明日10月8日に赤坂ACTシアターにて初日を迎える宝塚花組公演「ハンナのお花屋さん」の舞台稽古を見学。作・演出の植田景子が難しいテーマをも宝塚の世界観に巧みに落とし込んでいて、作者ならではの細やかな美意識が随所に感じられる作品。観劇後、心にぱっと花が咲くような舞台で、あひるは好きです。帰りにお花屋さんに寄りたくなるような。
2017-10-08 22:24 この記事だけ表示
 100周年以降快進撃が続く宝塚歌劇団から、また一つスマッシュ・ヒットが飛び出した。月組公演「All for One」。「三銃士」や「鉄仮面」など、日本でも古くから親しまれてきた、そして宝塚の観客層にとってもなじみのある題材を元に、エンターテインメント集団、宝塚歌劇の可能性を極限まで推し進めると、これほどまでに楽しい世界が広がっている! そんな新鮮な驚きとわくわく感とをもたらしてくれる、座付き作家・小池修一郎のオリジナルでの最高傑作である。
 “太陽王”ことフランス王ルイ14世はある秘密を抱えていた。――実は彼は、女だった! 生まれたときは男と女の双子、それが、双子は災いをもたらすとの進言により、赤子のうちに一方を捨ててしまった。…そう、男の子の方を。そんなバカな〜。「♪王子様を棄てちゃった〜」と、暢気に歌っている場合なのかマザラン!(ここの一樹千尋が実にキュート) 「三銃士」や「鉄仮面」を少女のころよりこよなく愛するわが母がこの作品を観て、「もともと荒唐無稽な話がさらに荒唐無稽に〜〜〜」なる楽しい感想メールを幕間に送ってきたのもむべなるかな。かくして双子の一方は“男”を演じ、王としてフランスを治める羽目に。
 “男”を演じて王を務める。――どこかで聞いた話ではないか。女性が老若男女すべての役を演じ、そして“男”を演じるそのうちの一人がトップスター、すなわち組の“王”を務める劇団。そう、「All for One」は、荒唐無稽でポップでチャーミングな歴史ラブ・コメディであると同時に、宝塚歌劇をこよなく愛する座付き作家による秀逸な宝塚歌劇論でもあるのだった。その根底にはもちろん、宝塚歌劇にインスパイアされて描かれた手塚治虫の「リボンの騎士」へのオマージュも流れている。双子をめぐる騒動や、女性が男性のふりをするあたり、ウィリアム・シェイクスピアの「十二夜」や「お気に召すまま」をも思わせるところがある。
 この作品における一番の難役が、トップ娘役愛希れいかが演じるルイ14世であることは言を俟たない。なんせ彼女は、女性が演じる男役を相手に、“男の王を演じる女の子”を演じなくてはならない。女性が演じる男役とは異なる階層で、“女性が男を演じている”という状態を見せなくてはならない。これは、夏に上演された「魔都夜曲」で、元雪組トップスター壮一帆が、男性の役者の間に入って“男装の麗人”川島芳子を演じたのと背中合わせの難しさである。確かに愛希は入団3年目まで男役を務めており、背も高い。だが、それだけでこの難役が御しきれるというものではない。
 要は、“舞台と客席との間に結ばれる約束事”の問題である。その約束事を、舞台上演じられる虚構のどの階層にまで成立させるべきなのか。その約束事を、演技上、どの階層までは明示し、どの階層からは不提示すべきなのか。そんな高度な判断が、演じる役者に求められているということである。宝塚歌劇は女性が男をも演じる劇団である。だから、愛希が“男の王を演じる女の子”を演じる上では、宝塚の根幹である、女性が演じる男役なる存在の領域を侵さぬよう、パロディにもならぬよう、実に狭隘なところに己の演技を着地させることが求められているわけである。「魔都夜曲」の壮の場合はといえば、宝塚歌劇の舞台で演じてきたのは“男”であって、“男装の麗人”ではない。宝塚の男役という存在そのものは“男装の麗人”ではあっても、男役が舞台上で演じるのはあくまで“男”なのである。階層が違う。宝塚歌劇とは女性が男を演じる劇団であり、壮一帆はそこで男役を務めていた、一方、愛希れいかは娘役だけれども今回は“男の王を演じる女の子”を演じている――という“約束事”をあらかじめ予備知識として共有している観客にとっては、容易に理解できる事項であろう。けれども、例えば何の予備知識もない観客がいたとして――男役を観て、「宝塚にも男がいた」とか「男も入れるの?」という感想が出るというのは、宝塚にまつわるよくある笑い話である――、その観客に対しても、異なる階層において男/女を演じているとその演技のうちに細かに提示していく上では、高度な芸が必要なのである。逆に言えば、愛希れいかの演技力を高く評価しているからこそ、小池修一郎はこのように思い切った宝塚歌劇論を展開することができたとも言える。
 “男の王を演じる女の子”は、主人公ダルタニアンと恋に落ちる。彼女が女性の姿に戻り、その愛を成就させるには、捨てられた双子の兄弟を探し出すしかない。その手がかりは、双子の母であるアンヌが実家スペイン・ハプスブルグ家から持ってきた、双頭の鷲のペンダントの片割れだけ。――このあたり、座付き作家の心情は何だか少しせつなくすら感じられる。…一緒に仕事もしてみたかったのに、もうやめちゃったな。女としての幸せのためだったんなら、しかたないけど…なんて、永遠の乙女の花園に残された方としては思ったりもするのだろうか等と、心中勝手に想像してみる。座付き作家の方も、“男を演じる女の子”の心中を盛大に想像してみている。愛希ルイのナンバー、「もし私が女の子なら」。自分に似合う髪型に迷い、街に出たなら誰か振り向いてくれるか夢想を広げ、「♪お洒落をしたい/だって私本当は/女の子に生まれているの」と歌う。稽古場で日々向き合う、“男”を演じる乙女たちの心中に、座付き作家は思いを馳せている。…ホントは、「私だっていわゆる女の子の服装をしてみたい!」と思っているのかもしれないな…と。それでも、そこは宝塚歌劇である。自分で男役を務めると決めた以上、男を演じなくてはならないし、そんな男役たちに対して、座付き作家は厳しく指導しなくてはならないのだろう…。
 劇場でこの歌を聴いていても、そして、今こうして書き写していても、思うのは、…この歌詞を書いた人は、なんてかわいらしい人なんだろう! ということである。今や日本ミュージカル界を牽引する演出家に対して少々失礼な表現かもしれないけれども、心からそう思う。そして、日本ミュージカル界を牽引する存在である以前に、小池修一郎は宝塚歌劇団の座付き作家だ! と思うのである。その人が愛ある宛書をしてくれる劇団は、この世で宝塚歌劇団の他にない。
