初日前の舞台稽古を見学。舞台稽古見学の際は進行の邪魔にならないよう拍手なども控えるものなのですが、「愛するには短すぎる」の場合、軽妙な掛け合いや仕草等があまりにおもしろいため、こらえきれない笑いがちらほらと。「ネオ・ダンディズム!」共々、東京に来てさらに全体が引き締まった感があり、取材陣の間でも非常に好評。
 舞台稽古終了後、湖月わたるさんの囲み会見。二作品とも退団を重ね合わせる場面やセリフが多く、観ている方としてはぐっと来るところが多いのだけれども、湖月さん本人が演じていて、ぐっと来つつもこらえている場面などあれば教えてください…とお尋ねしたところ、芝居の方では、自分と役柄とが重なる部分が多いので、役としてぐっと来ている、ショーの方では、“惜別”の場面、白羽ゆりさんと安蘭けいさんのセリフ等にぐっと来る…とのお答え。全体の見どころとしては、これまで男役同士でがっちり組むことがなかった安蘭さんとのやりとりを挙げ、この公演で組替えとなる白羽さんとのコンビについても、「組むには短すぎた、とは言わせない」とふれて、自身の退団公演であっても、跡を継ぐ者、残る者への気遣いを本当に自然に見せるあたり、いかにも湖月さんらしい優しさが。ちなみに本日の囲み会見にはイギリスBBCの取材陣も姿を見せていました。

 26日発売のレプリークBis VOL.5「キャラクターと俳優のおいしい関係」で、<タカラヅカ「男役」というキャラクター>全13ページを担当しています(他に「ボーイ・フロム・オズ」の紫吹淳さんの記事も担当)。内容ですが、現役生では安蘭けいさん、水夏希さん、OGでは麻実れいさん、真琴つばささんのインタビュー記事、男役の“制服”ともいえる黒燕尾服の美の秘密を解き明かした図解ページ(モデルは愛音羽麗さん)、男役の系譜をまとめた試論という組み立て。半分体験入団? したかのような気持ちで、男役、ひいては宝塚の魅力について真剣に取り組んだ今年の夏は、人生でもっとも大変な夏休みの宿題に立ち向かったような感があり(九月頭まで持ち越して、「終わらない〜」と頭を抱えたところまで宿題と同じ…)。一夏考えて私なりにたどりついた結論については、特集をご覧頂ければ幸いです。

 宝塚版“オペラ座の怪人”の初日前の舞台稽古を観劇。“ピュアな心同士の通い合い”を基調に、異形の怪人と歌姫との恋を描き出してゆく花組新主演コンビのキャラクター造形が好感度大。舞台稽古終了後、春野寿美礼さんと桜乃彩音さんの囲み会見。役作りのポイントについてお聞きしたところ、春野さんから“純粋”というキーワードが挙がり、納得! という感じ。お気に入りのナンバーはとの問いに、桜乃さんが春野さんの方に向いて「……」と小声で答えたのを、春野さんが「全部好き、だそうです」と“通訳”してくれたのも微笑ましい光景でした。

 朝海ひかるバウ・スペシャル「アルバトロス、南へ」(日本青年館大ホール、18時の部)観劇。“朝海ひかる”という、何とも不可思議な、だからこそこのうえなく蠱惑的な存在、その魅力をさらに際立たせる、雰囲気のある作品。彼女がこれまで出演してきた数々の作品が縦横無尽にコラージュされ、夢とも現ともつかぬ世界が展開されてゆく。さまざまな役柄を瞬時に行き来する朝海ひかるは、そのどれもでありながら、どれでもない。その役、一つのイメージとして捉えたと感じた刹那、把握の腕をすり抜け、また次の何かへとうつろってゆく。人々の抱くさまざまなイメージを映し出し、朝海ひかるはそこに在る。もはや生命体ではなく、何かのプリズムであるかのように。それこそが、彼女の何よりの魅力なのだと改めて教えてくれる、退団の餞にふさわしい作品。七人の出演者全員が、それぞれに個性と芸を輝かせて見応え十分。作・演出の荻田浩一が、これぞ座付き作家といった仕事ぶりを見せている。

