「スカーレットピンパーネル」の主人公パーシー・ブレイクニーは“演技”に己の本心を隠す。取り巻くピンパーネル団の仲間たちがそれぞれに見せる美徳は、パーシーが“演技”の奥に秘めた本質を補完してくれるようなところがある。
 立樹遥扮するデュハーストは、ピンパーネル団のまとめ役、パーシーの右腕的存在である。デュハーストはまた、新妻マルグリットの“裏切り”に悩むパーシーの心の内を知ることが観客に対して唯一明かされている人物である。今回の立樹は無言の演技で魅せる。マルグリットを試す偽りの手紙を書き、それにマルグリットが黒の反応を示してしまったときに見せる無念の表情、そして、新婚の夜に妻に裏切られてなお明るく振る舞うパーシーの胸の内を察して見せるいたわりの表情。マルグリットの弟アルマンがピンパーネル団への参加を希望したときひそかに見せる葛藤の表情、けれども、彼の祖国を思う気持ちに打たれて温かく迎え入れようとする決意の表情。無言の内に男気と優しさを秘めたデュハーストの造形は、このように立派な友人にこれほどまでに慕われるとは、パーシーとはやはり大した男なのだなと、主人公の人間としての格を一段も二段も上げる効果がある。
 マルグリットの“裏切り”を告げて、デュハーストは、「君ともあろう男が、恋の前では少年のようだった」とパーシーに言う。はたして恋の前に少年や少女のようにならない者などいるのだろうか…と考えたとき、デュハーストが、恋人ケイトに対して己の想いを抑えていることが窺い知れる。実際、デュハーストは、男らしくないかもしれないが今はプロポーズできない、でも、待っていてほしい…とケイトに告げる。デュハーストのストレートにストイックな振る舞いは、おちゃらけた“演技”に己の心を隠すパーシーの本質を感じさせる。パーシーがおしゃれ大作戦をぶちあげたときも、デュハーストは一度は反対する。けれども、パーシーの意図を知って同意し、ノリノリに作戦を遂行する。洗濯女の“演技”にしても、ストイックながらも実際事にあたるとかなり楽しんでしまうあたりも、パーシーの親友として大いにうなずけるものがある。

 秘密を抱えるがために妻に愛を疑われて苦悩の表情を見せるパーシー、その直後に、当のパーシーの庭に恋人シュザンヌと手に手を取り合ってラブラブで登場するのが、ピンパーネル団のもう一人のまとめ役、涼紫央演じるフォークスである。それにしても、フォークスとシュザンヌのラブラブなこと! 実際、この二人は、「ウフフ」「アハハ」と笑いあいながら登場するのである。あんなに恋に酔いしれつつ、重大任務もきちんと遂行できる、フォークスの余裕は大いに見習いたいものである。確かに、女性に優しすぎて、マルグリットに大切な手紙を盗み見られてしまう一面もあるけれども。
 「赤と黒」でも見事な貴公子ぶりを見せた涼だが、その立ち居振る舞いには磨きがかかる一方である。どこをとっても隙がなくエレガント、まるで少女漫画の世界から抜け出てきたような貴公子が、生きて、歌って、踊っている衝撃。涼のフォークスを観ていて、個人的な“王子様”の原イメージが、「キャンディ・キャンディ」のバラを愛でる貴公子、アンソニーにあることを思い出した(厳密には、アンソニーは王子ではないが)。ヒロイン・キャンディに“スイートキャンディ”なる新種のバラを贈るアンソニーのように、涼フォークスは恋人シュザンヌにどこまでも甘く、優しい。対するシュザンヌを演じる琴まりえもまた、生身の女性性と少女漫画的フィクション性の高次ハイブリッドである。

 互いに愛し合いながらも疑念ゆえに心を打ち明けられないパーシーとマルグリット夫婦と対照的なのが、マルグリットの弟アルマンとマリーのカップルである。参加する際、ピンパーネル団の秘密をばらすなと固く言われていたにもかかわらず、マリーにすべてを明かしてしまうアルマン。フランス男のように愛のレッスンを受けていないととぼけるパーシーに対し、アルマンは「あなたにも愛のレッスンが必要ですね」と言うのだが、さしずめ愛のレッスン第一条は、互いに何でも隠さず打ち明けるというところか。まあ、恋する二人に何を言っても無粋ということで大目に見ようかと思わされる、初々しくもイノセントな恋人たちである。
