久々に宝塚で本格的ラヴ・ロマンスを堪能したなあ……と、観劇後、何だかホッとしたのが、日本青年館大ホールにて25日まで公演中の「HOLLYWOOD LOVER」である。
 イングリッド・バーグマンとロベルト・ロッセリーニの不倫愛、ジョン・F・ケネディ・ジュニア夫妻の墜落死といった、アメリカ史を華麗に彩るセレブ達にまつわる事件をモチーフとして織り込んだ脚本にこれといった破綻はなく、若手作家ならではのスタイリッシュな感覚にあふれたナンバーとダンスが盛り込まれていて、二時間半を楽しめる。それより何より、主演の大空祐飛の魅力が引き出されて輝く。相手役を務めた城咲あいの嫌味のない妖艶な個性もあって、実に大人の雰囲気を醸し出せる主演カップルが、がっちり組んでほろ苦い恋物語を体現している。フィナーレのデュエット・ダンスの艶やかなこと。アメリカ中が憧れる大スターに扮した城咲が次々と着こなして出てくる女優ファッションもため息ものだ。
 どんな作品においても、時代の空気をグラマラスにまとうことのできる姿が印象的な五峰亜季。一見軽薄にゴシップを追うようで、真実追求の決意を心の奥底に秘めたジャーナリストをキュートに好演した憧花ゆりの。娘役の活躍が目立つ公演でもある。

 2006年の「ベルサイユのばら」星組公演にオスカル役で特出したときにも思ったことだが、主演の大空は実は、この作品の主人公ステファーノ・グランディのような、まっすぐひたむきに何かを追い求める役柄が向いている。
 この人は、今の宝塚の男役スター陣にあって、実におもしろい存在である。なかなかに得難い個性をもっている。舞台上で垣間見せるその個性に大いに魅力を感じながらも、いざ、プロフィールやキャッチ等々の短い字数でまとめようとすると難しい……というのが、大空の個性のユニークたる所以である。
 話をわかりやすくするためいつも持ち出して恐縮だが、安蘭けいが、人間存在の混沌を可能な限り己の役者としての存在のうちに咀嚼して舞台上に提示するのに対し、大空祐飛は、人間存在の混沌をそのまま無邪気に舞台にぽんと載せてしまうようなところがある。だから、その個性は観客にとって一見非常にわかりにくい。わかりにくいけれども、何か心ひかれるものがある。何ゆえこのようなことが可能になるのだろうかと考えて、取材の際の彼女を思い出して、納得する。大空祐飛は実に理路整然と話す人である。テープをそのまま起こして句読点をつけたらもう原稿ができあがっているような話しぶりなのである。昔、政策派と言われる若手国会議員のインタビューの連載を一年以上担当していたことがあるが、彼女以上に理知的に話す人は、その中でも一人か二人いたかどうか。
 自分の中で思考が整理されているから、混沌を舞台上に投げ出しても、本人はどうということはない。その混沌を目にした者が、自らの混沌を見透かされたような気がして、心が騒いでしまうのである。だから、斜に構えたような役をやってももちろん魅力は発揮されるけれども、役柄の内実と本人の投げ出す混沌との相乗効果で、観る者の心理がどんどん袋小路に追い込まれてしまう恐れもある。実はまっすぐな役が向いていると言ったのは、この混沌の無邪気な投げ出し方ゆえである。

 大空といえば、代表作として挙げられるのが、今回の作・演出を担当した植田景子と組んだ作品、ジャズ・エイジの寵児F・スコット・フィッツジェラルドを好演した「THE LAST PARTY」である。大空は、第一幕、時代の寵児と持てはやされる若き日の作家の姿が実に生き生きと魅力的で、その座から転落した晩年を描く第二幕では、人生にあがく姿を自己憐憫やかっこつけなしにあまりにストレートに見せるのが、正直、意外だった。観劇前は、第二幕の悲劇的運命の描写に力を入れてくるのかなと予想していたからである。
 今にして思えば、その二幕の造形にも大いに納得がいく。というのは、時代の寵児の座から転落したフィッツジェラルドが世間から“終わった”作家とみなされていたのと同様に、かつて私自身が“終わった”とされるものを生きていた年月があったことに、その後ほどなくして思い当たったからだ。“終わった”ものとは、新入社員時代を過ごした、今はなき写真週刊誌の編集部のことである。
