東京公演終了からもう一週間も経ってしまいましたが、まだ名古屋公演は終わっていない……ということで、滑り込みセーフ? で「赤と黒」のお話。

 実に完成度の高い舞台だった。途中からほとんど、いい意味で「宝塚」を観ていることを忘れていた。それはひとえに、出演者全30名の作品・役柄に対する志の高さゆえに可能となった力演に起因していたと思う。
 海外などで出演者を一人も知らない舞台を観ていると、観劇の際、己が観客としてどれだけ役者に対する既成概念に捉われているかに気づかされることがある。これまでの観劇体験の蓄積で、この役者はこの役だったらこういう表現をするだろうという思い込みが事前に形成されているのである。
 無論、そのような既成概念は、役者の側にも存在し得るものである。巧いということになっている役者が、もっとも高い評価を受けた時代の己のイメージに捉われ、縛られ過ぎて、いかんともし難い状態になっているのをまま目にする。
 人とは変わりゆくものである。同じような日々を生きていても、日々少しずつ変化は訪れる。それをいい意味での変化とするか、悪い意味での変化とするかは、その者の志次第である。舞台に関していえば、昨日とまったく同じ演技でよしとするか、それとも、昨日より少しでも進化したいと志して舞台に立つかは、日々の演技に如実に現れる。
 スター芸を見せると一般的に思われがちな宝塚にあって、それぞれの演者が、これまでの己のイメージに捉われることなく、日々役柄と真摯に向き合うことからしか生まれない演技を見せていたからこそ、いい意味で「宝塚」を観ていることを忘れることができた。出演者が、演者自身としてではなく、役柄として自由に舞台に生きていたからこそ、観る者の心も作品世界の中に入り込み、自由にその中を遊ぶことができた。作品の舞台となったフランスの片田舎のヴェリエールの町で、パリの華やかな社交界で、登場人物たちと一緒になって、笑い、しゃべり、噂話に耳を傾け、共に生きているような感覚を味わった。登場人物たちにあまりに愛着が沸き過ぎて、いつまでもその世界に一緒に生きていたくて、終わってしまうのがさみしいとまでに思う舞台は、そうあるものではない。

 公演をそんな成功へと導いたのが、まずは、長年この作品の主人公ジュリアン・ソレルを演じたいと願い続け、その長き想いに自ら応えた安蘭けいの演技であることは言を俟たないだろう。
 公演が終盤に向かうにつれ、迫真などという言葉を遥かに超えたその演技に、舞台上に立つ人はいったい誰なのか、今目にしている人はいったい誰なのか、次第に判別が難しくなってゆくほどだった。そこにいる人は、安蘭けいであって安蘭けいではなく、ジュリアン・ソレルであってジュリアン・ソレルではない、その二者が高次元で融合した結果のみに出現するのだとしか思えない、今までに目にしたことのない人物だった。観る者のさまざまな想いやイメージを自由自在に受け止め得るという意味では実に透明で、それでいて、想いやイメージの投影に対して自由自在に示唆を投げ返すという意味では実に豊穣であるという、ある意味、矛盾した存在。これまでの観劇経験を振り返ってみても、こんな心境に至らしめたのは、劇評家ケネス・タイナンを一人芝居で演じた「タイナン」(2005年、ロンドン・ウエストエンド)のコリン・レッドグレイヴと、「異人の唄」(2007年、新国立劇場中劇場)の木場勝己、その二人くらいしか思い浮かべることができない。
 裁判の形で己の半生を振り返るという大枠に基づいて進むこの作品で、そんな安蘭のジュリアン・ソレルの演技を目にしているうちに、ジュリアンの人生に沿う形で、自分自身が己の人生を振り返らざるを得ない羽目に陥った。若かりし頃の希望。過ち。絶望。今なお自分のうちに残る、愚かしさ。ジュリアンに重ねて、かつての自分を笑い、涙し、希望と絶望のあわいを生きるうち、ここまでの自分の歩みをどこか肯定されるような思いがした。そして、この前そんな思いにさせられたとある舞台を思い出しもした。
 ここにもし、演者自身の人生が重ねられているとすることが許されるならば、これはほとんど、ミラン・クンデラが「ジャックとその主人」で提示した、<演じる者/演じられる者/観る者>の人生の三つの環の重なりの話になってくるのだが、ここではこれ以上深入りせず、<「赤と黒」の“恋愛論”>として別項にて論じることとしたい。

 演者全員揃いも揃って力演の今回、星組恒例? “心の名場面”を選ぶのには実に苦労した。「源氏物語」の“雨夜の品定め”並みの勝手な女語りを繰り広げる、柚希礼音・涼紫央・和涼華・彩海早矢の四人の貴公子ぶりの競い合いも楽しい「恋は曲者」のナンバー。面会のお目こぼしの代償に小銭をたびたびせびりに来る神学校の門番・美城れんと、さまざまな小銭の投球法でこれに応える柚希の駆け引き。恋の指南を軽妙に歌う柚希と、神妙な顔でそれに聞き入る安蘭(それにしても、「15のときから恋の修行」と言うけれども、修行と普通の恋とは違うものなのだろうか。ぜひ一度指南を受けてみたい)。そんなハイレベルな争いを制したのは、……ジャーン、“ヴァルノ氏とレナール氏の馬談義&その後日談”である。
 ヴェリエールの町を牛耳る有力者二人の、ノルマンディー産の馬やらラテン語の専属家庭教師やらをめぐる見栄の張り合い。きっとこの町ではこの手の見栄の張り合いが延々と続いてきたのだろうなと思わせるものがある。しかし私は断然、ヴァルノ氏の味方である。ヴァルノ氏は決して悪い人ではない。むしろ、いい人なのである。馬を自慢されても、妻に浮気されても、いつもいつも「人はどう思うだろう」しか考えないレナール氏に比べて(人が笑うのは、そうしていつも人の顔色ばかり気にしている心根に他ならないのに!)、ジュリアンのラテン語の聖書の暗誦に手放しの賞賛を送るヴァルノ氏は、馬やら女やら手に入れるにしても、「美しいから」「すごいから」という自分の感動を大切にしているように見える。ヴァルノ氏は気前がよく、人の心を読んでこれを喜ばせる術にも長けている。馬を手に入れたら町の連中に惜しみなく披露し、自分に有利な情報をくれたレナール家の女中には給料アップでの移籍を約束する。ラテン語の専属家庭教師を雇ったって、レナール家の子供たちが頭がよくなるかもしれないだけのことである。第一、馬と張り合う材料に人間をもってくるところが、レナール氏は実に趣味が悪い。
