宝塚月組東京特別公演「THE LAST PARTY〜S.Fitzgerald’s last day〜フィッツジェラルド最後の一日」(東京芸術劇場中ホール、14時の部)観劇。2月3日に日本青年館での宙組公演も観ていて、そのときは感想のアップをさぼっていましたが(すみません)、私はこの作品、非常に好きです。
 途中まで書いてみて、当分書き終わらなさそうな長さになることがわかったので(前にさぼったのも、書き始めたら長くなるのがわかってたからだな…。果たしてブログという形式で許される分量ってどれくらいのものなのか、最近考えるところではある)、とりあえずの感想をアップしますが、主人公フィッツジェラルドを演じる大空祐飛が非常にいい。この作品を観て、これまで言葉にしづらいと思っていたこの人のスターとしての魅力をついにつかんだ気がする。その魅力が、フィッツジェラルドという作家の魅力、そして彼が時代の寵児として体現していたところの1920年代すなわち“ジャズ・エイジ”(という命名からして、フィッツジェラルドによるものであるわけですが)の魅力と重なり合っているからこそ、この舞台は心に迫ってくるのだと思う。ということで、大空祐飛論&フィッツジェラルド論&1920年代論を一気に展開しなくてはならないため、長くなるのである(途中書いたところまでで、すでに5000字を超えている)。「ベルサイユのばら」日記もさぼっている折、このように書くのは本当に心苦しいのですが、いましばらくお待ち下さい。
 それにしてもこの舞台、普段宝塚を観ない人、フィッツジェラルドを研究している人に観てほしかったなあ…(ご興味のある方はDVDで是非!)。とりあえず、研究者の一人である私の母親は舞台を観て、「こんなにフィッツジェラルドをよく書いてくれて…」と感極まっていましたが。海外での学会などの折に、作中登場する秘書の方に会ったことがあるそうで、実際に知っている人があのように演じられている…と思うと、何だか不思議な気持ちがしたそうです。

 本日昼、星組公演「ベルサイユのばら」を観に行っていたのですが、終演の際、宝塚大劇場の雪組公演の方で「ベルサイユのばら」通算観客動員数400万人を達成したとのご報告が星組組長よりありました。
 ところで当ブログも、今宵アクセスが10万を超えました。昨年7月25日からスタートし、約8ヵ月でこれだけの方にご覧頂いたこと、本当にうれしく思っています(狙ったわけではないのですが、これがちょうど100番目の記事でもあります)。これからも、演劇を通じたさまざまな出会いや発見について、読み応えのある文章を書いていきたいと思っていますので、なにとぞよろしくお願い申し上げます。

 さて、本日の「ベルサイユのばら」ですが、個人的にはこれまで何度か観てきた東京公演の中でベストかも。これは何より、立樹遥がアンドレ役を遂に自分のものにしたことが大きいと思う。二月末に観劇したあたりまでは、安蘭オスカルを包み込む大らかさは頼もしいとはいえ、何だかどの場面でも笑顔の印象ばかりが強かった。しかしながら本日は、細やかな演技を見せる安蘭オスカルの心情にていねいに寄り添い、感情を抑えるべきところは落ち着いて演じた上で、アンドレとしての生き様と持ち前の大らかな魅力とをきっちりリンクさせる演技を見せていた。こうなってくると、明るい笑顔も引き立つというもので、今までは多少違和感を覚えた死に際のそれも、アンドレはオスカルと共に生きることができて幸せだったと笑って死んでゆくのだな…と思えて、泣かされた。アンドレがよくなるとオスカルもさらに光るというもので、バスティーユの戦闘での安蘭オスカルはもう、軍神そのものだ。
 一幕ラストの湖月フェルゼンはといえば、次第に孤独の色が深まっていっているよう。湖月フェルゼンは温かすぎて(無論、そこが魅力なのだが)、マリー・アントワネットが処刑された後は冷酷な支配者となった…という原作ラストが想像しにくいところがあったのだけれども、銀橋で「振り向けば心の荒野に」と絶唱する姿を観ていると、真実の愛を知った後にそれをあっけなく奪われるという深い絶望を背負ってしまったらやはり、一人心を閉ざして生きてゆくしかないのかな…と思える。これはもちろん、ラストの牢獄の場面で白羽アントワネットが、湖月フェルゼンを包み返すような慈愛と、やはり普通の貴族のそれを大きく越えたところにあるのだろう、王家の人間としての誇り高さを見せるまでの人間的成長を演じられるようになったことが大きい。王妃が人間的に成長すればするほど、どうしてこれほどの人物を無残にも処刑してしまうのかというフェルゼンの憤りも、一層激しくなろうというものだ。
 それぞれの演技の深まりが相乗効果をもたらすのはどの舞台にも言えることだけれども、「ベルサイユのばら」や「エリザベート」のような作品の場合、即効性があるというか、演者が公演中に著しい成長を見せる度合いが高く、それに伴って作品全体もぐんぐん見応えを増していくということがある。これまでに一度だけ観る機会に恵まれた柚希礼音のアンドレも、好感のもてる役作りが光っていたので、これから千秋楽に向け、さらに人物像を深めていってくれることを期待したい。

