これは、本当に「ベルサイユのばら」なのだろうか。いくら「外伝」と銘打ってはいても、あの、様式美で見せていく度合いのきわめて高い作品群と本当に地続きの世界なのだろうか――。星組全国ツアー公演「外伝 ベルサイユのばら−ベルナール編−」を観劇しての偽らざる感想である。
 2006年の星組東京公演「ベルサイユのばら−フェルゼンとマリー・アントワネット編−」の一場面、安蘭けい扮するオスカルが、武器を取り、市民と共にバスティーユで戦おうと呼びかけるシーンを思い出す。様式美の世界で敢然と人間を生きようとするその姿から立ち昇る生体エネルギーの美しさに、はっと胸を衝かれた覚えがある。それから約三年。「ベルサイユのばら」は、登場人物全員がリアルにヴィヴィッドに人間を生きる舞台となって我々の前に姿を現した。
 宝塚歌劇とは決して、美しく着飾った人形のような役者たちが、夢の世界でしかありえないような恋物語を演じる場所ではない。男役、娘役という、宝塚歌劇にしか存在しない手法を用いて、舞台上に人間の真実の姿を具現化しようとする場所である。それが、主演男役に就任して以来、安蘭けいが舞台を務める中で心を砕いてきたテーゼに他ならない。
 そのテーゼは、「ベルサイユのばら」という様式美の世界においてさえ全うされることとなった。リアルによる、様式美の超克。それはほとんど、革命である。「外伝 ベルサイユのばら−ベルナール編−」は、安蘭けいが主演男役となって宝塚に残した軌跡の一つのメルクマール、作中の言葉を借りるならば“オベリスク(記念碑)”なのである。

 新聞記者でありながら、義賊“黒い騎士”となってベルサイユ宮殿にまで忍び込み、革命後のフランスの有様を嘆いてナポレオン暗殺に向かおうとする血気盛んな主人公ベルナール。書く人間として彼が抱える苦悩には多分に共感するところがあり、別項を設けて論じることとしたいが、今回、安蘭演じるベルナールの人間像が集約されているのが、後に妻となるロザリーに向かって言う、「好きになっても、いいか」とのセリフである。
 貴族である父と、その囲われ者である貧しい商家出身の母との間に生まれたベルナールは、五歳の時、父に新しい愛人ができたため、住んでいた家を追われ、母のセーヌ川への入水自殺の道連れとなり、自分だけ生き残ったというトラウマを抱えている。新聞記者となってから後、ベルナールは貴族の馬車に母を引き殺された幼き日のロザリーの面倒をいっとき見るのだが、そんな二人はオスカルの邸で再会を果たし、惹かれ合ってゆく。
 「好きになっても、いいか」。そう口に出して言わねばならない必然が心に生まれた時点で、もはや想いはいかばかりかと思わずにはいられないのだが、この上なくナイーブなこのセリフを、安蘭ベルナールは、もし断られたとしたら消え入る他ない――とでもいうように、決死の覚悟を振り絞って、発する。その様相が、彼が心に抱えたトラウマの深さ、それだけのトラウマを抱えざるを得ない心の優しさを物語る。義賊として大胆にもベルサイユ宮殿にまで忍び込み、ときに荒々しい物言いと振る舞いで相手を圧倒しようとする彼は、実のところ、オスカルに見破られてしまうように、どこまでも優しい心の持ち主である。自分の胸の中で母の死に震えて涙する少女の痛みを我が事として感じてしまうほどに。
 そのベルナールが、武器を取らねばならないと市民に呼びかけ、バスティーユに向かい、戦う。優しさとどこまでも比例する想いの激しさに、嘆息する。優しい人間が戦う、それは、相手を倒すためではなく、自分の愛する者、大切なものを守るときだけでしかない。
同じ痛みを抱えた人間だからこそ、人生を共有できる。そう感じたからこそ、ロザリーに「好きになっても、いいか」と愛を打ち明けたベルナールは、後に彼女の“裏切り”に遭うこととなる。彼に生きて書き続けてほしい妻、そして友人の愛から出た“嘘”ではあるのだが、裏切られたと思った際のその怒りの激しさも、この人ならばと信じた妻への想いの深さに比例している。
 思えば、主演男役となって以来、安蘭がその舞台で一貫して現出させてきたのは、傷ついた魂の愛による再生に他ならない。その意味でベルナールは集大成ともなる役柄だったと言えよう。

 「エル・アルコン−鷹−」の女海賊、「スカーレットピンパーネル」のフランス人女優、宝塚の娘役らしからぬ役柄が続いてきた遠野あすかだが、今回のロザリー役で、娘役の正統も十分行けるところをアピールしてみせた。とはいえ、そこは娘役の領域を拓いてきた彼女のこと、いかにも娘役らしいたたずまいの中に、恋人となる前のベルナールにちゃっかり嫌味を言ってのける毒や、終幕、生きて書き続けるよう夫に諭す場面の真剣度合いに見え隠れするような人間味をきちんと用意している。
 安蘭と遠野のコンビは、その実力からか、宝塚を逸脱しているかのように言われることもあったように思うが、芝居においても、ショー「ネオ・ダンディズム!V」のデュエット・ダンスの場面等においても、二人が寄り添う姿は、宝塚のトップコンビの一つのあり方として立派に成立していた。逸脱とは、全うの果てにしか現れない境地であることを改めて思う。

