宝塚歌劇の醍醐味は芝居&ショーの二本立てにある。そう痛感した今回の月組公演だった。『カンパニー』あっての『BADDY』、『BADDY』あっての『カンパニー』である。相関性に、唸る。

<主役は、あの人!>〜『カンパニー』

 『カンパニー』は伊吹有喜の小説が原作である。妻と娘に出て行かれてしまった主人公の47歳サラリーマン、青柳誠一は、宝塚版では妻を病で亡くした青柳誠二となり、年齢設定も若め。ヒロイン高崎美波はコンビニでアルバイトをしながら敷島バレエ団に所属するダンサー。青柳に扮する月組トップスター珠城りょうがスーツにビジネスバッグならぬリュックサック姿で銀橋を渡れば、美波を演じるトップ娘役愛希れいかはメガネ姿もキュートなコンビニ店員ルックで、賞味期限切れのお弁当を入れたケースを抱えて銀橋で歌う――どうやら、見つからないときは、そのお弁当をこっそり持って帰っているような。まもなく合併する製薬会社に勤める青柳はリストラ候補となり、会社が支援する敷島バレエ団にプロデューサーとして出向となる。出向先で青柳は、バレエ団も会社と同じく“カンパニー”と呼ばれることを知る。そのバレエ団の看板には「敷島バレエ研究所」、団員は研究生――となれば、これはもう、ベテラン演出家・石田昌也による、ストレートすぎるくらいの宝塚歌劇論である。宝塚歌劇団の英語の正式名称は「Takarazuka Revue Company」、阪急と阪神が経営統合したニュースの衝撃は記憶に新しく、宝塚歌劇団にはその阪急電鉄から社員がプロデューサーとして出向、時期が来れば本社に戻って行ったりする。宝塚の団員は研究生であって、入団11年目の珠城なら研11と呼ばれる。というわけで、今回の舞台の主人公は、単なるサラリーマンではなく、サラリーマン・プロデューサーなのだった。『プロデューサーズ』というブロードウェイ・ミュージカルがあるけれども、プロデューサーも実にさまざまである。
 バレエに疎い青柳は、美波やバレエ団の人々の助けをもって知識を増やし、プロデューサー業に邁進していく。私は地方公共団体から公共劇場に出向してきた方々ともたびたび仕事をご一緒してきたが、元の行政組織に戻っていくとき、劇場での楽しい日々、経験を名残惜しそうに語る姿が忘れられない。私は客席から舞台を見守る立場の人間だが、裏方として舞台を見守る人々の汗と涙、苦労と喜びを思う。あのプロデューサーによる舞台、まだまだ観ていたかったななんて、そんなことを思ったりもする。
 敷島バレエ団は世界的ダンサー、高野悠(美弥るりか)を迎えて『白鳥の湖』を上演することとなる。原作を読んだときから、私は、世間的なパブリック・イメージとはまったく異なるものの、この高野にKバレエの熊川哲也芸術監督を重ねてムヒムヒせずにはいられなかった――というか、私がバレエについて何かしら考えるとき、そこから熊川芸術監督のことを排除して考えることが非常に難しいのである。無理である。昨年、ミュージカル『ビリー・エリオット〜リトル・ダンサー〜』を観たときも、主人公のビリー少年が試験のため田舎の炭鉱町からロンドンのロイヤル・バレエ・スクールに行ってとまどいを見せるシーンで、「でも、そっちは言ったってイギリス国内だけど、熊川哲也少年なんて東京すっ飛ばして北海道からロイヤル・バレエ・スクールに行ったんだからね!」と、なぜかムキになる自分がいた――そして、ビリー少年が「僕の踊り、どうでした?」と客席に向かってドヤ顔を見せたとき、「熊川哲也と羽生結弦を倒してから来てくれる?」と、大人げない、いや、子供をまったくもって子供扱いしない自分がいた。それはまあさておき。熊川芸術監督と高野とで共通点があるとすれば、それは、バレエという芸術に自分を捧げる真摯なその姿勢であろう。3月末のKバレエ公演『白鳥の湖』で芸術監督の愛弟子、浅川紫織が最後のオデット/オディールを踊ったとき、私は、私の人生にとってさまざまな意味で非常に大切な人物である熊川芸術監督が人生をかけてこよなく愛し続けるバレエ芸術、生身の人間が創り出すその芸術形式の儚さを、今さらながらに胸に深く突き付けられていた――。
 さて、今回敷島バレエ団が上演する『白鳥の湖』はかなり毛色が変わっている。引退も近い高野が演じるのは、元は貴族ながらも悪魔に魂を売り渡し、自分も悪魔となったロットバルト。王子の家庭教師として宮廷に入り込み、悪女に変装して中性的な魅力で王子を誘惑する――何だか、マシュー・ボーン版『白鳥の湖』と、トートがルドルフ皇太子の前にマリー・ヴェッツェラ姿で現れるバージョンのミュージカル『エリザベート』を足したような感じではある。
 『白鳥の湖』の音楽が全編を通して流れる。実際の舞台シーンで。そしてアレンジされて、実にさまざまなシーンで。ラウンジ・ミュージック風。アップテンポ。タンゴ。手島恭子によるこの編曲が実に見事である。『白鳥の湖』の音楽を深く愛する者として、こんなにもさまざまな聞き方を楽しむことができて、幸せな限りである。手島作曲のオリジナル楽曲も、『白鳥の湖』を引用しつつも新たな展開を聴かせるところが心憎い。『カンパニー』の実況CDもぜひ作ってほしいと願う。
