日本を代表するバレエ写真家のS氏が以前、嘆いていた。「前に関西に取材に行ったとき、すごく才能がある子に会ったんだけど、聞いたらその子、宝塚に入っちゃったって言うんだよね…」と。そうか、柚希礼音という人は、バレエ界でもそんなにも将来を嘱望されていたのか…と、その宝塚入りという選択を興味深く思ったのは、鳴り物入りのデビューから間もない頃だったように記憶している。
 初舞台を踏んだ「ノバ・ボサ・ノバ」から、得意のダンスを中心とした彼女の活躍ぶりは鮮烈で、何とはなしに、この人はそのままの資質でスター街道を驀進し、若くしていわゆるアイドル的トップスターになるのではないかと、非常に勝手なことだが、思っていた。天性のスター性、衣装映えする大柄な体躯、そして、図抜けた身体能力で魅せるダンス。恵まれた才能だけで勝負したとて許されるだろうものが、彼女にはある。しかしながら、柚希礼音は、男役としての芸を磨く道を邁進し続けることを選んだ、実に本格志向の人なのである。以前何度か取材でお会いしたときも、そのときどきの自分の課題を率直に語り、先輩からの指摘を真摯に受け止め、悩み、考える姿が真面目で、でもどこかこちらの心を和ませるかわいらしさがあって、ああ、この人は宝塚が、男役が本当に好きなのだなと、微笑ましかったのを覚えている。
 その柚希は、今回の大劇場公演から新主演男役・安蘭けいを支えるポジションを与えられ、より大きな役を任されることとなった。大劇場公演の始まりの頃こそ硬さもあったものの、公演が続くにつれての成長ぶりは目覚しく、この人はいったいどこまで伸びてゆくのだろうと、楽しみに見守っていた。
 「さくら」の“節句人形”の場面において、柚希は、安蘭扮する武者人形の敵役、お内裏様役を与えられた。「さくら」をテーマにした作品において、プロローグに続く場面でいきなり「私はさくらを憎む」と歌い上げるお内裏様は、ある意味悪役中の悪役ともいえる役柄だが、最終的に、銀橋を渡りながらの歌に切々とした思いがにじみ、観る者の共感を誘うようになった。当初こそ「憎む」に込める気持ちが強すぎるように感じられたものの、次第に、抑えることで逆に思いを強く響かせる術を会得したように思う。武者人形を主人公に据えた場面であるから敵役に擬せられてはいるものの、お内裏様にはお内裏様なりに、さくらを憎む理由があるわけである。そのようなお内裏様側の事情、心情を表現できるようになったところに、成長がある。柚希は前回公演「愛するには短すぎる」で、借金をカタにヒロインにちょっかいを出す悪役風キャラを演じていたが、真面目な人が悪役を演じたときに陥りがちなパターンというか、憎々しげな印象が前面に出るきらいがあった。今後多く与えられるであろう悪役の表現に進歩を見せたことは、これからの星組の舞台の展開を考えたとき、頼もしいものがある。
 一方、「シークレット・ハンター」で柚希が任されたのは、安蘭扮する主人公ダゴベールを手のひらで転がす、兄貴分ともいえる悪友セルジオ役である。キャリアの差を考えても、安蘭相手に兄貴分に見せるということはいかに大変であろうかと思うが、ダゴベールとのかけあいがみるみるうちに実に自然で楽しく弾むものとなっていく様を見るにつけ、芝居勘もいい人なのだなと改めて実感した。そして、ダゴベールを見守る視線に次第に包容力がにじむようになった結果、弟分のダゴベールがセルジオに素直に甘えられるようになった。安蘭ダゴベールが東京に来てますますお茶目でキュートなキャラクターになったというのは、柚希の成長に依るところも大きい。その包容力の裏付けとして、セルジオ自身、ここまで生きてくる中でさまざまな苦労をくぐり抜けてきたからこそ、父を亡くし母と訣別したダゴベールを温かく見守ってきたのだろうなとうかがわせるある種の哀感が漂うようになった。フィナーレのダンスも、男役としての色気が馥郁と薫るようになってきたのがいい。
 もちろん、男役としてはまだまだ未知数のところがある。柚希自身、自分の抱える豊穣な世界のうち、気づいていない部分が多いのではないだろうか。今後、さまざまな役に出会うたび、自分の内面と向き合い、そこで発見したものをつきつめて深めていけば、表現し得る世界が広がっていくだろうと思う。また、ダンスに比べ、歌と演技となるとどうしても最初は力んでしまう傾向があるようだが、今回の公演で成長を見せたように、力を抜いて、セリフなり歌詞なりから感じ取ったものを素直に出せるようになれれば、さらに魅力が増すのではないだろうか。