 雪組ジェローデル編、花組アラン編、そして来年二月の中日劇場での宙組アンドレ編と、連作となっている外伝シリーズのつなぎ役を担ったのが、他二作品の主人公であるアンドレとアランを二役で演じた立樹遥である。好演で、前二作からのバトンを受け、宙組編へと渡す重責を見事に果たした。
 眼帯をしていて表情が見せにくい上、ほとんど受ける芝居ばかりと、アンドレ役としては決して見せ場は多くない。しかしながら、「私の愛に墓標はない」とオスカルへの愛を高らかに誓う「愛の墓標」の歌唱は実に心に染みるものだった。ここでオスカルへの愛の深さを存分に表明するからこそ、後にアラン役として登場した際、いきなりオスカルへの愛を語っても、観る側として自然に想いを重ね合わせられるところがある。アラン役としても、ナポレオン暗殺を言い出すベルナールと対峙する一場面しか登場しないのだが、ベルナールの本気につい自らの暗殺計画を明かしてしまうあたり、そして、暗殺に同行すると言って聞かないベルナールを止めきれない苦悩の心理が自然に流れ、生きて自分たちの想いを語り継いてほしい…とベルナールに諭す手紙、声だけの場面に説得力がいや増す。
 涼紫央が演じたオスカルは出色の出来だった。りりしさとかわいさ、潔さと優しさのバランスが絶妙で、彼女を取り巻く人々への愛にあふれていて、今回の外伝では流れなかったものの、名曲「愛あればこそ」を主題歌とする「ベルサイユのばら」が何より愛の物語であることを思い起こさせてくれた。アンドレと愛を確かめ合う名場面“今宵一夜”こそないものの、立樹アンドレに向かって、お前の存在あってこその自分…と語るセリフが、どんなに鈍いアンドレでも愛されているだろうと気づかなければおかしいというほどに、愛が深い。
 そして、粋で洒脱。ベルナールを盗賊扱いせず、盗んだ品物の代金を払えと言ってトランプを投げるシーンの小気味よさと言ったら。一歩間違えればキザなだけにしか見えない場面の、ギリギリでの造形。盗賊として自分の前に姿を現したベルナールの言葉に本気で耳を傾け、彼を終始一貫して対等に扱う人間性の大きさも光る。女でありながら男装して生きざるを得ないオスカルという役どころは、言うまでもなく、宝塚の男役という存在と多分に重なり、男役としての一つの決意表明として作用するところがある。涼オスカル、ここに堂々の決意表明である。

 今回の心のキャラは、万里柚美扮するコンティ大公妃に。
 黒い騎士に宝石を奪われたと言って騒ぐ貴婦人達の間に割って入る大公妃。「危険な関係」の如き華やかな宮廷恋愛遊戯にふさわしき麗しい貴婦人ぶりなのに、宝石の一つや二つでがたがた騒ぐなんて貴族らしくないと片付け、あまつさえ、オスカルに責任が降りかかるのが申し訳ないから盗難などなかったことにしてしまえと言ってのける始末。その論理の展開に、思わず目がテン! しかしながら、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」ばりのこの無邪気さ、そして貴族としてのどこか悲しいまでの矜持の持ちようが実は、マリー・アントワネット不在の今回の作品において、フランス革命へと至る市民及びオスカルの心理の動きの大きな後押しとなっている。
 そして、実は危険なキャラでもある。オスカルと彼女を取り巻く貴婦人達の関係は、これまでの作品においても、男役とその信奉者との関係がどこか投影されているところがあるが、美しく着飾って夢だけ見せてくれればいい…とオスカルに言い放つコンティ大公妃の姿に、演出家のひそませた毒を感じずにはいられない。

 「スカーレットピンパーネル」でロベスピエールを悪役の縛りから解き放つ名演を見せたにしき愛は、若かりし日のロベスピエール役で登場した。
 バスティーユの戦闘、群衆を率いての中心となる場面、誰よりも高く、誰よりも大きく、颯爽と踊る様を観ていても、やはりこの人は白の魅力にあふれた正統派男役なのだとつくづく思う。だからこそ、その前の場面、安蘭ベルナールと並んで、「諸君! 我々もバスティーユに行こう」と民衆を鼓舞する姿に、感慨を覚えずにはいられない。巧い人間が悪役や難役ばかりをあてがわれる傾向がときに目立つ。芝居巧者が実にあっけなく辞めてしまうことがあるのも、そのことに原因があるような気がしてならない。その一方で、巧いとされた人間が、十年一日の如き芸を見せ続ける悪しき風潮もある。そんな中、一作一作、初々しくも思える造形で、このところ快進撃とも言える舞台を見せ続けてくれる存在のあることを喜びたい。

 朝峰ひかり扮するカロンヌ夫人と、百花沙里扮するランバール夫人が、失われた宝石について無益な見栄の張り合いをする、芸達者同士だからこそ見応えのあるものとできた場面(「赤と黒」の心の名場面、レナール氏とヴァルノ氏の馬談議を思い出した)、「ネオ・ダンディズム!V」で、ヒゲ姿の紳士たち(にしき愛、美稀千種、彩海早矢、天緒圭花、壱城あずさ)がダンディに歌い踊る場面、居並ぶ強敵? を押しのけて“心の名場面”に輝いたのは、…ジャーン、オスカルとアンドレとマロングラッセ(美稀千種)の三人の場面である。
 オスカルが「ばあや」とかわいらしく微笑んで帰宅を告げ、マロングラッセが泣いて取りすがり、アンドレが温かく見守る――。「ベルサイユのばら」のページから登場人物がそのまま飛び出してきたような、完璧なまでの漫画の3D化に、興奮さえしてしまった。美稀千種扮するマロングラッセは、それほどまでに私の漫画のイメージ通りなのである。ウェットな面を強調して演じられることも多いこの役だが、今回の美稀の造形は、オスカルに対する愛は温かいものを持ちながらも、人生の年輪を重ねた人物だけに許される、生きることへの諦念というか、いい意味での淡々と乾いた人間性が感じられて、…何だか自分の亡くなった祖母の姿を思い出して、ちょっと涙してしまった。

 その美稀マロングラッセとのやりとりにおいてコミカルな味で魅せたのが、オスカルの父ジャルジェ将軍を演じた専科の箙かおるである。娘オスカルの溺愛ぶりが微笑ましいキュートさと、軍人としての威厳とを自由自在に行きつ戻りつする演技で客席を沸かせた。