 アルマンに扮した和涼華は、優しさの奥に秘めた、姉マルグリットにも通じる芯の強さをきちんと表現できていたが、セリフを言ったり歌ったりする前に気負いが感じられるのがどうも気にかかる。狙いはいいのだから、もっと力を抜いて舞台に立ち、照れる気持ちを忘れて自分を解放してはどうだろうか。「ブエノスアイレスの風」での活躍を期待したい。
 マリーを演じた夢咲ねねは、ダブルヒロインを演じた「赤と黒」での経験が生きて、大いに芝居心を感じさせる娘役に成長した。娘役発声に無理がなく、心地よいセリフを聞かせられるのが強みである。公安委員に食ってかかるほど気が強い一方で、囚われたアルマンの身を案じつつ、ひそかにかくまう王太子ルイ・シャルルに見せる優しさに包容力がにじむ。新人公演では、少々蓮っ葉なところが魅力のイザベルを喜々として演じる姿に、舞台に立つことがますますおもしろくなってきたのではないだろうかと感じさせるものがあった。けなげな生き様が主人公の心を動かす「ブエノスアイレスの風」ヒロインが楽しみである。
 柚希礼音演じるショーヴランを観ていて、こういう人間、よくいるよな…と思わずにはいられなかった。男でも女でもかまわない、「あの頃はよかった」と語る人間がときに放つ言い知れぬ煩わしさを、ショーヴランは体現する人物である。
 ショーヴランは、革命の栄光を語る。語ってかつての恋人マルグリットに、もう一度一緒に夢を見ようと言う。語るとは多分に、過去を振り返る後ろ向きな行為である。言語化するとは、ある事実なり体験なりを過去のものとして認識し把握する行為に他ならないからである。だからときおり私は、自分の営為に多少なりとも空しさを覚えたりするのであるが、それはさておき。語る男とは、過去の栄光体験をあまりにまばゆいものとして抱えているがために、自分の現状に満足していない人間である場合が実に多い。
 パーシーは、今を生きる人間である。フランス貴族を救い出そうという彼の偉業は、現在なお進行中である。進行中のプロジェクトについて語りづらいというのは、その展開がどうなるか、予断を許さない部分があるからである。だから、パーシーは語れない。マルグリットの身を案じればこそよけいに語れないパーシーに対して、マルグリットは不安を募らせる。そのマルグリットの前に現れて語るのは、過去を生きるショーヴランである。マルグリットの抱えるいらだちはかくして増幅される。
 「君も 忘れる筈は無い」とショーヴランは歌う。忘れるはずがない。革命で共に戦った記憶が鮮烈であればあるほど、マルグリットは、その後の革命の成り行きに心を痛め、断腸の思いで仲間と袂を分かつ決意を固めたはずである。輝かしい過去は、永遠にしがみつくために存在するものではない。その輝かしさを土台にさらなる輝かしい未来を構築するために、人は生きていかねばならない。そうして、時が移り変わる中、日々を少しでもよきものと変えていかねばならない。それがすなわち、人としての成長ということなのである。その真理を、マルグリットは理解して、でも、ショーヴランは理解することができない。かつて愛し合っていたかどうかはさておき、同じ地平に立たない二人の人間が、互いを理解し、愛し合うことはもはや不可能でしかない。

 語る男、過去に生きる男ショーヴランを演じた柚希礼音自身は無論、過去に生きるどころか、未来に向けて驀進中の男役である。初めての悪役挑戦となった今回の舞台だが、この人にはまだまだ見せていなかったこんな面があったのか…と多々、目を開かされる思いがした。自らの向上に迷いのない人の成長は、新芽がすくすくと育つ様を目の当たりにするようで、観ていて痛快である。
 罪なき人々をギロチンにかけることに疑問を抱かず、権力を追い求めるあくなき野望の不気味さ。マルグリットとの幸福な過去を語り、叶えられぬ愛と夢を追い続ける想いのせつなさ――。こんなにも不敵な笑いが似合う男役だっただろうか。こんなにも過去を感じさせる、つまりは、成熟した魅力を備えた男役だっただろうか。
