月組日生公演も始まった今、一体いつの話だ…という感じですが、よろしければおつきあいいただければ。

 7月6日の項(http://daisy.stablo.jp/article/448444366.html)で発表したように、月組公演「ME AND MY GIRL」の“心のキャラ”に輝いたのは、主人公ビルを跡継ぎとして迎えるヘアフォード家の執事、越乃リュウ演じるヘザーセット。授賞? 理由はもちろん、ビルを主人として迎える際も、その当主らしからぬ行状を嘆いて歌う際も、どんなに真面目な立ち居振る舞いをしていようともにじみ出てやまないその色気。イギリスを代表する名門ヘアフォード家、なかなかに艶やかな執事を雇っている。
 下町育ちのビルを主人と呼ぶことに不満を抱く使用人たちには突き上げられ、自分の結婚式に出席したことすら忘れてしまうような雇い主一家の面々には振り回され、セクシー執事の悩みは尽きることがない。日々ストレスも多いだろうに、一体どうやって解消しているのだろうか。意外と言っては失礼かもしれないが、愛妻家らしいのもポイント高し。「ヘアフォード家の真実」なる記事や暴露本(タブロイド文化のイギリスっぽいでしょ?)の執筆を目論むジャーナリストがいたとしたら、ヘザーセットは絶対にネタ元として押さえておきたい最重要人物。しかしながら、ヘザーセットは忠誠心と執事としてのプライドゆえ、一言も秘密を漏らさないと思いたい(パーチェスター弁護士あたり、金であっさりなびきそうではあるが)。

 と、ついつい想像を逞しくしてしまった越乃ヘザーセットなのだが、その色気に見入るうち、とある重要な問題に気づかされたのであった。
 はたして、執事に色気は必要か。
 考えてみるに、私は本物の執事というものを実際に見たことがない。執事とは、文学や映画、舞台作品などでのみ知る存在である。だから、イメージとしての認識しかない。主人のそばに控え、あまり感情をあらわにせず、黙々と己の仕事をこなす、いうなればかなり地味な存在、そんなイメージ。だから、執事にはまず、色気は必要ないように思えてしまう。
 宝塚以外の舞台において上演される場合も、基本的には、そのようなイメージに基づいてキャスティングされる場合が多いのではないかと思う。しかし、はたして、執事とは本当に、私のイメージするような人間として演じることがベストなのか。そしてまた、イメージにそのまま合っているとされる役者が演じることがベストなのだろうか。それは、演じるという行為にあらかじめ限界を設け、人間ではなく、イメージを演じるに過ぎない状態に陥らせているのではないか。さらに、究極的には、現実社会において執事を務める者が、旧来のイメージを“演じて”しまうこともあり得るのではないか。執事に色気は必要か。事は、“演じる”という行為の本質にかかわる大問題なのである。
そんなことを考えたのも、ちょうど「ME AND MY GIRL」上演中に出張がてらブロードウェイに足を運び、いくつか作品を観劇するだに、「若い役は若い人が、男の役は男が、ある人種の役はその人種の人が演じるというのは、“演じる”という行為にあまり広がりがなくて、つまらなかったりもするんだな」と感じたからである。自分は若いから、そのままの自分で若い役柄を表現できる、それは当然ある程度までは可能だろうが、若さがそのまま投げ出されても、それ以上の奥行きが感じられない場合が多いのである。先月アップした大空祐飛の項(http://daisy.stablo.jp/article/448444372.html)でも論じたあたりだが、つまりは、単に若さがそのまま投げ出されているのと、若さについての役者の思考がその肉体を通じて表現されているのとでは、深みが違ってくる。ときに後者の方が、より重層的に“若さ”を表現し得るのである。
 いわゆる執事のイメージに合う役者がいて、執事役を演じる。自分は執事のイメージに合っているのだからと思ってしまえば、そこで思考停止であって、それ以上の創意工夫は見られないだろう。敷衍して考えてみれば、男役以外の存在が海外ミュージカル作品の男性キャラクターを演じてときに見せる悲惨な様相も、この手の絶望的な思考停止に起因するように思えてならない。女より男の方が男をより魅力的に演じられるとは限らないのである。