 「ネオ・ダンディズム!」が再演を重ね、同じ場面が再び観られるということもあって、若手男役の成長ぶりが如実にうかがえるのも頼もしい。近衛士官と衛兵隊という難しい二役を、立ち振る舞いからセリフの言い方まできっちり演じ分けた彩海早矢と麻尋しゅん。すっとした立ち姿にも彼女らしい個性をにじませるようになってきた彩海は、熱い部分との意識的な使い分けでさらなる新展開が望めるように思う。麻尋はショーでのソロに甘い魅力あり。ベルナールの同僚ルシアンを演じた夢乃聖夏は、立ち姿やセリフ回しの力の入り方、抜き方が実にいい塩梅で、その落ち着き具合がより大きな包容力につながる可能性を感じさせる。「スカーレットピンパーネル」の踊る? 執事役が印象的だった天緒圭花は、今度はショーでのソロの歌唱で大いにアピール。ピンパーネル団の最年少として確かな存在を示した壱城あずさは、バスティーユの戦闘の場面、市民のダンス・ソロがインパクト大。決してこの段階で固まってほしくはないが、男役としての意識の高さ、仕上がりの早さが大きな期待を抱かせる。全体的に娘役の役どころが少ないのは残念だが、ロケットの芯を務めた琴まりえの優美さは特筆に値する。

 「ネオ・ダンディズム!」がそもそも、前主演男役・湖月わたるの退団公演用の作品だったということもあるけれども、それにしても、一足先に安蘭・遠野の退団の惜別ムード漂う公演ではあった。その空気が集約されていたのが、涼オスカルのこんなセリフである。
「行ってしまった。光に満ちた、新しい幸せの中に。――私の分まで幸せになってくれ」
 今、このときしかない一瞬一瞬を愛おしむ。出演者たちがそうして登場人物を生きていたからこそ、それぞれの人生がより胸に迫るということがあったのかもしれないと、今は思う。
 10日の初日前の舞台稽古を見学。ハードボイルドな男役の美学と色気を早朝から堪能(超夜型人間、ソファの住人あひるにとっては、10時は早朝〜)。「マリポーサの花」は、8月の宝塚大劇場での観劇時から、水夏希扮する主人公と彩吹真央扮するその親友とのやりとりにさらに緊迫感が増していて、ぐっと引きこまれるものが。二人とも、立ち姿、立ち居振る舞い、客席に向けた背中からして凄味を感じさせて、元軍人だったという設定に大いに説得力あり。両者圧巻の存在感を放つ中、二人の独走態勢を許すのか否か、ひいては、作品全体がさらなるレベルアップを図れるか否かは、他の出演陣の頑張りにかかっている。それぞれの役の生きてきた背景をさらに掘り下げ突き詰めて、その生き様をしっかと背負い、もっと心の奥深い部分からセリフを紡ぎ出すようでないと、水と彩吹の到達し得た人物像には対抗できない。二人の男役としてのスキのない所作も、下級生は大いに学ぶべし。
 それにしても、互いの男役としての色気を実によく引き立て合うトップ二番手コンビである。水の手先足先まで細やかな神経の行き届いたダンス、彩吹のときにこの世の果てを見透かすような絶唱が見もの聴きもののショー作品「ソロモンの指輪」然り。舞咲りんの歌唱も作品の世界観をよく伝える。
 終演後、水さん、白羽さんの囲み会見。私からは、見応えある芝居作品でのやりがいと、彩吹さんとの息の合った演技の秘訣について水さんにおうかがいしました。手応え十分といった感の水さんの表情が印象的。
 最後の最後に、恒例、“心のキャラ”の発表〜。今回は、安蘭けい扮するパーシーが変装したところの謎のベルギー人スパイ、グラパンにこの賞を捧げたく。皆様の予想は当たりましたでしょうか。
 ときに関西弁も飛び出す面妖な日本語、笑いのツボを刺激してやまない立ち居振る舞い、日替わりのアドリブも見事な縦横無尽なユーモアセンス、主演男役ではたしてこれはありなのかと考えないでもないキャラクター。この人が出てくるだけで、シリアスな場面なのかコメディの場面なのか判断がつきかね、「目の前の君」や「栄光の日々」の歌唱に思わずあふれた涙も乾かぬうちに大爆笑と相成る、笑いの最終最強兵器、それがグラパン。

 しかしながら、個人的にグラパンという存在に惹きつけられてやまないのは、決してそのお笑い的要素からだけではない。実のところ、パーシー・ブレイクニーという主人公がもっとも素直な心を見せるのは、グラパンに扮しているときではないか、そう考えるからである。
 これまでにもふれてきたように、パーシー・ブレイクニーは、幾重もの“演技”に己の本心を隠している人物である。敵であるショーヴランや、疑念を抱くマルグリットに対してだけでなく、ピンパーネル団の仲間に対してであれ、どこか“イギリス人貴族パーシー・ブレイクニー”を演じているところがないでもない。一方、彼がもっとも本心をあらわにしているのが、「ひとかけらの勇気」や「祈り」、「目の前の君」といったソロを歌う場面、そして、グラパンに扮している場面であるわけで、「スカーレットピンパーネル」という作品の面白さは、主人公の秘密を観客だけが共有しているというある種の“共犯意識”にある。
 グラパンの変装をしたパーシーは、妻の過去の恋人らしきショーヴランへの嫉妬や侮蔑をあからさまにして彼を茶化し、あまつさえ、自分が必ずやマルグリットの救出に現れると“予言”すらする。その言葉通り、彼がショーヴランの眼前でグラパンの変装を解いてスカーレットピンパーネルとしての正体を現すからこそ、観客はやんやの喝采を送るわけである。
 演じているときにもっとも演じていないという矛盾。その逆説の魅惑は、舞台上で演じる存在、役者そのものが抱える魅惑でもある。グラパンという仮面をつけたときにのみ本心を表すパーシー・ブレイクニー。その両者の関係は、これまで演じ、そしてこれからも演じるであろう多種多様な役柄と、役者・安蘭けいとの関係に重なるともいえる。