 そして、こんなにも歌で聴かせるとは。「裏街のドブを見て育った/野良犬のように扱われた」と始まる「マダム・ギロチン」、マルグリットと共に生きた革命の日々の記憶を描写する「君はどこに」とも、情景がまざまざと浮かんでくるようで、まっすぐな心に生まれながらも、虐げられて生きてきたがゆえに歪んでしまった人間が、束の間、愛と成功を手に入れたと思ったならば、ショーヴランが輝かしい過去にあれほどまでの執着を見せるのもしかたのないことかもしれない…と思わされもした。革命への執着を語り続ける「栄光の日々」の歌い始めなど、その前のナンバーが、安蘭パーシーが揺るぎない愛を確信して歌い上げる「目の前の君」ということもあって、愛を手に入れられずにもがき続けるショーヴランの姿に、涙を誘われるものがあった。フィナーレの銀橋で歌う「ひとかけらの勇気」では一転、優しい歌声でピュアな想いを伝える。抜群のダンス力に芝居心、そして歌唱力が加われば、鬼に金棒。無論、今回新たに手に入れた武器は、磨きをかけ、深める余地がまだまだ残されてはいるが。

 それにしても、二番手に多く与えられるショーヴランのようなおいしい悪役といえば、かつて、紫吹淳が大いに得意とした役どころである。柚希の次回主演作「ブエノスアイレスの風」は、二番手時代の紫吹によって初演された作品だが、戦いの後をいかに生きるかを問う「ブエノス〜」の主人公ニコラスの姿は、革命後のショーヴランがいかに生きるべきだったかという問いとどこか重なるところがある。次回作でもさらなる驀進に大いに期待したい。
 “二面性”なる言葉は通常、人間に対してはあまりいい意味合いで使用されなかったりする。「スカーレットピンパーネル」においてそれを端的に示しているのが、ピポー軍曹の存在である。
 物語冒頭の銀橋で、ピポーはみすぼらしい老人に対して、まずは強圧的な態度に出る。老人がペストで死んだ家族を焼き場に運ぶところだと答えると、ペスト感染に恐れをなして顔色を変え、さっさと立ち去れと命じる。老人が変装を解いて、観客は、彼こそが、物語のヒーロー、パーシー・ブレイクニーであることを知る。
 直後、パーシーとピポーはパリ市内で再び出会う。ピポーは、自分より力をもった公安委員のショーヴランに対してこびへつらうが、先の老人が実はスカーレットピンパーネルであり、死体と偽って貴族を逃亡させたのを見逃したことを叱責され、悔しさにまみれる。その刹那、ピポーとパーシーは再会を果たすが、変装を解いたパーシーを、ピポーは先の老人と認めることはできない。
 己より力ある者に対してはペコペコし、己に力劣る者に対しては威圧的に出る。ピポーの二面性は、実に単純でわかりやすい二面性である。しかし、この二面性は、実はそれ以上の意味合いを示唆してもいる。接した相手の力のあるやなしやで態度を変えるということを超えて、己がそうして態度を変える人間であることを周囲の者に悟られても構わないと思っている、もしくは、悟られまいとたかをくくっている、その程度の人間性の持ち主であるということをも示唆しているのである。
 このピポーの二面性は、パーシー・ブレイクニーの二面性、多面性の対極に位置している。パーシーが多くの顔を持つ、あるいは持たざるを得ないのは、世界中を敵に回したとしても果たさなくてはならないと思っている崇高な使命を成し遂げるため、愛する者を守るため、自分の心の奥深くに秘めた想いを守るためである。パーシーの“演技”はすべて、その目的のために必要なものである。
 単純と言ってしまったが、ピポーのようなわかりやすい二面性を表現する上では、その二面性を明確に演じ分ける力が必要である。9月18日の項(http://daisy.stablo.jp/article/448444391.html))でも少し触れたが、ピポー軍曹を演じる美稀千種は、優れた身体性を演技に効かせることのできる、つまりは、メリハリの効いた演技のできる男役である。接する相手によってあからさまに表情や身体のありようを豹変させる、その演技なくして、パーシー・ブレイクニーとのコントラストは成り立たない。
 パリの街、対照的な二人の男が二度、交錯する。二面性を露呈してやまない男と、心に二面性を抱えた男と。“演技”をめぐる物語の、実にあざやかな幕開けである。
 “真似る”という行為と演技との相関性を考える上で、今回の星組の新人公演は非常に興味深いものがあった。
 公演前日の舞台稽古を見学させていただいたのだが、正直なところ、新人公演で主人公パーシー・ブレイクニーに扮した紅ゆずるに、驚かされた。私にとって、安蘭けいという存在は、動く演技の教科書のようなところがある。“演じる”ということについて実に多くの発見を与えてくれるので、目を皿のようにして観ているわけだが、紅が安蘭の演技を観る目に、感服せざるを得なかったのである。