 歌舞伎と宝塚の国に生まれた私は、男が女を演じ、女が男を演じ、日本人が世界のありとあらゆる国の人間を演じる可能性のあることを、おもしろいと思う。それだけ多くの思考のベクトルが、“演じる”という行為によって観られることに、わくわくする。私は、「色気がある執事がいても、おもしろいよな」と考えてしまう人間なので、月組新組長・越乃リュウが色気ムンムンの執事を演じる姿が観られたことは、実に意義深かったと思うのである。
 この広い世界において絶対的な“主役”というものは存在し得ない。この世に生を享けた者はそれぞれ、自分のみに与えられた人生という物語の“主役”を生きている。
 無論、そのときどきにクローズアップされた“物語”の主役は当然存在する。例えば、現在行なわれているアメリカ大統領選の主役は、共和党と民主党両党のそれぞれの候補者ということになるかもしれない。しかしながらそれも、この世界を構成する無数の瞬間の限られた固有の場において、ひときわ脚光を浴び、重責を背負わねばならない者がいるだけの話に過ぎない。
 翻って、舞台作品における“主役”とは、その作品の物語の中心を成す存在ではあるが、先に述べた世界の普遍的真理を忠実に舞台上に再現しようとするならば、舞台上に登場するすべての者がそれぞれの役柄の人生を確固として生き、その上で、主役を務める者が、舞台上でその者の人生が殊更クローズアップされるに足るだけの独自性と輝きをもって、主人公の物語を生きねばならないということになる。
 トップスターを頂点とするスターシステムが存在する宝塚歌劇においては、こうした普遍的真理の再現は追究されていないと思われがちである。事実、主役及びその他大勢という構成の域を出ない作品も散見される。しかし、本当にそれでよいのか。
 その疑問に答える作品が、現在東京宝塚劇場において公演中の星組「スカーレットピンパーネル」である。

 1997年に初演されたブロードウェイ・ミュージカルを、手練の座付作家・小池修一郎がアレンジしたこの舞台は、ブロードウェイ作品と宝塚作品の双方のおいしいところ取りをして、見事である。世界的作曲家フランク・ワイルドホーンが手がけた壮大なスケールの楽曲は、登場人物たちが味わう喜怒哀楽の様相を縦横無尽に行き来して、観客を愛と冒険の物語へと引き込む。男役、娘役の魅力がふんだんに盛り込まれ、華やかにショーアップされた場面場面。なかでも特筆すべきは、フランス革命を成し遂げるもその後の混乱の時期を生きねばならない、“民衆”の描かれ方である。
 宝塚作品における秀逸な群衆芝居といえば、「ベルサイユのばら」のバスティーユ陥落の場面や、「エリザベート」の“ミルク”の場面などが思い出される。しかしながら、「スカーレットピンパーネル」において“民衆”に与えられた役割は、これら二つの場面よりさらに重い。というのは、先の作品においては、貴族側と戦ってバスティーユを陥落させる、あるいは、国民生活を顧みない皇后に不満をぶちまけるという具合に、アンサンブルが表現する心理は一定なのだが、今回の「スカーレットピンパーネル」においては、民衆は、貴族への怒り、恐怖政治への恐れ、そして、怒りと怖れを乗り越えて実現しなくてはならない真の自由への希望の念と、そのときどきに揺れ動く社会の空気を表現しなくてはならない。
 そんな複雑な大衆心理の移り変わりを表現する星組生たちの熱演が、「スカーレットピンパーネル」の日本初演を成功に導いた一因であることは言を俟たない。貴族を、革命に反対する者を、一人残らずギロチンにかけよ……と歌う「マダム・ギロチン」の場面のあまりの迫力に、客席でガタガタ震えてしまった日もある。
 その迫力は、大勢に同じ衣装を着せて、同じセリフを同時に言わせるという全体主義的演出からは決して生まれ得ない迫力である。それぞれが、名もなき民衆一人一人の人生を生き、そうしてそれぞれに異なる人生を生きる者たちが「貴族許すまじ」という一つのテーゼの下に集結するからこそ、ときにとてつもなく恐ろしいものとなり得る大衆心理を表現できる。そして、暴走した大衆心理が、その後通り過ぎることとなる苦しみや恐怖もあわせて描いているからこそ、作品終盤、真の自由とは自らの手でつかみ取らなくてはならないと歌い上げる「栄光の日々」のナンバー(今回の上演用に書き下ろされたものである)は、ひときわ心に染みる。