 パワフルなだけに、ときに、力みすぎて観客を客席からふっ飛ばしかねないほどのエネルギーを放ってしまったりするのもご愛嬌。そんな若さあふれる姿を観ていると微笑ましくて、そんなに先を急がなくても…と思ったりするときもあるのだが、それもこちらの勝手な思惑に過ぎないわけで、彼女には、急スピードで成長した果てに到達しなければならない世界が待っているのだと思う。他人の勝手な思惑を大きく裏切って楽しませてくれることも、スターの条件。これからも、こちらの勝手な思惑なんかどんどん裏切って、羽ばたいていってほしいものである。
 「花折」の場面が大好きである。それぞれの心に映る花の美しさは違えど、さくらを前に、「きれいだね」と言いかわす人のいることの温かさを教えてくれる場面のように思うから。
 ここは何と言っても、配役の勝利である。住職の言いつけをタテに寺の門を閉ざし、花見の客を入れまいとする山法師に涼紫央、その山法師を何とか説き伏せ、楽しい花見の宴を開かんと人々を引き連れてやって来る檀那に立樹遥。ルールをタテに取るキャラクターといえば、すぐに思い浮かぶのは、先に星組が上演した「ヘイズ・コード」の主人公、安蘭けい扮するレイモンド・ウッドロウである。ヘイズ・コードの遵守を振りかざすウッドロウと、住職の言いつけを振りかざす山法師は重なるところがあるが、それぞれの役者としての資質の違いが異なる味わいを生んでいる。そして、相手方の頑なな心を解きほぐす役回りが、いずれの場合も立樹にふられているのが大変興味深い。
 安蘭の場合、内なるコードに縛られた頑なな心を何とか解き放とうとする人間的葛藤をドラマとして見せることに長けた役者であって、その資質にこそ、作・演出の大野拓史は「ヘイズ・コード」という作品を捧げたわけである。一方、涼はといえば、心がほぐれる様を、頑なさの痕跡を一切残さずふんわりと見せられるという特質をもっている。それはほとんど、あれほど固かった花のつぼみがいったいいつの間に花開いたのだろうと驚き眺めているようなところがある。つぼみのときの色の濃さはいったいどこに溶けて、薄く淡い花びらの色となってしまったのだろう――けれども、つぼみであっても、咲いてはいても、花にはそれぞれ味わいがあるのだなと眺めているような。涼の山法師も、門の中に入れてほしいとの花見客の懇願を断るあたりの規則一点張りの頑なさ・いかつさ・いかめしさと、大好きな酒を勧められて飲み、共に踊るうちに、花見客の誰よりも楽しくなってしまう風情のかわいらしさとは、ほとんど別人である。
 そんな山法師の心をほぐす檀那役を立樹が演じているのがいい。もともと、温かみにあふれるキャラクターを演じて光る人である。星組前主演男役の湖月わたるが“夏の太陽”ならば、立樹は“春の太陽”である。ぽかぽか陽気につい、着ていたコートを脱いでしまうように、この人の温かさの前では、頑ななつぼみも心もついついほころんでしまうところがある。「ヘイズ・コード」でウッドロウの親友役を演じた際に磨きをかけたその温かみあふれる包容力に、ここへ来てさらに一本芯が通って、この場面においても、相手方の頑なな心を何としてでも溶かそうという意思の強さを感じさせるようになった。太陽の光にくっきりとした輪郭が生まれて、その結果、立樹に加わった新たな武器とは、男役としての骨太感である。そんな立樹扮する檀那が、楽しげな風情を醸し出すことにかけては名うての星組集団と共に攻めてくるのだから、頑なさなどひとたまりもなく溶けて、山法師の心のつぼみが開く。閉ざされていた寺の門は開き、この上なく陽気な春の宴が催され、客席から見守る者の心にも花が咲く。
 そんな二人が、併演の「シークレット・ハンター」では、哀しみをエレガントかつナルシスティックな振る舞いに隠したクールな殺し屋(立樹)と、作品全体の核を成す一大芝居の作・演出・そしてキープレイヤーを兼ねる怜悧なボディガード(涼)を演じてまったく異なる顔を見せているわけで、なるほど、宝塚の二本立てシステムとはお得感があることよと思わずにはいられないのである。