 私が配属されたとき、雑誌にすでに往時の勢いはなく、200万部もの部数を誇った時代を知る人は、しばしば昔を懐かしんでは語って聞かせた。いい時代など知らない私にとっては、最初のうちこそおもしろかった思い出話も、次第に鼻についてくる。何とか昔のように雑誌が売れないものだろうか、そのために自分は何をしたらいいのか、日々そのことしか頭になかった。その雑誌がもはや“終わった”と思っていた内外の人々にとって、そんな私の姿は滑稽ですらあったかもしれない。けれども、物事も、人生も、すべては本当に終わりが来るまでは決して終わってはいないのである。他人に“終わった”とされた人生でも、当事者にとっては未だ続いている。だから私は、“終わった”という安易な表現を、ときにほとんど憎んでいる。
 そう考えると、「THE LAST PARTY」第二幕での大空がなぜ、自己憐憫に耽る姿を魅力的に見せるのではなく、人生にあがき続ける姿を平気でさらしてみせたか、合点がいく。大空扮するフィッツジェラルドは決して人生をあきらめてはいなかったのである。人生をあきらめないその姿に、大空は男役として表現すべき美を見出していたのだろうと思う。

 他に印象的だった役として、「飛鳥夕映え」の中臣鎌足が挙げられる。この役柄の造形は出色の出来だった。作品において悪役的位置付けとなっていたこの役を、大空は、かつて自分が純真であったがゆえに、その後度重なるさまざまな人生の困難、挫折を経て、他者の心を読み、自分の野望に沿う形で操れるようになり、そのことに無論幾許かの快感を覚える一方で、そんな人間の怪物となってしまった自分自身をどこか持て余している、そんな風に演じていて、それ以来、私にとって、この人は何だか怖い役者でもある。
 「HOLLYWOOD LOVER」を最後に、大空祐飛は長年在籍した月組を離れ、花組にその活躍の場を移す。新天地が、未だ解き放っていない個性を大いに発揮する場とならんことを期待するものである。
 八月の博多座公演の終盤のある日、「シークレット・ハンター」を観ていて、遠野あすかは、真に深い意味で舞台に立つことの喜びに目覚めたのではないだろうか……と感じた瞬間があった。
 安蘭けい演じる主人公ダゴベールが、遠野演じるヒロイン・ジェニファーに、自分が盗みに手を染めるようになった過去を打ち明ける要塞の場面で、ダゴベールの傷ついた心を深く理解しながらも、それでも人として間違ったことをしてはならないとジェニファーは諭す。その日の安蘭ダゴベールと遠野ジェニファーは、役柄を演じるという次元を越えて、それぞれが背負った役柄の人生を賭けて本気でセリフを交わしていて、二人して演劇の彼岸に透き通っていくようなその光景に、自分が芝居を観ているのではなく、まるでダゴベールとジェニファーの人生の一コマに立ち合い、その会話に耳を傾けているような感覚を覚えた。そして前述のような感慨を抱いたわけだが、その思いは、「エル・アルコン−鷹−」を観て揺るぎない確信に変わった。宝塚の主演娘役としては異例ともいえる役柄、誇り高き女海賊ギルダ・ラヴァンヌに扮して、遠野あすか、快演である。
 入団二年目で大抜擢を受けて演じた「Crossroad」のヒロインをはじめとして、遠野の舞台姿には当初、向かう人生怖いものなし! という印象があった。そんな怖いもの知らず感が、入団四年目で花組に組替えとなってからは少々鳴りをひそめてしまったようなところがあって、正直、何だか物足りなく感じると同時に、宝塚における娘役のあり方とは想像以上に難しいものなのかもしれないな……と思うこともあった。そんな怖いもの知らず感が、星組にやって来て安蘭けいと主演コンビを組んでから見事復活したことに、宝塚における娘役の活躍を支持する者の一人として、快哉を叫びたい。もちろん、経験を重ね、力を貯えてきた今見せる怖いもの知らず感は、かつてのそれとは大いに質の違うものである。
 役柄的にぴたりとはまったときには大きな武器ともなってはいたが、以前は、ときとして一人で芝居をしてしまう癖があった。それが、臨機応変縦横無尽、舞台上で飛び道具のような変化を見せる安蘭の相手を務めるうち、相手の出方や空気を読む術にも長けてきて、そんな遠野が安蘭と真剣勝負でやりあう芝居を観ていると、宝塚以外の舞台であってもそうそうお目にかかれない本気の演技合戦に、背中がぞくぞくする。
