<オスカルを生きる〜東京宝塚劇場・オスカル〜>

Don’t dream it Be it
                                     “The Rocky Horror Show”

 「ベルサイユのばら」の主人公であるオスカルは、アンドレに比べ、「これが私!」と主張することをより要求されるキャラクターである。女でありながら男、軍人として育てられ、貴族でありながら最終的に民衆の側に与して革命を戦うオスカルの、人生におけるいくつかの重要な決断が、「これが私!」との信念に基づくものであろうことは疑いようがない。ところが、オスカルの影として生きるアンドレの「これが私!」なる信念を、セリフや歌の手がかりなしにそのあり方によって表現した安蘭けいは、今度はオスカルを、一貫して受けの演技で造形する。それは無論、オスカルという人間の並外れて深い包容力を示すためである。
 「すべての人には立場があり、その立場ゆえの信条がある。――私はこれを尊重する」。これが、安蘭オスカルを貫く基本姿勢、揺るぎなき信念である。ここにいう“立場”とは、性別や身分の違いに始まって、それぞれの人間の差異を形作るとされるすべての要素を含むものである。安蘭オスカルは、徹底した受けの演技によって、すべての人を、温かく、優しく、受け入れてゆく。フェルゼン役の湖月わたるの包容力が、大きく広げたその両腕に世界を収めるものだとするならば、安蘭オスカルの包容力は、一人ひとりに真摯に向き合うということを、すべての人間相手に貫き通すようなところがある(どこまで行ってもこの二人は対照的で、だからこそ素晴らしいコンビである)。
 安蘭オスカルが怒りや憤りをあらわにするのは、人が己の立場を濫用したり、これを逸脱し、他者の立場や信条を侵害してまで己の信条をふりかざす場合である。先に述べた信念は、オスカルが女であることを理由に侮辱的な言葉を投げつけるブイエ将軍に対して挑みかかる、「女だから分かることもあるんです!」とのセリフの発し方に如実に示されている。安蘭オスカルが口にするとき、このセリフは、「私だから分かることもあるんです!」と聞こえる。――私、オスカルは、フランスを守る貴族の家柄に生まれ、女でありながら男として育てられた軍人である。その私が、これまで生きてきた中で得た経験を通じて理解したことを、なぜあなたは、「女である」という一点のみで否定してしまえるのか。それは、あなたの「男」という立場の濫用に他ならず、私の立場を明白に侵害しており、私という人間の否定でもある――。そのような憤りが、安蘭オスカルをして、父ジャルジェ将軍に対して、「何故、何故…私が女だから莫迦にされるのですか!」と言わしめるのだが、このセリフもまた、「私が私だから莫迦にされるのですか!」と等価となる。安蘭オスカルが口にする場合、セリフの中に登場する「女」には、「貴族」、「軍人」、他のどんな要素も投入可能である。
 安蘭オスカルが「これが私!」を声高に表明するのは、この場面と、市民側に立って戦おうと衛兵隊士に呼びかける演説の場面くらいである。こちらの場面にもやはりブイエ将軍が絡んでおり、先の場面において父の手前引き下がらざるを得なかったオスカルは、「女にだって生きる権利はある。主張を述べる権利はある」と敢然と始めて意趣返しを果たす。その小気味いい「命がおしければ黙って聞け」には、先の憤りが転化されたところの、相手に対する侮蔑の念が含まれている。――人生をかけてつかみとってきた信条から、私は今、このような言葉を口にしている。しかし、お前と来たらどうだ。その言葉に、己の信念、人生など、到底かけてはいまい――! 正しく己の人間性を見切られたブイエ将軍は、捨てゼリフを吐いてすごすごと退散する他あるまい。
 安蘭オスカルが伯爵の称号と伯爵領のすべてを捨てるのは、そんなものがなくとも在る己、すなわち「これが私!」を知ったから――少なくともその段階では、知った、と思ったからである。「誰かが弱い市民を守ってやらなければ…」と一人語るオスカルには、かすかながらも驕りがある。オスカルが本当に己を知った瞬間は、アンドレが死んだその刹那に他ならない。愛する者を無残にも殺され、初めて市民と同じ地平に立ったからこそ、ここでの呼びかけは「シ・トワイヤン」でなくてはならないのだが、その呼びかけに続くくだりに、先ほどまでの己の驕りに対する悔悛の情をにじませてしまうあたり、一見ネガティブな感情や人間性さえも躊躇なく表現することによって結局は“清く正しく美しく”反転させてしまう、“逆説の役者”の真骨頂である。
 安蘭オスカルを観ていて私は、それまで難解に思えていた橋本治の「色気は譲歩の能力だ」という文章を初めて理解することができた(「ひろい世界のかたすみで」収録「女って何だ?」より)。他人を受け入れるという譲歩こそ、色気、つまりは、その人間のもつ本質的な魅力へとつながってゆくものなのである。すべての人間を受け入れる包容力に発露する安蘭オスカルの魅力は、ブイエ将軍に対峙するときのオスカル同様、人生をかけてつかみとってきたすべてを舞台上においてさらけ出すことをためらわない、自身の役者としての魅力と、究極的には等しいものであるのだろう。