 海外の劇場などで、本役の演技をすでに観て知っている公演を、代役の演技で観る機会がたまにある。その際、本役がその人ならではの魅力と解釈で創り上げた演技をよく考えずにコピーしているときがあって、それでは本役が練り上げた演技も生かされないし、代役を務める役者の魅力も生きないのにな…と思ったりもする。「ジェリー・スプリンガー・ザ・オペラ」での一例を挙げると、この作品の実質的な主人公を演じていたデイヴィッド・ベデッラが、周囲の群衆に向かって威厳をもって歌いかけようとする瞬間、その場にあった椅子にひょいと乗ってえっへんと威張る演技があった。彼は小柄なので、群衆を見下ろして威圧感を出すには椅子に乗っての高さが必要で、かつ持ち味がキュートなので、ひょいと乗るしぐさが非常にかわいらしくて、効いていたのである。だが、ある日代役を務めた役者は、背が相当高いにもかかわらずベデッラとまったく同じ風に演じていて、椅子に乗る演技の必然性がまったく感じられなかったのを覚えている。
 話を紅に戻すと、安蘭が瞬間瞬間、パーシーのどのような心の動きを表現するためにその演技を選択したかというところの観察、分析が実に綿密で、かつかなりの精度をもって再現できていた。さらに、自分だったらこのように演技した方が表現しやすいというところは、自分の持ち味に即して工夫を加えていた。例えば、謎のベルギー人グラパンとして現れる際は、ひょろひょろと長い手足を生かして何とも面妖な動きをつけるといった具合に。
 他の者の名誉のために付け加えておくと、今回の新人公演が、作品本来の難しさはあれど取り組みやすかったのは、作品の完成度の高さに依るところが大きいと思う。作品がきっちりできあがっていれば、本役も演技を組み立てやすく、その分、新人公演で演じる者も分析がしやすい。作品の出来不出来というのは実にさまざまなところまで影響を及ぼしているものである。
 今回の新人公演は、先輩から後輩へ芸が受け継がれてゆく宝塚の芸伝承のメカニズムを考える上でも興味深い。宝塚の舞台を観ていると、この男役のこのしぐさはあの先輩男役から伝わったのだろうな…と感じる瞬間がある。その意味で、将来、紅の芸に安蘭の影響を感じ取る日も来るのだろうと思う。

 紅に関していえば、言葉一つ一つの意味に丹念にこだわる歌唱もよかった。舞台裏について多くをふれるのは無粋だとは思うが、舞台稽古で非常に感銘を受けたことがある。「目の前の君」の場面を二度繰り返したのだが、二度目は段取りに慣れるためだから本気でなくてもいいと言われていたのを、紅は、でも、せっかくの機会だし、さっきと今とは違う気持ちだから…と言わんばかりに、一度目とはまた少々異なるアプローチで二度目を歌ったのである。さっきと、今とは違う。その生モノ感が、何とも舞台向きの人だな…と思った。最初こそ緊張していたものの、慣れるととんでもない舞台度胸のよさを発揮し、次から次へと演技の濃度が増していく。若くして、それだけ表現したい思いを心に抱えていることにも感じ入った。グラパン役できっちり笑いを取ったことにも恐れ入る。春野寿美礼ばりの正統派ルックスから繰り出される攻撃的ユーモア、そのギャップの激しさにとまどうほどに笑ってしまった。
 本公演でも、ピンパーネル団の一人として何やらおかしい小芝居を繰り広げている。たまに、かっこよさよりもおかしさを追求し過ぎるようだったり、ダンスのときに長い手足を少々持て余し気味だったりするのもご愛敬。これからの宝塚を担う一人として、観る側を驚かせるような成長を続けていってほしい人である。
 “心の名場面”にキューティー編がある以上、マイティー編もある。ということで、“心のシークエンス”マイティー編発表〜! “場面”より長いので、“心のシークエンス”と命名した次第。
 ピンパーネル団に新たに加わった仲間たちと、フランス貴族たちを救い出す使命を果たそうという固い決意を誓い合う「炎の中へ」(安蘭けい、立樹遥、涼紫央、和涼華、彩海早矢、夢乃聖夏、麻尋しゅん、紅ゆずる、壱城あずさ)。心奮い立たせずにはおかない勇壮なメロディにのって、安蘭パーシーの声がどこまでも、それこそ、稲妻も荒波も炎も越えんばかりに響き渡る。仲間たちの掛け合いとコーラスも頼もしく、客席で見守っていても、行け行け〜と気分が高揚してしまう、のだが、客席を背にしていたピンパーネル団がくるっとこちらを向くと、全員、どこか微妙な、女装???