 遠野の役者、娘役としての最大の武器は、その声と発声である。女性が男性を演じる男役以上に高い声を出さなくてはいけない娘役は、ときとして非常に無理な発声を強いられる場合があるが、遠野の発声は実にナチュラルで、それでいて、透明感ある声は宝塚の娘役らしい好ましさに満ちあふれている。この声と発声によって、遠野は、宝塚の娘役の本分を守りつつ、その領域を拡大していくという、相反しかねない使命に挑む。相手役の安蘭との声質の相性もよく、二人がえも言われぬハーモニーを聴かせる瞬間、舞台作品におけるデュエットとは、二人の人間の心が重なり合ったその瞬間を示すために歌われるものであるという基本原則を、改めて実感させられる。
 今回のギルダ役では、その声を一段と低く落ち着かせて使うことで、女海賊としての誇り高さ、主人公の策士ティリアン・パーシモンとも堂々と渡り合えるしたたかさ、度胸のよさを示す。その一方で、ティリアンに心ひかれ、己の誇りのためにひたすら戦ってきた人生を振り返るためらいの歌では、透明感ある声を高く響かせ心に染み入る歌唱を披露する。その美しい声が最大に生かされるのは、エンディング、永遠の復活を遂げた白い衣装のティリアンに、「貴方のその翼に乗り/遥か彼方羽ばたくのよ」と高らかに歌い上げる瞬間である。そのとき、主人公ティリアン・パーシモンの劇的な人生を見守ってきた観客の心は、遠野の歌声に誘われ、永遠の自由に羽ばたくティリアンの翼に乗り、空高く飛び立っている。
 それにしても、ギルダ・ラヴァンヌ率いる女ばかりの海賊軍団ブランシュ・フルールとはほとんど、女性だけの出演者で舞台を創り上げる宝塚歌劇団のアナロジーである。女海賊一味を引きつれ踊る遠野ギルダの勇ましくもりりしい姿を観ていると、世間という名の男社会の中で行き場を失くし、宝塚の舞台にのみ慰めを見出していたかつての自分を思い出して、ときに胸が熱くなる。自分という人間に与えられた女性性とは、少女性という、男社会の中でもとりわけ役に立たないものであることに、10代の終わりから割に最近まで大いに悩んできた私には、ティリアン・パーシモンという男性性に剣を取っての正攻法で立ち向かって敗れるギルダの逡巡の歌は、ほとんど鎮魂歌に近い響きをもって届く。ただし、そんなギルダがティリアンに心ひかれていくのは、ティリアンの暴力まがいの愛の行為に屈して自らの女性性を突きつけられたからではなく、ティリアンの中に、自分の中にあるのと同じ孤独と哀しみを認めたから、すなわち、人が生きる上で負う心の痛みに、男も女もないということをギルダが知ったからだと信じたい。遠野ギルダの繊細な演技には、そんな深い説得力がある。
 ショーの「レビュー・オルキス」でも、歌に踊りにコミカルな演技に、キュートな持ち味が全開である。大人っぽいムードの場面でも、彼女の体現する娘役像にはどこか、永遠の少女性を感じさせるところがあって、それが非常に魅力である。ただ、ときとして、宝塚の娘役という存在に求められる条件があまりに浮世離れしているようなところもあるためか、娘役の少女性は多分に人工的なものと見えたり、あるいは芸の本分を見失って単なるハッタリ芸となってしまうようなケースも見受けられるところ、遠野の場合、あくまで娘役芸に忠実に、それでいて舞台に確かに息づくヒロインを演じられるのがいい。世界に一人で立ち向かい、ときに傷つき、けれどもまた一人で立ち上がり、そんなうちに、少女から大人の女性へと成長を遂げてゆくヒロイン――。世界は、正攻法だけで戦うには手強過ぎて、でも、結局のところは正攻法で戦ってゆくしかない。そんなちょっぴり苦い人生訓を思い出させてくれるヒロインを演じられる娘役が、私は大好きである。
 親友のような存在だった祖母が亡くなって半年ほど、タンゴしか聴けなかったことがある。
 祖母がタンゴが好きだったわけでも、祖母との間にタンゴにまつわる想い出があったわけでもない。それなのに何故か、心が、身体が、規則正しいリズムにのって展開されるあの哀切感あふれるメロディーしか、受けつけようとはしなかった。観劇に訪れた劇場で異なるジャンルの音楽を聴くことはあっても、家では何故か、タンゴのCDにしか手が伸びなかった。