 「宝塚BOYS」(21日13時半の部、ル テアトル銀座)観劇。原案となった辻則彦著「男たちの宝塚」は、あの宝塚にかつて男がいた…! という知られざる事実を掘り起こし、歴史の陰に消えていった“宝塚男子部”に光を当てる好著だが、舞台はといえば、世間一般が「宝塚歌劇団」に抱く誤解が見事に具現化されているという意味で非常に興味深い作品に仕上がっていると言わざるを得ない。男子加入がなぜ認められなかったかについては、宝塚がなぜ今日あるような形へと発展していったかという実に大きな問題にもつながる論点だと思うのだが、この作品においてはその重要な論点を、宝塚歌劇団のモットー、「清く正しく美しく」の表層的限定的解釈で処理しているきらいなきにしもあらずだからである。
 「清く正しく美しく」とは何も、「清く正しく美しくない」ものを排除して成立する概念ではない。それは、「清く正しく美しくない」ものを超えてなお「清く正しく美しく」あろうとする精神、すなわち、一見「清く正しく美しくない」ように見えるものからも「清く正しく美しく」あるものを見出そうとする精神なのである。このあたりの取り違えこそ、世間一般の宝塚歌劇団に対するもっとも大きな誤解に他ならない。この言葉を表層的にしか捉えられない、もしくは、「清く正しく美しくない」ものを超えて「清く正しく美しく」あろうとする精神を信じられないことを棚に上げ、宝塚を、男を排除し、未婚の女性だけで何やらやっている不思議な劇団に過ぎないと解釈するのはいかがなものかと常々思う。作品を観て、「宝塚って本当にこんなところなの?」と疑問が生じた観客には、ちょうどいい。この劇場からもそう遠くない日比谷の東京宝塚劇場では現在、安蘭けい率いる星組の公演中、はっきりとした形で体現された「清く正しく美しく」のそのような深意を自分の目で確かめる好機である。
 作品を救うのは、出演陣の紅一点、宝塚歌劇団出身の初風諄が劇中劇シーンで聞かせるセリフ回し、そして歌声の清らかさである。そこには、「清く正しく美しくない」ものを超えて「清く正しく美しく」あろうとする心――人間のそのような可能性を信じることこそ、私が宝塚歌劇に見る夢に他ならないのだが――が現れている。
 青年館公演14日14時の部を観劇。笑った! そして、ホロリ。
 主演・霧矢大夢の、役者としての“筋力”が存分に生きた作品である。ダンスにしても、本当に巧い人は、己の肉体の可動域限界までぶんぶん手足を振り回したりせず、美しく見える際ぎりぎりのところで止めていたりして、そこにセンスと筋力が問われる。得意のダンスにおいてもそのような魅力を大いに発揮する霧矢は、多様な座標軸を瞬時にバランスよく行き交うことのできるセンスと筋力を持ったタイプの役者でもある。シリアスと笑い。シニカルと温かみ。あきらめと希望。どの方向性もきっちり表現しながら決して深入りし過ぎることはないその姿勢が、男役としてのストイックな色気を醸し出す。そして、幕末の大坂、時代遅れの侍として生きるか否かの岐路に立たされた主人公として、生と死を淡々と見つめる人間としての深みと凄みあってこそ、ときににぎやか過ぎるほどにぎやかに“大坂人パワー”を描いたこの作品は決してベタつくことはない。歌謡ショーっぽい演出あり、お化けのうらめしや? ダンスありと(マイケル・ジャクソンの「スリラー」のビデオのパロディ、には見えなかったが…)、多少ドタバタ気味ながら、霧矢をはじめとする月組上級生&専科から参加の未沙のえる、箙かおるの芸達者ぶりあって、きっちり“なにわ人情もの”として成立している。
 初日(18日)前の舞台稽古を見学。大劇場公演時から熱い舞台が展開されていましたが、東京へ来てさらに全体がパワーアップしていて、初舞台生約40名が抜けたことを感じさせないほど。個々の役柄の解釈の進化&深化も見どころ! 舞台稽古終了後、安蘭けいさんの囲み会見。ときにユーモアを交えての応対で、主演お披露目公演、囲み会見デビューも無事終了。会見冒頭、非常に楽しいこの二作品でご自身も楽しんで演じている場面をおうかがいしたところ、「さくら」では素に近い状態で楽しんでいるという“節句人形”の場面、「シークレット・ハンター」ではフィナーレ・ナンバーの“クンバンチェロ”…とのお答えでした。