 さて、この斬新な『白鳥の湖』の宣伝のため、青柳は人々が盆踊りを楽しむ夏祭りでフラッシュ・モブを敢行することを思いつく。この夏祭りで浴衣姿の愛希が歌うのは『東京五輪音頭』、歌詞に「リオデジャネイロ」も盛り込んだ2020年版。なのだが! 愛希の歌に思い出すのは、どうしたって三波春夫が歌った1964年の東京オリンピック用の原曲である。それくらい濃厚に昭和感に満ちている。いったい何故〜! 昭和を知らないはずなのに。愛希れいか、またもや謎の老成、発揮。その姿に、何だかんだ言っても昭和っていい時代でしたよねと、誰彼となくつぶやきたくなる。……いや、あひるも前の東京オリンピックのとき、生まれていませんが。それはさておき。
 思ったのである。この世に、『白鳥の湖』と『東京五輪音頭』が一緒に流れてしまう舞台が他にあるだろうか、と。――私は平昌オリンピックのフィギュアスケートでの羽生結弦選手の演技に衝撃を受け、思考回路がそれは激しく“活性化”し――“活性化”はショー作品『BADDY』のキーワードである。後に触れる――、フィギュアスケートにおける音楽の重要性についてさらに深く考えるようになった。そして、今一度、日本人が西洋音楽を受容した頃、オペラだのバレエだのミュージカルだのといった細分化がなされぬまま、いろいろなものが混然一体となって受容されていた頃に改めて興味を抱き、横浜居留地内にあった劇場ゲーテ座や、浅草オペラの歴史等を扱う書物を読みふけっていた。浅草オペラはインチキ・レビューだの何だの言われて、いわゆる正史からは外して考えられがちである。けれども、その時代の方が、好き勝手な日本語歌詞をつけて歌って、オペラ・アリアが今よりもっと親しまれていたかもしれない。その後、オペラならオペラ、ミュージカルならミュージカルと、それぞれのジャンルが“正統”に発達していくこととなるわけだが、私は、西洋文化が混沌と受容されていた時代の、何でもありな野放図なパワーに魅力を感じる。そして、宝塚歌劇とは、そのような混沌の中から生み出された、実にオリジナルな文化である。もちろん、パリのレビュー等、影響を受けた文化はあるけれども、今となってはこんな舞台は他にはない。世界でここにしかない。なんせ『白鳥の湖』と『東京五輪音頭』である。でも。日本人の心の中では、その二つの曲が違和感なく共存しているのではないだろうか。
 そして、作品は最近の宝塚としては珍しく、現代の日本を舞台にしているのだった。もちろん、「宝塚には夢を観に行っているのに、リストラだのコンビニだの、夢がないわ」という意見もあろう。その意味でもおそらく大いにコントロバーシャルな作品である。けれども。
 ジャパニーズ・サラリーマンが主人公の宝塚歌劇作品があったっていい! と私は思う。宝塚歌劇団に属するという意味ではサラリーマンであった座付き作家の石田昌也が、同じくサラリーマンであるプロデューサーたちと、ああでもない、こうでもないと宝塚歌劇作品を創り上げてきた、その汗と涙、苦労と喜びが、この作品にはつまっている。原作にはないセリフがある。青柳はある日、美波と月を見ていて、夏目漱石が「I love you」を「今夜は月がきれいですね」と訳したという、半ば伝説化されている逸話を語る。そして、この月組作品のラストで、妻を亡くしてずっと傷心状態にあったものの、“カンパニー=仲間”と共に公演を成功に導いた青柳は、美波に「今夜は月がきれいですね」と告げるのである。日本の男はそれでいい! と思う――もちろん、「愛してる」をストレートに言える方は、どんどん言ってかまわないのですが。私はこのセリフに、演出家の照れを感じて、……かわいいな……と思ったのだった。そして、宝塚歌劇とは、女性たちの夢だけではなく、男性たちの夢をもまたこのように描けるのだと、そのことがとてもうれしく、幸せだった。

<――斬新作(ヤツ)は月からやって来る――>〜『BADDY』

 ↑を見て、『BADDY』の副題と表記、間違ってますと思う方もいるかもしれないけれども、さにあらず。
 『BADDY――悪党(ヤツ)は月からやって来る――』は、宝塚歌劇団で初めて女性演出家が手がけたショー作品。『星逢一夜』や『金色の砂漠』といった傑作を次々と生み出している上田久美子、ショー初挑戦である。設定がおもしろい。TAKARAZUKA-CITYを首都とする惑星国家ピースフルプラネットは、悪いことが何一つ起こらず、飲酒も喫煙も禁止。女捜査官グッディ(愛希れいか)が秩序を守るそんな地球に、宇宙一の大悪党、バッディ(珠城りょう)が月からやって来る。彼と共にやって来たスイートハート(美弥るりか)は、中性的な魅力の男。バッディとスイートハートの禁断のキスに、悲鳴をあげるグッディとその相棒のポッキー巡査(月城かなと)。悪いことやりたい放題のバッディと、悪を許さないグッディの、火花を散らす対決の行方やいかに――!