 そのままの格好で、キメポーズも力強くエンディングまで歌い上げ、パリの雑踏に紛れ込むピンパーネル団。ピポー軍曹の慧眼で捕えられそうになっていた貴族の女性の二人連れを見つけると、ピンパーネル団の助さん角さん? 、デュハースト(立樹)とフォークス(涼)が作戦開始! ピンパーネル団のキーアイテム、洗濯かごを使用して二人を逃がすのだけれども、洗濯女の“演技”に敵方相手の縄跳び、市民を巻き込んでのフォークダンスと、この奪還作戦が賑々しくも何とも楽しい。騒ぎを聞きつけて駆け付けたショーヴラン(柚希礼音)に、その部下メルシエ(祐穂さとる)とピポー軍曹(美稀千種)がボケ倒してオチがつくのも◎。「でっかい女であります」(ピポー)、「ごっつい女の集団でした〜」(メルシエ)なんて、男役といえどもともとは女性なのに〜と、二度笑えるのもおいしく。人の命にかかわる一大事すら楽しんでしまう、どこか人を食ったところのあるパーシー&ピンパーネル団の余裕を感じさせて、恐怖政治に震えるパリのピリピリムードと見事なまでの好対照。

 この、男役といえど〜で笑いを誘う場面はもう一か所あって、それが、パーシーとピンパーネル団が、敵を欺くために伊達男ぶりをアピールしよう! と、超ド派手ファッションでラインダンスまで披露する「男とお洒落」のナンバー。敵を欺くためというより、パーシー、単に派手派手な服装が好きなだけなんじゃ…と思わないでもないこのシーン、そこに登場する、ピンクの羽根がついたしまうま柄の帽子は、神戸のマキシンでオーダーしてみるって手もなくはないよな…と思わず考えてしまった一品。それはさておき、女ばかりにお洒落をさせず、動物のオスに倣って、男もお洒落を! という主張は、女性が演じる男役によって歌われるとき、さらなる批判性を帯びて、宝塚ならではの笑いが生まれ。それにしても、しまうま柄のパーシーはじめ、動物柄の強烈な色彩の衣装を皆見事に着こなしていて、男役、凄し。

 女装? やらド派手やらの話が多くなってしまったので、最後に、星組男役陣の魅力をストレートに堪能できる場面を。それは何といっても、サーベルを手にして踊るフィナーレのダンス・シーン! 今はもう秋だけれども、もっと暑い時期なんて、「ただでさえ暑いのに、暑そうな素材の服で、どうしてここまで激しく熱く踊らねばならないのか…」と、ほとんど「高円寺阿波踊り」に燃える人々を見守るのと同じ気分を味わううち、自分の体感温度まで上がっていってしまうあひるなのであった。
 前回大劇場公演「エル・アルコン−鷹−」の際、私は星組主演娘役・遠野あすかについて、「祝! 女優開眼」なる文章をものした。その遠野は今回の「スカーレットピンパーネル」において、もともとのブロードウェイ版では主役であった、コメディ・フランセーズの花形女優、マルグリット・サン・ジュストに扮している。コメディ・フランセーズの舞台で歌うソロが二曲、心通わぬ夫パーシー・ブレイクニーとの葛藤を歌う大ナンバーが二曲、宝塚の娘役としては多分にウェイトの重い役どころである。
 役者に女優、演じることを生業とするキャラクターを演じる役者を観るのは興味深い。この手の役柄ほど、“演じる”ことについてその役者自身がどう考えているかをあからさまにするものはないからである。その人間にとって、演じるとは、舞台上で己の生身をさらすとはどのような意味を持つのか、そのことについてどこまでつきつめて考えているかが、白日のもとに晒される。ときに、残酷なほどに。
 夫パーシーの真実の心を知り、混乱のパリの舞台に戻って歌う「ひとかけらの勇気」は、遠野の現時点での女優としての到達度が試されるだけでなく、今後の彼女の演者としての道をも示しかねない、その意味で、実に恐ろしいナンバーである。
 ロベスピエールは孤独である。有史以来の快挙、フランス革命は達成されて、だからこそ、彼の偉業を讃えることのできる者は誰もいない。その偉業の価値は、長期的スパン、すなわち“歴史”として見たときにしか正しく評価され得ない。