 パーシー・ブレイクニーは決して完全無欠のヒーローではない。彼自身、妻の“裏切り”に悩んで愛を疑い、力を与えよと神にすがる弱さを抱えている。内面の葛藤を吐露する「祈り」の歌唱において示されるのは、己の弱さを知る者だけが、それを克服し、強くなれるという真理である。その意味で、単なる弱さはときに強く、単なる強さはときに非常に弱い。
 容易に人に心を許さないパーシーが、この世でただ一人心を許し、愛を誓った妻マルグリット。しかし、はたして彼女は、自分が心を許すにふさわしい存在だったのか――。愛への疑念はすなわち、己自身への疑念ともなる。その意味で、ロベスピエールの抱えるのと似た恐怖と孤独を、パーシーもまた抱えている。恐怖は実に多くのことを見誤らせる。それが、自身の存在を核から揺るがしかねないような愛の恐怖ならば、なおさらである。しかしながら、パーシーがロベスピエールと同じ道をたどらなかったのは、彼が、愛と己を信じ、勇気をもって恐怖を乗り越えたからである。恐怖の見せる幻を、愛と勇気の力でもって消し去って、現実と向き合ったからである。その現実にははたして、愛があった。妻の変わらぬ愛。仲間との友愛。人類愛――。めくるめくような愛が、「栄光の日々」の場面において示される。
 恐怖に打ち克つのは、愛でしかない。その愛こそ、宝塚歌劇が究極的に志すものである。そんな真理を、安蘭けいの歌声は雄弁に伝えてやまない。声。優しい声。心に作用する声。心を動かし、愛で包む声。揺るぎない愛を確信して歌う「目の前の君」の瞬間、劇場全体を満たす声――。

 それにしても、色濃いとされる役柄を得意としてきた安蘭に、ここまで白のヒーローが似合うとは。グラパンの黒の変装を解いて現れる白のブラウス姿のパーシーに、「お前たちの目は節穴だ」と言われて恥じる私がいる。
 東京公演の千秋楽に寄せて。
 英真なおきは劇中ただ一人舞台上で処刑されるサン・シール侯爵と、プリンス・オブ・ウェールズの二役に扮した。「シークレット・ハンター」から大劇場作品三作続けての二役となった理由は、演出家それぞれの意向によって異なると思われるが、一役であえなき最期を迎え、もう一役でほっこりしたところを見せるのが、最初の役の悲劇性を中和する効果をはたしていると言えなくもない。壮絶なソロを歌ってギロチンの露と消えるサン・シール侯爵に対し、キュートに明るいプリンス・オブ・ウェールズの造形は、有能ゆえわざとトボけているのか、それともそもそもトボけたキャラなのか、パーシー=スカーレットピンパーネルという秘密をはたしてどこまで知っているのだろう…と、物語の謎解きに陰影を与える効果をもたらす。第二幕の楽しいオープニング・ナンバー「ここでも、そこでも」では、曲のムードメイカーとしてお茶目に大活躍。イギリス王宮が楽しい場所であるのは、殿下のお人柄に依るところが大きいに違いない。
 ドゥ・トゥルネー伯爵夫人の万里柚美は正しく“役不足”だが、ペストの死体を装ってパリから逃亡する際のみすぼらしい扮装でもきちんと高貴な人物に見えるのがさすが。その秘密は、肩から肘、肘から手先のラインの保ち方にあるのだと思う。細やかな工夫に脱帽。
 その夫、ピンパーネル団の協力者であるドゥ・トゥルネー伯爵に扮した紫蘭ますみは興味をそそる存在である。巧いがためにやり過ぎる役者は多いが、この人は、ギリギリもしくは足りないくらいで抑えることによって、逆に客席の興味を引き付ける珍しいタイプのように思われる。セリフを言ったり芯で歌ったり踊ったりするときに力が入り過ぎ、それ以外の場面では引きすぎて存在感を失ってしまう傾向に陥る者が多いが、実はその逆の方が舞台上でのプレゼンスは増すのではないか。このことを個人的に「押さば引け、引かば押せ」問題と呼んでいるのだが、紫蘭のような舞台上でのあり方は問題解明の大きなカギになってくれるのではないかと考えている。「エル・アルコン−鷹−」では美少女から個性派まで数多の愛人たちを囲うティリアンの義理の父親、今回の作品では「どんな犠牲をも厭わない」と言いつつつかまり拷問に屈してアルマンの居場所をしゃべってしまう伯爵と、かなり共感の得にくいキャラクターを、淡々とした演技であっさり通してしまうあたりも興味深い。実は役柄を相当自分に引き付けてしまえるタイプでもあるのだろうか。今後も注目して分析していきたい存在である。
 ピンパーネル団の一人、オジー役の彩海早矢は、そのあたりのプレゼンスの問題の解決いかんで飛躍を遂げるのではないかと考える男役である。常に観客を楽しませることを考えた演技を展開する旺盛なサービス精神は、舞台を盛り上げる上で多大な貢献を果たしているが、「押さば引け、引かば押せ」のメリハリの付け方を工夫し、演技の効かせ方を追求すれば、舞台上での存在感がさらに増すのではないだろうか。もう一人の仲間、エルトン役の夢乃聖夏は、どのくらいの高低で響かせるとセリフが伝わりやすいか、その声のトーンのコントロールが絶妙で、シュアーな組み立ての演技のしっかりとした支えとなっている。彩海と夢乃は、作戦の一環として、公安委員の変装で現れる場面があるが、このとき、一般的な公安委員のイメージをなぞった実に威圧的な“演技”をどこか楽しんでいる風なのが、いかにもパーシー率いるピンパーネル団の一員らしい。