 悪といってもチョイ悪な感じではある。しかも、だんだんバッディの悪のスケールが小さくなり、スイートハートに盛大に突っ込まれたりするのがおかしい。ヘビースモーカーだった父を食道がんで亡くした身としては、……喫煙……善と対峙するところの悪っていうよりむしろ、身体とお肌に悪い方の悪では……などと考えてしまうけれども。
 それでも、善と悪との対決というテーマ自体は実におもしろい。グッディは、地球一安全な銀行ビッグシアターバンクに預けられたすべての惑星予算と共に、王子たちをも誘拐する。女捜査官グッディは怒りに震える。平穏の中で生きてきた彼女は、初めて激しい感情を知る。怒り。憎しみ。哀しみ。嘆き。痛み。そして彼女はこの上なく生を実感する。怒りで身を震わせながら歌い、銀橋を渡り、ラインダンスを率いて魂の踊りを見せる。「活性化 活性化 活性化」と皆が絶唱する。
 ラインダンスによって、怒りや憎しみといった感情が表現される様を、初めて観た。
 個人的には。銀行強盗のような悪によってそうした感情が“活性化”されることはないな、と思う。銀行からお金が盗まれたことによって助かるはずの命が助からなくなったとか、そういう事態でもなければ。しかし。ビッグシアターバンク――“大劇場”銀行――に預けられ、盗まれたのが、惑星予算ではなく、“遺産”であれば話は別である。大劇場をはじめ、これまで宝塚歌劇で上演されてきた作品群、美の確かな記憶、そういったものを、独り占めしようと身勝手にも盗み出そうとする不逞な輩がいるとすれば、話は別である。私はグッディと共に、美を穢そうとする者と闘うだろう。彼女が率いるラインダンスの面々のように、激しい蹴りを入れるだろう。宝塚に生きる“カンパニー=仲間”と共に。――怒りで顔をゆがめて歌うグッディ愛希が壮絶に美しく、彼女と共に絶唱する月組娘役たちのパワーは凄まじく、ラインダンスはエネルギーに満ち満ちていた。そして、バッディたちが悪の限りを尽くす男役ダンスに続き、グッディとバッディ、善と悪とが最後の対決を果たす、これまた斬新かつ壮絶なデュエット・ダンス。
 善と悪の対決。まるで、『白鳥の湖』のような。――それで、思い出す。かつてボリショイ・バレエ団で上演していたワシリーエフ版『白鳥の湖』の悪魔は、王子の父王で、オデットに邪恋を抱いて白鳥の姿に変えてしまうという設定だった。この父を演じたニコライ・ツィスカリーゼの演技のすばらしさもあって、私は、「“悪”はいったい悪なのか」という疑問を抱いたものである。相対としての、善と悪。その疑問が、後に、例えばあるときの星組で、にしき愛ばかりなぜいつも悪役を演じさせられているのだろう……という疑問にもつながっていった。ちなみに、フランスの革命家マクシミリアン・ロベスピエールは宝塚歌劇の舞台でたびたび取り上げられ、『ひかりふる路』で遂には主人公として描かれることとなったが、にしき愛こそ、『スカーレット ピンパーネル』日本初演及びそれに続く『ベルサイユのばら』でもこの役を演じた、ロベスピエール・ブーム? のはしりともいえる男役である。
 ときに、「こんな描写のある小説を宝塚で上演するなんて〜」と、本にラインを引いて歌劇団に送りつけるカゲキなファンもいるらしいけれども(『カンパニー』にあらず)。そんな“取り締まり”が有効な世界が“天国”なのだとしたら、確かに、バッディたちが歌うように、「天国なんてダサすぎる」「ばぁさんたちの行く場所さ」「じぃさんたちのたまり場だろ」と毒づきたくもなるけれども。個人的にイメージするところの天国は、違う。もっと美しい場所である。
 しかし。全員があの世、天国へ行っているという設定のパレードといい、斬新な意欲作ではある。この作品で演出家は、宝塚歌劇の既存イメージに自ら盛大なツッコミを入れている。それがいい、と思う。何も宝塚歌劇は、変に無菌化された場所でなくていい。「清く正しく美しく」と言った創始者自らが、この世界はまったくもって「清く正しく美しく」ないことをよく知っていたと思う。それでもなお、「清く正しく美しく」を目指す、それが美の道ではないかと、私は思うものである。
 思えば、正塚晴彦の『バロンの末裔』も、齋藤吉正の『BLUE・MOON・BLUE』も月組作品だった――そういえば齋藤吉正はやはり月組の『Misty Station』でも、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』の主題歌「魂のルフラン」をトップスター霧矢大夢に歌わせ、その後ろで幻のように夢想的なラインダンスが展開されるというシーンを作って物議を醸していた。斬新作(ヤツ)は月からやって来る?

 ということで。昨年の小池修一郎の『ALL FOR ONE 〜ダルタニアンと太陽王〜』に続き、座付き作家渾身の宝塚歌劇論が、それも二本も、月組にやって来たのだった。今勢いのある組ならではの巡り合わせを感じる。
 誠実なサラリーマンと、宇宙一の悪党を演じて、珠城りょうが男役として大きなステップアップを見せているのが頼もしい。美弥るりかも、中性的な魅力を生かせる役柄に芝居、ショーとも恵まれ、独自路線を確固たるものとしつつある。月城かなとは雪組時代とまったく異なる魅力を開花させつつある――ルックスはかつての月組トップスター天海祐希にますます似てきた。そして、月組男役陣も、男役ぶりが着実に上がってきているのがうれしい限りである。昨年、『カルーセル輪舞』の男役たちによるとあるダンス・シーンを舞台稽古で観ていて、……男役ができていない、男か女かよくわからん状態でキザられても困る!……と、怒りのあまり前の座席(人は座っていませんでした)の背をグーでパンチしたことを思うと、格段の進歩である。
 今回の心のキャラは、『BADDY』で、オマールの被り物を頭だけかぶってスーツ姿で現れる瞬間のポッキー巡査(月城かなと)と、顔は銀色、宇宙人の触覚? をつけたままムーディーなナンバーを熱唱する出向銀行員の輝月ゆうま、95期の同期二人に。月城オマールには素直に笑ってしまうが、輝月のあの姿での真剣な熱唱には、……これ、素敵って思っていいのか笑っちゃっていいところなのか、わからない〜とアンビバレントな気持ちに。また、『カンパニー』で多くの場面をジャージ姿で通したスポーツトレーナー役の海乃美月は――そういえば一度、Kバレエの客席で見かけて何だかうれしかった――、さばさばとした物言いが魅力の女性を演じてきちんと情感を漂わせる様に、娘役としての進歩を感じさせた。

 退団者について。
 副組長・綾月せりは、『カンパニー』では芸術に理解を示す製薬会社の社長役、『BADDY』ではピースフルプラネットの女王である妻に尻に敷かれている婿養子の公爵役。両役とも、男役としてのほっこりとした魅力が生きていた。
 歌、ダンス共に秀でた実力派男役として活躍してきた宇月颯が『カンパニー』で演じたのは、敷島バレエ団にメンバーを王子役で送り込むヴォーカル&ダンス・ユニット、バーバリアンのリーダー役。タレントがいきなりバレエを? と思うのだが、宇月がリーダーを演じており、メンバーの実力や舞台の出来にうるさそうなユニットだから、大丈夫かもと何だか大いに説得力。そんなバーバリアンのメンバーの一人として、貴澄隼人がいぶし銀の存在感を発揮していた。貴澄は『BADDY』でも、ビッグシアターバンクのマッシュルーム白髪の頭取役があまりのインパクト大である。
 星組時代からヒロインも数多く務めてきた早乙女わかばは、『カンパニー』では、製薬会社社長令嬢にして敷島バレエ団のプリマ・バレリーナ役。確かに彼女の父親である社長はバレエ団を金銭的に援助している。けれども彼女が主役を務めるのは決してそればかりではないと感じさせる誇りの高さ、舞台への情熱の激しさを、早乙女らしい明るさ、華やかさで表現。きっぱりとした物言いをしても決して嫌味にならない魅力的な女性像で、原作ありの作品なのに宛て書きしたようにぴったりの役どころだった。『BADDY』では、宇月扮するバッドボーイ、クールと恋に落ちてしまう王女役。グッディとバッディ、善と悪とがデュエット・ダンスで壮絶な対決を繰り広げ、奈落へと沈んでいった後、宇月と早乙女が水色の衣裳で踊る。――浄化の舞。二人が、宝塚の世界へと別れを告げる、その清々しい思いが、清めの念を一層引き立てていた。
 とびっきり楽しい二作品だから、今日一日、はちゃめちゃに楽しい千秋楽を!