 明確な敵が存在する戦いはある意味、楽である。敵を倒すことが目的だからである。ロベスピエールも途中までは、民衆を虐げる敵=国王及び貴族階級を倒しさえすればよかった。しかし、その目的が成し遂げられた後は? 支配階級を倒して、ロベスピエールは支配する立場に就いた。けれども、彼が知っている支配は、かつての敵が用いていた方策、すなわち独裁しかない。ロベスピエールの哀しみは、その偉業を正しく理解する者のいない中、敵なき戦い、すなわち、革命達成後の新たな社会を築くという責務を戦わねばならないところに存する。
 その孤独な心に、次第に恐怖が巣食う。自分が敵にしたのと同じ行為を、今度は、自分を“敵”とみなす者にされるのではないか。かくしてロベスピエールは、“敵”になりそうな者を片っ端から処刑するしかなくなってゆく。テロの語源ともなった“恐怖政治”がここに成立する。
 しかし、ロベスピエールは最初から、恐怖と暴力に支配された独裁者だったのだろうか。否、当初は、虐げられし民衆を救おうという心から立ち上がった愛と理念の人であったはずだ。“悪”として生まれてくる人間はいない。人生のさまざまな出来事にどう立ち向かってゆくかによって、人誰しもが心に抱く弱さが悪として発露するか否か、ただそれだけのことなのだ――。
 そんなことを、にしき愛演じるロベスピエールに思う。一般的に“悪役”と評される役どころなのだろうが、私はにしきの演技を観て、ロベスピエールを悪役だと感じたことは一瞬もないのである。ただ、哀しい人だと思う。
 知性にあふれ、偉業を成し遂げた人間が、孤立し、自分を信奉するという理由だけで人を信じ、どう見てもうさんくさいとしか思えないベルギー人スパイを片腕とする。功成った者が怪しい占い師や祈祷師の類に傾斜する例は、現実においてもよくゴシップ欄を賑わせているが、その理由も、その者の置かれた絶望的な孤独にあるのではないかと思えてくる。

 悪役と目される役をふられることの多いにしきだが、“悪”の色合いが作品とキャラクターによって常に異なり、かつ周囲とのつながりをきちっと計算して役作りを組み立てているところがさすがである。例えば、「シークレット・ハンター」で演じたマックスは、息子を王座に就かせようと企み、外遊中のプリンセスの暗殺計画を立てる国王の親族だった。コメディ作品であるからあまり重い“悪”になってはならず、しかしながら、彼がきっちり悪くないと、ただでさえ描かれ方が中途半端だった殺し屋“男爵”の存在意義がよけい希薄になってしまう。そのあたりのバランスが絶妙で、適度にとぼけた味を出しつつ悪を表現していた。「エル・アルコン−鷹−」で演じた主人公ティリアン・パーシモンの父は、幕開きいきなりティリアンに刺し殺されてセリ下がる(!)という何とも言い難い設定ながら、少年ティリアンの心にひそむ悪を開花させるという意味では非常に重要な役どころであって、憎々しげな造形に徹して“悪”の魅力を描く作品世界の冒頭を彩ってみせた。今回のロベスピエールでも、部下ショーヴランと交わす会話に徹底的に蔑みと不信感をにじませることによって、ラスト、パーシーの企みにまんまと騙されてしまうような、ショーヴランのロベスピエールに対する不満へときっちりつなげている。
 
 正統派男役ゆえ、胸元のレースとカフスとタイツの白が、にしきにはよく映える。バルコニーに立ち、その横顔と衣装の白が照明にほの暗く照らし出されるとき、ロベスピエールの絶望的な孤独が浮かび上がる。「マダム・ギロチン」で「革命を批判するものは全て/粛清しろ 情け容赦はいらない」と高らかに歌い上げるとき、その歌声には純粋さゆえの狂気が入り混じる。その純粋さが革命を成功に導き、その狂気が革命を混乱へと導いてゆく――。
 心に残るミュージカルには、「この瞬間のために生きてきた!」とすら思えるような、至福の一瞬がある。
 人生のベスト10に間違いなく入る大好きなロンドン・ミュージカル「ジェリー・スプリンガー・ザ・オペラ」の終幕、天国と地獄の和解が見事成って、本編最後のナンバー「Take Care」を出演者全員が合唱する場面。「Millions of voices/Making all the wrong choices」というフレーズが、ひときわ高らかにアカペラで歌い上げられ、その美しい響きに心が包み込まれる瞬間、すべての人間の中に善なるもの、すなわち美があるのだと確かに信じさせてくれる。作品全体がもちろん大好きなのだけれども、その一瞬にすべてが凝縮されているようで、胸の中で甘美なる至福を転がし味わったものだ。