 それと同時に感じたことは――。小池修一郎は、「エリザベート」や「スカーレット ピンパーネル」といった、海外ミュージカルの宝塚化の大ヒットで有名でもある。けれども、それら翻案作品では、彼の人間としての魅力の一部しか享受し得ていないのだと、今回つくづく思ったのである。海外、外部の作品をいかに宝塚において上演するか、そこには、すでにあるものを宝塚に合わせていくという苦労がある。「エリザベート」にしても、宝塚版と東宝版を両方観ると、…彼の中ではこれは“すみれコード”に引っかかるんだな…等、苦心がしのばれる。
 けれども、今回の「All for One」は、すべてが小池修一郎の中から生まれ出てきたものである。産みの苦労はあっても、合わせる苦労、苦心はない。そして、すべてがとても愛おしい。ダルタニアンに“壁ドン”からキスされときめくルイ、その彼女に迫ろうとする枢機卿マザランの甥ベルナルド。が、壁が要ること、壁がないことに困惑したり、ルイに「柱じゃダメ!」と言い放たれたり、果てには、ルイとダルタニアンの愛の成就を目の当たりにすることになり、「今分かった。お前が俺の壁だァ!」なるセリフで盛大なオチがつく。この一連の流れにしても、座付き作家が乗りに乗って、心から楽しんでセリフを書き、舞台を創っているのが伝わってくる。
 清く、正しく、美しく。楽しく、明るく、華やかに。そんな精神で、「All for One」の舞台は進んでいく。そして、座付き作家の尽きせぬ愛を受けて、月組&専科の面々が輝いている。クライマックス、敵に囲まれたダルタニアンと三銃士が階段上に現れ、「All for One, One for All」と剣を合わせるときの、あの高揚! 率直に言って月組は過去困難な時期があったが、今、飛躍しようとしている。「All for One」がその大きなきっかけとなることを確信してやまない。
 月組トップスター珠城りょうにとってはこれが二作目。お披露目作「グランドホテル」でのフェリックス・フォン・ガイゲルン男爵役は、正直なところ、五組一若いトップスターの船出には荷が重すぎるように思われた。今回の「All for One」では、彼女の若々しさ、朴訥さが生きる等身大の役、ダルタニアンを宛書されて生き生きとしている。ダルタニアンはフランスを統一したアンリ4世と同じガスコーニュの出身、田舎育ちとそしられようと、ガスコンであることを誇りにし、王への忠誠心を決して忘れない。そしてそれは何も、王に対してへりくだったり、おもねったりするということではない。「♪誰とでも向かい合おう/真実の為なら/たとえ相手が/国王陛下であろうと」との信念をもつ彼は、ルイの剣の指南役候補となり、その相手を務める際にも「嘘は吐けない」と、正々堂々向き合う。その結果、国王に尻餅をつかせてしまい、トラブルが振りかかることとなる。剣士はその剣に嘘はつけない。ついてはいけない。いざというとき剣がひるむ。ストレートなヒーロー像である。一つ気になったのが、例えば「私は、あなたを、愛している。」というセリフがあったとして、「、」も「。」もすべて同じ長さの間で発語しているように聞こえるきらいがあることである。言葉は音符や休符のようには書き表せないけれども、実際には、「、」が感じられないほど言葉がつらつら続いたり、「。」が「、」より短かったり、登場人物のそのときの心情、果てには演じている人間の心情の乗せ方によって、さまざまに変わって来るものだと思う。検討、健闘を期待する。
 難役を見事成立させた愛希れいかは宝塚の娘役の領域を大幅に押し広げた。宝塚史にあざやかにその名を刻む名演である。その芸には“老成”の言葉すら似合う。そこにあるのは、“自分が他者からいかに見えているか/自分が見たものがそのように見える、それは何故なのか”を問う、役者としての優れた、冷徹な目である。彼女は若い。若い娘そのものである。それなのに、“若い娘とはどのようなものなのか、どのようなしぐさや振る舞いをすれば若い娘として見えるのか”ということを、実に冷静に見定めた上で演技を構築している。お洒落をして街に繰り出す場面など、観ている方まで胸がキュンとするほど、とんでもなくキュートなのである。それでいて、その根底にある冷徹な目がどこか恐ろしくすらある。老成している。その老成の芸で、女ながら男の王を演じるルイが、ダルタニアンに恋して愛の成就の困難に悩む、そのせつなさを余すことなく描き出していく。制作発表会のときから、“太陽王”としてあの金ピカの太陽の飾りを頭につけ、タイツを履いて出てきた彼女の姿に、…絵でしか見たことがないこんな恰好が生きている人間として見事成立しているところが凄すぎる! と感服した。その姿で、踊る。踊りの素晴らしさは言うまでもなく。男を演じても、低音の発声が実にかっこいい。そんな愛希を観ていて、思ったのである。シェイクスピアの時代も、すべての役を男が演じており、男が演じる女がさらに男装したりする作品もあった。そのごちゃごちゃ、階層の微妙なズレを、観客もわかっていてツッコミを入れて楽しんだり、ときには男性が演じていることを忘れて感動に誘われたりしたのだろうなと…。太陽王が踊ったバレエも実際のところどんな出来だったのだろうか等々、時を超えた観客の気持ちに思いを馳せた。
 “壁ドン”シークエンスを任されたベルナルド役の月城かなとは、同じ小池修一郎のヒット作「るろうに剣心」での彼女の当たり役、四乃森蒼紫と同系列のダーク・キャラ…と見せて、実はコメディ担当。ダークな色合いの衣裳にさっそうと身を包みながらも、「壁が要るのか…」「壁も無いのに…」と真面目くさってつぶやくこの役で、コミカルな役どころにも強いところをアピール、新境地を大いに拓いた。
 ルイの秘密を出生時から知り、今は宮廷での勢力確保に必死の枢機卿マザラン役の一樹千尋は、男の方のルイ14世が即位することとなり、ルイの母で摂政のアンヌから退任を命じられたときの去り際に実にdignityがある。彼は根っからの悪人ではない。彼には彼の信念があり、その信念をもってルイとアンヌを支えてきた。けれども、その信念が私利私欲に汚されてきたとき、そして国民の声と大きくかけ離れてしまったとき、その者が去ることがやはり国のためとなろう。だが、その者にも当初は信念があったことが、一樹の去り際の立派さによって示される。そう、この作品は、組織論、リーダー論ともなり得ているのだった。