 4月7日の項(http://blog.eplus.co.jp/daisy/2007-04-07)で、この作品について、大好きなニューヨークのジャズクラブ、バードランドに行きたくなったと記したけれども、それは撤回。私は、「TUXEDO JAZZ」に描かれたニューヨークにこそ行ってみたい。狂おしいほど蠱惑的なその街は、この世のどこにもない場所、幻のニューヨーク。「TUXEDO JAZZ」上演中の舞台にしか存在しない、蜃気楼のような夢。現実と地続きの夢、現実を変える力をもった夢を見ることが好きな私ではあるのだけれども、この世以上に魅惑的な、けれども、決して行くことのできない場所を舞台上に創り出してしまう作・演出の荻田浩一のことを、ときに、ちょっぴりいけずだな……と思ったりもするのである。

 安蘭けいの主演男役お披露目作品である「シークレット・ハンター」は、1940年代のカリブ海を舞台に据えた作品である。泥棒で詐欺師である主人公ダゴベールは、とある女性を盗み出すという奇妙な依頼を受け、これを実行するが、その女性が某国のプリンセスであったことから、王位継承をめぐる争いに巻き込まれる。プリンセスの命を狙う追っ手から逃れ、カリブ海の島々を転々とするうちに、ダゴベールとプリンセスとの間に恋が芽生える。プリンセスの正体をめぐる謎解きも絡んで、最終的には大団円が訪れる、ラテンの陽気なメロディに彩られた楽しいラヴ・コメディではあるのだが、安蘭けいが主人公を演じている以上、単なるラヴ・コメディで終わろうはずがないというのは、昨年12月から1月にかけて上演された「ヘイズ・コード」の例を引くまでもない。
 ダゴベールの父親は、事業に失敗して借金を背負った結果、アルコールに溺れ、煙草工場に勤めて家計を支える妻との間には諍いが絶えなかった。自分は海賊の末裔なのだと、そして、「人が天から心を授かったのは、人を愛するためだ」と息子にしばしば語って聞かせた彼はある日、愛するカリブの海に死す。父親の自殺をきっかけに、ダゴベールは盗みに手を染めるが、そのことで母との仲がこじれ、家を飛び出したという過去がある。そのダゴベールが、自分同様、幼くして父親を亡くしたプリンセス、ジェニファーと出会い、彼女と心を通わせていくうちに、過去と決別し、新しい人生の一歩を踏み出すというのが大まかなストーリーラインである。