 …と、今回、新部門“心のキャラ”設立に踏み切らせた、ヴァルノ氏役にしき愛の好演なのだが、ヴァルノ氏とレナール氏の対立がジュリアン・ソレルの運命に終生大きな影を投げかけ続けることを考えると、ヴァルノ氏の演技は物語の行方を大きく左右している。そして今回、にしきが実にチャーミングに、そして人間の香気たっぷりにこの役を演じたことは、安蘭演じる「赤と黒」の世界に絶大な貢献を果たしている。「エル・アルコン」でのダーティ・ヒーロー、ティリアン・パーシモンの演技を見てもわかるように、主演男役となってからの安蘭が目指すものとは、人間存在のうちにある善と悪とを余すことなく描き出すことに他ならない。ある意味、善悪の相対化ともいえるその“清く正しく美しく”の実践において、一般的には悪役とされる役柄の立場をきっちり鑑み、このように魅力的に演じられる人材は貴重なのである。とはいえ、いくら巧いからといって同じパターンの役ばかり振るのはキャスティングの怠慢であり、観客の側にも演者の側にもイメージの固定化をもたらしかねない。今回、英真なおきが、三作品続いた、安蘭扮する主人公に父のような愛を注ぐ役どころとして集大成的演技を見せたこととあわせて考えると、二人の役柄を取り替える発想が出てきてもいいと思うのだが。

 “心の名場面”部門候補の他の三場面すべてに顔を出した柚希は、ジュリアンの親友フーケと、恋の指南役、ロシアの貴族コラゾフ公爵の二役に挑戦して大きな成果を残した。当初から二役を演じさせる想定やおもしろみを前提として書かれたわけではない中、二役に通底するジュリアンへの深い心情を感じさせつつ、それぞれに異なる印象を与えることに成功、うれしい成長ぶりを見せた。
 素晴らしいダンサーは、ちょっとした仕草が振りに見えてしまうきらいがある。今回でいうと、ジュリアンのナポレオン讃歌の途中でくるっと振り向く箇所があるが、ここが振りではなく、きちんと身振りに見えたことは大きい。利き過ぎるくらい利く身体を演技に生かせるようになってきたことの表れで、コミカルな恋の指南のナンバーにもそんな収穫が生きていた。舞台姿にも余裕が出てきて、そうなると、男役としても俄然色気が増してくる。何より、心弾ませて安蘭ジュリアンと生き生きとセリフを交わす姿に、安蘭を支える存在としての頼もしさ、そして、この人はダンスだけではなく、演技でも舞台に生きることのできる人なのだと感じさせるものがあった。トップと二番手が拮抗すればするほど、舞台はさらにおもしろくなる。悪役初挑戦の次回作にも大期待である。
 ジュリアンと真実の愛を交わすレナール夫人を演じた遠野あすかも、従来のイメージをいい意味で大きく裏切る演技を見せた。役者だから当然といえば当然なのだが、ついこの前まで、剣を振り回して颯爽と戦っていた女海賊とは思えない! 持ち味的に、もう一人の恋の相手、マチルドを演じてもきっと好演を見せただろうし、今回も、レナール夫人とマチルドの二役を演じても非常におもしろかったと思うが、そう感じさせるくらいの余裕を残して、若々しい青年に出会い、心の奥に眠っていた自分を見出して、妻や母といった役割ではなく、一人の女性、人間として生きることに目覚める人物を、たおやかにしっとり演じて新境地を拓いた。人妻を演じる次回作がこれまた楽しみな限りだ。
 そのマチルドを演じた夢咲ねねの、短期間でのめざましい進化には正直驚かされるものがあった。組替え早々安蘭の相手役を務めるという重圧にめげず、ジュリアンとよく似た魂を持て余す勝気な侯爵令嬢を、情感とせつなさをにじませて堂々と演じきった。舞台上で飛躍的に進化を遂げる姿に、今後につながる大きな可能性を感じさせた。

 先に趣味が悪いだの何だの言ってしまったが、レナール氏についてこれだけ熱く語れるのも、立樹遥の好演あってのことである。自分を持て余して傷つくことの多いジュリアンと対極にあるような存在、自分というものがあまりになくて人の顔色ばかり気にしているレナール氏の人間味あふれる造形に、笑いながらも次第にかわいそうになってきてしまったほどだった。とはいえ、あまりにコミカルに、そして男性としての魅力なしに演じ過ぎると、「ああいう夫だからレナール夫人は若い男の魅力によろめいたのね」と言われかねないところ、ダンディながらも何とも肩幅の狭い人間というストライクゾーンに人物像を設定したことで、ジュリアンとレナール夫人の魂の結びつきがより強調される効果をもたらしている。
 ノルベール伯爵役の涼紫央は正しい意味で“役不足”だが、やりようの限られた中できっちり、見事な仕事ぶりを見せた。衣装の着こなし、髪型、メイク、立ち居振る舞い、どれをとってもこれぞ正統派男役!、まるで少女漫画から抜け出してきたような貴公子ぶりを、下級生は大いにお手本とすべきである。この人一人いるだけで、パリのサロンの格も一段も二段もあがるというものだし、完璧な貴公子ぶりあってこそ、ホトトギスの鳴き真似なんぞをしても決して崩れることがないのである。

 ジュリアンに父にも似た愛を注ぐ三人、ラ・モール侯爵役の萬あきら、ピラール校長役の磯野千尋、シェラン司祭役の英真なおきとも、それぞれの深みで魅せた。三人がそれぞれの立場でジュリアンと真剣にやりあう場面は、背筋がぞくぞくするような演技の醍醐味を感じさせてくれた。
 名門貴族でありながらどこか型破りなところを感じさせるラ・モール侯爵の性格は、娘マチルドに確かに引き継がれている。だからこそ、ラ・モール侯爵は、自分がジュリアンを好ましく思う以上、娘がジュリアンに惹かれていくことをどこか気づいているのである。結婚が許されたと思いはしゃぐ若い二人を、「喜ぶのはまだ早い!」と怒鳴りつけるラ・モール侯爵自身、事の成り行きに困ったとは思いつつも内心どこか喜んで、ジュリアンを娘婿にふさわしい存在にしようと奔走し、そして裏切られたが故の哀しみを感じさせて圧巻である。