 女と知らずルイに思いを寄せ続ける年上のいとこモンパンシェ公爵夫人をコケティッシュに演じたのは沙央くらま。女の色気でルイを誘惑! と、長いスカートを取って美脚も露わに踊るシーンは見事なショー・ナンバー、ザッツ・ミュージカルの魅力にあふれている。この曲をはじめ、作曲・編曲の太田健による楽曲群は実にバリエーションに富み、耳を楽しませてくれる。座付き作家の活躍を、座付き作曲家の活躍が支える。座付きクリエイター陣の面目躍如である。モンパンシェ公爵夫人はルイに恋するあまり結婚が遅れ気味で、それをからかわれたりもするのだが、女性の観客にとって不快とも映りかねないこの役をめぐるあれやこれやを、沙央の演技は実に巧みにかわしてむしろ共感を誘う。モンパンシェ公爵夫人が「私も剣には心得がございますのよ!」と剣を取って構えるのは、もともとは男役である沙央へのこれまた愛ある宛書であり、結果的に、この作品が体現する宝塚歌劇論を補強する効果をも生んでいる。
 いつまでも若々しく美しい摂政アンヌを演じる憧花ゆりの。マザランの権力独占に対する蜂起の旗頭となるボーフォール公爵を凛と演じる光月るう。芝居の月組の伝統は確かに引き継がれている。アンヌが生き別れの双子の真実を知るのが、剣戟一座による仮面劇「双子の騎士」を観て――というのも、「ハムレット」はたまた熊川哲也の傑作「くるみ割り人形」をも思わせる趣向である。三銃士の隊長アトスに扮した宇月颯も、やっとこの人らしい舞台が観られた感がある。さらなる奮起を!
 今回の心のキャラは、ルイ14世と共にバレエ創作に熱中するリュリ役の佳城葵に。ジャン=バティスト・リュリといえば、バレエ史にその名を残す実在の人物である。バイセクシュアルであったとの史実をも踏まえているとみえ、男の姿のルイがダルタニアンとキスを交わすのを目撃した際、何だか妙にうれしそうな演技に細かい工夫が見られた。佳城は「アーサー王伝説」でアーサーの兄ケイを演じた際も、道化と見せて実は賢い人物像の造形が非常にチャーミングだった。芝居の月組を支える存在へと成長していってほしい。
 月組が群衆芝居に優れた組でもあったことを思い出させてくれる公演でもあった。打倒マザランへと立ち上がる民衆の熱気は、かつての月組のヒット作「スカーレット ピンパーネル」の迫力を彷彿とさせた。民衆の大合唱へとなだれ込む「くたばれマザラン!」の一声を高らかに響かせる居酒屋の主人シモン役の輝城みつるはこの公演で退団である。千秋楽の今日も熱い一声を!
2017-10-08 00:44 この記事だけ表示
 今月初めに花組の項<宝塚花組「邪馬台国の風」「Santé!!」>(http://daisy.stablo.jp/article/452453469.html)でもふれたように、この公演が退団作となる夕霧らいは、決してくどくはなく、むしろ後味はさわやかなれど、ねっとりとエロい、いかにも花組の男役らしい男役である。実は私は長らく、そんな彼女の特質をバロメーターとしてきていた。男役・夕霧らいがねっとりエロスを放っていれば、花組の状態は万全。放っていなければ組の状態に何かしらの問題あり。さて、今回の公演であるが、花組の状態は大丈夫! 夕霧らいはちゃんと個性を発揮していた――いささかさみしげに見えたのは、こちらの心情もあるのかもしれないけれども。組の状態のバロメーターになり得るくらい、彼女は組のあれこれに心を配って舞台に立ち、日々を過ごしていたのだろうと思う。一つの集団がまとまって舞台を創り上げる上で欠くべからざる存在である。
 「邪馬台国の風」で演じた伊都王のように、最近ではベテランらしくどっしり重厚な役を演じることが多かったが、ねっとりエロスの代表作としては「復活」のユスチーノフを挙げたい。娼婦に身を落とすも改心したヒロイン・カチューシャに、医療刑務所で言い寄る役どころで、「お前の身体は世界旅行してたんだな」と言い放つ。すみれコード的にはなかなかなセリフであるが、夕霧の演技はこれをきっちり通した――宝塚歌劇にふさわしい品位と、役どころにふさわしいエロスとをもって。通した分だけ、宝塚歌劇の領域は広がったのである。
 レビュー「Santé!!」のクライマックス、男役の黒燕尾服のダンスで、夕霧が前に出てきてトップスター明日海りおと二人で踊る場面がある。よくある退団者への餞の場面、そう考えてはいけないと思う。これは、その餞にふさわしい力量がある者にしか似つかわしくない場面なのである。そして、花組男役・夕霧らいは集大成にふさわしい姿を見せた。明日海は月組仕込みの花組トップスターで、夕霧は花組一筋の男役で、だから色が違っていて、それでいいのである。ああ、この人は本当に花組の男役らしい男役だな、と思った。黒燕尾服姿に誇りがある。キザってなんぼの花組男役は、決して軽薄というのではなく、少しチャラい感じがあるのが魅力なのである。明日海と共に踊って、そしてどこか控えめなたたずまいでさっと皆の列に加わる黒燕尾服姿に、夕霧らいの男役人生を見る思いだった。

 夕霧と共に退団する娘役・梅咲衣舞は、整った容姿の持ち主ながらもどこか不思議な魅力があって、何故なんだろう……と思っていたのが、最近知ってびっくり、熱烈な男役志望だったという。それで何だか腑に落ちた。クセのある役どころが得意だったり、パンツルックが似合ったりする娘役なのが。
 退団公演ではそんな彼女の魅力が味わえた。「邪馬台国の風」では陰謀を企てるヤマタイ王の娘アケヒの侍女カヌハ。ほくそ笑んだり、目論見通りに行かなくてあ〜れ〜とばかりに連れ去られたり、そんなクセのある役どころを演じて実に生き生きとしている。レビュー「Santé!!」ではパンツルックではつらつと踊る姿が観られて幸せだった。男前とか、男っぽいというのではないのだけれども、何だか妙にしっくりくるのである。男役に心ひかれ、それでも懸命に娘役芸に勤しんできた、そんな彼女だからこそ醸し出せた魅力なのだろうと思う。
 
 二人とも、どうかどうか、これからも幸せな人生を!