 と、本日の感想を語ってまいりましたが、雪組大劇場公演もあわせ、肝心の公演全体の評がまだですね。観劇して一ヵ月以上経ってるのにどうなってるんじゃという声もあろうかと思いますが、構想はできてるものの長くなりそうで、気力&体力&時間があるときでないとちょっと書ききれんというのがあって…(我ながら言い訳めいてますが)。しばしお待ちを。

 16日に書いた産経新聞ENAKの記事をきっかけに、久しぶりに友人である飯塚友子記者と話すことができた。「ベルばら」が取り持つ縁というか。今度私が関西方面に出かけた時には、絶対飲みましょう!

 産経新聞ENAK(http://www.sankei.co.jp/enak/)に「ヅカファンの聖地 宝塚を訪問」という3月16日付け大阪夕刊の記事が出ています。執筆者の飯塚友子記者ですが、実は私の小学校時代からの友人だったりします。最近お互い忙しく連絡が途絶えがちになっていたのですが、まさかこんなところでオスカル様に変身していようとは。楽しい記事、どうぞご一読を。

 午前、新橋にて行なわれた「エンキ&涼紫央コラボレーションライブ〜Especially!!〜」製作会見に出席。会見後、演出の三木章雄氏、エンキさん、涼紫央さんの鼎談取材。
 今朝キーを合わせたばかりという「さくらさくら」の演奏&歌を披露する場面で、最後に二人で顔を合わせてにっこりと微笑み合っていたのが印象的。古典的な曲だけでなく、ラテンやジャズまでこなせてしまうという中国琵琶の音色は、激しい中にも一服の清涼感が吹き抜けてゆくようで、宝塚の男役を極めたいという熱い想いを感じさせながらも、常にどこかさわやかさをたたえている涼さんの舞台姿と重なる部分も多いように思った。三木先生の語り口からは、とにかく涼さんを男役として外の舞台で堂々と勝負させたいという意気込みが伝わってきたし、エンキさんも涼さんも新たな挑戦へ向けて気合十分。この三人の出会いからいったいどんな世界が生み出されるのか、楽しみな限り。

 早朝クアラルンプールより帰国。一旦家にトランクを置きに戻ってから、昼公演及び夜に行なわれた新人公演の舞台稽古を観劇。以下はあくまで舞台稽古を観ての感想ということをご留意ください。
 何といっても、主人公フェルゼン役の柚希礼音が圧巻。男役として、役者としてのこのところの成長にはめざましいものがあり、ベルナールに扮した東京の本公演でも、安蘭けいのオスカルのひたむきな想いと呼応する真っ直ぐさ、ロザリー役の陽月華を包み込む温かく大きな愛を強く印象付ける好演を見せている。フェルゼン役も、本役・湖月わたるの秀逸な解釈を踏まえ、包容力を備えた大人の男性として造形しつつ、彼女ならではの陽だまりのような持ち味もきっちりにじませる演技を見せて◎。新人公演のみ追加されたナンバーも、想いをこめてていねいに歌い上げる姿が光り、舞台稽古なのに思わず拍手してしまいそうだった。役替わりで演じるアンドレに大いに期待。マリー・アントワネット役の陽月華は美しく芝居も決して悪くないのだが、彼女の生き生きとした魅力を最大限輝かせる役柄ではないのが残念。オスカル役を演じた麻尋しゅんは、下級生ながら堂々たる舞台。上手い人だけに場面場面で何となくまとまってしまう感じがするが、役柄に一本太い線を通すよう造形すれば、全体としての印象がさらに鮮明になるように思う。憎々しいまでに悪役に徹しきった彩海早矢のブイエ将軍、娘アントワネットに注ぐ母としての温かい愛とまなざしを感じさせた華美ゆうかのマリア・テレジアも強く印象に残った。