2018-05-06 02:48 この記事だけ表示
 萩尾望都の名作少女漫画『ポーの一族』を読んだのは、大学に入ってからのことである。もともと少女漫画が好きだったけれども、大学に入って、名作とされる作品はすべて読んでみようと思い立ったのだった。一時期、実家の部屋に少女漫画だけで何千冊あっただろうか。大人になり、人生いろいろあった今、読み返しても心震える作品はもちろん残してある。『ポーの一族』もそんな作品の一つである。
 改めて、不思議な物語である。永遠に生きる、吸血鬼の一族。どこか、ふわっと風にたなびく、羽衣のような……。そんな物語に心ひかれ、舞台化を夢見た一人の青年がいた。若き日の小池修一郎である。このたび宝塚花組での舞台化が実現するにあたってのふれこみは、「同作品をミュージカル化したいと夢見て宝塚歌劇団に入団した小池修一郎が、1985年に『いつか劇化させて欲しい』と申し出て以来30年余り、萩尾望都があらゆる上演希望を断り続けた幻の舞台が遂に実現する」。この間、原作者の萩尾望都も、舞台化されるのをまだかまだかと待っていたそうである。多くの人々を長らく待たせて、小池修一郎潤色の『ポーの一族』、遂に宝塚の舞台に登場である。
 彼はすでに、『蒼いくちづけ』、『薔薇の封印 −バンパイア・レクイエム−』といったヴァンパイアものを手掛けてきている。『ポーの一族』を観た今、小池修一郎は、この『ポーの一族』という美しい作品に、長い長い片思いをしてきたようにも思えるのだった……。自分は、演出家として、あの唯一無二の世界を、宝塚歌劇の舞台に再現できるのか。いかなる方法をもってそれは可能となるのか。……彼の心の中でずっと、そんな自問自答が繰り返され続けていたのではないか。彼は他でもない、自分自身をも長らく待たせていたのだった。
 その“片思い”は美しい“恋”へと結実した。宝塚版の見事な舞台。小池修一郎が長年、宝塚の座付き作家として、そして、ミュージカル界の第一人者として培ってきたすべてが、そこに惜しみなく注ぎ込まれていた。寸分の隙もない。原作の世界観を濃厚に香らせながら、宝塚ならではの華やかな要素と演出術が盛り込まれている。それは、『ポーの一族』の世界であり、宝塚歌劇の世界であり、そして、小池修一郎の世界でもある。
舞台作品には上演時間という制約があり、原作の物語のすべてを舞台化することは難しい。何らかの形での凝縮が必要となるが、今回、小池は、原作ではもっと後の時代のエピソードとして登場する「降霊会」を、1789年のブラックプールでの出来事に設定、心霊主義の世界で名高い実在の人物ブラヴァツキー夫人を登場させ、ポーの一族と絡ませた。心霊主義といえば、19世紀後半のイギリスを席巻、『シャーロック・ホームズの冒険』で名高い作家のアーサー・コナン・ドイルや詩人のウィリアム・バトラー・イェイツ、画家のワシリー・カンディンスキーやピエト・モンドリアン、「田園調布」という街が日本に生まれるきっかけとなったイギリス田園都市運動を提唱したエベネザー・ハワードといった文化人たちに影響を与えた精神運動である。産業革命が起こり、近代化が進む一方で、人々は心霊主義の諸現象に興味を抱いていた。そんな人々の心にこそ、吸血鬼もまた魅惑的な存在として寄り添い得る。時代背景を物語る上で、これは実に面白い趣向となっていた。よって、心のキャラは、このブラヴァツキー夫人を実にコケティッシュな魅力で造形した芽吹幸奈に。ブラヴァツキー夫人は降霊会で、自分自身でもよくわからぬまま、ポーの一族でもっとも長く生き、もっとも濃い血をもつキング・ポーを降ろしてしまう。そして、何だかすごいエネルギーが要った云々、大ボケをかますのだが、芽吹自身のとぼけたキャラクターともあいまって、非常にほっこり笑いを誘っていた。
 原作のキャラクターと、花組生の個性とが双方存分に活かされた配役の妙も光った。主人公エドガー役の明日海りお、彼に一族へといざなわれるアラン役の柚香光、二人のヴィジュアルの美しさなくして、この作品の舞台化は困難だったろう。そして、原作をも超えた魅力を放ったのが、男爵夫人シーラ役の仙名彩世である。吸血鬼となる前、なった後では、声色さえ使い分ける。その、心にひそみ寄るように響いてくる声のもたらす陶然に、――女吸血鬼に魅入られるとはこのような状態なのだ――と思わずにはいられない。
 吸血鬼は永遠に生きる。「永遠に生きる」を考えるとは、「永遠に生きない」を考えることにつながる。つまり、吸血鬼を考えるとは、永遠には生きない人間存在を考えることと、ポジとネガの状態にある。人々は吸血鬼の存在に魅入られ、数々の芸術作品の中にその姿を描き出してきた。――芸術。美。人の命の長さを超えて生き永らえるもの。何百年の彼方に生きた者と、今を生きる我らとを結ぶもの。彼岸と此岸をも結ぶもの――。
 だから、吸血鬼は、美に生きること、芸術に生きることのメタファーともなり得る。仙名の演技が魅惑的なのも、そのメタファーを体現しているからこそである。
 他ならぬ宝塚歌劇団がそのような集団ではないか。百年の長きを超えて、舞台を創る者、それを観る者、多くの人々の、愛を、夢を、憧れを吸い、その者たちの命を超えて生き永らえていく。と、記す私の命をも、きっと。だいたいが、すみれコードなる年齢非公開の不文律をもつこの劇団に所属する人々は、恐ろしく年齢不詳である。ときに異様に若い。出演者のみならず、演出家も。『ポーの一族』を演出して、他ならぬ小池修一郎自身がまた若返っている。血ではなく、美を吸っている。気を吸っている。