 それにしても安蘭オスカルは人間的である。国家の窮状をよそにはしゃぐ貴族のご婦人方には仏頂面で嫌味をかまし、心を許したアンドレの前では拗ねてすらみせる。軍神マルスの生まれ変わりのような死闘を繰り広げるバスティーユの場面においてさえ、市民たちが一人、また一人と倒れるたび、一人ひとりの死を食い止められない己の無力さに、激しく胸を衝かれずにはいられない。
 そんな姿に観入るうち、漫画のオスカルに心を揺さぶられた日を思い出した。幼い日、オスカルは、男や女、貴族や人種などといったものすべてを超えた、遥かなる憧れの存在であった。しかしながら私は、安蘭オスカルを目の当たりにするまで、オスカルという人物が生身の人間として存在する可能性というものを考えたことがなかった。安蘭オスカルを目にして初めて、オスカルと実存とが私の中で結びついたのである。憧れは何も、憧れのままにしておく必要などない。そのように生きればよいだけなのだと、きわめて人間的なその姿が教えてくれている。

<参考項目>

「ベルサイユのばら」の安蘭けい・その1
http://blog.eplus.co.jp/daisy/2006-05-15-2

<「これが私!」〜宝塚大劇場・アンドレ〜>

「これが私!」
世界に向かってそう叫べない
人生なんて何の価値もない
                                          “I Am What I Am”

 星組宝塚大劇場公演「ベルサイユのばら」での安蘭けいのアンドレの演技を観たとき感じたものは、昨年ブロードウェイでミュージカル「ラ・カージュ・オ・フォール」の名ナンバー”I Am What I Am”を聴いたとき胸に広がったのと同じ思いなのだと気づいたのは、観劇後しばらく経ってからのことだった。
 セクシャル・マイノリティであるがゆえに踏みにじられた人間としての尊厳を取り戻すべく、「ラ・カージュ・オ・フォール」の主人公アルバンはこの曲を絶唱して第一幕を締めくくる。私は、このありのままで私であり、それ以上でもそれ以下でもない――。全編にわたり己の、己に与えられただけの生を全うしようとする誇り高さが貫かれた歌詞の中で、先に挙げたフレーズは曲の最後にもう一度繰り返される。
 しかしながら、「ベルサイユのばら」におけるアンドレには、「これが私!」なる信念を声高に謳い上げるナンバーやセリフが与えられているわけではない。それどころか、光と目されるオスカルに、終始影として寄り添い続けるキャラクターである。観劇後しばらく経つまで気づかなかったというのも、私の鈍感さも無論あるのだろうが、先に挙げたようなナンバーとアンドレ役の演技とでは、前提として求められているものがそもそも異なるということがある。つまり、安蘭けいは、具体的な言葉の手がかりなしに、役柄の造形、演技や歌い方で、「これが私!」を表明してみせたことになる。