 父親の入水自殺はダゴベールの心に大きな影を落としている。「人が天から心を授かったのは、人を愛するためだ」と語っていた父親の死はすなわち、彼が弱い心の持ち主であったこと、そして、その心の弱さゆえにもはやこの世において人を愛せなくなってしまったことを物語る。つまり、ダゴベールにとっては、父によって注がれていたはずの愛の否定であり、自分が父に注いだ愛の無力をも指し示す。父を深く愛していたと同時に、そのような父の弱さが自分にも受け継がれていると考えるダゴベールが盗みに手を染めるのは、心の弱さゆえに生きることに不器用だった父親を生かしてくれなかった世間に対する復讐ゆえ、そして、海賊の末裔であったと語る父親の血が自分自身に流れていることの肯定ゆえである。
 しかしながら彼は、スリリングな盗みの日々を楽しむ一方で、自分の弱さと決別させてくれる何かをどこか待ち望んでいる。父親譲りのその弱さを克服して生きてゆくことが、自分が父親に対して示せる愛なのだと気づいてもいる。だからこそ、かつて起きた王位継承をめぐる争いに巻き込まれて父親を亡くしたジェニファーと出会い、自分同様の過去を背負いながらも決してまっすぐな心を失わない彼女に打たれて、彼は歌う。人は誰でも孤独であり、傷つき迷いながら生きてゆく、決して完璧とはいえない存在ではあるけれども、過ちを認めてやり直すことは可能であること、そのように生きることが未来へと繋がってゆくこと、そして、「人を愛するために生まれてきたというのなら 必ず/愛し合えるはずさ/いつかきっと…」と。
 この「Eres mi amor−大切な人−」の歌詞には、安蘭けいという一人のタカラジェンヌが宝塚歌劇に見、かなえたかった夢が凝縮されている。生きてゆく中で、どんなに傷つき、打ちのめされそうになったとしても、この世にはなお、他者と心の通う奇跡のような瞬間はあるのだと信じること。そのような奇跡は、深浅の程度はあっても、どんな他者との間にも可能であると信じること。そのように信じ、世界を深くあまねく愛するためにも、己の弱さを乗り越えて強くならねばならないこと。そのような奇跡、すなわち愛を、宝塚歌劇がもっとも得意とする、男女の恋に仮託する形で舞台上に描き出すこと。それが、安蘭けいが宝塚歌劇に見た夢である。これまで男役として舞台において示してきた演技の真髄であり、主演男役となって、ひときわあざやかに舞台に描きたかった夢である。宝塚歌劇を愛する人々に、そして、宝塚歌劇を未だ知らぬ人々にも伝えたい夢である。同じ夢を信じる仲間と共に、そんな夢を舞台に描いて、劇場に集まった人々との間に、心の通う奇跡のような瞬間が訪れることを信じている。だから彼女は、念願かなって一番大きな羽根を背負い、パレードの最後に降りてきた大階段で、歌うのである。「人を愛するために生まれてきたというのなら 必ず/愛し合えるはずさ/いつかきっと…」と。