 芸術史を紐解けば、美を吸い合い、美によって生きた、そんな者たちの交歓が記されている。互いの芸術作品から美を吸う。ミューズの存在から美を吸う。そうして芸術家たちは美の世界に永遠に生きる。芸術に、美にふれるとはそういうことである。私自身、舞台評論家として、美に飢えるときがある。そうなってしまっては、書けない。心が枯渇する。だから常に美のエネルギー源を探し続ける。より広く、より多く、美を求め続ける。先月末、Kバレエカンパニー『死霊の恋』で、浅川紫織がこれまた世にも美しい女吸血鬼を演じていたけれども、――何だかそのとき、蠱惑的なこの世ならざる者に何かを吸われていたような、何かを吸っていたような、そんな感触さえ残っている。そして家人は、帰ってきた私の顔の肌艶を見て、その日観てきた舞台の出来を、美しさを推し量っている。
 舞台の大詰で、演出家は、自らの来し方を振り返る――その刹那、例えば私が咄嗟に思い出したのは、古代人の遺伝子が現代人の身体に入り込んで起こる騒動を描くファンタジー作品『LUNA−月の伝言−』である――。その眼差しに、胸締め付けられる。小池修一郎は、ミュージカル界の第一人者である前に、宝塚歌劇団の座付き作家なのだ。宝塚歌劇は彼の内なる美をも吸い、そして生き永らえていくだろう。その金字塔に『ポーの一族』がある。

 それにしても。作中、ポーの一族は美しく、彼らに心ひかれる人間たちもまた美しい。そして、その対比のように描かれる人々がいる。自らのゆがんだ欲望ゆえ、美しき者たちの心を傷つけることも厭わない人々――。
 となれば、永遠に少年のまま生きるエドガーたち、穢れなき者たちとして生きるエドガーたちは、醜く穢れた大人となることを拒否する者たちの写し絵でもある。
 ――大丈夫! かつて少女だった私、もはや少女ではない私は、後ろを振り返って宣言する。後に続く者たちに呼びかける。人とは皆、長じて醜く穢れていくものでもない。
 私は、自分のこの胸の内にあるどんな愛をも恐れない。その愛を穢し、貶める、どんな者にも屈しない。そして、その愛のすべてをもって、他者の胸の内にあるすべての愛を祝福する。
 だから、恐れず大人になりなさい。

 少女漫画と宝塚歌劇が見事融合を果たしたこの舞台を最後に、旅立つ仲間がいる。ブラヴァツキー夫人の取り巻きの一人をキュートに演じた菜那くらら。花組の強力娘役陣の一人として長らく活躍してきた。そして、専科の飛鳥裕。雪組組長、月組組長として、厳しく、温かく、人々を見守り続けた男役。退団公演でも娘を温かく見守る父親役を演じていた。退団者たちの命もまた、宝塚歌劇団の一部となって、生き永らえ続ける。
2018-03-25 03:34 この記事だけ表示
 大和和紀の名作少女漫画『はいからさんが通る』は、は私の少女時代の愛読書である。昨年10月、宝塚花組による公演を観る前、久方ぶりにコミックス版を手に取ってみた。奥付の日付は昭和60年(1985年)。カナダから帰国した13歳の年に入手したことになる。ページを開けば、――一瞬にして少女のころに時が巻き戻り、その懐かしさに胸締め付けられるようで、そして、物語序盤、ヒロイン紅緒の親友環が、平塚らいてうが「青踏」発刊に際して記した有名な一文、「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった」を高らかに発するところで、涙、涙……。思えば自分も、その後の人生、ずっとはいからさん魂で生きてきた。女がどうのと言われればはねっ返してきた。ときにはつらいことももちろんあった。でも、総じて、ひるまずくじけずへこたれず、堂々と強く生きてきた。その意味で、『はいからさんが通る』という作品が私の人生に与えてくれたものは大きい。『ベルサイユのばら』『キャンディ・キャンディ』と並んで、もっとも影響を受けた少女漫画である。
 さて、花組『はいからさんが通る』が日本青年館ホールで上演された2017年10月、東京では他に、東京宝塚劇場で宙組の『神々の土地』、赤坂ACTシアターで花組『ハンナのお花屋さん−Hanna’s Florist−』と、三つの宝塚の公演が行われていたが、そのいずれもが女性演出家による作品だった。『ハンナのお花屋さん』の作・演出が、女性演出助手として初めて入団、宝塚歌劇団に女性演出家の道を拓いた植田景子。『はいからさんが通る』の作・演出は、『ルパン三世−王妃の首飾りを追え!−』や『幕末太陽傳』など異色素材の宝塚化を次々成功させている小柳奈穂子。『神々の土地』の作・演出は、『星逢一夜』や『金色の砂漠』といったオリジナル作品で大いに注目される上田久美子。同時上演となった三作品とも、それぞれの個性と強みが生きた充実の舞台となっていた。そして、『はいからさんが通る』宝塚版では、はいからさんこと紅緒が花嫁修業する伊集院家の家訓が<清く正しく美しく>。この、原作にはないオリジナルの設定に思わずくすりと笑ってしまった。ジャジャ馬娘紅緒は、はいからさん魂で伊集院家に新しい風を吹き込んでゆく。女性演出家三人、“はいからさんたちが通る”! と、痛快な思いになって。
 紅緒は生まれつきの許嫁である伊集院忍少尉に反発しながらも次第にひかれてゆき、愛を確かめ合う。だが、シベリアに出征した少尉の戦死が伝えられ、紅緒は二夫にまみえずの誓いを立てて、少尉のいない伊集院家を守ってゆくことを決意する。今回の宝塚版ではここまでを原作に則って描き、その後、編集者となった紅緒の悪戦苦闘や、少尉とうり二つのルックスで紅緒の心をかき乱すロシアからの亡命貴族サーシャ・ミハイロフ侯爵(実は生きていた伊集院少尉)をめぐる物語をぎゅっと凝縮する構成となっていた。その結果、例えば、出征した少尉がロシアで鬼島軍曹ら荒くれ者の部下たちを手なずけるくだりは舞台に登場しないことになったが、実は今回、コミックスを読み返していて、……このくだり、『ベルサイユのばら』でオスカルが衛兵隊に転属してアラン以下荒くれ者の部下たちを手なずけるくだりに影響を受けているのでは……と思うところがあった。それなら宝塚の舞台ですでに何度も上演されている名場面である。潤色の妙を感じた。