 宝塚雪組全国ツアー公演「ベルサイユのばら」をグリーンホール相模大野大ホールにて昼夜観劇。あちこちの劇場に出かけていって宝塚の舞台を観劇するのも全国ツアー公演の楽しみの一つだと思うのですが、やはり、グリーンホール相模大野のようにゆったりとゴージャス感があって観やすい劇場だと楽しみもひとしおというもの。大理石の白にオスカルの白い衣装がひときわ映える感じ。
 昨年秋の星組全国ツアーから続いてきた一連の「ベルサイユのばら」の公演ですが、個人的には、観劇は相模大野でファイナル。この間、さまざまに魅力あふれるオスカル、アンドレ、フェルゼンに出会うことができ、自分にとって「ベルサイユのばら」という作品、そして、宝塚の舞台が持つ意味を改めて考え直す機会を与えられたように思います。素晴らしい舞台を見せてくれた出演者の皆さんに、心から感謝するものです。
 水夏希主演のオスカル編も、一連の公演をしめくくるにふさわしい舞台。彼女はアラン役でもアンドレ役でも魅力を放っていたけれども、今回主演の立場で扮しているオスカルが、集大成ともいえる輝きに満ちて、非常に魅力的。正義感にあふれ、人々の先頭に立ってこれを引っ張ってゆく役柄が実に似合う。「ベルサイユのばら」を通じて再認識した彼女の魅力も、じっくり考えてみたいと思っています(…という訳で、観劇は終わりましたが、原稿はまだ続く予定です…)。

 初日前の舞台稽古を見学。このところ一本もの公演も続いていたし、久々に宝塚らしいレビューを観たような。
 舞台稽古終了後、轟悠さんと瀬奈じゅんさんの囲み会見。轟さんが金、瀬奈さんが銀の衣装ということで、「きんさん、ぎんさん」と言いつつ現れたお二人。まずは挨拶で、轟さんが同期の夏河ゆらさんの退団を惜しめば、瀬奈さんが加えて楠恵華さん、椎名葵さんの二人の退団者の名前をあげていたのが印象的(個人的にも、月組らしい個性輝く三人の退団は残念な限り)。私からは共に舞台に立つ中で見出したお互いの魅力をお聞きしましたが、轟さんは瀬奈さんの著しい成長ぶりと多面的な個性を評し、瀬奈さんは轟さんについて「目だけで多くを語れる」点をあげるなど、囲みといえど充実した内容の会見でした。

<オスカルを生きる〜東京宝塚劇場・オスカル〜>

Don’t dream it Be it
                                     “The Rocky Horror Show”