 民衆一人一人の顔を見る。貴族への憎しみに燃え、権力者の独裁に脅え、そして、真の自由を求める心を歌って、それぞれが、その者のみに許された輝きに満ちている。宝塚歌劇が、舞台の端にまで満ちるそうした輝きを味わえる場所であるならば、出演者全員を「生徒」と呼びならわし、“スター”という言葉を使うことには慎重だったという、宝塚歌劇の創立者・小林一三の精神は、百年の時を超えて今なお生きているといえよう。

 宝塚歌劇においては、他の者を輝かせるためだけに出演者を存在させてはならない。このことは、主演男役を頂点とするスターシステムと何ら抵触するものではない。主演男役とは、組全体が一丸となって創り上げた一つの作品であり、組全体もまた、主演男役が創り上げた作品なのである。そんな真理を、「スカーレットピンパーネル」という作品において、主演男役・安蘭けいは身をもって示している。
 宝塚歌劇がどんなに夢の世界を標榜する場所であろうとも、安蘭けいは舞台上で敢然と人間を生きる。その事実が他の出演者に突きつけるものとは、それぞれが同様に人間を生きねば、安蘭主演の舞台は決して成立し得ないという事実である。人間は書き割りとは話をしない。書き割りもまた、人間とは話さない。一人でも、薄っぺらい、作りものの存在がいれば、その世界のリアリティは瓦解する。しかし、逆に、それぞれの出演者が敢然と人間を生き、主人公と対峙すれば、実世界が舞台に立ち現れる。
 安蘭演じる主人公パーシー・ブレイクニーが、民衆と共に、真の自由の希求を高らかに歌う「栄光の日々」の場面は、宝塚歌劇の原点を示す。何も、安蘭に限らない。原点を知るこれまでの主演男役もそうして舞台に存在して、宝塚歌劇の歴史は刻まれてきたのである。
 31日夜の舞台稽古を見学。1991年の初演の際、一度観たきりの舞台だったのに、とあるナンバーのメロディを覚えていた自分にびっくり。そして、17年前にはわからなかったのが腑に落ちた箇所もあって、ああ、自分も少しは大人になったのかなと……(さすがにちょっとは大人になっていないと、困る)。
 主人公ギャツビー役の瀬奈じゅんはスーツ姿、軍服姿、どの場面も隙のない立ち居振る舞いで、男役としての一つの到達点を示して圧巻。持ち前の“白”の個性が、たった一つの愛を手に入れるためには己の手を汚すことも厭わない男の、決して穢れ得ぬ魂の無垢を際立たせる。ヒロイン・デイジー役の城咲あいは、心に哀しみを抱えた女の愚かさをなんと魅力的に演じられる娘役なのだろう。出色の出来だった先の大劇場公演「ME AND MY GIRL」のジャッキー役に続いて、唸ってしまった。汝鳥伶、磯野千尋、梨花ますみの専科陣ががっちり脇を固め、少々ボケ役ながらおヒゲ姿も色気あふれる越乃リュウ、何役も演じわけて奮闘の一色瑠加、ミュージカル「キャバレー」の「Mein Herr」「Don’t Tell Mama」あたりをどことなく彷彿とさせるナンバーで抜群の魅力を放つ憧花ゆりのらが活躍。
 それにしても、生きる上で、愛を至上の命題とする者たちと、そうはしない、できない者たち、すなわち、真の愛を知る者と知らぬ者との絶望的な齟齬について、「野田版 愛陀姫」に続いて考えさせられてしまった。F・スコット・フィッツジェラルドの名作小説を宝塚流に見事さばいて、東京宝塚劇場の「スカーレットピンパーネル」と、小池修一郎の秀作が並ぶ二つの劇場で観られる幸せ。
 22日の初日前の舞台稽古を見学。圧巻。難曲揃いの大作をここまで仕上げた星組一同に感服。一人一人の舞台にかけるエネルギーがびんびん伝わってきて、「マダム・ギロチン」の場面で、鳥肌が立ってしまった……。そして、でき得る限り我慢はしたのですが、安蘭けい扮する主人公パーシー・ブレイクニー&もうお一方の繰り出すハイパー・ギャグに、途中から堪えきれなくなって周囲と一緒に大爆笑。笑いに涙、ギャグにシリアス、天下国家の大問題に個人的な愛の悩み、海外ミュージカルのよさと宝塚ならではの味、アンサンブルの力と個人技の妙、多種多様な両ベクトルの要素が、壮大なスケールの美しい楽曲の中におさめられている醍醐味。そして、一見他愛ない冒険活劇めいた作品から、さまざまな顔をもつとはいかなることか、すなわち、人間存在の本質を解き明かすことにもつながる“演じる”ことの意味、そして、真の愛について、深い真理を引き出してみせる安蘭けいの演技力に、脱帽。