 それにしても。今回、改めて痛感する機会となった。少女のころ、自分が非常に恵まれていたことを。日本にはすばらしい少女漫画の数々がある。それら作品が私を育ててくれた。『はいからさんが通る』の紅緒に、『ベルサイユのばら』のオスカルに、生きる姿勢を、多くのことを教えられた。作品を通じて、大正時代に、フランス革命の時代に、目を拓かれていった。
 ――翻って。今の自分は、後に生まれた世代に、多くのものを与えられているだろうか。日本の女の子に生まれてきてよかった! と、後の世代が思えるような生き方を、自分自身、できているだろうか――。

 今回の舞台では、花組メンバーが驚異的な三次元再現率で、原作の個性あふれる魅惑のキャラクターを演じてみせた。原作の少尉には長身で涼やかな声というイメージを何となく抱いていたが、小柄ながら漫画のキャラクターさながらの圧巻の等身バランスを誇り、ハスキーボイスの柚香光の演じる少尉も実に魅力的だった。少尉が紅緒に向かって言う「好きですよ」も、漫画で読んでいたときは特段思い入れはなかったのだが、舞台版で柚香の声で聞いて、心の名セリフの殿堂入り。当たり役である。
 紅緒が「へっ編集長」といつもどもって呼んでしまう青江冬星を演じた鳳月杏は、驚異の原作再現率だった。見た目といい演技といい、誌面から抜け出てきたよう。惜しくも舞台ではカットされたセリフをカーテンコールで再現する趣向があり、鳳月が「来たな恋人」の名セリフを発したとき、あまりに胸がきゅーんと痛くなり、あわてて両手で押さえたあひる45歳(観劇当時)(笑)。個性豊かな面々が揃う中、心のキャラは、車引きの牛五郎を演じた天真みちるに。原作でも物語を引っかき回す愛すべきキャラクターだが、天真が出てきた瞬間、大爆笑! 牛五郎でしかない! その瞬間、舞台にぐっと引き込まれた。カーテンコールまで牛五郎さながらのお辞儀を見せる芸達者ぶりだった。当初は紅緒につらくあたるも彼女によって次第に変わっていく伊集院伯爵役の英真なおき、危なっかしい紅緒を見守り続ける父花村少佐役の冴月瑠那の温かな演技も心に残る。紅緒と少尉にインネンをつける印念中佐役の矢吹世奈は、印念にしか見えない! なのに不思議とかっこいい! 造形だった。
 アニメ版も観ていたので、アニメの主題歌のイメージが強く残っていたけれども、宝塚版のテーマソングもポップで軽快で口ずさみやすい。原作でも取り上げられている浅草オペラで名高い曲や、歌舞伎の名シーンも盛り込まれ、小柳奈穂子の手腕が大いに光った。唯一の不満といえば、東京公演の期間が一週間とあまりにも短く、宝塚ファンにも、『はいからさんが通る』ファンにも、十分に観劇の機会がなかったであろうこと。再演を望む。
2018-03-25 03:33 この記事だけ表示
 今でこそ強くなった雪組だが、少し前には大変な時代もあって、沙央くらまはそんな時代に組を支える一人だった。『仮面の男』が宝塚大劇場公演から東京宝塚劇場公演の間の短い日程で改変されることになり、その改変の大きな部分を沙央が担うこととなっていて、東京公演の舞台稽古でびっくりし、休憩時間に客席に姿を見せた彼女をねぎらった記憶がある――出演者が休憩時間に姿を見せることも稀なら、私が出演者に思い切って声をかけようと思うこともまた稀なので、よく覚えている。そして沙央は雪組から、今度は大変な時代の月組へと異動し、支えた。無論、専科に移ってからは、出演したその組を。それが可能だったのも、沙央くらまが芸の人だったからだ。たとえ作品に?となることがあっても、「でも、沙央くらまの演技はよかったな」と思うことがしばしばあった。ちょっとシニカルな観察眼があって、それが役柄の人物造形を面白いものにしていた。そんな沙央が、月組が大変な時代を乗り越えるきっかけとなった昨年の『All for One』出演を経て、雪組の『ひかりふる路/SUPER VOYAGER!』公演を最後に宝塚の舞台を去ることが、何だか非常に感慨深い。
 『ひかりふる路』では主人公である革命家ロベスピエールと途中袂を分かつも、何とか友情と、恐怖政治によらない道とを取り戻そうとする、革命家・ジャーナリストのカミーユ・デムーラン役。少年のようなキュートさを最後まで持ち続けた男役像を見せた。『SUPER VOYAGER!』ではコケティッシュな女性の姿で歌うシーンもあった。『All for One』で演じたモンパンシエ公爵夫人もそうだが、男役も女役も両方いけた人だから、ふさわしい花道であると思った。
 芝居でもショーでも、心の底からの絶唱を響かせる沙央の歌声を聴いていて、感じたことがある。確かに雪組は強くなった。けれども、まだ上に行ける。芸の道には決して終わりがない――だからこそ、その道を歩こうと決めた者は、その果てしない道をこの先もいかに歩いていくか、手段なり同行者なりを懸命に模索して、たとえどんな小さな一歩であっても少しでも前に進んでいこうとあがき続ける。まだまだ上に行きたい、そのように志す上では、組が大変な時代であっても芸を培い、磨いてきた、沙央の歌声に大きなヒントが隠されているように私には思える。
 宝塚歌劇の世界を出たら、また別の世界が広がっている。環境が変わる。それでも、貴女の心の中に、何か表現したいと燃え盛るものがあって、それを表現する場が舞台であるのだとしたら。役者・沙央くらまにまた劇場で逢える日を、私は心待ちにします。
2018-02-11 00:08 この記事だけ表示
 あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
 さて、2日に初日を迎えた公演の舞台稽古を見学してきましたが、2018年も雪組は強い! とりわけレヴュー作品は観ていて背筋がぞくぞくするシーンのオンパレード。芸の道に前進あるのみ! 、初観劇がそんな舞台で、2018年、幸先のいいスタート!