 本日15時の部の「さくら」フィナーレに幻影を見た。出演者が舞台ところ狭しと並んだ総踊り、前から後ろへ、一列ずつ花びらを散らしていくシーン。
 その刹那、私は満開の桜の木の下にいた。一陣の風が起こり、身体の中を花吹雪が吹き抜けていった。およそありえない至福。

 初日(6日)前の舞台稽古を見学。春野明智の、この人にしか出せないやるせなき退廃を楽しむ。「TUXEDO JAZZ」はとにかく、大好きなニューヨークのジャズクラブ、バードランドにものすごく行きたくなりました! 舞台稽古終了後、春野さんの囲み会見。明智小五郎の役作りについておうかがいしたのと、スーツの着こなし術を世の男性に伝授していただけるようお願いしました。ポイントは、自分のサイズへの妥協なきこだわりと、背中で何かを語れるようになるか、だそうですよ、男性の皆さん!

 今年も桜の季節がやって来た。

 小学校から高校まで通っていた学園には見事な桜並木がある。身体に余るようなランドセルを背負って、一人、電車通学を始めた小学一年生のときの晴れがましい気分。それが、記憶に残る最初の桜。

 桜とはせつない花なのだと知ったのは、大学入学を控えた春。志望校への進学を果たしたものの、当時つきあっていた人の夢は叶わず、自分の合格もどこか手放しで喜ぶことはできなかった。そんな折、夜桜見物に出かけた千鳥が淵は雨。家族に遅れて歩き、傘で顔を隠して、満開の桜の下、一人泣いた。同じ花でも、見る人によって違って映っていることに気づいたのは、それが初めてだった。

 桜はまた、亡き人の思い出を呼び起こす花でもある。
 祖母が生きていた頃はよく、母の運転する車に乗って三人で花見に出かけた。善福寺公園。東京女子大学。成蹊学園。小金井公園。その道中に通り過ぎる、道端の一本の桜をもお互い、教え合いながら。祖母が亡くなった今、母と車で花見に出かけ、眺める桜にいつも祖母を思い出す。そのとき、互いにどこか無口になる。
 祖母には亡くなる前、友達と二人、東へ西へ、桜の名所に足繁く通っていた時期があった。咲く花への執着があまりに強いように思えて、何だか生き急いでいるように思えて、いやだった。実際に亡くなったのはそれから数年後のことで、最後の何年かは自分でどこかに出かけていくことは無理だったから、この世に心残りがなくてよかったのかもしれないと、今なら思うことができるけれども。あの桜尽くしの日々は、祖母の死に支度だったのかもしれない。

 そもそもが、桜は美しすぎるのである。この世のものとは思われない。どんなに眺めても飽くことはない。咲き誇る花の下、いつまでもその美しさのもとに佇んでいたいと思う。どんなに佇んでも、決して心が満ち足りることはないと知りながらも。
 満開のとき、千鳥が淵から対岸を眺めると、薄紅に霞むそこは彼岸への入り口のように思える。そのままそこに吸い込まれて行ってもかまわないと思うときがある。「願わくば花の下にて春死なん」と詠んだ古人の気持ちがわかる気がする。
 それでいて、散るときはいさぎよいほどあっけない。彼岸への入り口を一瞬開いておいて、瞬く間にそこを閉ざしてしまう。はかなく美しいものは、そのはかなさゆえにひときわ残酷である。
 なぜ、花は散るのだろう。なぜ、喜びも悲しみも永遠ではなく、我々の上をほんのいっとき通り過ぎては去るのだろう。なぜ、人は生まれ、死ぬのだろう。桜の季節のたびに、そんな問いが胸に迫り、そして、桜が散ると共に消えて去る。いくばくかの痛みを心に残しながら。そんな問いを人に投げかけるために、桜は毎年咲いては散るのかもしれない。

 安蘭けいの主演男役就任。第93期生の初舞台口上。宝塚舞踊詩「さくら」はまずは晴れがましい気持ちにあふれている。雛祭りの終わりを惜しむ雛人形が出番を待つ武者人形を閉じ込めようとするコミカルな場面、狂言「花折」のオペレッタ仕立ての陽気な場面など、春という季節の始まりに人々が寄せる華やいだ気持ちの演出にも事欠かない。その一方で、安蘭が落ち武者に扮し、花と共に散りたいと絶唱する場面も用意されている。そして、フィナーレ。安蘭は満開の桜の木の陰から手だけ伸ばして花びらを散らし、やがては姿を現して舞う。その刹那、こんな一節を思い起こす。

「桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは『孤独』というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。」(坂口安吾『桜の森の満開の下』)

 表現とは、人誰しも孤独に生まれた中で、その孤独をひときわ痛切に見つめざるを得ない者が、それでも何とか他者と通じ合うことを願って伸ばした手である。それは、花の盛りは永遠ではないと教えるためにか、ひらひらと舞い散る花びらにも似ている。
 満開の花の下で、安蘭けいは孤独となって舞う。舞う。その姿の無常に、思うしかない。いつまでもその美しさを心につかまえていたいとどんなに願っても、花も、舞台も、人生も、今しかない。今しか。そんな人の世のはかなさを教えるために、安蘭けいは舞台に生きる命を与えられたのかもしれない。