 1月3日にそのアンドレの演技を初めて目の当たりにしたときの率直な感想はといえば、「…いったい、これは何なのだ?」というものだった。そして、その謎が解き明かされることを心待ちにして出かけた次回の観劇で目にしたものは、オスカル役者の交代に呼応した、前回とはまったく異なる演技であった。その変幻自在ぶりについては既に記してきたところであるが、異なる演者の演技を受けてその都度異なるアンドレ像を造形していったこと以上に、そのすべてが、説得力あふれる解釈に貫かれた、彼女独自のアンドレとなり得ていたことが、評価に値するのである。
 その一例として、死に際の「命だけは大切にして呉れ…」に導入したセリフ回しが挙げられよう。“命”という言葉の重さゆえ、激情ほとばしるかのような芝居を伴って口にされがちであったこのセリフを、安蘭アンドレはいともあっさり口にする。そのあっさりさ加減が指し示すのは、オスカルの命を護ろうとするその想いが、アンドレの心の中にあまりにも深く刻み込まれ、生きてゆく中で常に共にあるからこそ、想いを期せずして口にしなくてはならなくなったとしても、その言い回しは決して大げさなものにはなり得ないという事実である。「ベルサイユのばら」という様式美の世界において、リアリズムに則った表現を成立させるには、その異質さを埋めるだけの並々ならぬ技量が必要とされるが、己に恃む技量があれば、こちらの演じ方の方がスマートではある。
 再演を重ねてきた演目であればあるほど、人々の抱くイメージが多少なりとも出来上がってしまっており、それゆえ演者は、そのイメージに沿った演技を見せることを求められる部分が少なからずある。ましてや相手は、宝塚の名作中の名作、王道中の王道を行く「ベルサイユのばら」である。あくまで伝統に則った演技を見せる選択肢を採ることの方がむしろ歓迎されるかもしれない中で、安蘭けいは、表現者としての立場を優先し、完成度の高い演技を披露してみせた。私は私の考えるようにアンドレを演じる。そのように演じる自分に、私は誇りを持っている――。演技が雄弁に伝えるその矜持こそ、「これが私!」の表明に他ならないのである。

<参考項目>

宝塚星組公演「ベルサイユのばら」の余韻(朝海オスカル版)
http://blog.eplus.co.jp/daisy/2006-01-11

宝塚星組公演「ベルサイユのばら」再び(霧矢オスカル版)
http://blog.eplus.co.jp/daisy/2006-01-12

三度、宝塚星組公演「ベルサイユのばら」(水オスカル版)<前編>
http://blog.eplus.co.jp/daisy/2006-01-26-1

三度、宝塚星組公演「ベルサイユのばら」(水オスカル版)<中編>
http://blog.eplus.co.jp/daisy/2006-01-26-2

三度、宝塚星組公演「ベルサイユのばら」(水オスカル版)<後編>
http://blog.eplus.co.jp/daisy/2006-01-26-3

宝塚星組公演「ベルサイユのばら」大劇場編最終回(大空オスカル版)
http://blog.eplus.co.jp/daisy/2006-01-31

藤本真由のココロの舞台裏 第15回 「ベルサイユのばら」と宝塚歌劇
http://www.hall-net.or.jp/kokoro/1/015.html

 7月11日のグリーンホール相模大野での公演に寄せた記事がアップされています。

http://www.hall-net.or.jp/kokoro/1/018.html

 公演詳細のページはこちら。

http://www.hall-net.or.jp/schejule/kouen/2006/green/G0711.html

 ちなみに、劇場近くのホテルセンチュリー相模大野では、観劇と宿泊や食事がセットになったプランを売り出したようですが、瞬く間に完売した模様。「ベルばら」特別メニュー、興味津々だったのに…。残念。