2018-01-02 23:40 この記事だけ表示
 今年は本当に素晴らしい作品が多くて選ぶのに贅沢な悩みが。そんな中でのベストは、小池修一郎作・演出の月組『All for One』。エンターテインメント集団、宝塚歌劇の可能性を大きく花開かせた作品。小池作品では星組『THE SCARLET PIMPERNEL』も、前年上演された梅田芸術劇場版で加わったロベスピエールのための新曲を他の場面を削ることなく取り入れ、新たな見せ場を作り出したばかりか、舞台全体をスピードアップ、グレードアップさせる演出が光った。外部作品『グレート・ギャツビー』でも、運命の女性デイジーを追い求め続けるギャツビー(井上芳雄が力演)に、己の演劇的良心を追い求め続ける姿勢を重ね合わせていたのが非常に印象的。
 特別賞に、宝塚歌劇の新たな可能性を切り拓いた上田久美子作・演出の花組『金色の砂漠』と、宝塚歌劇の驚異の三次元再現力を見せつけた小柳奈穂子作・演出花組『はいからさんが通る』。原作となった大和和紀の名作少女漫画についても新たな示唆を与えてくれたこの作品についてはまた記したく。
 もっとも演技がまとまっていたベスト・アンサンブル賞に、谷正純作・演出の雪組『CAPTAIN NEMO』。雪組はこれに先立つ7月の「早霧せいなさよならショー」での男役のラテンの群舞もそれは見事に揃っていて、二階席で観ていて背筋がぞくっとした。さよならショーで退団の感慨以外の感動をあれほど覚えたのは初めてかもしれず。
 東京宝塚劇場公演については記者懇親会という貴重な機会があるので、作品で気になった点についてはその場で直に伝えたり疑問を呈したりすることにした。新人賞は今年は該当者がないものの、来年恐らく複数名の名前を発表できるであろうことが楽しみである。
 素朴な疑問。大野拓史はいったいどうしちゃったの? 『ロシアン・ブルー』、『ヘイズ・コード』、そして『エドワード8世』のような優れた作品を生み出してきた人である。同世代として、「…あの頃はよかった…」と遠い目をすることは許さん(いや、自分も最近まで余生モードでしたが)。ということで、いろいろな人に言ってきて一番効くと思われる言葉を贈ります。
「好きなことやれ〜!」
 2018年の宝塚歌劇がますます発展していくであろうことが、評論家として本当にうれしく、楽しみでならない。
2017-12-28 18:42 この記事だけ表示
 ナチス・ドイツ下の『雨に唄えば』。この問題を突きつめていくと、究極的には、第二次世界大戦下、宝塚歌劇団で例えば『翼の決戦』のような作品が上演されていたことの是非を考えていかざるを得なくなっていくが、『ベルリン、わが愛』作・演出の原田諒はそこまで意識した上で、上層部とも戦い、敢えてハーケンクロイツ旗を舞台に出した由。
 映画作りに純粋な情熱を燃やす主人公の若き映画監督テオ・ヴェーグマン役の紅ゆずると、己の邪な欲望のために映画を利用しようとするナチスの政治家ヨーゼフ・ゲッベルス役の凪七瑠海ががっちり渡り合う。これが初めての専科生としての大劇場公演出演となった凪七は、ルックスだけで言えば線が細く、『エリザベート』タイトルロールも似合ってしまう男役である。だが、ゲッベルスとして権力に女性に邪な欲望をたぎらせる様には、怪演とも言えるぬめぬめとした凄みがあり、美に生きようとする人々を妨害するものの正体をはっきりと暴き出してみせた。そんな凪七ゲッベルスに、組を率いて二作目、トップスターとして着実に成長を遂げつつある紅ヴェーグマンが、仲間をまとめて挑みかかる。二人の力演が対立軸をしっかりと構築し、舞台に緊迫感をもたらした。娘役トップスターの綺咲愛里は、紅ヴェーグマンの映画監督デビュー作に出演して注目され、ゲッベルスに邪な欲望を抱かれる新進女優ジル・クライン役。レビュー・ガールの一人としての舞台への最初の登場シーン、彼女こそがヒロインであるという観客への示唆がなされないのは、自らの監督デビュー作でヒロインではないジルにモノクロ画面映えする化粧を教え、ヒロインを務めるレーニ・リーフェンシュタールには教えないヴェーグマンの姿勢と同じくらい気になるところだが、娘役トップとしてきちんと存在感を発揮するあたり、綺咲の成長も頼もしい。サイレント映画の名優ヴィクトール・ライマンに扮した天寿光希が、「星組に天寿あり」と大いにアピールする、切々とした心情あふれる深い演技を見せた。今後、専科入りも視野に入れ、宝塚のために活躍していって欲しい人材である。ドイツの映画会社UFAの重役やプロデューサーたちに扮した星組男役陣の演技も舞台を引き締めていた。
 『Bouquet de TAKARAZUKA』は、日本初のレビュー『モン・パリ』上演90周年を記念したレビュー作品。ベテラン演出家の酒井澄夫が、決して懐古趣味一辺倒には陥らない趣向で、攻めの姿勢を見せる。トップコンビ以下、三組のデュエット・ダンスに凪七の見事な歌唱が絡むシーンでの、黒、白、赤、紫という色遣いなど、ときに淡く、ときに濃く、衣装の色合わせの美しさに目を見張る。