 タンゴを取り入れたショー作品に安蘭けいが主演すると聞いて、瞬間的に、安蘭とタンゴは合うだろうなと思った。その予感は実際、裏切られることはなかった。
 ストーリー仕立ての「レビュー・オルキス」で安蘭は、愛を求めて世界を彷徨う男に扮する。世界を旅して男は、ついにただ一つの愛を見つける。孤独から愛へ、男のその彷徨は、かつて「安蘭けい、窯変」なる原稿で指摘したところの、安蘭けい自身の演者としての窯変そのものとも重なるところがある。作中、安蘭は、予感、彷徨、邂逅、成就と、四つの愛の相を語る曲を歌い、アルゼンチンから招聘されたオスカル・アライス他の振付による手の込んだステップを踏む。歌詞の心を深く響かせてやまないその歌、そして、男役としての一つの完成形を見せるダンス共々、タンゴのムードと安蘭の内的世界とが呼応し、重層的に響き合う。
 安蘭の歌にはどこか、一人で生まれ、一人で死んでゆく人間が本質的に抱えざるを得ない孤独ゆえの根源的な喪失感、哀切感を思わせるところがある。そして安蘭は、決して大柄とはいえない身体で黒燕尾服をはじめとする男役の衣装を端正に身にまとい、律儀に一心にステップを踏む。その姿は、規則正しいリズムを刻むうちどこか聴く者の心をめくるめく陶酔へと誘ってやまない音楽に実によく似合う。思うに、その喪失感ゆえの痛みと、亡き人との幸せな記憶がもたらす陶酔こそ、祖母を失った私の心を慰めるものであったのかもしれない。

 祖母を失くして二年ほど経った日のこと、私は、単身ロンドンに渡り、少女時代から憧れてやまなかった一人のアーティストにインタビューする機会に恵まれた。その人、ジョージ・マイケルは、恋人と母との相次ぐ死から立ち直れず、新たなオリジナル・アルバムをリリースするまでに八年もの月日を要していた。
 ショックが大きいのはわかるけれども、それにしても八年とは――と、当時の自分は考えていた節がある。何のことはない、自分自身が、祖母の死から立ち直るのに同じくらいの月日を要したというのに。そして、今となっては思う。人は結局のところ、愛する者の死から、究極的に立ち直れるものではないのかもしれないと。
 八年ぶりにリリースされたそのアルバム「ペイシェンス」に収録された「アメージング」は、愛する者の死によって直面した深い絶望と、新たな愛がもたらした一条の光にも似た救いとが、心の奥底から想いを絞り出すかのような、魂の叫びにも似た痛切なヴォーカルによってつづられる名曲である。ロンドンでのインタビューの際、この曲について、ジョージ・マイケル自身は、「ワム!以降に書いた中で、もっともハッピーでオプティミスティックな曲」と語り、「非常にせつない曲に聴こえる」と感想を述べると、「こんなにハッピーな曲なのに、君はおかしな人だね」と笑うのだった。そのときは、見解の相違が不思議でならなかったのだけれども、今回、「レビュー・オルキス」で安蘭けいの愛の歌を聴いていて、思い当たったことがある。
 世界でただ一つの愛との邂逅、そして、その成就を歌うときにさえ、安蘭の歌にはどこか、せつなさが残る。やっとの思いで我が物とした繊細なガラスの玉を手の中に大切に包み込み、こわごわ慈しむような、じれったいような優しさともどかしさとがある。
 世界は無論、多くの愛のあふれる場所ではあるけれども、人を真の意味で生かし、育む愛にめぐりあえる機会は、人生において数えるほどしかない。そんな愛の稀少性と貴さとを知る人が歌う愛の歌は、そのもっとも至福の瞬間を歌ってさえ、どこかせつないものであるのかもしれない。
 真の知性とは、この世界や人間の複雑性を、殊更に高尚を装って描写することにではなく、その複雑性を可能な限り咀嚼し提示しようという営為とその懸命なる努力がもたらす結果とに存する。その意味で、この舞台作品(と呼べるほど作者の自己愛が昇華されているかどうか甚だ疑問だが)において、真に知性が認められるべきは、いたずらに観念的で難解めいた作劇を何とか生身の肉体でもって体現しようとする主演の瀬奈じゅんをはじめとする出演陣に他ならない。