 終演後、安蘭さんの囲み会見。報道陣の数やすさまじ。あひるからは、表の顔、裏の顔、もうお一方としての顔、複雑きわまりない内面を抱えるキャラクター、パーシー・ブレイクニーのどんなところに共感して演じているかをお聞きしました。アドリブについて話されるあたりの語り口が何ともおかしく、公演同様、大爆笑会見に。
 非常に忙しい時期と重なっていて、初日前の囲み会見の模様すらアップできなかったのが本当に申し訳なかったのだけれども、宝塚花組公演「愛と死のアラビア」「Red Hot Sea」は尻上がりに調子が出ていった公演だった。これは何といっても、新主演男役・真飛聖が、主演としての重責をきちっと果たす舞台を見せて、東京公演の楽近くなど、これがお披露目とは思えない安定感を発揮していたことが大きい。正直なところ、5月中旬に宝塚大劇場で観劇したときには、芝居、ショーとも、お披露目公演に当てるにはいささかの不備を感じ得ないではなかったのだが、東京公演が進むにつれ、組としてのまとまりのよさ、そこから生まれる熱いパワーが、公演を成功に導いていった。
 芝居作品「愛と死のアラビア」は、意欲的なテーマを扱いながらもドラマ的にうねりが感じられず、主人公トマス・キースという役柄が物語上受身に終始せざるを得ないことが当初は引っかかっていたのだが、真飛が次第に本領発揮し、作品の書き込みの深浅を補っていった。男役・真飛聖は、基本線は白の正統派二枚目だが、その一方で、骨太さと軟弱さを絶妙に行き来する魅力も兼ね備えている。さらなる本領発揮を期待する上で、気になった点がいくつか。ときとして早口になるのと、セリフを区切る際に、受け手としては多少引っかかってしまう“間”が生じるときがある。感情を自然に気持ちよく発し、観客も自然に気持ちよく受け止められるよう“間”を計算したセリフ回しにすれば、真飛が演技にこめた“心”もより客席に伝わるのではないか。また、ショーではちょこまか動きすぎるきらいがあったけれども、基本的には動よりは静、どーんと構えていた方が、骨太の魅力を発揮できる人だと思う。以前、「花の業平」の新人公演に主演した際、しどけなく横たわる様の美しさに見惚れた覚えがある。
 おもしろいのが、真飛聖、大空祐飛、壮一帆、少し前まで同じ舞台に並ぶことを想像すらしなかった花組トップ・二番手・三番手は、男兄弟のアナロジーで語りやすいという共通点を持っている。三人とも、兄貴キャラと弟キャラ、ちょっと抜けたところとしっかり者の部分を、役柄ごとに配して舞台に存在することができる。花組のピラミッドの上に、個性派三兄弟がしっかり乗り、キャリアを積んできた主演娘役・桜乃彩音が花を添えるという配置なのだが、これまた興味深いことに、桜乃はといえば、最強の妹キャラであり、その一方で母的存在を演じても大いに魅力を発揮する。かくして、実にフレッシュかつバランスがよい顔合わせとなった現花組体制だが、真飛と桜乃が兄妹! を演じる全国ツアー公演「外伝 ベルサイユのばら−アラン編−」、大空がつかこうへい原作作品に挑戦する「銀ちゃんの恋」とも、非常に楽しみである。
 ちなみに、初日前の囲み会見では、真飛さんの、組子について語るときのニコニコ笑顔が強く心に残った次第。

 さて、今回は「心の名場面」ではなく「心の一瞬」を発表〜。ショー作品の中詰、ウノ(夏美よう)・ドス(大伴れいか)・トレス(悠真倫)が潜水夫の格好で姿を現す場面、というか、一瞬! どことなく盆踊りチックな音楽と振りも楽しく、でも、瞬時に終わってしまうので、これを観るためにまた来なければ! とその都度激しく思うのだったが、忙し過ぎて、堪能した! と言えるほど観られなかったのが残念。
 14日、台湾取材からわずか三日で今度は宝塚に日帰りで突撃し、さすがのあひるもかなりバテました……。