 民衆の迫力についてはすでに述べたが、出演陣を見れば納得である。朝峰ひかり、百花沙里、毬乃ゆい、涼乃かつき、星風エレナら、場面の芯をきっちり務められる上級生娘役たちが、伸び盛りの若手メンバーを率いている。
 なかでもユニークな役割を果たしているのが、美城れんと朝峰扮する靴屋のシモン夫婦である。夫婦揃って、「マダム・ギロチン」での歌唱とダンスの恐ろしいこと、ときに震え上がってしまいそうになる。幽閉している王太子ルイ・シャルルに対しても美城シモンはかなり無慈悲な態度で接しているのだが、そのシモンが、朝峰扮する妻ジャンヌには多分に頭が上がらなさそうなのが面白い。抜け目がなさそうでいて二人してあっさりピンパーネル団の“演技”に騙されてしまうあたりもトボけた味わい。結局のところ、「スカーレットピンパーネル」という作品の“悪役”はみな、ピンパーネル団の作戦に騙されてしまうトボけ具合を発揮することによって、いわゆる“悪”への陥穽からの救いがある。
 二人に幽閉される王太子ルイ・シャルルを演じた水瀬千秋は、いかにも子供らしい素直やおびえ、それでいて、マルグリットにパーシーを愛してと断固として告げる件で威厳を見せて、抜擢によく応えた。安蘭パーシーとデュエットする「ひとかけらの勇気」の素直な歌唱も◎。歌に関して言えば、コメディ・フランセーズの歌手イザベル役の花愛瑞穂とエトワール音花ゆりの「物語のように」と、「死の都・パリ」での市民たちの歌い継ぎも印象に残った。
 「スカーレットピンパーネル」の主人公パーシー・ブレイクニーは“演技”に己の本心を隠す。取り巻くピンパーネル団の仲間たちがそれぞれに見せる美徳は、パーシーが“演技”の奥に秘めた本質を補完してくれるようなところがある。
 立樹遥扮するデュハーストは、ピンパーネル団のまとめ役、パーシーの右腕的存在である。デュハーストはまた、新妻マルグリットの“裏切り”に悩むパーシーの心の内を知ることが観客に対して唯一明かされている人物である。今回の立樹は無言の演技で魅せる。マルグリットを試す偽りの手紙を書き、それにマルグリットが黒の反応を示してしまったときに見せる無念の表情、そして、新婚の夜に妻に裏切られてなお明るく振る舞うパーシーの胸の内を察して見せるいたわりの表情。マルグリットの弟アルマンがピンパーネル団への参加を希望したときひそかに見せる葛藤の表情、けれども、彼の祖国を思う気持ちに打たれて温かく迎え入れようとする決意の表情。無言の内に男気と優しさを秘めたデュハーストの造形は、このように立派な友人にこれほどまでに慕われるとは、パーシーとはやはり大した男なのだなと、主人公の人間としての格を一段も二段も上げる効果がある。
 マルグリットの“裏切り”を告げて、デュハーストは、「君ともあろう男が、恋の前では少年のようだった」とパーシーに言う。はたして恋の前に少年や少女のようにならない者などいるのだろうか…と考えたとき、デュハーストが、恋人ケイトに対して己の想いを抑えていることが窺い知れる。実際、デュハーストは、男らしくないかもしれないが今はプロポーズできない、でも、待っていてほしい…とケイトに告げる。デュハーストのストレートにストイックな振る舞いは、おちゃらけた“演技”に己の心を隠すパーシーの本質を感じさせる。パーシーがおしゃれ大作戦をぶちあげたときも、デュハーストは一度は反対する。けれども、パーシーの意図を知って同意し、ノリノリに作戦を遂行する。洗濯女の“演技”にしても、ストイックながらも実際事にあたるとかなり楽しんでしまうあたりも、パーシーの親友として大いにうなずけるものがある。

 秘密を抱えるがために妻に愛を疑われて苦悩の表情を見せるパーシー、その直後に、当のパーシーの庭に恋人シュザンヌと手に手を取り合ってラブラブで登場するのが、ピンパーネル団のもう一人のまとめ役、涼紫央演じるフォークスである。それにしても、フォークスとシュザンヌのラブラブなこと! 実際、この二人は、「ウフフ」「アハハ」と笑いあいながら登場するのである。あんなに恋に酔いしれつつ、重大任務もきちんと遂行できる、フォークスの余裕は大いに見習いたいものである。確かに、女性に優しすぎて、マルグリットに大切な手紙を盗み見られてしまう一面もあるけれども。
 「赤と黒」でも見事な貴公子ぶりを見せた涼だが、その立ち居振る舞いには磨きがかかる一方である。どこをとっても隙がなくエレガント、まるで少女漫画の世界から抜け出てきたような貴公子が、生きて、歌って、踊っている衝撃。涼のフォークスを観ていて、個人的な“王子様”の原イメージが、「キャンディ・キャンディ」のバラを愛でる貴公子、アンソニーにあることを思い出した(厳密には、アンソニーは王子ではないが)。ヒロイン・キャンディに“スイートキャンディ”なる新種のバラを贈るアンソニーのように、涼フォークスは恋人シュザンヌにどこまでも甘く、優しい。対するシュザンヌを演じる琴まりえもまた、生身の女性性と少女漫画的フィクション性の高次ハイブリッドである。