 観る者が救われるのは、今の瀬奈じゅんの持つ宝塚の正統派男役としての“白”の輝きは、どんな作品が来ようとも決して損なわれ得ぬものであるからだ。もっとも、その“白”のあまりのまばゆさゆえに瀬奈は、宝塚の伝統と革新がもっとも激しくせめぎあう最前線とならざるを得ない宿命を負っているのだが。

 なお、作品世界に多少なりとも興味を持たれた向きは、シアターコクーンで上演中の野田秀樹作品「キル」に足を運ばれることを強くお勧めする。
 以前、星組の舞台を観に行くと、公演期間の前半と後半とで印象ががらりと変わる役者がいた。自分の納得が行く演技ができるまであきらめず粘り強く舞台に取り組み続ける人なのだなと、立樹遥を観るたび思っていた。
 その立樹は、ここ一年で、大柄な体躯に似つかわしい、存在感ある男役に成長した。きっかけとなったのが昨年の「ヘイズ・コード」であろうことは言を俟たない。立樹はここで、主人公レイモンド・ウッドロウの親友ラルフ・カールトンを、包容力あふれる温かみのある人物として造形、好演し、物語のムード作りに大きな貢献を果たした。
 次いでの大劇場公演「シークレット・ハンター」で立樹に与えられたのは、主人公である大泥棒ダゴベールを追い続ける“男爵”という綽名の殺し屋役である。実はこの役どころは、結果的に、作品全体において一番の難役であった。すべての道具立てがどこかマンガチックな印象を与えずにはおかない「シークレット・ハンター」という作品で、ダゴベールを演じる主演男役・安蘭けいが、その芸質の必然として敢然と“人間”を生きてしまえば、一番割りを食うのは、なかでももっとも戯画的に描かれた“男爵”であるのは目に見えている。しかも、ところどころにフランス語を交えて話しキザに振る舞うという設定は、宝塚における“男役”のあり方そのものを問いかねないところがある。男役の立ち居振る舞いは、見慣れぬ者にとってときに笑いの対象ともなることを考えると、男役の本質とも微妙に重なる“キザ”は、下手をすれば笑いを招きかねないという意味で実に危険なのである。その難役を、立樹は、宝塚大劇場から博多座に至る一連の公演で、キザを愚直なまでにストレートに追求することで演じ通した。
 その結果、立樹遥が獲得したのは、宝塚の男役という存在が本質的に抱えずにはおかないせつなさである。だから、博多座公演で上演されたレビュー「ネオ・ダンディズム!U」の立樹は実によかった。「ネオ・ダンディズム!U」自体、“ダンディズム”という言葉に寄せて男役のせつないまでの美学を語るレビューであり、主演男役の安蘭けいがまた、せつなさの権化のような存在であるわけだが、立樹はまず、オープニングで歌う「疵」がせつなく、その歌声に合わせて踊る安蘭のせつなさを支えた。続いて、序詞師として語る“ダンディズム”とはのセリフも、ダンディズムの裏返しのせつなさをきっちり伝えていた。
 立樹がこうして獲得し、培ってきたせつなさは、上演中の「エル・アルコン−鷹−」で演じているジェラード・ペルー役にも大いに生きている。「エル・アルコン」のダーティー・ヒーロー、ティリアン・パーシモンは、母イザベラとジェラード・ペルーとの間に生まれた子である。スペイン人でありながらスパイとしてイギリス海軍に従事し、幼き日のティリアンに海への憧れと野心のままに生きる人生の素晴らしさを教え、結果、ティリアンが悪へとひた走る土壌を準備することとなったジェラード・ペルーは、これまたせつないまでの弱さを抱えた人間である。愛する女性と息子とを捨ててスペインへと逃亡し、後に敵味方として相まみえることとなったその息子ティリアンに共闘を持ちかけるも、己の人間としての器の小ささを正しく見定められ、息子への罵りの言葉を吐きながらその手にかかって死ぬのだから。長身でひるがえすマント姿もりりしいその人物が、息子の成長ぶりとその心、そして人間性とを読み違え、笑顔から瞬時に憤怒と焦りへと表情を豹変させ、悪あがきの末果ててゆくそのせつなさ。その死は、実の父を手にかけてまで野望の道をひた走らねばならない悪のヒーロー、ティリアン・パーシモンのせつないまでの純粋さと哀しき運命、そしてその不吉な行く末をも暗示するものである。