 さて、どんな取材をしたかは9月半ばを楽しみにしていただくとして、宝塚大劇場で上演中の雪組公演「ソロモンの指輪」「マリポーサの花」はなかなか見応えあり。「マリポーサの花」では、水夏希と彩吹真央、今一番友情ものが似合うトップと二番手コンビの組でやらんでどうする〜と思っていた、二人ががっちり組んでの男同士の友情ものが遂に実現。しかも、最近は、闘いの前後の静けさの中の生き様や、闘いをスマートに回避することの美学を描くことが多かったように思う作・演出の正塚晴彦が、水を主人公に得て、真っ向から“闘い”を描いたあたり、一歩踏み込んだ感あり。何といっても、久方ぶりの男くさい役で、水が実に生き生きとしているのが印象的。10月上旬からの東京公演では、あひるも万全の体調で、熱い男のドラマをしっかと受け止めたい所存。……今週末にはわが地元が熱く燃える「高円寺阿波踊り」もあることだし、夏バテよはよ飛んでゆけ〜。
 大空祐飛は現在の宝塚のスター陣にあって、群を抜いて“大人”の魅力を発揮できる男役である。それでいて、学年がかなり上がってもいつまでも若手グループにまじって存在し得るような“若さ”を兼ね備えた存在でもある。この矛盾はいかにして両立可能なのだろうか。
 その“若さ”が獲得されたものであることは、「THE LAST PARTY」の頃から気づいてはいた。そうは言っても、何も、大空自身が若々しくないと言いたいわけではない。例えば、大空の声は、張りがあって大いに瑞々しさを感じさせるが、そのように備わっている若々しさとは別個に、大空は表現としての“若さ”を手に入れている存在なのである。その一方の極にある“大人”としての魅力が大いに発揮された公演としては、先の主演作品「HOLLYWOOD LOVER」が挙げられよう。
 今回の花組公演のショー作品「Red Hot Sea」で、大空は<カモメの海>及び<ひき潮>の場面で芯を務めたが、その二つの印象的なシーンにおいて、成熟と若さの両立の矛盾の謎が解き明かされたように思う。もっとも、大空について話を進める前に、まずは、5月に感銘を受けたとある公演について語っておく必要がある。

 ゴールデンウィーク最中の5月4日、サントリーホールで行なわれた「ウィーン少年合唱団」公演を聴いた(<Bプロ>、14時の部)。このとき、アンコール時に日本語で歌われた「故郷(ふるさと)」を耳にして、不覚にもとんでもなく涙してしまったのだった――。
 「志を果たして/いつの日にか帰らん」、そう歌われるふるさと。しかし、その<ふるさと>とは、現実に存在し得る場所なのだろうか。
 過ぎゆく時間の中に、風景や街並みが変化を遂げるという物理的な変化ももちろんあり得る。しかしながら、それ以上にあり得るのは、そのふるさとに帰り立つ自分自身が変化しているという厳然たる事実である。かつてその場所に存在し得たようには、自分はもはやそこには存在し得ない。月日が流れるうちに、何より、故郷に向き合う自分の気持ちが変わってしまっただろうから。すなわち、<ふるさと>とは、幼い頃に日々を過ごしたけれども、もう二度とは帰り得ぬ場所、そんな、追憶の中にのみ存在し得る場所を、懐かしさをこめて振り返るときにそっと口ずさむ、実に大人のための歌なのである。
 その曲を歌う少年たちは、いつかどこかを振り返る日が来ようとは、今は恐らく想像すらできまい。けれども、今こうして彼らが歌っている「ウィーン少年合唱団」という場所さえ、いつの日かの<ふるさと>なのである。大人の人間の心の内にのみ存在し得るそんな場所について優しく懐かしむ曲の音と言葉を、少年たちが、まるで山で兎を追い、川で小鮒を釣るように、無心に追いかけていたからこそ、幼い時から親しんできたこの曲の深意に始めて気づかされて、涙があふれてくるのを止めることができなかったのである。

 翻って、大空祐飛は、心に<ふるさと>を持つ男役である。過ぎてゆく時間が二度とは戻らないことをどこか自覚しているようである。そのようにして“若さ”と距離感を持ち得ているからこそ、“若さ”も“成熟”も平気で矛盾なく表現できてしまう。
 距離感。対象との、絶対的な。これこそが、大空祐飛という存在の混沌とした魅力の源泉の一つなのである。<カモメの海>で大空は、海を飛ぶカモメに想いを馳せ、「舞え、舞え」と歌い、その飛翔に心を託すかのように踊る。ここでも、歌い舞う大空とカモメとの間には絶望的なほどの距離がある。決してカモメのようには飛べぬことを知りつつ、否、知っているからこそ、大空はカモメに心を託して歌い踊る。これは例えば、「レビュー・オルキス−蘭の星−」で「捨て犬が雨に濡れ/母犬を探す」と歌った刹那に捨て犬の心理と同化してみせた安蘭けいと、両極端にあってそれぞれ実に興味深い表現である。