2017-08-27 00:10 この記事だけ表示
 前回東京宝塚劇場公演「金色の砂漠」を観て、そしてその東京公演千秋楽の次の日に「omoshii mag vol.9」のための取材を行なって(http://daisy.stablo.jp/article/448839728.html)、舞台人明日海りおへの敬意の念は深まるばかりである。「金色の砂漠」では明日海と、この作品で退団した花乃まりあの花組トップコンビの渾身の演技がすばらしかったが、学年の離れた相手役である花乃をリードし、この難しい作品の難しいヒロインを務めるまでに育て上げた明日海の手腕が光った。
 「邪馬台国の風」「Santé!!」では、明日海は新たに相手役に仙名彩世を迎え、ますます充実した舞台を見せる。「邪馬台国の風」は確かに頭の中に「?」がいくつも飛び交う作品ではある。だが、花組トップスター明日海りおはその「?」を己の力量でねじふせてゆく。宝塚のトップスターとはときにそのような技量を要求されるものである。明日海の心の中には、舞台を少しでもよりよいものにしたい、そうすることで、劇場に集った観客により素敵な時間を過ごしてほしい、世界でここにしかない宝塚歌劇の舞台を心ゆくまで楽しんでほしい、そんな想いが純度高く、熱く燃え盛っている。決して大柄ではないが、舞台では実に大きく見える。頼もしい。今の宝塚歌劇を背負う第一人者である。
 仙名彩世は新人公演ヒロインの経験こそないが、すでに数々の作品で好演を見せてきた実績があり、トップ娘役として明日海をしっかり支える舞台が期待されるところである。「邪馬台国の風」で演じるは、神の声を聞く巫女の中から選ばれて女王卑弥呼となる少女。彼女の落ち着きのある、ときにどこか神性を帯びて聞こえる声は、なるほど巫女なる存在にふさわしい。その声で、レビュー「Santé!!」の後半、ダルマ姿で花組娘役陣を引き連れながら銀橋を渡り、「♪遊びましょ」と歌い踊るとき、何だかイケナイ気持ちに…。その一方で、明日海さんに倣って攻めていくぞ! というかわいらしい勇ましさも感じさせる。おもしろいもので、花組娘役と雪組娘役は“男前”にならない傾向にある。組によっての娘役カルチャーの違いであろう。
 さて、花組トップスター明日海りおの舞台への意気込みに大いに共鳴するからこそ、私は以下の文章を認めることとする。花組全体、もっと燃えていい。一人一人、もっともっと前に出てきていい。もちろん、芸なく品なく「目立ちたい、自分を観て」という出方ではない。「自分がここまで磨いてきた男役芸、娘役芸をもっと観てください!」という出方でである。大丈夫! 多少皆が前に出たところで、明日海はびくともしない。むしろ、自分が信じる宝塚歌劇の舞台を創り上げる上で頼もしく思うことだろう。明日海りおは、花組の組ピラミッドを、どこまでも高く、大きくする気持ちにあふれている。その心強いパートナーとして、芸の人仙名彩世を相手役に迎えたのである。皆の者、トップコンビに続け〜!
 「邪馬台国の風」でも、明日海同様、各場面場面で、己の力量で脚本演出の「?」をねじふせればいい。そこに流れる心情が気迫こもって確かであれば、観る方も、「…何だかすごいものを観たな…」と納得させられるのである。大勢で踊る場面も、もっと動きと感情を合わせることでさらにパワーが出せる。巫女が舞うのは神に祈りを捧げるためだが、そのとき、一人一人はどのような思いを胸に舞うべきなのか。この作品の中で描かれる祭りを、一人一人はどのような思いで迎えているのか。例えば、幸せで飽食な時代に迎える祭りと、争い続きだったり、凶作だったりする中で迎える祭りとでは心情も異なってこよう。「Santé!!」でも、例えば男役が娘役をリフトして回すときのタイミングや角度などももっと揃えられると思う。ただ、私は何も風紀委員のように「ここが揃っていない」と口やかましく言いたいわけではない。そうではなくて、ここが揃って見えたら、それは客席にはすばらしく美しく見えるのではないか、そんな改善点を、組の一人一人が常に自ら意識して舞台に立つとき、客席には新鮮な驚きと感動がもたらされると思うから言うのである。
 男役の黒燕尾服の場面、揃っている。当たり前である。花組の黒燕尾服の踊りが揃っていなかったら、宝塚はほとんど終わっている。それくらい、宝塚花組の男役は誇りをもって舞台を務めるべき存在である。だから、芸の力によって一人一人、もっとアグレッシブに前に出てきていい。それに、組カルチャー的に、花組は、男役が一歩も二歩も前に出てこない限り、下がって男役を立てる娘役は前に出て来られないのである。今公演、一段と若返ってかわいらしさが増した感のある副組長花野じゅりあを筆頭に、かわいこちゃんから個性派まで、娘役の方が一人一人の顔がはっきり見える。多彩な娘役陣をさらに活かすためにも、男役陣のさらなる充実が望まれる。男役の代表格として一例を挙げると、この公演が退団作となる夕霧らいは、“決してくどくはなく、むしろ後味はさわやかなれど、ねっとりとエロい、いかにも花組の男役らしい男役”である。一人一人がこれくらいはっきりとした個性で魅了できれば鬼に金棒! 宝塚が誇る花組の男役の一員として、どんな思いで舞台に立っているのか、男役芸をどのように磨いてきたのか。その気迫輝いてこそ、黒燕尾服の場面も一段上に行けるのである。奮闘を期待する。
2017-08-05 23:50 この記事だけ表示
 早霧せいなは、壮一帆の後を継いで雪組トップスターとなった。……と、早霧の退団公演「幕末太陽傳」「Dramatic “S”!」の制作発表会の場で、宝塚歌劇団の小川友次理事長も、「Dramatic “S”!」の演出家・中村一徳氏も口にして、今ここに私もさらに重ねる。それがどれほどのプレッシャーであったか、僭越ながら、私は多少なりとも知る立場にあったと思う。