 ショー作品「レビュー・オルキス−蘭の星−」では、トレードマークの春の太陽のような笑顔が印象的であるのはもちろんのこと、男役の制服ともいえる黒燕尾服でのダンスシーンでの立ち姿など、大人の色気が増したと感じずにはいられない。あくまで若々しく張りがありながらも成熟した魅力をたたえたその声を武器として生かしていけば、大人の男役としても魅力もいや増そうというもの。今後の展開も期待大である。
 それにしても、あの笑顔。それ一つであんなにも観る者の心に温かい灯を宿すことのできる笑顔の持ち主を、私は他に知らない。
 物を書くというのはときにただただ孤独な作業で、家にこもって誰とも話さない日が何日も続いたりすると、「ああもういいや一人ぼっちで」などという訳のわからない拗ね方を平気でしてしまったりする。そんなとき、劇場で、立樹遥の、観る者すべてを受け入れるような、人と共に生きること、人と何かをわかちあうことの素晴らしさを教えるような微笑みを目の当たりにすると、「そんな風に拗ねてちゃいけないんだった」と、私はいつも反省するのである。
 初日(2日)前の舞台稽古を見学。宝塚には珍しい悪のヒーロー、「エル・アルコン」の主人公ティリアン・パーシモンは、お正月早々、実に極悪! 取り巻く人々も、宝塚大劇場公演よりさらにパワーアップ。「レビュー・オルキス」のオープニングで主演コンビが見せるおじいちゃんおばあちゃんの絶妙な演技で初笑い。舞台稽古終了後、安蘭けいさんの囲み会見。私からは、悪を演じる楽しさと苦労についておうかがいしました。
 夕方、最後の公演を終えたばかりの宝塚花組主演男役・春野寿美礼さんの退団会見に出席。私からは「春野さんにとって宝塚はどんな場所だったか」「その宝塚で17年間幸せだったか」&「歌を続ける可能性はあるか」についてお聞きしました。一つ一つの言葉をじっくりかみしめるように語る春野さんのお話は、一言ですぐにまとめきれるようなものではないので、後ほど他の詳しいメディアで見ていただくとして、取り急ぎ最後の質問について。あひる、思いっきり、とことん、食い下がってみましたところ、「可能性は、ある」とのことでしたので、速報まで。
 本日の公演はライブ中継で観ていたのですが(すごくクリアで観やすい映像だった!)、ハプニングが一つ。開映ギリギリに会場であるスカラ座に到着したところ、私の席にはすでに先客が。この年配の男性も春野さんのさよならを見送りに……と感心しつつ、席番もまったく同じだし、いったいどうしたものかと考えていたら、「ここ、みゆき座だよね?」とその方が。「スカラ座です! 春野寿美礼ラストデイ中継です!」と指摘して事なきを得たのですが、あのまま座っていて中継が始まったら、陣内孝則監督・森山未來主演「スマイル」を観に来たおじいちゃん、さぞかしびっくりしただろうなと……。しんみりムードの日に一気にほっこり。
 関わった多くの方々には申し訳ないことだが、「ファントム」宝塚初演版が苦手だった。
 私の信じる宝塚の「清く正しく美しく」とは何より、“心”にかかる言葉である。舞台上の人々の姿かたちの美しさも、心の「清く正しく美しく」を裏打ちするものだと思っている。その宝塚でどうしてこんなにも人の容姿の美醜だけを云々するような作品を上演しなくてはならないのか、理解に苦しんだ。“見目麗しい男女の恋物語”として演ずるのであれば、ファントムと父親との葛藤などという要素は一切必要ない。ファントムの顔の醜さだって必要ないだろう。
 そこまでの苦手意識を感じていた「ファントム」なのに、春野寿美礼がタイトルロールを演じる花組版を観て、これは宝塚で上演するにふさわしい作品だと思うようになったというのだから、舞台とは不思議なものである。「ファントム」には、春野寿美礼が宝塚の舞台において体現してきた男役像の真髄と、そのたどり着くべき帰結とが確かに存していた。

 主演男役となって後の春野寿美礼が長らく体現してきたもの、それは、この苦悩多き生、そして、その生を生きねばならない人間存在の確たる孤独に対する、ほぼ完璧なるまでの諦念である。その男役像でもって、春野は「ファントム」の主人公エリックに確かに魂を吹き込んだ。