 一方の<ひき潮>の場面において、大空は今度は“若さ”を表現してみせる。実際に若い人間が己の若さをそのまま投げ出して見せるのと、表現として獲得された若さとは、その深みにおいて絶対的な差がある。実際の若さよりもときに平気で若々しい、表現としての若さ。そんな、成熟した人間にのみ許された“若さ”、そして無論、その対比としての“成熟”を、大空祐飛は体現し得る男役なのである。
 大変! 月組公演「ME AND MY GIRL」の心の諸部門を発表するのを忘れていました。千秋楽前に駆け込み発表〜。
 “心の名場面”はやはり、瀬奈じゅん扮するビルが社交界での振舞い方をマリアおばさまに習い、くっつき回ってあれこれ真似するシーン。その際会得する、手首をくるくる返しての何ともコミカルな挨拶が、今回新設の“心のしぐさ”。真似してみるとスナップの利かせ方がなかなかに難しいこのしぐさ、公演を観ていてわかるであろう人に会うとついつい別れ際にやってみたくなる自分を抑えるのに困り。
 しかしながら実はこの場面、よくよく考えてみると、今の宝塚を代表する“白”の正統派男役・瀬奈じゅんの本質を表すシーンでもあることに気づき。ということで、前回公演「マジシャンの憂鬱」のときから先送りにしてきた「瀬奈じゅん論」に、遂に腹をくくって取り組まねばならないときが来たようで。…ですが、すみません、先月半月日本にいなかったあひるは今、いろいろな意味で限界〜。ゆえに、夏休み(…はあるのか?)の宿題とさせていただきたく。
 “心のキャラ”は、ヘアフォード家の執事、越乃リュウ演じるヘザーセットに(心の諸部門の熱心な読み手? である某劇場広報Kさん、ご明察!)。一体全体執事にそんなものが必要なんであろうかと見惚れるしまうほどに、にじみ出てやまないその色気。しかし、これまた、決して見惚れてばかりいてはいけない、宝塚における海外ミュージカル作品上演の可能性をめぐる重要問題であることに気づき。というわけで、こちらについても「執事に色気は必要か」と題して、今後の月組の展望と共に近日中に必ずお送りする予定。

 さらにさらに思い出してしまった。雪組全国ツアー「外伝 ベルサイユのばら−ジェローデル編−」についても発表していませんでした。こちらは、主人公ジェローデルを演じた水夏希が心のキャラ&名場面&しぐさ三部門独占状態。観劇後思わず「ジェローデル入浴剤」を購入してしまったほどですが、これまたその男役の本質論とも関わってくる話なので、「彩吹真央論」とあわせて後日とさせていただきたく。
 以上、予告編に終始してしまって申し訳ない限りですが、七月のあひるは書く! 自分&“心の諸部門”ファン? の皆様との約束! 絶対!!!
 23日の初日前の舞台稽古を見学。舞台稽古ゆえ、爆笑手拍子拍手の類は控えねば…と思っていましたが、瀬奈じゅん演じるビルが矢継ぎ早に繰り出すギャグについつい、笑いをこらえきれなくなるあひるであった。あれで笑うなというのはほとんど、拷問かと。なかでも、出雲綾扮するマリアおばさまの後にくっついてあれこれ真似するシーンが秀逸で、主演男役として初めて“心の名場面”に輝いてしまいそうな勢い。演技だけでなく歌声も、作品の楽しいエッセンスをほとんどそのまま体現している瞬間があって、文句なしに代表作となりそうな予感あり。ジョン卿を演じる霧矢大夢も、渋さとキュートさのバランスが見事。歌でも踊りでも音楽と一体となれる、さすが海外ミュージカルに強いところをアピール。8月の博多座ではどんなビルを演じてくれるのか、こちらも興味津々。ジェラルドを演じる遼河はるひは、かわいらしい声をより活かせるセリフ回しに一考の余地あり。役の非常に少ない中、作品の雰囲気を盛り上げようとする出演者一同の奮闘が好感度大。メインの出演陣との相乗効果で、舞台がますます弾むことを期待。