 初日前の通し舞台稽古を見学。通常二階席には上がらないカメラ・クルーが、最前列ど真ん中の席に陣取り、朝海オスカルがペガサスで空高く駆ける場面をバッチリ撮影しているのを目撃。
 舞台稽古終了後、主演・朝海ひかるさんの囲み取材。私からは、宝塚の誇る名作で当たり役に出会えた感想、ペガサスで飛ぶ場面での気持ち、そして特別出演の星組・安蘭けいさんを含む三人のアンドレと組むことについて質問。こぼれんばかりの笑顔が印象的な会見でしたが、それにしても、オスカル・メイク&扮装の朝海さんと一瞬とはいえ同じ空間に身を置いていたというのは、シュールきわまりない経験だなと。明らかに、属する世界が違うとしか思えない。それくらい、朝海オスカルは空や天に近い存在だと思う。
 そう考えてみても、朝海オスカルと先日までの星組東京公演の安蘭オスカル、両者のアプローチが180度違うことに、驚いてしまう。それだけ異なるアプローチを許すオスカルという役柄自体奥が深いし、同期の二人がここまで徹底して異なる世界観でキャラクターを作り上げてきている、その対比が興味深すぎる。となると、朝海オスカルと安蘭アンドレがぶつかり合う今月末からの公演ではいったいどんなことが起きるのだろうかと、まるで「紅天女」を賭けた「ガラスの仮面」の北島マヤ対姫川亜弓の対決を見守るような気分になってしまう(と書く私はもちろん、来月の新作能「紅天女」公演を観に行こうと考えている長年のガラかめファンです)。

 宝塚月組東京特別公演「THE LAST PARTY〜S.Fitzgerald’s last day〜フィッツジェラルド最後の一日」(東京芸術劇場中ホール、14時の部)観劇。2月3日に日本青年館での宙組公演も観ていて、そのときは感想のアップをさぼっていましたが(すみません)、私はこの作品、非常に好きです。
 途中まで書いてみて、当分書き終わらなさそうな長さになることがわかったので(前にさぼったのも、書き始めたら長くなるのがわかってたからだな…。果たしてブログという形式で許される分量ってどれくらいのものなのか、最近考えるところではある)、とりあえずの感想をアップしますが、主人公フィッツジェラルドを演じる大空祐飛が非常にいい。この作品を観て、これまで言葉にしづらいと思っていたこの人のスターとしての魅力をついにつかんだ気がする。その魅力が、フィッツジェラルドという作家の魅力、そして彼が時代の寵児として体現していたところの1920年代すなわち“ジャズ・エイジ”(という命名からして、フィッツジェラルドによるものであるわけですが)の魅力と重なり合っているからこそ、この舞台は心に迫ってくるのだと思う。ということで、大空祐飛論&フィッツジェラルド論&1920年代論を一気に展開しなくてはならないため、長くなるのである(途中書いたところまでで、すでに5000字を超えている)。「ベルサイユのばら」日記もさぼっている折、このように書くのは本当に心苦しいのですが、いましばらくお待ち下さい。
 それにしてもこの舞台、普段宝塚を観ない人、フィッツジェラルドを研究している人に観てほしかったなあ…(ご興味のある方はDVDで是非!)。とりあえず、研究者の一人である私の母親は舞台を観て、「こんなにフィッツジェラルドをよく書いてくれて…」と感極まっていましたが。海外での学会などの折に、作中登場する秘書の方に会ったことがあるそうで、実際に知っている人があのように演じられている…と思うと、何だか不思議な気持ちがしたそうです。