 イープラスのメールマガジンで紹介されていたようなので、いま一度、「ベルサイユのばら」関連記事をまとめておきます。

<舞台ルポ>
1月11日 宝塚星組公演「ベルサイユのばら」の余韻(朝海オスカル版)
1月12日 宝塚星組公演「ベルサイユのばら」再び(霧矢オスカル版)
1月26日 三度、宝塚星組公演「ベルサイユのばら」(水オスカル版)<前・中・後編>
1月31日 宝塚星組公演「ベルサイユのばら」大劇場編最終回(大空オスカル版)

 雪組大劇場公演初日と星組東京公演については近日中にアップの予定。

<関連記事>

8月29日 宝塚「ベルサイユのばら」制作発表会
2月1日  「ナポレオンとヴェルサイユ展」
2月16日 本日発売のぴあに「ベルサイユのばら」記事掲載
2月17日 宝塚星組東京公演「ベルサイユのばら」舞台稽古&湖月わたるさん会見
2月19日 “頭に船”も登場! 「ヘアモードの時代」

 「ヘアモードの時代」(ポーラ文化研究所)という本を、なかなか終わらない仕事の合間に眺めて楽しんでいます。ルネサンスから1920年代までの髪型や髪飾りの歴史を追った本なのですが、多くのページが割かれているのがロココ時代と来ればもちろん、登場するのがマリー・アントワネット。かの有名な“頭に船”のヘアスタイルも出ていますが、「ベルサイユのばら」星組公演のオープニングでアントワネット役の白羽ゆりさんがかぶる鬘に乗っている船の方がはるかに立派かも(無論、舞台ということもありますが。皇太子出産で髪が薄くなり、ああいう巨大な髪型にできなくなったというのもまたせつない話)。それにしても、フランスに初めてキリンがやって来たから「キリン風」が流行ったとか、モードとは後々振り返ってみると本当に不思議に思えるものが多いですな。写真&図版が充実しているのに税込630円というお得なプライスのこの本、「ベルばら」ファンなら手にとって損はないかと。

 初日前の通し舞台稽古を見学してきましたが、「エリザベート」のときと匹敵する報道陣の多さで、「ベルサイユのばら」に対する注目度の高さを実感。
 舞台稽古終了後、主演・湖月わたるさんの囲み取材。衣装のままで駆けつけての短時間の会見、しかも大人数相手という独特の雰囲気の中、密度の濃い話を聞けたことは大きな収穫。私からも、フェルゼンの役作り、そして大劇場公演と異なるキャストで臨む東京公演に向けての意気込みを質問。後者の質問については、「ずっと一緒にやってきた」と安蘭けいさんの名前を挙げつつ、星組のメンバーと作品を練り上げていきたいと抱負を語っていたのが印象的でした。
 作品自体の感想については後日記すことにします(雪組大劇場初日もまだ書いてなかったし)。

 本日発売のぴあ2月23日号に星組公演「ベルサイユのばら」開幕に寄せる記事を書いています。短いものですが個々の演技にもちょこっと触れていますので、ご興味のある方はぜひご一読を。