 ピラール校長は、神の世界に真摯に生きる気高さと、大貴族の引き立てで出世を狙う俗物さを絶妙に両立させた、なるほど、ジュリアンが師と仰ぐにふさわしい、これまた味わい深いキャラクターである。激昂して放つその「偽物がまかり通る」とのセリフが心に響くのも、磯野の本物の演技あってこそである。
 「シークレット・ハンター」、「エル・アルコン」と、英真なおきは安蘭扮する主人公の父もしくは父的な役割を演じてきたが、今回のシェラン司祭がベストの演技である。ナポレオン崇拝の公言をいさめ、過ちを犯したジュリアンを叱る厳しい態度に、慈愛がにじみ出てやまない。

 二役でセリフがあったなんて、言われないとそうそう気づかないのでは?! としか思えない化けっぷりを一幕と二幕とで見せてくれた紫蘭ますみと美稀千種。学生時代からの友人レナール夫人をいつまでも自分の支配下に置いておきたい心と、自分がジュリアンに選ばれなかったという心、嫉妬の複雑な二面性を、難曲の中に歌いきった琴まりえ。前者はおっとりとした貴公子ぶりで、後者はスマートな中にどこか野心も見え隠れする造形で、パリの社交界を華やかに彩った和涼華と彩海早矢。ジュリアンの恋の駆け引きの相手となる元帥夫人を演じてまさに嫣然といった魅力を見せた華美ゆうか。それぞれの性格の違いの描写が見事だった、レナール家の三兄弟、如月蓮、白妙なつ、花風みらい(特に白妙スタニスラスの巧さにはちょっと舌を巻く)。“家政婦は見た!”ならぬ“女中は見た!”なる暗躍ぶりでレナール家ひいてはヴェリエールの町を引っかき回す、一幕の進行役ともいえる女中の勝手な思惑を小気味いいまでに演じきった稀鳥まりや。印象論に終始したくないため、すべての名前を出せないのが本当に残念なのだが、全員が高い志と技術とでもってそれぞれの役割を果たしきった舞台は、観ていて非常に満足度が高かった。舞台には終わりが来るのが定めとはいえ、この世から消えてしまうのが残念だな……と、今は思う。
 初日(4日)前の舞台稽古を見学。2月の出張の際、宝塚大劇場で観劇したときよりさらにパワーアップした舞台を堪能。「黎明の風」では、出演者それぞれがさらに役との一体感を深め、おかれた立場を背負ってやりあう真剣勝負にわくわく。轟悠の白洲次郎、大和悠河のダグラス・マッカーサー、汝鳥伶の吉田茂をはじめ、多くの出演者にとって当たり役となりそうな好演の連発で、一度や二度の観劇では見きれないほど見どころ多し。星組公演「エル・アルコン」で発表したところ一部で大受けしたので、各組シリーズ化を考えている“心の名場面”ですが、今のところ“隣組ダンス”にかなり琴線に触れるものあり。ショー作品「Passion 愛の旅」は、宙組一丸となったパワー&パッションが炸裂して何だか凄いことに。色とりどりのポップで楽しい玩具がつまったおもちゃ箱みたいに、下級生に至るまで個性豊かな宙組メンバーが、それぞれ舞台ではじけていて、血沸き肉躍る興奮が! そんなエネルギーのマグマを、轟悠がさすがのパフォーマンスと抑制の効いた大人のパッションできっちり締めて、ダブルでおいしい味わいあり。一度聞いたらエンドレスで頭をぐるぐる回る後引くインパクトある主題歌も◎。芝居作品的に男性観客受けもよさそうなので、観劇デートにもお勧めしたく。
 舞台稽古終了後、轟さんと大和さんの囲み会見。あひるからは共演してのお互いの印象をお伺いしましたが、「大和クン」(轟さん)、「お兄さん、いや、お姉さん」(大和さん)なんてコメントも飛び出して、ほのぼのムードに思わず笑顔。
 近所の桜も綺麗に咲いたし、新作の帽子も手に入れたし、気分はすっかり春! 何とはなしに、四月からの新たなスタートの予感に胸を躍らせていたところ…、一足先にと思ったか、パソコンあひる号が真っ白になってしまいました(涙)。…ま、あひるが操作を間違っただけとも言うが。ということで現在、いささかの虚脱感と不思議な爽快感とを胸に、ここ3年ばかしの全データが消去されてしまったあひる号と悪戦苦闘中なのですが、ほとんど、急に記憶喪失になってしまった親友に、「この間まであんなに仲良かったのに、あひるのこと忘れちゃったの?」と問いかけているような気分…。
 気を取り直して、27日昼、都内で開かれた「スカーレット ピンパーネル」制作発表会へ。ブロードウェイ・ミュージカルの日本初演ということもあってか、いつもにも増して大勢の取材陣が集結し、熱気あふれる会見場。会見冒頭、登場人物の扮装をした安蘭けいさん、遠野あすかさん、柚希礼音さんによる歌唱披露が。今回の公演のために書き下ろされた新曲「ひとかけらの勇気」は、歌い込まれて安蘭さんの歌になる日が楽しみ。「謎解きのゲーム」の三重唱も美しく、人はいくつもの顔を持っている…という歌詞が、公演のたびに違う顔を見せてくれるお三方に何だかぴったりだなと感じ入った次第。質疑応答では、フランク・ワイルドホーン氏の手による楽曲を歌われた感想をおうかがいしました。取材陣の期待も大盛り上がりといった感があり、公演が本当に楽しみ。
 初日(16日)前の舞台稽古を見学。芝居作品、心優しいユーモアあふれるハートウォーミングな主人公を演じる水夏希は文句なしにチャーミングなのだけれど……。作品の“清く正しく美しく”性を最終的に担保するのは“悪役”、彩吹真央の好演。「ミロワール」は、鏡の多様なイメージが効果的に生かされていて、宝塚のショーならではの醍醐味と、宝塚きってのダンシング・スター、水の多彩な魅力を心ゆくまで堪能できる作品。オープニング、ゴールドの衣装に身を包んだ出演者たちが客席降りの後、階段を昇って一人ひとり銀橋に再び姿を現す様に、永遠に増幅する鏡のイメージを感じて、心に快い衝撃あり。80年代アイドル・ポップスを思わせる音楽使いも新鮮味いっぱい。AQUA5の「TIME TO LOVE」ボレロ・アレンジに乗せた男役の黒燕尾服のダンス場面も、これぞ宝塚! という感じで眼福。