 本日昼、星組公演「ベルサイユのばら」を観に行っていたのですが、終演の際、宝塚大劇場の雪組公演の方で「ベルサイユのばら」通算観客動員数400万人を達成したとのご報告が星組組長よりありました。
 ところで当ブログも、今宵アクセスが10万を超えました。昨年7月25日からスタートし、約8ヵ月でこれだけの方にご覧頂いたこと、本当にうれしく思っています(狙ったわけではないのですが、これがちょうど100番目の記事でもあります)。これからも、演劇を通じたさまざまな出会いや発見について、読み応えのある文章を書いていきたいと思っていますので、なにとぞよろしくお願い申し上げます。

 さて、本日の「ベルサイユのばら」ですが、個人的にはこれまで何度か観てきた東京公演の中でベストかも。これは何より、立樹遥がアンドレ役を遂に自分のものにしたことが大きいと思う。二月末に観劇したあたりまでは、安蘭オスカルを包み込む大らかさは頼もしいとはいえ、何だかどの場面でも笑顔の印象ばかりが強かった。しかしながら本日は、細やかな演技を見せる安蘭オスカルの心情にていねいに寄り添い、感情を抑えるべきところは落ち着いて演じた上で、アンドレとしての生き様と持ち前の大らかな魅力とをきっちりリンクさせる演技を見せていた。こうなってくると、明るい笑顔も引き立つというもので、今までは多少違和感を覚えた死に際のそれも、アンドレはオスカルと共に生きることができて幸せだったと笑って死んでゆくのだな…と思えて、泣かされた。アンドレがよくなるとオスカルもさらに光るというもので、バスティーユの戦闘での安蘭オスカルはもう、軍神そのものだ。
 一幕ラストの湖月フェルゼンはといえば、次第に孤独の色が深まっていっているよう。湖月フェルゼンは温かすぎて(無論、そこが魅力なのだが)、マリー・アントワネットが処刑された後は冷酷な支配者となった…という原作ラストが想像しにくいところがあったのだけれども、銀橋で「振り向けば心の荒野に」と絶唱する姿を観ていると、真実の愛を知った後にそれをあっけなく奪われるという深い絶望を背負ってしまったらやはり、一人心を閉ざして生きてゆくしかないのかな…と思える。これはもちろん、ラストの牢獄の場面で白羽アントワネットが、湖月フェルゼンを包み返すような慈愛と、やはり普通の貴族のそれを大きく越えたところにあるのだろう、王家の人間としての誇り高さを見せるまでの人間的成長を演じられるようになったことが大きい。王妃が人間的に成長すればするほど、どうしてこれほどの人物を無残にも処刑してしまうのかというフェルゼンの憤りも、一層激しくなろうというものだ。
 それぞれの演技の深まりが相乗効果をもたらすのはどの舞台にも言えることだけれども、「ベルサイユのばら」や「エリザベート」のような作品の場合、即効性があるというか、演者が公演中に著しい成長を見せる度合いが高く、それに伴って作品全体もぐんぐん見応えを増していくということがある。これまでに一度だけ観る機会に恵まれた柚希礼音のアンドレも、好感のもてる役作りが光っていたので、これから千秋楽に向け、さらに人物像を深めていってくれることを期待したい。

 と、本日の感想を語ってまいりましたが、雪組大劇場公演もあわせ、肝心の公演全体の評がまだですね。観劇して一ヵ月以上経ってるのにどうなってるんじゃという声もあろうかと思いますが、構想はできてるものの長くなりそうで、気力&体力&時間があるときでないとちょっと書ききれんというのがあって…(我ながら言い訳めいてますが)。しばしお待ちを。

 16日に書いた産経新聞ENAKの記事をきっかけに、久しぶりに友人である飯塚友子記者と話すことができた。「ベルばら」が取り持つ縁というか。今度私が関西方面に出かけた時には、絶対飲みましょう!

