方が実にいい塩梅で、その落ち着き具合がより大きな包容力につながる可能性を感じさせる。「スカーレットピンパーネル」の踊る? 執事役が印象的だった天緒圭花は、今度はショーでのソロの歌唱で大いにアピール。ピンパーネル団の最年少として確かな存在を示した壱城あずさは、バスティーユの戦闘の場面、市民のダンス・ソロがインパクト大。決してこの段階で固まってほしくはないが、男役としての意識の高さ、仕上がりの早さが大きな期待を抱かせる。全体的に娘役の役どころが少ないのは残念だが、ロケットの芯を務めた琴まりえの優美さは特筆に値する。

 「ネオ・ダンディズム!」がそもそも、前主演男役・湖月わたるの退団公演用の作品だったということもあるけれども、それにしても、一足先に安蘭・遠野の退団の惜別ムード漂う公演ではあった。その空気が集約されていたのが、涼オスカルのこんなセリフである。
「行ってしまった。光に満ちた、新しい幸せの中に。――私の分まで幸せになってくれ」
 今、このときしかない一瞬一瞬を愛おしむ。出演者たちがそうして登場人物を生きていたからこそ、それぞれの人生がより胸に迫るということがあったのかもしれないと、今は思う。
 10日の初日前の舞台稽古を見学。ハードボイルドな男役の美学と色気を早朝から堪能(超夜型人間、ソファの住人あひるにとっては、10時は早朝〜)。「マリポーサの花」は、8月の宝塚大劇場での観劇時から、水夏希扮する主人公と彩吹真央扮するその親友とのやりとりにさらに緊迫感が増していて、ぐっと引きこまれるものが。二人とも、立ち姿、立ち居振る舞い、客席に向けた背中からして凄味を感じさせて、元軍人だったという設定に大いに説得力あり。両者圧巻の存在感を放つ中、二人の独走態勢を許すのか否か、ひいては、作品全体がさらなるレベルアップを図れるか否かは、他の出演陣の頑張りにかかっている。それぞれの役の生きてきた背景をさらに掘り下げ突き詰めて、その生き様をしっかと背負い、もっと心の奥深い部分からセリフを紡ぎ出すようでないと、水と彩吹の到達し得た人物像には対抗できない。二人の男役としてのスキのない所作も、下級生は大いに学ぶべし。
 それにしても、互いの男役としての色気を実によく引き立て合うトップ二番手コンビである。水の手先足先まで細やかな神経の行き届いたダンス、彩吹のときにこの世の果てを見透かすような絶唱が見もの聴きもののショー作品「ソロモンの指輪」然り。舞咲りんの歌唱も作品の世界観をよく伝える。
 終演後、水さん、白羽さんの囲み会見。私からは、見応えある芝居作品でのやりがいと、彩吹さんとの息の合った演技の秘訣について水さんにおうかがいしました。手応え十分といった感の水さんの表情が印象的。
 最後の最後に、恒例、“心のキャラ”の発表〜。今回は、安蘭けい扮するパーシーが変装したところの謎のベルギー人スパイ、グラパンにこの賞を捧げたく。皆様の予想は当たりましたでしょうか。
 ときに関西弁も飛び出す面妖な日本語、笑いのツボを刺激してやまない立ち居振る舞い、日替わりのアドリブも見事な縦横無尽なユーモアセンス、主演男役ではたしてこれはありなのかと考えないでもないキャラクター。この人が出てくるだけで、シリアスな場面なのかコメディの場面なのか判断がつきかね、「目の前の君」や「栄光の日々」の歌唱に思わずあふれた涙も乾かぬうちに大爆笑と相成る、笑いの最終最強兵器、それがグラパン。

 しかしながら、個人的にグラパンという存在に惹きつけられてやまないのは、決してそのお笑い的要素からだけではない。実のところ、パーシー・ブレイクニーという主人公がもっとも素直な心を見せるのは、グラパンに扮しているときではないか、そう考えるからである。
 これまでにもふれてきたように、パーシー・ブレイクニーは、幾重もの“演技”に己の本心を隠している人物である。敵であるショーヴランや、疑念を抱くマルグリットに対してだけでなく、ピンパーネル団の仲間に対してであれ、どこか“イギリス人貴族パーシー・ブレイクニー”を演じているところがないでもない。一方、彼がもっとも本心をあらわにしているのが、「ひとかけらの勇気」や「祈り」、「目の前の君」といったソロを歌う場面、そして、グラパンに扮している場面であるわけで、「スカーレットピンパーネル」という作品の面白さは、主人公の秘密を観客だけが共有しているというある種の“共犯意識”にある。
 グラパンの変装をしたパーシーは、妻の過去の恋人らしきショーヴランへの嫉妬や侮蔑をあからさまにして彼を茶化し、あまつさえ、自分が必ずやマルグリットの救出に現れると“予言”すらする。その言葉通り、彼がショーヴランの眼前でグラパンの変装を解いてスカーレットピンパーネルとしての正体を現すからこそ、観客はやんやの喝采を送るわけである。
 演じているときにもっとも演じていないという矛盾。その逆説の魅惑は、舞台上で演じる存在、役者そのものが抱える魅惑でもある。グラパンという仮面をつけたときにのみ本心を表すパーシー・ブレイクニー。その両者の関係は、これまで演じ、そしてこれからも演じるであろう多種多様な役柄と、役者・安蘭けいとの関係に重なるともいえる。

 パーシー・ブレイクニーは決して完全無欠のヒーローではない。彼自身、妻の“裏切り”に悩んで愛を疑い、力を与えよと神にすがる弱さを抱えている。内面の葛藤を吐露する「祈り」の歌唱において示されるのは、己の弱さを知る者だけが、それを克服し、強くなれるという真理である。その意味で、単なる弱さはときに強く、単なる強さはときに非常に弱い。
 容易に人に心を許さないパーシーが、この世でただ一人心を許し、愛を誓った妻マルグリット。しかし、はたして彼女は、自分が心を許すにふさわしい存在だったのか――。愛への疑念はすなわち、己自身への疑念ともなる。その意味で、ロベスピエールの抱えるのと似た恐怖と孤独を、パーシーもまた抱えている。恐怖は実に多くのことを見誤らせる。それが、自身の存在を核から揺るがしかねないような愛の恐怖ならば、なおさらである。しかしながら、パーシーがロベスピエールと同じ道をたどらなかったのは、彼が、愛と己を信じ、勇気をもって恐怖を乗り越えたからである。恐怖の見せる幻を、愛と勇気の力でもって消し去って、現実と向き合ったからである。その現実にははたして、愛があった。妻の変わらぬ愛。仲間との友愛。人類愛――。めくるめくような愛が、「栄光の日々」の場面において示される。
 恐怖に打ち克つのは、愛でしかない。その愛こそ、宝塚歌劇が究極的に志すものである。そんな真理を、安蘭けいの歌声は雄弁に伝えてやまない。声。優しい声。心に作用する声。心を動かし、愛で包む声。揺るぎない愛を確信して歌う「目の前の君」の瞬間、劇場全体を満たす声――。

 それにしても、色濃いとされる役柄を得意としてきた安蘭に、ここまで白のヒーローが似合うとは。グラパンの黒の変装を解いて現れる白のブラウス姿のパーシーに、「お前たちの目は節穴だ」と言われて恥じる私がいる。