 互いに愛し合いながらも疑念ゆえに心を打ち明けられないパーシーとマルグリット夫婦と対照的なのが、マルグリットの弟アルマンとマリーのカップルである。参加する際、ピンパーネル団の秘密をばらすなと固く言われていたにもかかわらず、マリーにすべてを明かしてしまうアルマン。フランス男のように愛のレッスンを受けていないととぼけるパーシーに対し、アルマンは「あなたにも愛のレッスンが必要ですね」と言うのだが、さしずめ愛のレッスン第一条は、互いに何でも隠さず打ち明けるというところか。まあ、恋する二人に何を言っても無粋ということで大目に見ようかと思わされる、初々しくもイノセントな恋人たちである。
 アルマンに扮した和涼華は、優しさの奥に秘めた、姉マルグリットにも通じる芯の強さをきちんと表現できていたが、セリフを言ったり歌ったりする前に気負いが感じられるのがどうも気にかかる。狙いはいいのだから、もっと力を抜いて舞台に立ち、照れる気持ちを忘れて自分を解放してはどうだろうか。「ブエノスアイレスの風」での活躍を期待したい。
 マリーを演じた夢咲ねねは、ダブルヒロインを演じた「赤と黒」での経験が生きて、大いに芝居心を感じさせる娘役に成長した。娘役発声に無理がなく、心地よいセリフを聞かせられるのが強みである。公安委員に食ってかかるほど気が強い一方で、囚われたアルマンの身を案じつつ、ひそかにかくまう王太子ルイ・シャルルに見せる優しさに包容力がにじむ。新人公演では、少々蓮っ葉なところが魅力のイザベルを喜々として演じる姿に、舞台に立つことがますますおもしろくなってきたのではないだろうかと感じさせるものがあった。けなげな生き様が主人公の心を動かす「ブエノスアイレスの風」ヒロインが楽しみである。
 柚希礼音演じるショーヴランを観ていて、こういう人間、よくいるよな…と思わずにはいられなかった。男でも女でもかまわない、「あの頃はよかった」と語る人間がときに放つ言い知れぬ煩わしさを、ショーヴランは体現する人物である。
 ショーヴランは、革命の栄光を語る。語ってかつての恋人マルグリットに、もう一度一緒に夢を見ようと言う。語るとは多分に、過去を振り返る後ろ向きな行為である。言語化するとは、ある事実なり体験なりを過去のものとして認識し把握する行為に他ならないからである。だからときおり私は、自分の営為に多少なりとも空しさを覚えたりするのであるが、それはさておき。語る男とは、過去の栄光体験をあまりにまばゆいものとして抱えているがために、自分の現状に満足していない人間である場合が実に多い。
 パーシーは、今を生きる人間である。フランス貴族を救い出そうという彼の偉業は、現在なお進行中である。進行中のプロジェクトについて語りづらいというのは、その展開がどうなるか、予断を許さない部分があるからである。だから、パーシーは語れない。マルグリットの身を案じればこそよけいに語れないパーシーに対して、マルグリットは不安を募らせる。そのマルグリットの前に現れて語るのは、過去を生きるショーヴランである。マルグリットの抱えるいらだちはかくして増幅される。
 「君も 忘れる筈は無い」とショーヴランは歌う。忘れるはずがない。革命で共に戦った記憶が鮮烈であればあるほど、マルグリットは、その後の革命の成り行きに心を痛め、断腸の思いで仲間と袂を分かつ決意を固めたはずである。輝かしい過去は、永遠にしがみつくために存在するものではない。その輝かしさを土台にさらなる輝かしい未来を構築するために、人は生きていかねばならない。そうして、時が移り変わる中、日々を少しでもよきものと変えていかねばならない。それがすなわち、人としての成長ということなのである。その真理を、マルグリットは理解して、でも、ショーヴランは理解することができない。かつて愛し合っていたかどうかはさておき、同じ地平に立たない二人の人間が、互いを理解し、愛し合うことはもはや不可能でしかない。

 語る男、過去に生きる男ショーヴランを演じた柚希礼音自身は無論、過去に生きるどころか、未来に向けて驀進中の男役である。初めての悪役挑戦となった今回の舞台だが、この人にはまだまだ見せていなかったこんな面があったのか…と多々、目を開かされる思いがした。自らの向上に迷いのない人の成長は、新芽がすくすくと育つ様を目の当たりにするようで、観ていて痛快である。
 罪なき人々をギロチンにかけることに疑問を抱かず、権力を追い求めるあくなき野望の不気味さ。マルグリットとの幸福な過去を語り、叶えられぬ愛と夢を追い続ける想いのせつなさ――。こんなにも不敵な笑いが似合う男役だっただろうか。こんなにも過去を感じさせる、つまりは、成熟した魅力を備えた男役だっただろうか。
 そして、こんなにも歌で聴かせるとは。「裏街のドブを見て育った/野良犬のように扱われた」と始まる「マダム・ギロチン」、マルグリットと共に生きた革命の日々の記憶を描写する「君はどこに」とも、情景がまざまざと浮かんでくるようで、まっすぐな心に生まれながらも、虐げられて生きてきたがゆえに歪んでしまった人間が、束の間、愛と成功を手に入れたと思ったならば、ショーヴランが輝かしい過去にあれほどまでの執着を見せるのもしかたのないことかもしれない…と思わされもした。革命への執着を語り続ける「栄光の日々」の歌い始めなど、その前のナンバーが、安蘭パーシーが揺るぎない愛を確信して歌い上げる「目の前の君」ということもあって、愛を手に入れられずにもがき続けるショーヴランの姿に、涙を誘われるものがあった。フィナーレの銀橋で歌う「ひとかけらの勇気」では一転、優しい歌声でピュアな想いを伝える。抜群のダンス力に芝居心、そして歌唱力が加われば、鬼に金棒。無論、今回新たに手に入れた武器は、磨きをかけ、深める余地がまだまだ残されてはいるが。