 前トップスター壮一帆が組子と共に創り上げた雪組とは、男役娘役問わず、一人一人が持てる最大限の力を発揮して舞台に臨む、そんなプロフェッショナルなタカラジェンヌの集団である。今でも雪組を観ると、驚異と敬意の念を常に抱く。男役は男らしく。娘役は女らしく。揃えるべきところはきっちり揃える。組全体としての演技の方向性が定まっているから、下級生時代からきっちり芝居と向き合うことができるし、そのことによって、舞台人としての個々の個性も磨かれ、際立ってくる。一人一人の顔が見える。組の全員がフルエネルギーで作り上げたとき、宝塚歌劇の舞台とはこんなにもパワーをもって心に迫り得るのだと、わくわくし、感動する。だから雪組の舞台は満員御礼が続いているのである。他の組もそうあってほしいと心から願う。毎年の配属と組替えがあり、各組の構成員のポテンシャルが組によってそんなに異なるとは思えない。舞台人としてどこまで伸びていきたいか、そんな飽くなき成長が可能となる環境であるか、その違いであろうと思う。
 ようは、宝塚でいう組のピラミッドが最大限大きくなった状態がベストなのである。その三角形のてっぺんにトップスターが存在する。――存在しなくてはいけない。既に大きく、高くなっている組のピラミッドの頂点に、自分が好もうと好まざると、最初から自動的に存在しなくてはならない、それが、早霧せいなの抱えたプレッシャーだった。
 トップ二作目の「星逢一夜」は、舞台全体、物語のクオリティはまったく別として、早霧を観ているのがとてもつらいときがあった。トップをやめたいならやめたいで全然かまわないから! そう思った。何も冷たく引導を渡したかったわけではない。舞台人なら、まずは何より自分が舞台に立ちたいから舞台に立つ。物書きなら、まずは何より自分が書きたいから文章を書く。その舞台が、その文章が、観客に、読者に受け入れられるかは、最初のその衝動とはまた別の問題なのである。自分の中に立ちたい、書きたいという衝動があって、それを実現した喜びがあり、その結果、受け入れられるということがあって、そこにはまた別の喜びがある。人に受け入れられたいから舞台に立つ、文章を書く、それでは本末転倒である。
 自分としてはどこか舞台に立ちたくない思いがある、けれども、観客が受け入れてくれるから、喜んでくれるから……、そんな思いで舞台に立っている人物を観ているのは、私個人としてはつらい。私は舞台を観るのが好きだ。舞台に立ちたくてたまらない、自分のその思いをまずは叶えて、その上で、プロフェッショナルとして観客にどう楽しんでもらうか、共に劇場で分かち合う人生の貴重な時間をどう素敵に過ごしてもらうか、考え尽くした舞台を務めている舞台人を観るのが好きだ。愛されたいという願望を舞台で、文章で叶えようとすべきではない。まずは自分が愛さなくてはならない。自分を。他者を。世界を。愛することにまず喜びがある。その上で、いつか愛が返ってくる日もある。その喜びもある。愛すれば愛するほど、愛は無限に広がってゆく。もっともっと、広く、深く愛せるようになってゆく。人間が誰かただ一人だけ愛する生き物だったら、この世は互いに愛し合うと自称する二人組があふれる、さぞや窮屈な場所になっていただろう。
 「星逢一夜」のとき、崩れそうになる早霧を支えていたのは、相手役の咲妃みゆだった。あの必死な舞台姿を思い出すだに、涙があふれる。そして三作目の「るろうに剣心」では、その咲妃の喉の不調が決定的になって……。そのときは早霧が咲妃を支えた。それがよかった。「ローマの休日」という、早霧にとっての代表作も生まれた。記者会見で、それぞれの立場に許された言葉のみで語ることで、互いに気持ちを伝えなくてはならない新聞記者と、王女と、それを見ていた新聞記者の相棒のカメラマンと――。早霧せいなの新聞記者の演技は、物を書く人間にきちんと見えた。その上で、せつない恋の想いを抱えて生きる姿に、男役の美学があった。けれども。今こうして「ローマの休日」について考え、あの美しくもはかない恋の物語を無粋に語ることを承知で書くと、記者と王女が愛を貫くすべだってあったはずである。王位を誰か別の人物に譲るとか、王制を廃して共和制にするとか、もしくは王女であるまま記者と結婚するとか。
 話が逸れた。私が指摘したいのは、なぜ退団公演になってまた「星逢一夜」のときのような舞台になってしまったのかということである。あれから雪組の最強メンバーたちと舞台を重ねて、代表作もできて、その上でなぜまた後戻りなのか。自分を信じられないのか。自分が積み重ねてきた舞台を信じられないのか。
 信じる上では一つしかない。内なる壮一帆のファントム=幻影と闘って、それに打ち克ちなさい。貴方が闘っている相手は“壮一帆”ではない。心の中にある不安が、たまたま壮一帆の姿をしているだけのことである。本物の壮一帆はといえば、今上演中の「魔都夜曲」において、男とも女ともつかない妖しい美しさをたたえたスーツ姿と、女性ならではのまろやかさを感じさせる軍服姿と、“きれいな花には毒がある”と語られるチャイナドレス姿で、シアターコクーンの舞台で縦横無尽な活躍を見せている。それは、壮一帆が、宝塚歌劇を離れてもなお、舞台に立つことを自ら望んだから、そして自らのその喜びのもとに、今に至る道を歩いてきたからである。
 壮一帆の舞台を好きだという人間に、それとは離れたところで、早霧せいなの舞台を好きだと言わせることも可能なのである。それに、日本演劇界は広い。宝塚を退団してしまえば、宝塚に詳しい人以外には、誰が誰の次のトップスターだったとか、そもそも誰がトップスターだったとか、割にどうでもいい話であろう。それより、この人が宝塚時代、どんな力を培ってきて、どのように舞台芸術に貢献できるか、そのことの方が重要である。早霧せいなが宝塚を退団後、どんな道を歩むのか、私は知る由もない。けれども、もしも舞台に立つことを心から望むなら、内なる“壮一帆の幻影”と闘ってこれに打ち克つのは、宝塚の舞台が絶好の機会である。今日一日ある。私はそれを見届けにさよならショーに行く。こう書くことが、そして見届けに行くことが、何よりの絆だと信じるから。