 「ベルサイユのばら」の主人公であるオスカルは、アンドレに比べ、「これが私!」と主張することをより要求されるキャラクターである。女でありながら男、軍人として育てられ、貴族でありながら最終的に民衆の側に与して革命を戦うオスカルの、人生におけるいくつかの重要な決断が、「これが私!」との信念に基づくものであろうことは疑いようがない。ところが、オスカルの影として生きるアンドレの「これが私!」なる信念を、セリフや歌の手がかりなしにそのあり方によって表現した安蘭けいは、今度はオスカルを、一貫して受けの演技で造形する。それは無論、オスカルという人間の並外れて深い包容力を示すためである。
 「すべての人には立場があり、その立場ゆえの信条がある。――私はこれを尊重する」。これが、安蘭オスカルを貫く基本姿勢、揺るぎなき信念である。ここにいう“立場”とは、性別や身分の違いに始まって、それぞれの人間の差異を形作るとされるすべての要素を含むものである。安蘭オスカルは、徹底した受けの演技によって、すべての人を、温かく、優しく、受け入れてゆく。フェルゼン役の湖月わたるの包容力が、大きく広げたその両腕に世界を収めるものだとするならば、安蘭オスカルの包容力は、一人ひとりに真摯に向き合うということを、すべての人間相手に貫き通すようなところがある(どこまで行ってもこの二人は対照的で、だからこそ素晴らしいコンビである)。
 安蘭オスカルが怒りや憤りをあらわにするのは、人が己の立場を濫用したり、これを逸脱し、他者の立場や信条を侵害してまで己の信条をふりかざす場合である。先に述べた信念は、オスカルが女であることを理由に侮辱的な言葉を投げつけるブイエ将軍に対して挑みかかる、「女だから分かることもあるんです!」とのセリフの発し方に如実に示されている。安蘭オスカルが口にするとき、このセリフは、「私だから分かることもあるんです!」と聞こえる。――私、オスカルは、フランスを守る貴族の家柄に生まれ、女でありながら男として育てられた軍人である。その私が、これまで生きてきた中で得た経験を通じて理解したことを、なぜあなたは、「女である」という一点のみで否定してしまえるのか。それは、あなたの「男」という立場の濫用に他ならず、私の立場を明白に侵害しており、私という人間の否定でもある――。そのような憤りが、安蘭オスカルをして、父ジャルジェ将軍に対して、「何故、何故…私が女だから莫迦にされるのですか!」と言わしめるのだが、このセリフもまた、「私が私だから莫迦にされるのですか!」と等価となる。安蘭オスカルが口にする場合、セリフの中に登場する「女」には、「貴族」、「軍人」、他のどんな要素も投入可能である。
 安蘭オスカルが「これが私!」を声高に表明するのは、この場面と、市民側に立って戦おうと衛兵隊士に呼びかける演説の場面くらいである。こちらの場面にもやはりブイエ将軍が絡んでおり、先の場面において父の手前引き下がらざるを得なかったオスカルは、「女にだって生きる権利はある。主張を述べる権利はある」と敢然と始めて意趣返しを果たす。その小気味いい「命がおしければ黙って聞け」には、先の憤りが転化されたところの、相手に対する侮蔑の念が含まれている。――人生をかけてつかみとってきた信条から、私は今、このような言葉を口にしている。しかし、お前と来たらどうだ。その言葉に、己の信念、人生など、到底かけてはいまい――! 正しく己の人間性を見切られたブイエ将軍は、捨てゼリフを吐いてすごすごと退散する他あるまい。
 安蘭オスカルが伯爵の称号と伯爵領のすべてを捨てるのは、そんなものがなくとも在る己、すなわち「これが私!」を知ったから――少なくともその段階では、知った、と思ったからである。「誰かが弱い市民を守ってやらなければ…」と一人語るオスカルには、かすかながらも驕りがある。オスカルが本当に己を知った瞬間は、アンドレが死んだその刹那に他ならない。愛する者を無残にも殺され、初めて市民と同じ地平に立ったからこそ、ここでの呼びかけは「シ・トワイヤン」でなくてはならないのだが、その呼びかけに続くくだりに、先ほどまでの己の驕りに対する悔悛の情をにじませてしまうあたり、一見ネガティブな感情や人間性さえも躊躇なく表現することによって結局は“清く正しく美しく”反転させてしまう、“逆説の役者”の真骨頂である。
 安蘭オスカルを観ていて私は、それまで難解に思えていた橋本治の「色気は譲歩の能力だ」という文章を初めて理解することができた(「ひろい世界のかたすみで」収録「女って何だ?」より)。他人を受け入れるという譲歩こそ、色気、つまりは、その人間のもつ本質的な魅力へとつながってゆくものなのである。すべての人間を受け入れる包容力に発露する安蘭オスカルの魅力は、ブイエ将軍に対峙するときのオスカル同様、人生をかけてつかみとってきたすべてを舞台上においてさらけ出すことをためらわない、自身の役者としての魅力と、究極的には等しいものであるのだろう。