 生まれながらに呪われたような容姿をもち、それ故オペラ座の地下深く棲まう運命を選ばざるを得ず、どうしてこの世に生まれてきたのだろう――と一人煩悶するエリック。その彼を唯一この世界につなぎとめていたものは、音楽という美であった。そして、その音楽という美を通じて歌姫クリスティーヌに出会ったことで、エリックは、“美”に加えて人間の生をいま一つこの世につなぎとめるもの、すなわち“愛”を見出す。その愛との出会いは、この呪われた運命背負いし己をこの世に生み出した父への赦しにつながってゆく。音楽という美を通じて、父と母もかつて出会い、そして愛を交わした。今自分がここに生きているという事実は何より、その美と愛の帰結に他ならない。自分自身、美と愛にふれ、人間とは美と愛に生かされる者であると知ったエリックは、父を赦し、己の生に納得してこの世を去ってゆく――。春野の演じたエリックの物語とは、そんな、人はなぜ生まれ死んでゆくのかという、人間存在の永遠なる謎の一つを解き明かすものだった。春野はエリックを、生に迷い、傷つき、それでもなお美と愛を信じる心を決して失わぬ人間として舞台上に描き出した。故に「ファントム」は、宝塚で上演するにふさわしい作品となったのである。
 春野がそんなエリックの物語を演じる上で、この作品から桜乃彩音という相手役を得たことも、観客にとっては幸せなことだった。「エリザベート」のトートとエリザベートとして火花を散らし合った大鳥れい、孤独な春野の男役像にいつも寄り添うようにしてあったふづき美世、それ以前の二人の相手役と並んだときにも、春野はそれぞれに得難い魅力を発揮していたものだったけれども、桜乃には何より、孤独な春野の男役像を知らず知らずのうちに愛で包み込んでしまうような包容力と、孤独という名の深淵の向こうで一人静かに微笑んでいるような春野の彼岸まで黙って橋をかけてしまうような強さがあった。それは、春野が体現してきた男役像にとって、どんなにか救いとなったことだろう。ここに観客は、かくも孤独である人間を生かすものとはやはり愛に他ならないという永遠の真実を、花組の舞台に観ることとなったのである。

 その立ち姿だけで人間存在の孤独を体現してしまうような人だから、退団公演「アデュー・マルセイユ」の歌詞は、少し言わずもがなのところがある。いったい人生の何を知ってしまったというのだろう――と感じさせずにはおかない春野の歌声は、ときにその歌詞を軽々と超えた深みある音でもって、聴く者の心に届く。
 春野寿美礼は“音”の人である。ときにセリフすら、言葉の意ではなくイントネーションで、そこに託された想いを伝えていることがある。話をわかりやすくするために対照的な例を持ち出すと、同期の安蘭けいが“言葉”を響かせることに腐心し、ときに音より言葉の意を優先して歌うのに対し、春野は“音”に込められた意を響かせることに長けている。私は多分に高次的な芸術的判断の話をしているのだが、作曲家と作詞家、どちらの創作意図を優先するのかと歌いながらに問われたとき、瞬間的に、春野は前者を、安蘭は後者を選ぶということである。共に優れた、しかしながら対照的な芸術性をもった同期の二人の名歌手が並び立つ姿が短い間ながらも見られたこともまた、観客にとっては幸せなことだった。
 退団公演「アデュー・マルセイユ/ラブ・シンフォニー」の春野は、どの瞬間を切り取っても男役の集大成としての舞台を見せる。立ち姿、何気ない仕草、人生の達観を深くにじませたセリフ回し、崩しの美学が色濃くただようダンス……。その歌があまりに深いため、名歌手としての側面についつい気を取られがちだったけれども、春野は、三拍子揃った実力で花組を、宝塚を長年にわたって愛し、支えてきた、押しも押されもしないトップスターだった。

 彼女を取材したのは、主演男役就任から一、二年の間が多かった。とにかく察しがいい人なので、こちらが多少言葉足らずの質問をしても、意図を汲んで答えてくれるようなところがある。「つまり、こういうことが聞きたいんでしょ」とばかりに返答がシャープに返ってくるのが実に小気味よくて、あえていささか言葉足らずの質問をしていた節もあったように思う。