 舞台稽古終了後、水さん、白羽さんの囲み会見。私からは、主演として初めてとなるオリジナル作品の見どころをおうかがいしました。スパンコールもまばゆいお二人のゴールドの衣装が、このところの睡眠不足でかすみがちな目にはまぶしすぎるくらいまぶしく。
 日帰り出張がてら、宝塚大劇場にて宙組公演を観劇(12日13時の部)。白洲次郎・正子夫婦を主人公に据え、出版界でも注目が集まっているという噂の「黎明の風」ですが、大いに見応えあり。
舞台上での役者の立ち姿とは、演じている役柄の人生に対する姿勢を示すものである。その意味で、低い重心でピシッと決まる轟悠の立ち姿には、白洲次郎が貫き通したプリンシプルをそのまま体現するようなところがある。サンフランシスコ講和条約へ向かう空港でのシーンではジーンズ姿で登場するが、ジーンズというユニセックスないでたちであっても男性として見せるあたり、長年培ってきた男役芸の表れといえよう。飄々とした軽妙さがにじむ台詞回しがきっちり細部まで内面とリンクすれば、次郎の人となりがさらに深く示せると思う。
 そんな轟次郎相手に一歩も譲るところのないダグラス・マッカーサー役の大和悠河の成長にも驚かされるものがあった。大人の男性を体現できる台詞回しを習得し、これまた一本筋の通った男として次郎に対峙するマッカーサーの大人物ぶりを見せている。歌いこんで歌に説得力が出れば、今以上に大物に化ける可能性あり。
 そんな二人ががっちり組んでやりあうところに、蘭寿とむ、北翔海莉らが絡み、それぞれが役を演じる中で男役を競い合うようなところがあって、充実の舞台となっている。吉田茂役の汝鳥伶も絶妙の味わい。宝塚で近現代の日本ものの話ということで、違和感を覚える向きもあるかもしれないけれども、こんなかっこいい男性が我が国にもいたんだ! と再発見させてくれるという意味でも、楽しめる舞台。
 人は誰でも心に一羽の鷹を飼っている。この世に生を享けた以上、己に与えられた力を最大限に発揮してその生を全うしたいと願う、野望という名の一羽の鷹を。
 心の鷹が死に絶えたとき、その年齢にかかわらず、余生という名の死への行程が始まる。生きゆくことと死にゆくこととは、それほどまでに違うのであるからして。
 「エル・アルコン−鷹−」とは、そんな心の鷹を思うがままに羽ばたかせた一人の人間の物語でもある。

 安蘭けいはかつて、「ベルサイユのばら」(2006)の舞台でオスカルと実存とを結びつけ、人間が実際に“オスカル”として生き得る可能性を示した(詳しくは<「ベルサイユのばら」の安蘭けい・その2>の項http://daisy.stablo.jp/article/448444115.htmlを参照のこと)。そして安蘭は、今回の「エル・アルコン」の舞台においても、ティリアン・パーシモンなる人間は存在し得ると、その演技をもって示した。結果、立ち現れた厳然たる事実が一つある。それは、一羽の鷹になぞらえられたティリアン・パーシモンとは、原作者・青池保子の“心の鷹”に他ならないということである。
 公演プログラムに寄せた文章において、青池は、ティリアン・パーシモンというキャラクターに対する作者としての思いのたけを綴り、作品について、「私の漫画作りにおける転機」であり、結果、「本音で漫画を描く」ことを知ったと述べている。私は、安蘭の舞台によって、「己の信念に従って生きている」キャラクターの生き様に寄せる漫画家、芸術家としてのその思いの、想像以上に深い真意に気づかされたのだった。
 ティリアン・パーシモンとはつまり、青池保子が、もはや何ものにもとらわれることなく、己の信念のみに従って作品を描き続けようと決意した、漫画家としての確固たる誓いなのである。そして、何か一つのことに生きようと決意したとき、人生はあまりに短いが故に、人は、ティリアン・パーシモンのように、ときに善悪をも超え、自らのその野望実現に不要なものは切り捨てざるを得ない。ティリアン・パーシモンとは、そんな一つの生の壮絶な誓いに他ならないのである。
 漫画の分野に生きる芸術家である青池は、そんな自らの誓いを、漫画作品の形で発表した。今回の舞台は、そんな青池の表現者としての誓いの表れであるキャラクターに、これまた舞台に生きる安蘭が、舞台に対する自らの誓いを乗せて息を吹き込んだからこそ、“心の鷹”が一層空高く舞い上がることとなったのである。

 それにしても、そんな“心の鷹”を描く青池作品と、宝塚歌劇というメディアの出会いは最適だった。それを解くキーワードが一つある。原作に登場し、舞台化にあたっても取り入れられている、“オールドミス”なる言葉である。キャプテン・レッドの仲間となることを決意した少女ジュリエットに対し、レッドは「オールドミスになるかもしれないよ」と言葉をかけ、ジュリエットは、「キャプテンがいてみんながいて…私の幸せはここにあるのよ」と答えるのである。
 オールドミス。もはや死語となったことを喜ぶほかない、結婚しない女に対して投げつけられる蔑称。そして、結婚しない男に対する明確なる蔑称が存在しないことを考えたとき、この死語は、すべての女性存在に対する蔑称として作用するものともなる。女の人生の価値は結婚経験の有無によって決まるという勝手な論理が、その言葉の背景に透けて見えるからだ。
 己の“心の鷹”を羽ばたかせ、漫画という表現に生きようとしたとき、青池の心にこの言葉に対する多大な反発があったことは、原作でのやりとりから推測することができる。原作では、舞台以上にジュリエットの結婚に対する否定は明確で、たとえ海賊の仲間とならず、故郷の町にいても結婚はしない、と答えているからである。