 それにしても安蘭オスカルは人間的である。国家の窮状をよそにはしゃぐ貴族のご婦人方には仏頂面で嫌味をかまし、心を許したアンドレの前では拗ねてすらみせる。軍神マルスの生まれ変わりのような死闘を繰り広げるバスティーユの場面においてさえ、市民たちが一人、また一人と倒れるたび、一人ひとりの死を食い止められない己の無力さに、激しく胸を衝かれずにはいられない。
 そんな姿に観入るうち、漫画のオスカルに心を揺さぶられた日を思い出した。幼い日、オスカルは、男や女、貴族や人種などといったものすべてを超えた、遥かなる憧れの存在であった。しかしながら私は、安蘭オスカルを目の当たりにするまで、オスカルという人物が生身の人間として存在する可能性というものを考えたことがなかった。安蘭オスカルを目にして初めて、オスカルと実存とが私の中で結びついたのである。憧れは何も、憧れのままにしておく必要などない。そのように生きればよいだけなのだと、きわめて人間的なその姿が教えてくれている。

<参考項目>

「ベルサイユのばら」の安蘭けい・その1
http://blog.eplus.co.jp/daisy/2006-05-15-2

<「これが私!」〜宝塚大劇場・アンドレ〜>

「これが私!」
世界に向かってそう叫べない
人生なんて何の価値もない
                                          “I Am What I Am”

 星組宝塚大劇場公演「ベルサイユのばら」での安蘭けいのアンドレの演技を観たとき感じたものは、昨年ブロードウェイでミュージカル「ラ・カージュ・オ・フォール」の名ナンバー”I Am What I Am”を聴いたとき胸に広がったのと同じ思いなのだと気づいたのは、観劇後しばらく経ってからのことだった。
 セクシャル・マイノリティであるがゆえに踏みにじられた人間としての尊厳を取り戻すべく、「ラ・カージュ・オ・フォール」の主人公アルバンはこの曲を絶唱して第一幕を締めくくる。私は、このありのままで私であり、それ以上でもそれ以下でもない――。全編にわたり己の、己に与えられただけの生を全うしようとする誇り高さが貫かれた歌詞の中で、先に挙げたフレーズは曲の最後にもう一度繰り返される。
 しかしながら、「ベルサイユのばら」におけるアンドレには、「これが私!」なる信念を声高に謳い上げるナンバーやセリフが与えられているわけではない。それどころか、光と目されるオスカルに、終始影として寄り添い続けるキャラクターである。観劇後しばらく経つまで気づかなかったというのも、私の鈍感さも無論あるのだろうが、先に挙げたようなナンバーとアンドレ役の演技とでは、前提として求められているものがそもそも異なるということがある。つまり、安蘭けいは、具体的な言葉の手がかりなしに、役柄の造形、演技や歌い方で、「これが私!」を表明してみせたことになる。

 1月3日にそのアンドレの演技を初めて目の当たりにしたときの率直な感想はといえば、「…いったい、これは何なのだ?」というものだった。そして、その謎が解き明かされることを心待ちにして出かけた次回の観劇で目にしたものは、オスカル役者の交代に呼応した、前回とはまったく異なる演技であった。その変幻自在ぶりについては既に記してきたところであるが、異なる演者の演技を受けてその都度異なるアンドレ像を造形していったこと以上に、そのすべてが、説得力あふれる解釈に貫かれた、彼女独自のアンドレとなり得ていたことが、評価に値するのである。
 その一例として、死に際の「命だけは大切にして呉れ…」に導入したセリフ回しが挙げられよう。“命”という言葉の重さゆえ、激情ほとばしるかのような芝居を伴って口にされがちであったこのセリフを、安蘭アンドレはいともあっさり口にする。そのあっさりさ加減が指し示すのは、オスカルの命を護ろうとするその想いが、アンドレの心の中にあまりにも深く刻み込まれ、生きてゆく中で常に共にあるからこそ、想いを期せずして口にしなくてはならなくなったとしても、その言い回しは決して大げさなものにはなり得ないという事実である。「ベルサイユのばら」という様式美の世界において、リアリズムに則った表現を成立させるには、その異質さを埋めるだけの並々ならぬ技量が必要とされるが、己に恃む技量があれば、こちらの演じ方の方がスマートではある。
 再演を重ねてきた演目であればあるほど、人々の抱くイメージが多少なりとも出来上がってしまっており、それゆえ演者は、そのイメージに沿った演技を見せることを求められる部分が少なからずある。ましてや相手は、宝塚の名作中の名作、王道中の王道を行く「ベルサイユのばら」である。あくまで伝統に則った演技を見せる選択肢を採ることの方がむしろ歓迎されるかもしれない中で、安蘭けいは、表現者としての立場を優先し、完成度の高い演技を披露してみせた。私は私の考えるようにアンドレを演じる。そのように演じる自分に、私は誇りを持っている――。演技が雄弁に伝えるその矜持こそ、「これが私!」の表明に他ならないのである。