 宝塚で海外ミュージカルを上演する際、しばしば焦点となるのは、娘役という存在と海外作品におけるヒロイン像、女性像との抵触を解消した上での複雑な融合が問われること。その意味で、ヒロイン・サリーを演じる彩乃かなみにはいつも以上に多くのものが要求されるのはやむを得ないところ。瀬奈演じるビルの心ある演技を生かすも殺すもサリー次第。泣いても笑ってもこれが宝塚生活最後の舞台、娘役の限界に挑戦し、宝塚の可能性を広げるような奮起を観たい。
 舞台稽古終了後、瀬奈さんの囲み会見。あひるからは、月組が誇る名作の宝塚公演を終えての手応えと東京公演に向けての意気込みをお聞きしましたが、お客様の参加あってのこの作品…とのコメントに、うなずくことしきり。早く満員の客席で、思う存分楽しみたいもの。
 昨年12月中旬に観た野田秀樹の傑作「キル」の深意が、何故かその一ヶ月後、1月中旬くらいになって、急にストンと腑に落ちた。「希望は、絶望の後にしか現れない。そして人は、たった一人で孤独だからこそ、どこへでも自由に行ける」――。
 戦後の混乱期、敗戦に打ちひしがれる日本人の中にあって、ダグラス・マッカーサーと渡り合い、「従順ならざるただ一人の日本人」と呼ばれた気骨の男、白洲次郎の生き様を描いた「黎明の風」を見た今では、その真理にもう一言書き加えることができる。「己を支えるプリンシプルあればこそ、人はどこへでも自由に行ける」と。
 自由に生きることは、難しい。己が生きる道を選ぶ場合も、他者の生き方を評する場合もえてして混同してしまいがちだけれども、自由に生きることと好き勝手に生きることとは似て非なるものである。その二つの生き方を峻別するのが、プリンシプルの存在に他ならない。
 恃むものは我が身一つ、組織に属さず、“侍ジェントルマン”としての人生を全うした白洲次郎も、生きているうちはおそらく、心ないやっかみや中傷にさらされたことだろう。けれども、人生の価値を最終的に判断できるのは、己のみなのである。己の信ずるところに向かってひたすらに歩むことができた、人生の終わりにそのように確信することができれば、白洲の残した遺言、「葬式不要、戒名不要」の域にまで、人間、悟ることができるのかもしれない。

 そんなことを考えるに至ったのも、今回の公演、白洲次郎を演じた轟悠、ダグラス・マッカーサーに扮した大和悠河の二人が、好対照を成す好演を見せたからである。
 前回の大劇場公演「バレンシアの熱い花」の際、私は大和について、その実に複雑かつ奥深い内面と、舞台を通じて伝えたいあふれんばかりの想いを伝えきるだけの技術はまだ手に入れてはいないように思える――と指摘した(「宙組新主演男役・大和悠河はおもしろいのである」http://daisy.stablo.jp/article/448444292.html)。それが、どうだろう。一年も経たぬうちに、大和は男役として、そして役者として、飛躍的な成長を遂げたのである。オーバーアクションや声量の暴走は影をひそめ、役柄の心情をごく自然にしかし余すことなく伝える術を身につけた。今回のダグラス・マッカーサーの演技は、ほとんど神がかりと言っていい。まるで、2008年の今、ダグラス・マッカーサーがこの世に再び存在するために、魂の容れ物として役者・大和悠河の肉体を選んだのではないかと思えるほど、舞台上の大和はダグラス・マッカーサーその人にしか見えないのである。
 日本という国をこよなく愛し、敗戦後の混乱を鎮めて人々をよりよき方向へと導こうと、彼なりの信条のもと奮闘するダグラス・マッカーサー。そんな役柄の造型に対しては、もっと傲岸不遜な人間だったのでは――との疑問を抱く向きもあろう。しかし、ここで大和が演じているのは、ダグラス・マッカーサーという人間存在の魂、良心である。我々が彼の心のうちにあらまほしきと願う、純粋かつ最良の部分である。宝塚の「清く正しく美しく」とは何より、人間存在の表現にかかると信じる者にとって、大和のマッカーサーの演技は、宝塚の本分を行くものである。
 大和が短期間にこれほどまでの急成長を遂げたのは無論、今回の公演に轟悠の特別出演あったればこそである。主演男役という立場になり、自分の信じる宝塚を存分に追究し、舞台上に描き出そうとする段階になって、往々にして難しいのは、その自分の精いっぱいを受け止めきれる存在の少ないことである。組の頂点に立つ以上、それはある部分致し方のないことであって、何を恃みに己の芸のさらなる追究を進めていくかというのは、主演男役という立場に置かれたものの永遠のアンビバレントなテーマであろうと思うが、今回の大和の場合、そこに轟がいた。主演男役としての先輩であり、男役としての確かな技術を身につけた存在が。轟に遠慮なくぶつかり、日々己の限界に挑戦し続けることで、大和悠河は役者として開花したのである。