 宝塚歌劇が、構成員が全員未婚の女性であることからときに理由なきまでの揶揄に曝されることを考えたとき、“オールドミス”なる唾棄すべき死語は、その舞台における最大のダーティー・ワードでもある。私はかつて、“すみれコード”なるものによって書くことを許されないとされるタカラジェンヌの年齢を、“適齢期”なる言葉を駆使して少しでも読者に推測させようとする者によって書かれた、噴飯もののインタビュー集を読んだことがある。「適齢期をとうに過ぎた」等々の表現が全編にわたって頻出するその書籍に、しまいには怒りを通り越してあきれ果てる他なかったが、要するに、その者の心の内にも、女が結婚せず何かに取り組んでいることに対して、“オールドミス”なる蔑称を投げつけるのと同じ思考が存在しているのである。
 漫画を描く。舞台に生きる。何でもいい。女が何か一つのことに生きようとしたとき、“オールドミス”に始まるどれだけの心ない言葉が投げつけられることか。それでも、ティリアン・パーシモンが言い切るように、「野心に理由などない」。“心の鷹”を羽ばたかせる理由は、それしかない。もちろん、それは何も、他者が結婚その他の選択肢を取ることを否定するものでは決してない。ただ、自分の人生においてはその選択肢は、現時点では取らない、取っていないというだけの話である。
 未婚の女性が集まって何やらやっていて、そこにまた女どもが何やら群がっている……なる、宝塚歌劇に対する理由なき揶揄に対して、私は、「そこでは、この世に二つとない舞台が創造されていて、それを尊ぶ者がいる」と答えるものである。しかし、そんな揶揄に曝され続ける宿命を背負った宝塚歌劇において、青池保子のアーティスト宣言ともいえる作品が上演されたことは、「ベルサイユのばら」上演と同様、実に幸福な出会いだったと言うべきだろう。

 人の心に棲まう鷹。理由なき野望。しかしながら、それこそが、人類の歴史の歯車を前へ前へと回してきたものに他ならない。例えば、コロンブスはなぜ、そんなにもアメリカを発見したかったのか。もちろん、名誉欲等々、後付の理由はいろいろあろうが、その根本を問うてみればきっと、ただそうしたかっただけのことで、理由などないと答えることだろう。まだ見ぬ七つの海と空を見たいと切望し続けるティリアン・パーシモンもまた、同様の想いを抱く者である。それまでに存在していたのとは異なる選択肢を取る人間がいたことで、歴史は発展し、人類は今日ある姿となったのである。
 安蘭演じるティリアン・パーシモンが、ギルダとレッドとの美しい三重唱で、「私は羽ばたく/この翼折れるまで」と高らかに謳うとき、舞台を見入る私もまた、生きたいと願う。生きようと誓う。己に与えられた何がしかの力、心の鷹を、命尽きるまで、力の限り、空高く羽ばたかせたいと思う。理由などない。それこそが、私にとって生きるということに他ならない。
 ティリアン・パーシモン。生きる本能に忠実な、あまりに忠実な。その人を私は、“我が友”と呼ぼう。
 昨夜、力尽きた続き(……申し訳なかったです)。
 今回の公演でもっとも進境著しいところを見せたのが、キャプテン・ブラックを演じた和涼華である。
 顔にキズありのワイルドな風貌で、赤いバラをくわえて後ろ向きにセリ上がるという派手な登場の仕方に、初見の際、「バラをくわえた男がさまになるのは、この世で少女漫画と宝塚歌劇だけ……」とうれしくも度肝を抜かれたものだったが、そんなおいしい役どころをしっかり自分のものとしただけでなく、新たな魅力で魅せて、星組にこの人ありというところを大いにアピールした。
 キャプテン・レッドと出会いがしらに一戦交えるも、彼の内にある大志に共感を寄せ、厚い友情を誓ってそのよき右腕となるキャプテン・ブラックの存在は、レッドの人となりを語る上で実に大きな役割を果たす。というのは、人というものは、その親しい友人によって価値を慮られるところがあるからである。この人物がここまで友情や愛を寄せるからには、その相手もひとかどの人物であるに違いないというわけで、ブラックが男前であればあるほど、そのブラックに友情を寄せられるレッドの男前も上がる。男の格を上げるその親友の存在というのは、宝塚の作品でも多分に必要不可欠なところがあって、最近の星組の作品でいえば、「ヘイズ・コード」での立樹遥の好演が印象深いところである。
 今回、和は、ヴィジュルアル的なインパクトもさることながら、男役としての骨太な魅力を開花させてブラックを演じきった。海賊としての経験自体はブラックの方がレッドより多いから、頭脳的な作戦を参謀として理知的に遂行しつつ、レッドにきっちり復讐を遂げさせる、実に気持ちのいい男前ぶりである。目の前でティリアンにスペインに亡命され、我を失ったレッドをいさめるシーンでは、まだまだ若いレッドを温かく見守る包容力がどんどん増して、頼もしい限りだった。終幕、ティリアンへの複雑な想いを吐露するレッドを見つめる眼差しも、多くを語らなくとも深い理解と優しさにあふれているのが実にいい。
 登場の際の大仰なセリフ回しが当初は気になったが、公演が進んで芝居の本気度が増すにつれ、ブラックの気持ちを素直に伝える自然な言葉運びとなっていったあたりに、芝居勘のよさを感じさせる。トーク番組などを見ていると、興味深く人を観察する目に鋭いものをうかがわせる。「観る/観られる」は演技の根幹、その観察眼を役作りに生かすことで、さらなる大きな成長を遂げていってほしい、今後が実に楽しみな男役である。

 それにしても、レッドとブラックの関係を、ティリアンとギルダの関係に敷衍してみると、多分にせつないものがあるのである……。
 男同士だから、海賊同士だから、若くて素直な者同士だから、レッドとブラックは、気が合うことさえわかればすぐに仲間となって、一緒に戦うことができる。ところが、ティリアンとギルダは、男女の違い、海軍士官と海賊という立場の違い、そして何より互いにプライドの高さがあって、なかなか素直になれない。