 雪組トップ娘役・咲妃みゆは昨年の「るろうに剣心」あたりからはっきりと喉を痛めていて、そのせいもあるのだろう、何だか彼女らしくない舞台が続いていた。それがここへ来て、退団作「幕末太陽傳」で完全復活。有終の美を飾ることとなった。
 往年の名画を宝塚化したこの作品は、品川の遊郭が舞台。咲妃演じるおそめはしたたかに生き抜く女郎である。この作品の宝塚化も冒険なら、娘役として宝塚で最後に務める役が女郎というのも、思うところがなくはなかったと思う。けれども、ときには人を騙したりして生き抜いていく姿が憎めないこの役どころを演じて、咲妃は楽しそうなのである。生き生きしている。その姿に彼女の女優魂を感じる。下級生のころから客席を魅了してきた女優魂。舞台で生きる人ならではの。おそめと、同じ宮崎県出身の舞咲りん扮するやり手婆おくまとのやりとりも、実にちゃっかり人間くさい。笑ってしまう。たとえ女郎ややり手婆を演じたとして、宝塚の娘役の精神が変わるわけではない。その証拠に、ショー「Dramatic “S”!」では、咲妃も舞咲も、娘役としての魅力を存分に発揮して歌い踊っている。二人がそれぞれ、娘役たちを引き連れて銀橋を歌い渡るシーンを与えられているのは象徴的である。多様な役を演じることと、娘役性とを両立させた者の胸に光る勲章のような――。咲妃が娘役たちを率いて銀橋を渡っていくそのシーンで、私は、……ああ、この人は、月組出身の娘役だな、としみじみと感じた。元月組トップ娘役・蒼乃夕妃の面影が見えた。月娘の粋な力強さと、雪娘の可憐なたおやかさのハイブリッド。
 早霧せいなと咲妃みゆのトップコンビは、相手が崩れそうになるときっちり支える、その関係性が互いに成立していたのが実によかった。「星逢一夜」のころは、……この人は明日にでも退団すると言い出すんじゃなかろうか……くらいのナイーブさを見せる早霧を、咲妃がしっかり支えていた。咲妃が喉を痛めた後は、早霧がさすがのベテランらしさを発揮して咲妃を支えた。そして退団公演、早霧が何だからしくない舞台を務める事態となって、今度は咲妃がしっかり支える番である。宝塚のトップに限らず、コンビ、二人組というものはそうでなくてはと思う。しみじみいいコンビだった。
 本日7月23日付をもって雪組娘役・咲妃みゆは宝塚の舞台を去る。疑似恋愛幻想圧のない、相手役や何や関係ない、そんな舞台でどんな演技を見せてくれるのか。私は再び劇場で貴女に会える日を、本当に楽しみにしているのです。
 星乃あんりの舞台でもっとも心に深く残っているのは、壮一帆退団公演のショー「My Dream TAKARAZUKA」のパリの場面で、白い猫耳をつけて踊っている姿である。反則級にかわいかった。壮扮するパリの男たちが女たちと繰り広げる、大人のムードあふれるシーンを、コケティッシュに彩っていた。
 踊りでキュートに魅せる娘役だった。そして、彼女の中には自分の理想とする娘役像というものがあったのだろうと思う。だから、退団公演「幕末太陽傳」での女郎こはる役は、観ていて少々つらいものがあった。
 可憐な花がずらっと並んだ雪組娘役陣の一人として、ここ数年の舞台を大いに盛り上げてきた人である。ベビーフェイスの持ち主として、女役へのシフトも考えにくかったのかな……と思う。娘役・星乃あんりが宝塚に見た夢が一つでも多く叶っていることを願って。

 「ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌」のヒロイン・ピノコ役で、客席の度肝を抜いたのが桃花ひなである。作・演出の正塚晴彦が想いを注いで宝塚版の舞台に造形したこの役の演技で、彼女の名前は観客の心に深く刻まれることとなった。大劇場公演で大きな役はつかずとも、ある日ぱっとスポットライトが当たったとき、積み上げてきた確固たる芸を披露することができる。そのような人材をどれだけ豊富に並べているか、それがその組の底力を示す。雪組は芸達者、芝居巧者揃いだ。組の現在の快進撃も、個々の生き生きとした活躍によって支えられている。桃花ひなはそんな雪組の分厚い布陣の一人だった。「Shall we ダンス?」での少女コニー役での巧みな長セリフ。そして、「La Esmeralda」でのチェッカーフラッグを振るレースクイーン……。あのとき、満面の笑みを浮かべてフラッグを振っていた彼女の姿に、誰かを心から励ましたいときにあるべき姿勢を教えられた気がする――。今でも私の心の中で、桃花ひなが永遠にチェッカーフラッグを振っていて、その姿に私は励まされ、そして誰かをまた励ましたい、そう思う。そうして愛が、勇気が、少しずつ世界を回ってゆく。
 退団公演「幕末太陽傳」では日本舞踊の確かさが目を引いた。ショー「Dramatic “S”!」でも、やはり満面の笑みを浮かべてきらきら踊っている彼女がいて……。これで退団なんて、お別れなんて、何だか嘘みたいで信じたくない自分がいる。

 私の父は山口県出身である。彼が養子に行き、苦労したことは以前記した。そのこともあって、私は山口県、そしてかの地の人々に対して苦手意識を抱いていて、長らくそれを払拭することができなかった。山口県周南市出身の雪組男役・香綾しずるに出会うまでは。