 「ウエスト・サイド・ストーリー」ならば、第一幕第八場の「クインテット」。ジェット団とシャーク団、トニー、マリア、アニタが、それぞれ“トゥナイト”に賭ける想いを掛け合いで歌ううち、大合唱へなだれ込む。その後の物語の展開を知っているだけに、最後の「トゥナイト!」の響きが、ひときわ胸に残る。

 「スカーレットピンパーネル」第一幕は大ナンバー「謎解きのゲーム」でグランド・エンディングを迎える。八分の六拍子の不安定が、心の迷宮に彷徨い込んでいくような感覚へと聴く者を誘う。パーシー、マルグリット、ショーヴランの掛け合いに、コーラスが「闇の中 一人迷い/立ちすくむ 真実を探しながら」と加わるあたりから、その一瞬に向かって胸が高鳴り出す。マルグリット&コーラス、ショーヴラン・公安委員・民衆、パーシー&ピンパーネル団がそれぞれの立場を歌い、ナンバーが「見失う 愛を」と結ばれる、その刹那。
 愛を、真実を、そして何より本当の自分自身を知ることを希求して、彷徨い込んでゆく心。安蘭けいがその演技力でもって示してしまったこの日本初演版「スカーレットピンパーネル」の真のテーマの精髄が、その一瞬にある。
 一つだけ不満なのは、この場にロベスピエールとピポー軍曹がいないことである。彼らがこの刹那に立ち会ってこそ、“世界の一瞬”はより完璧なものとなり得ただろうに。
 心の諸部門第二弾は、“心のポーズ”の発表!
 第二幕第四場、民衆がフランス革命の成り行きに疑問を抱き始めて歌う「死の都・パリ」。ショーヴランも加わっての歌唱、途中で「シュッ」というギロチンの擬音が挟み込まれるのだけれども、その瞬間、逆三角形のフォーメーションを成す兵士たちの先頭に立つピポー軍曹(美稀千種)がパッと決めるポーズ。足は肩幅に、両手を少し開いて身体に沿わせる、こういうさりげないポーズこそ、踊れて身体が利く人でないとビシッと決まらない(と、自分で真似してみてつくづく思う)。昨年の「シークレット・ハンター」のカーニバルの場面でも、ダンスの中心に美稀がいて、小気味よく左右に揺れる様を見ながら、この世のどこかに永遠に続くこんな楽園があったらいいのに…などと考えていたものである。
 一方で美稀は、優れた身体性を演技に効かせることのできる男役でもある。第一幕第七場の通称“洗濯女の反乱”シーンでも、コミカルな演技にその身体性が大いに生きている。舞台の幕開きでは、老人に変装したパーシーに騙され、その直後、変装を解いたパーシーの正体を見破れず、パーシーの表と裏の顔に呼応した態度の豹変ぶりを見せる…と考えて、あるときひらめいた。
 今回のヒーロー、パーシー・ブレイクニーという人物は、ただでさえ複雑な面をもつキャラクターを、安蘭けいがその演技力でとんでもなく掘り下げていってしまったので、説明が非常に込み入って厄介である。ロベスピエールとの対比、ショーヴランとの対比で語れるというところまではわかったのだが、最後の論点についてはなかなかつかめずにいた。それが、“心のポーズ”を決めるピポー軍曹を食いいるように見つめるうち、この人物こそが最後のキーパーソンであることが判明! 思わず心で小躍り。
 それにしても、ピポー軍曹自身も実に複雑な魅力を兼ね備えたキャラクターである。無慈悲かと思えば相当にすっとぼけている部分もあって、眼帯姿でなびかせる長髪も色っぽく、憎めない。越乃リュウ、水夏希、立樹遥と、セクシー男役豊作の79期なのであった。
 月組日生公演も始まった今、一体いつの話だ…という感じですが、よろしければおつきあいいただければ。

 7月6日の項(http://daisy.stablo.jp/article/448444366.html)で発表したように、月組公演「ME AND MY GIRL」の“心のキャラ”に輝いたのは、主人公ビルを跡継ぎとして迎えるヘアフォード家の執事、越乃リュウ演じるヘザーセット。授賞? 理由はもちろん、ビルを主人として迎える際も、その当主らしからぬ行状を嘆いて歌う際も、どんなに真面目な立ち居振る舞いをしていようともにじみ出てやまないその色気。イギリスを代表する名門ヘアフォード家、なかなかに艶やかな執事を雇っている。