 それにしても、二番手に多く与えられるショーヴランのようなおいしい悪役といえば、かつて、紫吹淳が大いに得意とした役どころである。柚希の次回主演作「ブエノスアイレスの風」は、二番手時代の紫吹によって初演された作品だが、戦いの後をいかに生きるかを問う「ブエノス〜」の主人公ニコラスの姿は、革命後のショーヴランがいかに生きるべきだったかという問いとどこか重なるところがある。次回作でもさらなる驀進に大いに期待したい。
 “二面性”なる言葉は通常、人間に対してはあまりいい意味合いで使用されなかったりする。「スカーレットピンパーネル」においてそれを端的に示しているのが、ピポー軍曹の存在である。
 物語冒頭の銀橋で、ピポーはみすぼらしい老人に対して、まずは強圧的な態度に出る。老人がペストで死んだ家族を焼き場に運ぶところだと答えると、ペスト感染に恐れをなして顔色を変え、さっさと立ち去れと命じる。老人が変装を解いて、観客は、彼こそが、物語のヒーロー、パーシー・ブレイクニーであることを知る。
 直後、パーシーとピポーはパリ市内で再び出会う。ピポーは、自分より力をもった公安委員のショーヴランに対してこびへつらうが、先の老人が実はスカーレットピンパーネルであり、死体と偽って貴族を逃亡させたのを見逃したことを叱責され、悔しさにまみれる。その刹那、ピポーとパーシーは再会を果たすが、変装を解いたパーシーを、ピポーは先の老人と認めることはできない。
 己より力ある者に対してはペコペコし、己に力劣る者に対しては威圧的に出る。ピポーの二面性は、実に単純でわかりやすい二面性である。しかし、この二面性は、実はそれ以上の意味合いを示唆してもいる。接した相手の力のあるやなしやで態度を変えるということを超えて、己がそうして態度を変える人間であることを周囲の者に悟られても構わないと思っている、もしくは、悟られまいとたかをくくっている、その程度の人間性の持ち主であるということをも示唆しているのである。
 このピポーの二面性は、パーシー・ブレイクニーの二面性、多面性の対極に位置している。パーシーが多くの顔を持つ、あるいは持たざるを得ないのは、世界中を敵に回したとしても果たさなくてはならないと思っている崇高な使命を成し遂げるため、愛する者を守るため、自分の心の奥深くに秘めた想いを守るためである。パーシーの“演技”はすべて、その目的のために必要なものである。
 単純と言ってしまったが、ピポーのようなわかりやすい二面性を表現する上では、その二面性を明確に演じ分ける力が必要である。9月18日の項(http://daisy.stablo.jp/article/448444391.html))でも少し触れたが、ピポー軍曹を演じる美稀千種は、優れた身体性を演技に効かせることのできる、つまりは、メリハリの効いた演技のできる男役である。接する相手によってあからさまに表情や身体のありようを豹変させる、その演技なくして、パーシー・ブレイクニーとのコントラストは成り立たない。
 パリの街、対照的な二人の男が二度、交錯する。二面性を露呈してやまない男と、心に二面性を抱えた男と。“演技”をめぐる物語の、実にあざやかな幕開けである。
 “真似る”という行為と演技との相関性を考える上で、今回の星組の新人公演は非常に興味深いものがあった。
 公演前日の舞台稽古を見学させていただいたのだが、正直なところ、新人公演で主人公パーシー・ブレイクニーに扮した紅ゆずるに、驚かされた。私にとって、安蘭けいという存在は、動く演技の教科書のようなところがある。“演じる”ということについて実に多くの発見を与えてくれるので、目を皿のようにして観ているわけだが、紅が安蘭の演技を観る目に、感服せざるを得なかったのである。
 海外の劇場などで、本役の演技をすでに観て知っている公演を、代役の演技で観る機会がたまにある。その際、本役がその人ならではの魅力と解釈で創り上げた演技をよく考えずにコピーしているときがあって、それでは本役が練り上げた演技も生かされないし、代役を務める役者の魅力も生きないのにな…と思ったりもする。「ジェリー・スプリンガー・ザ・オペラ」での一例を挙げると、この作品の実質的な主人公を演じていたデイヴィッド・ベデッラが、周囲の群衆に向かって威厳をもって歌いかけようとする瞬間、その場にあった椅子にひょいと乗ってえっへんと威張る演技があった。彼は小柄なので、群衆を見下ろして威圧感を出すには椅子に乗っての高さが必要で、かつ持ち味がキュートなので、ひょいと乗るしぐさが非常にかわいらしくて、効いていたのである。だが、ある日代役を務めた役者は、背が相当高いにもかかわらずベデッラとまったく同じ風に演じていて、椅子に乗る演技の必然性がまったく感じられなかったのを覚えている。
 話を紅に戻すと、安蘭が瞬間瞬間、パーシーのどのような心の動きを表現するためにその演技を選択したかというところの観察、分析が実に綿密で、かつかなりの精度をもって再現できていた。さらに、自分だったらこのように演技した方が表現しやすいというところは、自分の持ち味に即して工夫を加えていた。例えば、謎のベルギー人グラパンとして現れる際は、ひょろひょろと長い手足を生かして何とも面妖な動きをつけるといった具合に。
 他の者の名誉のために付け加えておくと、今回の新人公演が、作品本来の難しさはあれど取り組みやすかったのは、作品の完成度の高さに依るところが大きいと思う。作品がきっちりできあがっていれば、本役も演技を組み立てやすく、その分、新人公演で演じる者も分析がしやすい。作品の出来不出来というのは実にさまざまなところまで影響を及ぼしているものである。
 今回の新人公演は、先輩から後輩へ芸が受け継がれてゆく宝塚の芸伝承のメカニズムを考える上でも興味深い。宝塚の舞台を観ていると、この男役のこのしぐさはあの先輩男役から伝わったのだろうな…と感じる瞬間がある。その意味で、将来、紅の芸に安蘭の影響を感じ取る日も来るのだろうと思う。