 それが、今年の夏。久々に取材することとなった彼女は、舞台姿からある程度わかっていたこととはいえ、数年前とは受ける印象がまったく違うのに驚かされた。ここ数年の彼女自身の心境の変化についてはその「レプリークbis」のインタビュー記事でも多くふれられているところだが、以前はどこか張りつめたようなところがあったのが一変し、その笑顔はほわほわとかわいらしく、何ものにも縛られない心の自由を感じさせた。
 そして、話の方も、
春野「なんて言えばいいかな、その……」
あひる「ああ、つまり……」
春野「そうそう、それそれ」
あひる「(焦。いや、“それ”じゃさすがにわからないんですけど〜)えーっと、つまりはこういうこと?」
なんてやりとりがあったりして、かつての借りを少しは返せたのかなと思ったものである。
 「レプリークbis」の記事は、そのインタビューに加え、桜乃さん、真飛聖さんの退団を送るコメントで構成されていたが、桜乃さんの談話の中にとりわけ印象的なエピソードがあった。相手役として、この世では結ばれない間柄ばかり演じてきたことを桜乃さんが嘆いていたところ、大切なのは心が結ばれているかどうかだから、そういう意味では全部ハッピーエンドじゃない?……と笑っていたという話を聞いて、何だか非常に彼女らしいなと思わずにはいられなかった。
 しかしである。この世ではやはり、結ばれてこそ、手に入れてこその幸せというものもまた多くあるわけで、宝塚を去った後の彼女の人生が、多くの幸せにあふれていることを願わずにはいられない。これまで宝塚の舞台で、そのベルベットのような歌声で、苦悩多き生を生きる観客の心を癒してきた以上に。
 そして、歌。最近世間では“心”というものがあまり歌に求められなくなっているようなのは嘆かわしい限りだけれども、私は春野寿美礼こそ、歌における心の復権を担うべき人材だと思っている。人生の深みと凄みを感じさせるその歌は間違いなく、大歌手の系譜に連なるものである。そんな歌声が聴けないことは何より、同時代に生きる者にとって多大なる損失である。退団してすぐにとは言わないけれども、春野さん、歌だけでも、どうかどうか、続けていってください。
 うわー、月組公演・瀬奈じゅん論を書き上げる前に花組公演が始まってしまった……。
 初日(16日)前の舞台稽古を見学。二作品共、どこを切っても主演男役・春野寿美礼が男役としての集大成にふさわしい舞台を見せて、圧巻。
 舞台稽古終了後、春野さんの囲み会見。正直、舞台でこんなにもすべてが語り尽くされているときはもう何を聞いても野暮というものですが、私からは、大劇場での退団公演を終えて東京公演に臨む心境と、作中、春野さんが一番心を解き放てると感じる場面をお聞きしました。前者については、花組の皆さんと一緒にまた新しい作品を創っていきたいとのお答え。ショーの中詰のラテンのナンバー、何を言っているのかちょっとよくわからない歌詞で歌う場面で、言葉にならない気持ちをぶつけている…との後者についてのお答えに、“音の人”春野寿美礼の真髄を改めて確認。
 9月の日生劇場公演「キーン」を経て、轟悠は確かに変わった。
 90年を超える宝塚の歴史においてみたとき、男役芸、娘役芸とは、伝統芸能の域にも達そうとする芸でありながらも、個々の演者の人生の時間においてみたとき、非常にはかない芸であるともいえる。轟悠は一人、去りゆく場所として位置づけられた組織に残り、そのはかなさと悠久さのあわいの矛盾を生きる道を選んだ男役である。
 「LAVENDER MONOLOGUE」と題されたコンサートには、轟にしか見出すことのできないその矛盾の一つの昇華点がある。特に、ドラマ仕立ての第一幕が秀逸である。永遠の青春、すなわち若さを讃えるという側面を魅力の一つとしてもつ宝塚において、人生で過ごしてきた時間、その中で積み重ね磨き上げてきた芸を見せることはどのようにして両立し得るのか、その一つの答えがここにある。そして、骨太で硬質なイメージの先行していた轟が、その心の奥底に秘めていた繊細さとやわらかさを余すことなく表現して、新境地を拓いている。
 組を率いるのではなく、専科から特出するという形で主演男役を務めなくてはならないことで、轟は二重の矛盾を生きねばならない。男役・轟悠の進む道は、轟悠にしか見出せない。けれども、その道は今後も確かに続いていくのだと感じさせてやまない舞台である。残り二日、見逃すには惜しい。