 おもしろい人だな……と思って観ていた。芸を楽しんでいた。そのうち、山口県出身者に苦手意識を抱くどころか、親近感が湧くようになってきた。私が抱いた苦手意識というのは要するに子供のときの一面的な印象なのである。だから、人と人としてきちんと向き合えば解消できる。けれども、香綾しずるに出会わなかったら、そうして向き合って解消する機会は永遠に訪れなかったかもしれない。早くから老成した感をたたえた、これまた雪組が誇る芸達者の一人だったが、学年が上がるにつれ、すっきりとした二枚目感がいや増してきた。無論、専科生に任されてもおかしくないような重厚な役柄、年かさの役柄もきっちり構築し、舞台に奥行きを与えることができる役者だった。前回大劇場公演「私立探偵ケイレブ・ハント」で演じたナイジェル役は、これまた作・演出の正塚晴彦が想いを注いで造形したキーパーソンともいえる役どころ、危ういところで主人公を救う影のヒーローである。香綾の淡々とした演技が、役柄のニヒルさ、クールさを際立たせていた。
 退団作「幕末太陽傳」で演じたのは、長州藩江戸詰見廻役の鬼島又兵衛。長州藩! 山口県の縁をこれまた深く感じるあひる。“鬼の鬼島”と恐れられながらも、なじみの女郎会いたさにこっそり品川宿の相模屋へ通う鬼島。浮かれてスキップしていたらうっかり戸にぶつかってしまう、あの背中のおかしみ。
 ショー「Dramatic “S”!」では歌唱力にも秀でたところを披露した。彼女の歌唱でもっとも印象深いのは、「ファンシー・ガイ!」で歌った「That's Life」。作品の作・演出の三木章雄にとって、そしてかつて三木のショー「ブライト・ディライト・タイム」で最初にこの曲を歌った元雪組トップスター杜けあきにとって、本当に大切な曲である。その曲を、香綾は心に響く歌声で聴かせた。杜がトップを務めた雪組で、名曲がまた歌い継がれていることを、宝塚の伝統の美しい継承であると感じた。
山口県に縁をもつ者として、これからの人生の活躍にも大期待!

 “男役十年”とよく言われるが、入団11年目で宙組から雪組へと組替えしてきたとき、鳳翔大は男役として持てるポテンシャルを存分に発揮しているとは言い難い状態だった。長身で美形、男役志望者なら是が非でも手に入れたいすばらしい条件を兼ね備えていたのに! そして、組替えの日から苦難の日々は始まった。ついていくのは大変だったろうと思う。けれども、彼女は雪組の地で、持てる才能をすくすくと伸ばしていった。長身で美形、なのに何だかとぼけておかしい、そんな味のある存在へと成長していった。昔から考えたら意外のようだけれども、そのことがうれしい。
 退団公演「幕末太陽傳」で演じたのは貸本屋金造役。映画版では小沢昭一が扮した役である。ヒロインの女郎おそめ(咲妃みゆ)にそそのかされて共に心中しようとするも、現金な彼女に一人水の中へと突き飛ばされてしまう。海藻やら何やらかぶってオーケストラピットから恨めしそうに出てくる、あの表情。おそめのいる相模屋をゆすろうと、仲間と共にやって来て、樽の中から“仏様”として登場する。最後は水を掛けられてさんざん。決して二枚目の役どころではない。けれどもそんな情けなくもしたたかな人物を演じて、とても生き生きしているのである。
 ショー「Dramatic “S”!」では、黒燕尾服姿の美しさに目を奪われた。雪組に来た当初は、男役としてのダンスに苦戦していたところもあったと思う。けれども、鳳翔大は、長身で美形、自らの持てる力をフルに発揮して魅了することのできる男役となって、宝塚歌劇の舞台を卒業していくのである。宝塚に描かれた一つの夢の美しい結末だと、私は思う。
 先日、月組の2018年最初の大劇場公演が、伊吹有喜作「カンパニー」(新潮社)の舞台化になるとの発表が。偶然というのはあるもので、この小説の担当編集、私の唯一無二の女性同期入社のK嬢でした。送ってもらった本を早速読んだところ、……“黒髪の貴公子”“世界の恋人”“セクシー・タイクーン”と描写される世界的バレエ・ダンサー高野悠に、何とはなしに熊川哲也芸術監督を思い浮かべ、終始ニマニマしながら読み終え。以前、野田秀樹芸術監督がモデルの演劇人が登場する少女漫画を読んだときと何だか似たような気持ち。バレエ団に出向する主人公青柳誠二とバレエ団のダンサー高崎美波を月組トップコンビがおそらく演じるとして、高野役を誰が演じるのが、俄然気になってきました。月組はその前の大劇場公演「All for One」が始まったばかり、まだまだ先のことではありますが、キャスティングを空想しながら読むもよし、気になるダンサーを思い浮かべつつ読むもよし。いずれ開かれるであろう制作発表会も楽しみです。
 月組娘役陣の奮闘が光る公演だった。ブロードウェイ・ミュージカルの宝塚での久々の再演となった「グランドホテル」は、エリザヴェッタ・グルーシンスカヤ役の愛希れいかが素晴らしい。作品のオリジナルの演出・振付を担当、今回の公演の特別監修を務めたトミー・チューンが、彼女を評して「ブロードウェイに連れて帰りたい」と言ったそうである。連れて帰られては困る。愛希れいかは今の宝塚きってのショースターであり、名トップ娘役の系譜にその名を刻みつつある人なのだから。踊ること、生きることへの情熱を失い、何度目かの引退公演を行なっているプリマ・バレリーナの役どころは、愛希の実年齢からすれば年齢的にかなり開きがあるが、彼女は想像力でもってその間隙を見事埋めてみせる。思えば「1789」でマリー・アントワネット役を演じたときも、物語の後半、王妃として、母として、妻として目覚めた後の演技がひときわ優れていた。若くして入団、トップ娘役に就任した彼女だけれども、その立場に就き、多大なる責任感をもって舞台を務めるうちに、大人の女性を演じられる役者になっていったのである。心から共感を寄せることのできる、素敵な大人の女性を。グルーシンスカヤは恋に落ち、生への情熱を取り戻し、言う。「私、踊りたいの」と――。わかる! 私自身、舞台と、舞台上の役者の演技と、“恋”に落ちると書きたくなるのである。だから今、こうして書いている! ブロードウェイ・ミュージカルの大好きなナンバーのベストスリーに入る「Love Can’t Happen」を愛希が歌うのを聴いていたら――、同じモーリー・イエストンが作詞・作曲を手がけたミュージカル「ファントム」の名ナンバー、「You Are My Own」が鮮やかに甦ってきた――壮一帆がキャリエールを演じてその曲を歌ったとき、やはり書いた、その“聖痕”は今も心にくっきり刻まれている。恋に落ちたときめきを少女のように無邪気に歌う「Bonjour, Amour」も実にヴィヴィッドである。愛希自身は少女の方に近い年齢かもしれないけれども、等身大で演じるのではなく、ちゃんと、一人の大人の女性の中にひそむ少女を描き出してみせる。その少女は女性誰しもの心の中にひそむ存在であるのかもしれないと思わせてくれるほどに。