 男によって家に囲われている女しか知らないティリアンは、ギルダを捕らえて自分のものとした後も、同じ船には乗せても一緒に戦うことはしない。ギルダは、軍人なら名提督と謳われるくらいの凄腕の女海賊なのだから、それこそ男装でもさせて、一緒に戦えばよかったのである。そうすれば、ギルダは哀しい最期を遂げることもなく、ティリアンもそのため死ぬこともなく、二人して本当に七つの海と空を見ることができていたかもしれない……とまで考えるのは、幾分穿ち過ぎかもしれないけれども。
 ブラックが「俺はお前が気に入った」で済ますところを、「最大の敬意と愛情をもって」云々とやっているティリアンとギルダを見ていると、何とまあまどろっこしいことよと思ってしまう。それに、もしかしたら、ブラックが「俺は借りを返す男だぜ!」と颯爽とレッドを救いに来るのを見て、友愛というものに一切縁のなかったティリアンが、「そうか、友情とは、あのように育むものなのだな」と思い、ギルダと仲良くなりたくて、「借りを返したまでです」と言っているのかもしれない……と考えたら、その不器用さが愛おしくて何だか涙さえにじみそうだ。もっとも、そこで「私を差し出しなさい」と誇り高く返してしまうギルダもまたティリアンと同じくらい不器用なわけで、不器用の度合いが釣り合ってこそのこの二人の関係なのかもしれないと思うものでもあるけれども。
 次回公演「赤と黒」ではなくて、星組の若武者の如き二人の男役の話。
 「ヘイズ・コード」以来、星組公演では毎回、物語の本筋とはまたちょっと離れたところで強烈なインパクトが残ってしまう場面があって、個人的には“星組心の名場面”と呼んでいる。「ヘイズ・コード」では、にしき愛に催眠術をかけられた南海まりが夫の浮気相手とおぼしき女の口紅の銘柄(「小悪魔レッド」!)を口にしながら猛スピードで後ずさりするシーン。「シークレット・ハンター」では、プリンセス誘拐の芝居を打っている黒幕三人組(柚希礼音、涼紫央、綺華れい。博多座公演では、涼、綺華、夢乃聖夏)が、鉄砲持ち出し即興で狂言を演じて「プリンセス〜」と絶叫するシーン。どちらも観劇のたび爆笑を誘われたシーンである。
 そんな名場面に絡んだ二人、綺華と南海が退団してしまうのが実にさみしい今回の公演だが、ここで、「エル・アルコン−鷹−」の“心の名場面”を発表させていただくと……ジャジャーン……ティリアンがスペインに亡命してしまい、復讐を遂げられなかったキャプテン・レッドが逆上、それをキャプテン・ブラックがいさめ、仲間たちが今まで以上に熱く団結を誓うシーンである。「ティリアンを追え!」と命じるレッド、それを思いっきり殴って止めるブラック、正気に戻ったレッドの姿に再び勇気を取り戻す海賊一味、すべてのセリフ、すべての動作が、いちいち熱い! 寺嶋民哉の活気ある音楽の盛り上がりとあいまって、若き情熱が一秒ごとに滾り、まるで熱い熱い青春スポ根ドラマのような感動を味わわせてくれる。「シークレット・ハンター」フィナーレの“クンバンチェロ”の場面でも、観劇のたびに体感温度が五度くらい上がるような興奮を感じたが、今回のこの場面も、「ティリアン、必ず貴様を倒す!!!」のレッドのキメゼリフに、観ているこちらまで「おお、やったるで〜!」(何をだ?)と拳を振り上げたくなってしまう高揚感にあふれている。
 そんな“心の名場面”の芯を務めているのが、キャプテン・レッド役の柚希礼音とキャプテン・ブラック役の和涼華だが、レッドとブラックが打倒ティリアン! で熱く燃えるように、両人とも、宝塚の舞台に若さのエネルギーをぶつけるような熱い舞台を繰り広げている。

 通常の宝塚の舞台であれば主人公になってもおかしくないキャプテン・レッドという役柄を、柚希礼音は主役を支える立場で演じるという重責を任された。ダーティ・ヒーロー、ティリアン・パーシモンに共感を誘うのが難しいのと同様の意味で、このキャプテン・レッドという役も難しいところがある。すなわちレッドは、無実の父をティリアンに殺された復讐を遂げるという部分では観客の共感を誘わねばならないが、ラスト、ティリアンとギルダを自らの手で殺し、そちらに観客の共感を集めるだけでなく、ティリアンなる悪を善として救う役割も果たさなくてはならない。そのためには、ティリアンとギルダを殺した自らの行動を、高度な意味で正当化する必要がある。勧善懲悪のヒーローとして、単に悪を滅ぼして終わり、ではないのである。
 個人的には、ティリアンなる悪を善であるレッドが救うことこそ、真に深い意味での宝塚のモットー、「清く正しく美しく」の実現――私はこの言葉を、究極的にはすべての人間の中に“善”を見出すことだと固く信じてやまないものである――だと思っている。星組の舞台で描かれた「エル・アルコン」とは、端的にいえば、人誰しもティリアンとなる可能性があるところ、いかにしてティリアンにならずレッドとして生き得るべきかをめぐる物語だと思う私は、ティリアンとはレッドになり損ねた者、レッドとはティリアンにならなかった者だと考えている。この件については別項で詳しく論じることとして、ここではレッドを演じる柚希について話を進めたい。

 ある意味、作中もっとも難役となったこのレッドなる役を、柚希はその役柄の気質とも重なる体当たりの演技で造形したが、最終的には、今後、柚希の大きな魅力となっていくであろう一つの要素が、その役作りの決定打となったと思う。大柄な体躯に似つかわしい明るさ、陽気さ、華やかさが柚希の持ち味であることは言を俟たないが、その一方で彼女は、ふとした折に見せるさみしげな表情が魅力的な人でもあって、その表情は、明るさや華やかさといった美点をも引き立てる陰翳となるからである。「シークレット・ハンター」で主人公ダゴベールの親友セルジオを演じた際も、見守る表情にどことなくさみしさを感じさせるときがあって、そのさみしさゆえにダゴベールとどこか引き合うものがあるのだろうと思うときがあった。