 この日も昼夜観劇。オープニングの白羽アントワネットの鬘に、船が! 生で目の当たりにすると、やはり感動。そこまで徹底する精神に感服。それにしても、あの船は重くないのだろうか。そして、船の部分は鬘職人が作るのか、それとも模型を持ってきてくっつけるのか、などといろいろなことを考えてしまった。
 五人目の役替わりオスカルとなった大空祐飛は、好演した「エリザベート」のルドルフを髣髴とさせる役作り。愛国心に燃えるオスカルだが、その愛国心はあくまで軍人として戦うこととセットになっており、悶絶夫人たちの大騒ぎの場面での孤独感が際立つ。
 大空オスカルはまた、“父の娘”でもある。オスカルを軍人となるべく育て、愛国心を培わせてきたのは他ならぬ父ジャルジェ将軍であり、愛国心を通じて、オスカルは父と深くつながっている。「当たり前の女として育っていたら」のセリフを口にする大空オスカルがさみしそうな表情をするのは、水オスカルのようにそちらの世界に未練があるからばかりではなく、そちらの世界を選んでしまっては父との深いつながりが失われてしまうことを知っているからである。
 さて、父の心のままに育ってきた大空オスカルに、思春期が訪れる(年齢的におかしいとの意見もあるかもしれないが、彼女がここで味わう心理的葛藤は、どう考えても思春期の心の揺れとしか言いようのないものである)。父の言うように、国王一家及び貴族たちを守ることが真の意味での愛国につながっているのかどうか、彼女は疑問を抱く。そしてまた、おそらく初めであろう恋に落ちるが、その相手はといえば、彼女がこれまで育んできたところの愛国心、つまり、現在疑問を抱いているところの愛国心と真っ向から対立し、これを揺るがしかねない存在、つまり、王妃と許されざる愛を交わしているフェルゼンである。愛国心への疑問が生じ、その結果フェルゼンと恋に落ちたのか、それともフェルゼンと恋に落ちたから愛国心への疑問がわきあがってきたのか、どちらが先かはわからない。大空オスカルの心を悩ませる二つの要因は、分かちがたく結びついている。
 そんな大空オスカルに向ける安蘭アンドレの笑いは、「お前もそういうことで悩む年頃になったんだなあ」という感慨である。幼いときから見守ってきたアンドレならではの反応だが、ここでアンドレのショックが深かろうというのは、「奥手だから今はまだ仕方がないけれども、いつか恋に目覚める日が来たら、俺の気持ちに気づいてくれるかもしれない…」との期待がアンドレになかったとは言えないからである。それが、他の男に初恋を抱く姿をも見守るしかない。やはり、思いを秘めているだけで幸せですと笑顔を浮かべるまでに、どんなにか深い葛藤があったことだろうと察する。それはさておき、大空オスカルの愛国心の強さを受け、安蘭アンドレの憂国のセリフもひときわ強調される。
 <今宵一夜>は演出が変わり、アンドレがオスカルの肩を抱くシーンがない。ここで安蘭アンドレは、セリフと態度に劇場中を埋め尽くすような深い包容力を発揮して、肩を抱くという行為の代わりとする。大空オスカルの「お前の心を知らないではなかった」が一味違うのは、そこに、「お前の気持ちは知っていた。そして、長年その深い感情に守られ過ごしてきたけれども、それこそがまさしく“愛”なのだということに、私は最近まで――初めての恋を知るまで――気づいてはいなかった」との懺悔の念が込められているからである。だから大空オスカルはその後、「お前はこの私が好きか」と確認を求める。「私が“愛”だと感じているところのお前のその思いは、正しく“愛”なのか」と。
 大空オスカルに対しての安蘭アンドレの「俺は今日まで生きてきてよかった」は、オスカルと共に生きてきた人生の全肯定である。オスカルを幼い頃から愛し、その成長を見守り続けてきた。そうやってずっと見守ってきたからこそ、今こうしてオスカルが大人へと成長を遂げ、愛を解するようになったその瞬間さえも見届けることができる。「お前もまあ、よくぞ大人になって…」とのさらなる感慨が、「今日まで生きてきてよかった」と語られるのである(これが、なまじの人間のようには決して押し付けがましくないところが、真の包容力というものであろう)。しかしまあ、一人の人間の人生をこうまで包み込んでしまえるというのも、つくづくとんでもない愛の深さである。
 こうして愛を知り、一つ大人になった大空オスカルは、父から教えられた愛国心とも決別し、さらに大人になる。自分の心のままに国を愛し、行動しようという決意、すなわち成長が、父の世界の否定である痛みを知っているからこそ、大空オスカルの決別の辞は、王妃より父に向けられたときにいっそうせつなく響く。ここで大空オスカルが抱く新たな愛国心こそ、フランス革命の掲げる理念の一つである“友愛”に他ならない。
 父の説いた旧来の愛国心にわずかながら未練があったのかもしれない大空オスカルの心は、愛するアンドレを無残にも殺されたときに固まる。自分と同じように愛国心に燃えていた人間をこうもあっけなく殺してしまう側に、理などやはりない。そんなものに自分の国への愛を利用されてはならない。自らの決意に確信を抱いた大空オスカルは、憤然として戦い、そして倒れる。死にゆく大空オスカルが最後に口にするのが、愛するアンドレの名前ではなく、「フランス万歳」であるというのは、その愛国心の強さゆえ当然とはいえ、やはりせつない。
 組でのポジション、個性ゆえの役回りということなのか、これまで大空祐飛に回ってくるのは、どことなく影があったり、屈折していたりといった役柄が多かったように思う。「エリザベート」のルドルフにしても、理想にいっとき燃えるものの、挫折し、死を選ぶ人間だった。オスカルのように何かを選び取り、それをまっとうするというまっすぐな役柄を演じる姿は非常に新鮮で、もっとこのような役柄で観てみたいと思わせるものがあった。
 以上、星組大劇場公演にて四人のオスカルを観てきたが、“一人五役”ともいえるアンドレを造形した安蘭けいが、東京公演ではオスカルをどう演じてみせるのか、それに対する立樹遥、柚希礼音のアンドレがどのような演技を見せてくれるのか、楽しみな限りだ。また、引き続いての雪組大劇場公演“オスカル編”ももちろん、大いに期待するところ。ということで、「ベルサイユのばら」観劇日記はまだまだ続く。