 下町育ちのビルを主人と呼ぶことに不満を抱く使用人たちには突き上げられ、自分の結婚式に出席したことすら忘れてしまうような雇い主一家の面々には振り回され、セクシー執事の悩みは尽きることがない。日々ストレスも多いだろうに、一体どうやって解消しているのだろうか。意外と言っては失礼かもしれないが、愛妻家らしいのもポイント高し。「ヘアフォード家の真実」なる記事や暴露本(タブロイド文化のイギリスっぽいでしょ?)の執筆を目論むジャーナリストがいたとしたら、ヘザーセットは絶対にネタ元として押さえておきたい最重要人物。しかしながら、ヘザーセットは忠誠心と執事としてのプライドゆえ、一言も秘密を漏らさないと思いたい(パーチェスター弁護士あたり、金であっさりなびきそうではあるが)。

 と、ついつい想像を逞しくしてしまった越乃ヘザーセットなのだが、その色気に見入るうち、とある重要な問題に気づかされたのであった。
 はたして、執事に色気は必要か。
 考えてみるに、私は本物の執事というものを実際に見たことがない。執事とは、文学や映画、舞台作品などでのみ知る存在である。だから、イメージとしての認識しかない。主人のそばに控え、あまり感情をあらわにせず、黙々と己の仕事をこなす、いうなればかなり地味な存在、そんなイメージ。だから、執事にはまず、色気は必要ないように思えてしまう。
 宝塚以外の舞台において上演される場合も、基本的には、そのようなイメージに基づいてキャスティングされる場合が多いのではないかと思う。しかし、はたして、執事とは本当に、私のイメージするような人間として演じることがベストなのか。そしてまた、イメージにそのまま合っているとされる役者が演じることがベストなのだろうか。それは、演じるという行為にあらかじめ限界を設け、人間ではなく、イメージを演じるに過ぎない状態に陥らせているのではないか。さらに、究極的には、現実社会において執事を務める者が、旧来のイメージを“演じて”しまうこともあり得るのではないか。執事に色気は必要か。事は、“演じる”という行為の本質にかかわる大問題なのである。
そんなことを考えたのも、ちょうど「ME AND MY GIRL」上演中に出張がてらブロードウェイに足を運び、いくつか作品を観劇するだに、「若い役は若い人が、男の役は男が、ある人種の役はその人種の人が演じるというのは、“演じる”という行為にあまり広がりがなくて、つまらなかったりもするんだな」と感じたからである。自分は若いから、そのままの自分で若い役柄を表現できる、それは当然ある程度までは可能だろうが、若さがそのまま投げ出されても、それ以上の奥行きが感じられない場合が多いのである。先月アップした大空祐飛の項(http://daisy.stablo.jp/article/448444372.html)でも論じたあたりだが、つまりは、単に若さがそのまま投げ出されているのと、若さについての役者の思考がその肉体を通じて表現されているのとでは、深みが違ってくる。ときに後者の方が、より重層的に“若さ”を表現し得るのである。
 いわゆる執事のイメージに合う役者がいて、執事役を演じる。自分は執事のイメージに合っているのだからと思ってしまえば、そこで思考停止であって、それ以上の創意工夫は見られないだろう。敷衍して考えてみれば、男役以外の存在が海外ミュージカル作品の男性キャラクターを演じてときに見せる悲惨な様相も、この手の絶望的な思考停止に起因するように思えてならない。女より男の方が男をより魅力的に演じられるとは限らないのである。
 歌舞伎と宝塚の国に生まれた私は、男が女を演じ、女が男を演じ、日本人が世界のありとあらゆる国の人間を演じる可能性のあることを、おもしろいと思う。それだけ多くの思考のベクトルが、“演じる”という行為によって観られることに、わくわくする。私は、「色気がある執事がいても、おもしろいよな」と考えてしまう人間なので、月組新組長・越乃リュウが色気ムンムンの執事を演じる姿が観られたことは、実に意義深かったと思うのである。