 今回演じているレッドは、何不自由ない環境で育った屈託のない青年だが、父を殺され、復讐を誓って海賊となる。基本的には仲間思いの包容力あるキャプテンだが、柚希は例えば、ブラックに語る「私が心から憎む敵はこの世でただ一人だ」というセリフで、さみしげな表情を見せる。この表情は、実に効いている。心から憎む敵はこの世でただ一人ティリアンのみとはすなわち、ティリアンこそがレッドに“憎む”という感情を教えた相手であって、ティリアンとの出会い以前にレッドの中に“憎む”という感情はなかったということである。“憎む”を知ってしまったレッドは、一つ大人になって、一つ無垢を失う。ティリアン、ギルダとの美しい三重唱でレッドが歌う「帰る場所を失くした」とはすなわち、子供時代のイノセンスを失ってしまったということであって、だからこそレッドはさみしくて然るべきなのである。歌に関していえば、この歌のみならず、全般的に説得力が増したことも、レッドの造形に大いに役立っている。
 そして、ティリアンとの壮絶な果たし合いの後、銀橋でつぶやく「さらばティリアン、私は君を忘れない」。東京公演で増えたこのセリフを語るときも、柚希はやはりさみしげである。そのさみしげな表情には、レッドの実に複雑な内面がないまぜになっている。父を殺し、自分からすべてを奪った相手、その相手の中に自らと同じ魂を見出し、理解を寄せること。ここに、「エル・アルコン」の“清く正しく美しく”は一点の曇りもなく実現される。
 今回、レッドという役柄を最終的につかむまでには相当な苦労があったと思うが、「柚希礼音」なる方程式の答えは、柚希本人の中にしかない。決してあせることなく、心に余裕をもって、自分自身をとことん見つめ、突きつめて、世界に一つしかないその方程式のバリエーション豊かな解をこれからも見せ続けていってほしいものである。

 ブラックについては、また明日。
 青池保子作の少女漫画を原作とした宝塚星組公演「エル・アルコン−鷹−」で、安蘭けいはダーティ・ヒーロー、英国海軍士官のティリアン・パーシモンを演じている。
 「七つの海、七つの空をこの目で見たい」――そんな、理由なき己の野心のため、利用できる者はとことん利用し、邪魔者は消し去り、実の父親と目される男まで自らの手で葬り去る冷血漢、ティリアン・パーシモンに果たして心はあるのか? ――それを問う以前にそもそも、この舞台作品の台本には、“心”がない。初見の際、登場人物に感情移入しようとしては気持ちの流れがぶつ切りにされる、そんな作劇に憤りと不快感すら覚えたものである。観る側ですらそうなのだから、演じる側にとっての苦労はいかばかりか。何しろ、主人公ティリアンでさえ、説明めいたセリフが多すぎるのだ。そんなキャラクターに、安蘭はいかに心を通したか。
 人は対峙する相手によって、抱く感情、そしてその開示と装いとの度合いが異なるものである。露骨に好悪の念を抱き、それを開示することを厭わない相手。何らかの感情は抱いてもそれをいかほどかは装いたい相手。感情というものをいっさい抱かない相手、等々。逆に言えば、いかなる相手にいかなる態度を見せるかによって、その人物がいかなる人間であるかがわかるとも言える。安蘭は、セリフを交わす相手及びモノローグに登場する人間すべてに対して、実にきめ細かに、その人間性の一貫性に一切の疑問を生じさせることなく、感情と装い及び開示の度合いの違いを示すことによって、台本が描くことのできなかったティリアン・パーシモンという人間を、舞台上に鮮やかに息づかせてみせる。台本の不味さが役者の演技力をこれほどまでに引き出すとは、実に皮肉な話である。
 そんな安蘭の演技は、“悪”と“演じる”という行為との相関性を明らかにする。
 先に感情とその装いについて述べたが、その装いこそが“演じる”と呼ばれる行為に他ならない。以前、「私は演技というものを見たことがない」と語る演劇人に出会ったことがあるが、その言葉が言い当てているのがまさにこの真理である。人は何も舞台という場においてのみ演じるものではない。日々を過ごす中、いかなるときでも状況と相手に即した演技をしているともいえるし、だからこそ、舞台上で別に演技なるものがなされているわけではないとも言うことも可能である。
 本来的に“悪”とは、己の無実を装うものであったり、己の本心を隠す必要性が高いことから、多分に演劇的な存在であると言える。しかしながら、ティリアン・パーシモンとして一点の齟齬もなく、すべての人間に対して感情と装い及び開示の度合いを違えてみせる安蘭の演技は、“悪”と演劇的行為のもう一つの相関性に光を当てる。
 自分本位のルールで支配できる強固な世界を構築し、その領域を広げようとする行為を“悪”と呼ぶならば、それは、今ここに存在しているあるがままの世界や、人によっては“神”と呼ぶ存在への挑戦でもある。
 翻って、舞台上に、この世界とは異なる世界を構築しようとする演劇という行為は、実在しない人間を創造し、本来は再現不可能な生を繰り返そうとするものであり、それは、人造人間やクローン人間を創造せんとする欲望、すなわち、世界や“神”への挑戦にも似た“悪”なる所業ではないか。演劇的行為の根幹に、“悪”の本質と通底するものがあるからこそ、“悪”とは古今東西、舞台作品の格好の題材となってきたとも言える。
 安蘭の演技はまた、“悪”と美の相似についても示唆に富む。ティリアン・パーシモンの人間性をくっきりと、限りなく豊穣に描き出す、しかしながら一切の無駄のないセリフ術。そして、立ち回りの際にひときわ鮮やかに発揮される、これまた無駄なく研ぎ澄まされた動き。そうして舞台上に体現される美は、己の野心達成のために不必要なものは、過去でさえ、肉親でさえ切り捨ててゆくティリアン・パーシモンなる“悪”と、見事なまでに相似形を成す。“悪の美学”なる言葉が成立する所以である。
 知的な男役である。舞台上で与える印象がそうであるだけでなく、台本の読みもシャープで、役作りの方向性もその深化の度合いも実に的確。その才知で、見どころの多い舞台を続けている。