 産経新聞ENAK(http://www.sankei.co.jp/enak/)に「ヅカファンの聖地 宝塚を訪問」という3月16日付け大阪夕刊の記事が出ています。執筆者の飯塚友子記者ですが、実は私の小学校時代からの友人だったりします。最近お互い忙しく連絡が途絶えがちになっていたのですが、まさかこんなところでオスカル様に変身していようとは。楽しい記事、どうぞご一読を。

 午前、新橋にて行なわれた「エンキ&涼紫央コラボレーションライブ〜Especially!!〜」製作会見に出席。会見後、演出の三木章雄氏、エンキさん、涼紫央さんの鼎談取材。
 今朝キーを合わせたばかりという「さくらさくら」の演奏&歌を披露する場面で、最後に二人で顔を合わせてにっこりと微笑み合っていたのが印象的。古典的な曲だけでなく、ラテンやジャズまでこなせてしまうという中国琵琶の音色は、激しい中にも一服の清涼感が吹き抜けてゆくようで、宝塚の男役を極めたいという熱い想いを感じさせながらも、常にどこかさわやかさをたたえている涼さんの舞台姿と重なる部分も多いように思った。三木先生の語り口からは、とにかく涼さんを男役として外の舞台で堂々と勝負させたいという意気込みが伝わってきたし、エンキさんも涼さんも新たな挑戦へ向けて気合十分。この三人の出会いからいったいどんな世界が生み出されるのか、楽しみな限り。

 早朝クアラルンプールより帰国。一旦家にトランクを置きに戻ってから、昼公演及び夜に行なわれた新人公演の舞台稽古を観劇。以下はあくまで舞台稽古を観ての感想ということをご留意ください。
 何といっても、主人公フェルゼン役の柚希礼音が圧巻。男役として、役者としてのこのところの成長にはめざましいものがあり、ベルナールに扮した東京の本公演でも、安蘭けいのオスカルのひたむきな想いと呼応する真っ直ぐさ、ロザリー役の陽月華を包み込む温かく大きな愛を強く印象付ける好演を見せている。フェルゼン役も、本役・湖月わたるの秀逸な解釈を踏まえ、包容力を備えた大人の男性として造形しつつ、彼女ならではの陽だまりのような持ち味もきっちりにじませる演技を見せて◎。新人公演のみ追加されたナンバーも、想いをこめてていねいに歌い上げる姿が光り、舞台稽古なのに思わず拍手してしまいそうだった。役替わりで演じるアンドレに大いに期待。マリー・アントワネット役の陽月華は美しく芝居も決して悪くないのだが、彼女の生き生きとした魅力を最大限輝かせる役柄ではないのが残念。オスカル役を演じた麻尋しゅんは、下級生ながら堂々たる舞台。上手い人だけに場面場面で何となくまとまってしまう感じがするが、役柄に一本太い線を通すよう造形すれば、全体としての印象がさらに鮮明になるように思う。憎々しいまでに悪役に徹しきった彩海早矢のブイエ将軍、娘アントワネットに注ぐ母としての温かい愛とまなざしを感じさせた華美ゆうかのマリア・テレジアも強く印象に残った。

 イープラスのメールマガジンで紹介されていたようなので、いま一度、「ベルサイユのばら」関連記事をまとめておきます。

<舞台ルポ>
1月11日 宝塚星組公演「ベルサイユのばら」の余韻(朝海オスカル版)
1月12日 宝塚星組公演「ベルサイユのばら」再び(霧矢オスカル版)
1月26日 三度、宝塚星組公演「ベルサイユのばら」(水オスカル版)<前・中・後編>
1月31日 宝塚星組公演「ベルサイユのばら」大劇場編最終回(大空オスカル版)

 雪組大劇場公演初日と星組東京公演については近日中にアップの予定。

<関連記事>

8月29日 宝塚「ベルサイユのばら」制作発表会
2月1日  「ナポレオンとヴェルサイユ展」
2月16日 本日発売のぴあに「ベルサイユのばら」記事掲載
2月17日 宝塚星組東京公演「ベルサイユのばら」舞台稽古&湖月わたるさん会見
2月19日 “頭に船”も登場! 「ヘアモードの時代」