<参考項目>

宝塚星組公演「ベルサイユのばら」の余韻(朝海オスカル版)
http://blog.eplus.co.jp/daisy/2006-01-11

宝塚星組公演「ベルサイユのばら」再び(霧矢オスカル版)
http://blog.eplus.co.jp/daisy/2006-01-12

三度、宝塚星組公演「ベルサイユのばら」(水オスカル版)<前編>
http://blog.eplus.co.jp/daisy/2006-01-26-1

三度、宝塚星組公演「ベルサイユのばら」(水オスカル版)<中編>
http://blog.eplus.co.jp/daisy/2006-01-26-2

三度、宝塚星組公演「ベルサイユのばら」(水オスカル版)<後編>
http://blog.eplus.co.jp/daisy/2006-01-26-3

宝塚星組公演「ベルサイユのばら」大劇場編最終回(大空オスカル版)
http://blog.eplus.co.jp/daisy/2006-01-31

藤本真由のココロの舞台裏 第15回 「ベルサイユのばら」と宝塚歌劇
http://www.hall-net.or.jp/kokoro/1/015.html

 7月11日のグリーンホール相模大野での公演に寄せた記事がアップされています。

http://www.hall-net.or.jp/kokoro/1/018.html

 公演詳細のページはこちら。

http://www.hall-net.or.jp/schejule/kouen/2006/green/G0711.html

 ちなみに、劇場近くのホテルセンチュリー相模大野では、観劇と宿泊や食事がセットになったプランを売り出したようですが、瞬く間に完売した模様。「ベルばら」特別メニュー、興味津々だったのに…。残念。

 初日前の通し舞台稽古を見学。通常二階席には上がらないカメラ・クルーが、最前列ど真ん中の席に陣取り、朝海オスカルがペガサスで空高く駆ける場面をバッチリ撮影しているのを目撃。
 舞台稽古終了後、主演・朝海ひかるさんの囲み取材。私からは、宝塚の誇る名作で当たり役に出会えた感想、ペガサスで飛ぶ場面での気持ち、そして特別出演の星組・安蘭けいさんを含む三人のアンドレと組むことについて質問。こぼれんばかりの笑顔が印象的な会見でしたが、それにしても、オスカル・メイク&扮装の朝海さんと一瞬とはいえ同じ空間に身を置いていたというのは、シュールきわまりない経験だなと。明らかに、属する世界が違うとしか思えない。それくらい、朝海オスカルは空や天に近い存在だと思う。
 そう考えてみても、朝海オスカルと先日までの星組東京公演の安蘭オスカル、両者のアプローチが180度違うことに、驚いてしまう。それだけ異なるアプローチを許すオスカルという役柄自体奥が深いし、同期の二人がここまで徹底して異なる世界観でキャラクターを作り上げてきている、その対比が興味深すぎる。となると、朝海オスカルと安蘭アンドレがぶつかり合う今月末からの公演ではいったいどんなことが起きるのだろうかと、まるで「紅天女」を賭けた「ガラスの仮面」の北島マヤ対姫川亜弓の対決を見守るような気分になってしまう(と書く私はもちろん、来月の新作能「紅天女」公演を観に行こうと考えている長年のガラかめファンです)。