 紅に関していえば、言葉一つ一つの意味に丹念にこだわる歌唱もよかった。舞台裏について多くをふれるのは無粋だとは思うが、舞台稽古で非常に感銘を受けたことがある。「目の前の君」の場面を二度繰り返したのだが、二度目は段取りに慣れるためだから本気でなくてもいいと言われていたのを、紅は、でも、せっかくの機会だし、さっきと今とは違う気持ちだから…と言わんばかりに、一度目とはまた少々異なるアプローチで二度目を歌ったのである。さっきと、今とは違う。その生モノ感が、何とも舞台向きの人だな…と思った。最初こそ緊張していたものの、慣れるととんでもない舞台度胸のよさを発揮し、次から次へと演技の濃度が増していく。若くして、それだけ表現したい思いを心に抱えていることにも感じ入った。グラパン役できっちり笑いを取ったことにも恐れ入る。春野寿美礼ばりの正統派ルックスから繰り出される攻撃的ユーモア、そのギャップの激しさにとまどうほどに笑ってしまった。
 本公演でも、ピンパーネル団の一人として何やらおかしい小芝居を繰り広げている。たまに、かっこよさよりもおかしさを追求し過ぎるようだったり、ダンスのときに長い手足を少々持て余し気味だったりするのもご愛敬。これからの宝塚を担う一人として、観る側を驚かせるような成長を続けていってほしい人である。
 “心の名場面”にキューティー編がある以上、マイティー編もある。ということで、“心のシークエンス”マイティー編発表〜! “場面”より長いので、“心のシークエンス”と命名した次第。
 ピンパーネル団に新たに加わった仲間たちと、フランス貴族たちを救い出す使命を果たそうという固い決意を誓い合う「炎の中へ」(安蘭けい、立樹遥、涼紫央、和涼華、彩海早矢、夢乃聖夏、麻尋しゅん、紅ゆずる、壱城あずさ)。心奮い立たせずにはおかない勇壮なメロディにのって、安蘭パーシーの声がどこまでも、それこそ、稲妻も荒波も炎も越えんばかりに響き渡る。仲間たちの掛け合いとコーラスも頼もしく、客席で見守っていても、行け行け〜と気分が高揚してしまう、のだが、客席を背にしていたピンパーネル団がくるっとこちらを向くと、全員、どこか微妙な、女装???
 そのままの格好で、キメポーズも力強くエンディングまで歌い上げ、パリの雑踏に紛れ込むピンパーネル団。ピポー軍曹の慧眼で捕えられそうになっていた貴族の女性の二人連れを見つけると、ピンパーネル団の助さん角さん? 、デュハースト(立樹)とフォークス(涼)が作戦開始! ピンパーネル団のキーアイテム、洗濯かごを使用して二人を逃がすのだけれども、洗濯女の“演技”に敵方相手の縄跳び、市民を巻き込んでのフォークダンスと、この奪還作戦が賑々しくも何とも楽しい。騒ぎを聞きつけて駆け付けたショーヴラン(柚希礼音)に、その部下メルシエ(祐穂さとる)とピポー軍曹(美稀千種)がボケ倒してオチがつくのも◎。「でっかい女であります」(ピポー)、「ごっつい女の集団でした〜」(メルシエ)なんて、男役といえどもともとは女性なのに〜と、二度笑えるのもおいしく。人の命にかかわる一大事すら楽しんでしまう、どこか人を食ったところのあるパーシー&ピンパーネル団の余裕を感じさせて、恐怖政治に震えるパリのピリピリムードと見事なまでの好対照。

 この、男役といえど〜で笑いを誘う場面はもう一か所あって、それが、パーシーとピンパーネル団が、敵を欺くために伊達男ぶりをアピールしよう! と、超ド派手ファッションでラインダンスまで披露する「男とお洒落」のナンバー。敵を欺くためというより、パーシー、単に派手派手な服装が好きなだけなんじゃ…と思わないでもないこのシーン、そこに登場する、ピンクの羽根がついたしまうま柄の帽子は、神戸のマキシンでオーダーしてみるって手もなくはないよな…と思わず考えてしまった一品。それはさておき、女ばかりにお洒落をさせず、動物のオスに倣って、男もお洒落を! という主張は、女性が演じる男役によって歌われるとき、さらなる批判性を帯びて、宝塚ならではの笑いが生まれ。それにしても、しまうま柄のパーシーはじめ、動物柄の強烈な色彩の衣装を皆見事に着こなしていて、男役、凄し。

 女装? やらド派手やらの話が多くなってしまったので、最後に、星組男役陣の魅力をストレートに堪能できる場面を。それは何といっても、サーベルを手にして踊るフィナーレのダンス・シーン! 今はもう秋だけれども、もっと暑い時期なんて、「ただでさえ暑いのに、暑そうな素材の服で、どうしてここまで激しく熱く踊らねばならないのか…」と、ほとんど「高円寺阿波踊り」に燃える人々を見守るのと同じ気分を味わううち、自分の体感温度まで上がっていってしまうあひるなのであった。
 前回大劇場公演「エル・アルコン−鷹−」の際、私は星組主演娘役・遠野あすかについて、「祝! 女優開眼」なる文章をものした。その遠野は今回の「スカーレットピンパーネル」において、もともとのブロードウェイ版では主役であった、コメディ・フランセーズの花形女優、マルグリット・サン・ジュストに扮している。コメディ・フランセーズの舞台で歌うソロが二曲、心通わぬ夫パーシー・ブレイクニーとの葛藤を歌う大ナンバーが二曲、宝塚の娘役としては多分にウェイトの重い役どころである。
 役者に女優、演じることを生業とするキャラクターを演じる役者を観るのは興味深い。この手の役柄ほど、“演じる”ことについてその役者自身がどう考えているかをあからさまにするものはないからである。その人間にとって、演じるとは、舞台上で己の生身をさらすとはどのような意味を持つのか、そのことについてどこまでつきつめて考えているかが、白日のもとに晒される。ときに、残酷なほどに。
 夫パーシーの真実の心を知り、混乱のパリの舞台に戻って歌う「ひとかけらの勇気」は、遠野の現時点での女優としての到達度が試されるだけでなく、今後の彼女の演者としての道をも示しかねない、その意味で、実に恐ろしいナンバーである。