 一方の轟にとっても、今回は非常に得るものの多い特別出演だったと思う。男役としての轟悠はほとんど完璧に隙のない存在である。造作の美しさはもちろんのこと、一挙手一投足が男役として完成されているから、もはや、どんな仕草をしても美しい。しかしながら、隙のない存在として完成してしまうことは一方で、隙だらけで不完全な人間存在を表現する上では足枷ともなり得る。すなわち、ストイックに追究し続けてきた男役芸と、人間存在を表現する術とを、高度な次元で融合させ両立させることが必要になってくるわけだが、本来が実にストイックで、そしておそらくとんでもなくシャイな人であろうだけに、轟悠は己の心というものを、その完璧なまでの男役芸の後ろに隠してしまいがちなところがあった。その封印がほどけたか…と思えたのが、昨年11月のコンサート「LAVENDER MONOLOGUE」である。骨太で硬質なイメージのあった轟はこのとき、己のナイーブな心を拓いてそっと見せるような、聴く者の心にしみる歌唱を披露したが、今回の舞台では、白洲次郎の演技を通じて、その心の奥に在るこれまた実に複雑かつ味わい深い内面を見せてくれた。轟の白洲次郎は、己のプリンシプルを守り抜く骨太さが魅力であるのは無論、それでいて柔和で、他人の心の動きや痛みに敏感な優しさと、品のいいユーモア、そして、曲がったことは決して許さず当たりかまわず吠えてかかるほどの情熱を兼ね備えていて、実に魅力的だった。轟がここまで役柄を通じて心を拓くことができたのも、大和が役柄を通じてまっすぐに心をぶつけてきたからではないか。
 轟の白洲次郎、大和のダグラス・マッカーサーとも、文句なしにそれぞれの当たり役、代表作とする熱演ぶりで、二人が役柄上、そして演技上、まったくの遠慮なしにやりあう場面は、観ていて毎回手に汗握るほどの心地いい緊迫感に満ち満ちていた。そんな二人の真剣勝負につられ、蘭寿とむ、北翔海莉らも真剣度の高い演技を披露する成長ぶりを見せた。特に蘭寿は、ときに空翔けるかのようなセリフ回しを、恒常的にではなくここぞというときのキメとして使えるようになったのが効いている。
 そしてもちろん、汝鳥怜の吉田茂。もはや吉田茂について考えるときは必ずや汝鳥の演技を思い浮かべてしまうのではないかというはまり具合で、歴史の教科書でエピソードを通じてしか知らなかった吉田茂が、生きて動いてバカモン! なんて言ってる…と考えただけで何だかうれしくなってしまうくらいだった。この人もまた、一つ当たり役を増やした。

 主演娘役・陽月華の不在は確かにさみしいものがあったが、その穴を埋めるべく熱演を繰り広げる出演者一同を観ていて、今の宙組は一人一人の顔と個性がなんとはっきりと見えるのだろうと思わずにはいられない。
 大和、蘭寿、北翔の三人に共通するのは、非常にいい意味で宝塚スターたらんとする志である。宝塚の舞台に立ち、宝塚のスターとして視線を浴びる以上、客席に何を返すべきなのかを、ひたむきに追究してゆく心がけのおもしろさが共通していて、だから今の宙組の舞台は、宝塚的に実に濃い。その三人についてゆく下級生たちも、宝塚ならではのよさ、男役/娘役ならではの表現、そして一人一人の個性をはっちゃけて追究していて、おもしろい。そんな宙組に、まるで組織に属さず自由に生きる白洲次郎の如き轟悠が特別出演し、これまた組子相手に一歩も引かぬ宝塚の舞台への情熱を見せた今回の公演は、実に見応えのあるものだった。
 役者としての技術をプリンシプル、表現したい想いを心の自由と考えれば、冒頭に記した真理のアナロジーが成立する。プリンシプルが揺るぎないものであればあるほど、人は自由になれる。すなわち、身に備えた芸が確かなものであればあるこそ、役者は自由に想いを表現し得ることができる。芸とは、己の心の奥底に迫り、これを外に向かって表現する上で最強のツールである。芸の道を究めれば究めるほど、自由になれる。人も、そして、心も。