 「シークレット・ハンター」東西大劇場公演で演じたマックスは、自国のプリンセスの替え玉を大泥棒に盗み出させることでプリンセス暗殺の計画を防ごうという大芝居を、国王の総指揮のもと、自らも重要な役柄を演じながら巧みな演出で打つという役どころだった。プリンセスを盗み出させる船上パーティでの場面、会場を見渡し、すべてが彼の手のうちにあると客席に気づかせるその姿に、芝居の全体、大局が見えているからこその知的な役の造形なのだなと感じた次第である。
 今回の「エル・アルコン−鷹−」で演じている陸軍大佐エドウィン・グレイムは、主人公ティリアン・パーシモンにフィアンセ・ペネロープ嬢を横取りされる。海軍提督の令嬢であったペネロープとの婚約は、エドウィンにとって出世をも意味していたが、恋も手にしかけた権力も奪われ、しかも当のペネロープは利用され弄ばれた挙句ティリアンにあっけなく殺されてしまう。愛するペネロープの仇を取ろうと、エドウィンは復讐に燃える――という設定ではあるのだが、登場シーンも役の書き込みも少なく、最終的に何かを成し遂げることもなくフェード・アウトしてしまう按配である。なまじの演技力では、いったいこの役は何をしに出てきたどういう人間なのだろう? との疑問を観客に抱かせかねないところ、少ない登場の中でその人間像にきちんと一貫性をもたせている。それどころか、いかなる背景をもつ人物で、物語の後はいかなる人生を送るのだろう――と観る者の想像力を大いにかきたてるという意味では、短い出番を逆手に取る好演である。舞台に描かれない役柄の“余白”の豊穣さを感じさせる役者である。
 「エル・アルコン」に出てくる男たちはみな野望や復讐、友情に燃えていて、恋が描かれてもあまり甘いムードとはならないのだが、そんな中、涼演じるエドウィンがもっとも、いわゆる宝塚のラヴ・ロマンスのロマンティック・ヒーローたりえている。あまりにあっさりティリアンに殺されてしまうペネロープの運命は哀れを誘ってならないが、そのペネロープに、こんなにも愛を注いでくれる男性がいたのだ……と思うとき、観客はどこか救われる。悪がヒーローに設定されているこの作品では、周囲のキャラクター配置も多分にイレギュラーなものとなっているが、己の美貌と才覚で名家の令嬢を手に入れ、楽して出世しようとしていたお坊ちゃん気質の男が、恋人を奪われ、己の内にある愛に気づいて人間として成長を遂げる……という、エドウィンを主人公にした物語をひねり出すことも十分可能である。
 そんなことを考えてしまうのも、涼紫央が、“白”の魅力をたたえた宝塚の正統派の系譜に連なる男役だからなのだと、東京公演で改めて気づかされて、目を拓かれる思いがした。正統派中の正統派たる男役というのは実はそう多くはない存在である。男役とは何も、正統派と個性派とに大別されるわけではなく、正統派とは、確固たる“白”の個性をもった男役にのみ与えられるべき称号だからだ。例えば、下級生に候補となりそうな者はいても、明らかに正統派であるとはっきり断言できるのは、全組見渡しても瀬奈じゅんを筆頭に何名いるか。星組では涼と、意外と言っては大変失礼かもしれないが、にしき愛が正統派男役の系譜に属する存在である(“正統派男役”についてはいずれ瀬奈じゅんの項できちんと論ずることにしたい)。
 正統派の中でも、その根本となる“白”を引き立てる要素がいかなるものであるかによって個性が異なってくるのだが、涼の場合は、前述したように、知性と、宝塚の男役の美学への微細を穿ったこだわり、そして、濃厚さと爽快さのえもいわれぬ共存である。黒燕尾服の着こなしやリーゼントの具合、その踊りの際の肩や腕のラインの微妙な角度、ソフト帽の被り角度、和物の若衆姿の立ち姿、宝塚の男役の表象の表現において、研究に研究を重ね続けていることを如実に感じさせるその舞台姿からは、上質の石鹸をきめ細かく泡立てたときにのみ可能になるような、緻密な男役の美学が薫り立つ。そうして体現しようとしている男役像は相当に濃いものであるのだが、本来の持ち味が非常にさわやかなため、濃厚に見えてさっぱり、それでいてやはり濃厚という、まるで実際口に運んでみるまで想像もつかない滋味のようなのが、実に興味深い。今回の「レビュー・オルキス」でも、一場面、艶やかな女役姿で登場するが、清潔感のある色気が少女のような魅力を感じさせる。
 今回の「エル・アルコン」ではあまり腕の見せどころがないのが残念だが、役者としては、繊細な人間関係を表現でき、コメディも大いにいける多才な人材である。「シークレット・ハンター」の博多座公演で、涼は、東西大劇場公演では柚希礼音が扮した主人公ダゴベールの親友セルジオ役を演じた。柚希が、ダゴベールに父性愛にも似た包容力を発揮する人物としてセルジオを演じたのに対し、涼は、ダゴベールに対して友情以上愛情未満の感情を抱いているような、それでいて、自分に対して友情以上のものは抱いていないダゴベールにはそのことを感じさせぬよう振る舞うという、少々哀しみをも感じさせる、実に大人の魅力あふれる男性としてこの役を造形していて、まるで、漫画家よしながふみが好んで巧みに描くような人間関係の微妙なあわいを表現できる役者なのだと感じ入ったものである。
 コメディセンスについていえば、その「シークレット・ハンター」の中の名場面、ダゴベール相手に一芝居を打ってみせるシーンで、東西大劇場、博多座とも大活躍を見せていた。「ヘイズ・コード」でもちょっとしたセリフの言い回しにキュートなおかしみがあったものだったが、忘れられないのが、「愛するには短すぎる」での一言である。このとき涼は新進女優に美人局に遭わされる、人のいい女好きの演劇プロデューサーを演じていたのだが、船上で狂言自殺を図った彼女に、次々と大きな役を約束する羽目になる。最終的には新作のヒロインを与えるところにまで追い込まれるのだが、そのときの、「ヒロインといえば、主役だぞ〜」と尻すぼみに発するセリフに何とも言えないトホホ感が漂っていて、観劇の度に笑ってしまったものである。
 セルジオを演じた際に感じさせた、主演男役・安蘭けいとの芝居の相性のよさをも含め、これからも、実力と持ち味、そして男役の美学を発揮し、星組の、宝塚の舞台を大いに盛り上げていってほしい人である。