 レヴュー「カルーセル輪舞曲」では、愛希が、月組組長・憧花ゆりの、夏月都、玲実くれあ、白雪さち花といった強力月組娘役陣と共に歌い踊るニューヨークの場面が、20年代のフラッパーガール風のコケティッシュさとセクシーさが満載で、秀逸である。この場面で、時代のセックス・シンボル、ルイーズ・ブルックスばりのおかっぱの黒髪で妖艶な魅力を放っているのが、今回惜しくも退団となる咲希あかね。踊れる娘役として活躍してきた彼女は、険しい崖に一輪、しなやかに逞しい生命力をもって咲く白い花の風情をたたえている。下級生時代から、どことなくさみしげな美貌の持ち主だな…と気にかかる存在だったのだが、学年が上がると共に芸をますます磨き、月組を強力に支える娘役陣の一人として、表情も明るく光り輝くようになった。と思いきや、退団である――。大階段をバックに繰り広げられるフィナーレナンバー、白いドレスを着て優雅に踊る彼女の姿はしみじみ、美しかった――。

 踊るのが楽しくてたまらない! といった表情でいつもはつらつとした踊りを見せてくれていた男役、貴千碧も退団である。中詰のブラジルのサンバのカーニバルの場面では、銀橋上、夏月都と白雪さち花という濃ゆい娘役二人に挟まれ、やはり明るい笑顔ではじけていて、何だかひときわ心に残ったことだった。
 宙組時代、花乃まりあは新人公演や宝塚バウホール公演でヒロインをたびたび演じていたが、残念ながら観る機会に恵まれなかった。明日海りおの相手役を務めることになって初めての舞台、「Ernest in Love」を観て、その声を実に魅力的に感じた。凛として涼やかで、若干アニメ声風味でもある。そして大人っぽい。オフ・ブロードウェイ・ミュージカルのヒロインを、よけいな自意識なく思いっきり体当たりで演じていて、小気味よかった。明日海は月組二番手時代、役替わりでロミオとオスカルを既に経験していて、似合う役をトップになる前に二つも演じてしまって、この先いったいどうするんだろう…と実は少々心配だったのだが、大人の役も演じられる声の持ち主、花乃を相手役に迎えたことによって、明日海自身が演じる役の可能性が広がった部分もあるように思う。
 昨年、サリー役としてすばらしい演技を見せた「ME AND MY GIRL」の直後、花乃は退団を発表した。宝塚生活最後の作品となったのが、「金色の砂漠」。劇団期待の若手、上田久美子の大劇場公演第二作は、宝塚歌劇の可能性を大いに広げんとする意欲作である。花乃が演じるのは砂漠の国の王女タルハーミネ、そして明日海が演じるのは彼女の奴隷ギィ。宝塚のトップスターが奴隷を、相手役がその奴隷を従える王女を演じる、そんな役柄設定の斬新さを超えて、この作品が意欲作であるというのは、愛とアイデンティティのせめぎ合いという、実に複雑な心理的葛藤を、このトップコンビの演じる役柄の関係性のうちに描き出そうとしたところにある。ギィは実はかつて滅ぼされた王国の国の王子であり、王女の国を滅ぼして自らが王位に就き、王女を妃に迎える。それでハッピーエンドとはならない。王の娘、父の娘であるタルハーミネは、それを潔しとしない。一人砂漠に彷徨い出る。そんな彼女をギィは追う。二人が金色の砂漠を彷徨い、息絶える様はほとんど道行、心中である。タルハーミネは、ギィへの愛と、王女としてのアイデンティティ、それが支えるプライドとに引き裂かれた存在であり、心のうちのその断裂を乗り越えるには彼岸へと至るしかない。壮絶な愛憎劇である。そして、美しい。物語に見入るうち、私は、…子供のころ、何かの絵本で読んだ、いにしえのおとぎ話にこのような話があったのではないか、そんな錯覚にすら囚われていった。1月2日の初日前舞台稽古を見学した際、…年始早々すごい話を観た…と思ったものだが、それから半月余り経って観た際は何だか凄まじかった。舞台に、物語に圧されて、終演後、客席の空気が何だか変わってしまったようで、そういえばその二日前に新橋演舞場で観た四代目市川猿之助の「黒塚」もそんな風だったと思った。作者はかくも宝塚歌劇の可能性を信じる人なのだなと胸が熱くなった。それもやはり、演者に対する信頼あってのことだと思う。退団作で、花乃は役者として劇作家から大きな信頼を寄せられたのだと感じた。タルハーミネは難役である。トップスターを足蹴にし、ときに冷酷に接する。その際生きるのが、花乃のあの声である。凛として涼やかで。だからこそ、タルハーミネの難しいセリフを美しく通すことができる。べちゃべちゃ甘ったるい声の持ち主が演じたとしたら、目も当てられなかっただろう。
 今回、花乃はエトワールも務めている。私が最後に観た日、彼女は、…楽しかった…と宝塚生活を振り返っていた。心から、よかった、そう思った。ここに至るまでにはつらいこと、大変なこともいろいろあっただろう。けれども今、楽しかった、そう彼女は思っている。それが芸の道である。つらさや困難はあれど、その道を歩くことはやはり、楽しい。舞台人として、そんなプロフェッショナルな境地に至って、彼女は宝塚歌劇の舞台を去っていくのだと思ったら、何だか感無量だった。
 退団後、舞台に立つことを今は考えてはいないそうだけれども、もし気が向いたら、あなたのその声をまた聴かせてください。私は、あなたの声が大好きです。