 この公演で、星組ベテラン男役の壱城あずさが宝塚の舞台を去る。小柄でキュートなルックスの持ち主であっても、情熱と努力によって男役芸を花開かせることができる、そんなお手本のような存在である。前回大劇場公演『THE SCARLET PIMPERNEL』では、ピンパーネル団の番頭的存在デュハースト役として、紅演じる主人公パーシー・ブレイクニーをしっかり助ける様が、そのまま、新トップスターを見守り支える彼女自身の舞台人としての姿勢をもうかがわせる好演だった。今回の『ベルリン、わが愛』では、ゲッベルスの意向も受け、UFAを買収する実業家アルフレート・フーゲンベルク役。フーゲンベルクもまた富と権力に物を言わせ、レーニ・リーフェンシュタールを愛人とする。銀眼鏡を外す、その目にぎらっと邪な欲望を感じさせる様に、ベテラン男役ならではの迫力を見た。レビューで発揮する、ルックスとは裏腹のやさぐれ感もまた持ち味。壱城あずさの存在を通じ、継承されていく星組男役芸もまた、ある。
2017-12-24 00:46 この記事だけ表示
 『王妃の館』の作家・北白川右京は、宙組トップスター朝夏まなとの魅力が存分に生かされた役柄だった。ド派手なファッションに身を包み、長い手足を面妖に振り回して、気の強いヒロインと大いにやり合う。パリを訪れた彼は実はスランプである。ルイ14世の亡霊と遭遇し、これを物語にしようと格闘する。そのうち、物書きとしての自分に目覚める。朝夏の大らかなようで実はナイーブな部分もにじみ出ていた。
 朝夏まなとアメイジングステージ『A Motion』では、もしも彼女がこれらの作品の主人公を演じていたら…という設定で、『ロミオとジュリエット』『ミー・アンド・マイ・ガール』『ファントム』『スカーレット ピンパーネル』からの楽曲が歌われた。実際には演じた経験のない役柄のナンバーを歌ってその作品の世界観を展開するのはなかなか難しいことと思うが、私は客席で、朝夏の歌唱と共に、それぞれの作品が心に与える思いをじっくりと振り返ることができた。『ファントム』のナンバー『お前は私のもの』では、キャリエールのパートを担当した愛月ひかるもナイス・アシストだった。
 明日は明日の風が吹く。今日一日、誇りある宝塚歌劇団の一人として全力投球を!
2017-11-19 00:00 この記事だけ表示
 “美しい”という言葉を使うのは難しい。人によってそれぞれ受け取り方が異なる――それを言い出したら、どの言葉だって同じだけれども。単なる表面的な、外見的な美しさだけを指しているととられる場合がある。単なる綺麗ごとを言っているだけととられる場合もある。
 それでも記す。宙組娘役・伶美うららは美しい人であると。
 “美しい”とされている人がいて、その美しさはときに、その人物が己を“美しい”と思う自意識によって多分に担保されているものだったりする。彼女の場合は違う。私は舞台に立つ彼女からその手の自意識を感じたことがない。それでいて、その美しさを無防備なまでに客席に向かって投げ出す。――こんな光景を目にしていいのかなと、ときに観ていてはっとするほどに。『VIVA! FESTA!』のラインダンスのシーンで、伶美が銀橋を渡っていく場面があった。そして客席に向かって、それはたっぷりと時間を使ったウィンクを投げた。宝塚の娘役が表現し得る魅力の一つとして、ほっこりふくよかに人の心を和ませる女性美があると思うが、その姿はさながら、豊穣を約束する春の女神のようで――。朝夏まなとのライブショー『A Motion』では、ミュージカル『ロミオとジュリエット』の『世界の王』を歌い踊る姿が実に男前だった。それもまた娘役としての成長である。『ヴァンパイア・サクセション』の死神見習い役で見せたパンチの効いた演技もツボだった。
 退団公演『神々の土地』のヒロイン・イリーナ役は、だから彼女にぴったりである。ロシア帝国ロマノフ家の一員として、社交界の華と謳われながら、戦地に身を投じ、看護婦として兵士たちに献身的に尽くす。革命の炎が燃え盛っても、彼女はロシアの地を捨てて逃げようとはしない。王家の一員である以上、そこで生きることが自らの使命だと考えている。毅然とノブリス・オブリージュを知る人。その姿は、『ベルサイユのばら』大詰のマリー・アントワネットを思い起こさせた。
2017-11-19 00:00 この記事だけ表示
 明日10月8日に赤坂ACTシアターにて初日を迎える宝塚花組公演「ハンナのお花屋さん」の舞台稽古を見学。作・演出の植田景子が難しいテーマをも宝塚の世界観に巧みに落とし込んでいて、作者ならではの細やかな美意識が随所に感じられる作品。観劇後、心にぱっと花が咲くような舞台で、あひるは好きです。帰りにお花屋さんに寄りたくなるような。
2017-10-08 22:24 この記事だけ表示