「やるならやってみろ、運命よ。」
 雪組公演『f f f−フォルティッシッシモ−』『シルクロード〜盗賊と宝石〜』のちらしにそうある。「やるならやってみろ、」もかなり字がデカいが、「運命よ。」の方はさらにデカデカとしている。上田久美子作・演出の『f f f−フォルティッシッシモ−』のスピリットを見事示す文言である。
 現在、東京宝塚劇場では録音音源にて公演中である。生オーケストラでの演奏がない(宝塚大劇場で公演中の花組より生演奏を再開)。オーケストラピットが使用されていない。そのオーケストラピットから、雪組トップスター望海風斗扮するルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが、メロディを激しくつぶやきながらタクトを振り回して登場するとき、――心の中で盛大に快哉を叫ぶ。「やるならやってみろ、運命よ。」と。度重なる不運な運命にめげず、今も私たちの心を震わせる楽曲群をこの世に生み出した作曲家の苦闘を描くこの作品は、コロナ禍という運命にめげない宝塚のスタッフ・キャストの苦闘によってこの世に生み出され、観客の心に深い共鳴を呼び起こす。オーケストラピットが使われていないなら、舞台装置として積極的に活用してしまえ。無人のオーケストラピットから、雪組生演じる“彼のオーケストラ”を引き連れて登場する望海ベートーヴェンの姿は、運命に対する今の宝塚歌劇の闘いぶりを象徴的に示している。――「やるならやってみろ、運命よ。」。私たちは負けはしない。屈しない。ウイルスによって引き起こされた諸問題、実のところウイルスによって顕在化しただけである諸問題に立ち向かい、後の時代の人々へと、生を、世界を手渡してゆく。私たちがさらに強く、優しくなるために試練はある。
 ――前の世代の人々も、そうして、生を、世界を、今を生きる私たちに手渡してきてくれたではないか。

 作品は天国の扉の前で始まる。モーツァルト、ヘンデル、テレマン、三人の作曲家は智天使ケルブや天使ケルビムたちによって天国入りを阻まれる。音楽は誰のものか。人間は音楽を何のために使うのか。その問いに対し、彼らの後継者が出した答えによって、全員は連帯して裁かれる。「後継者って誰だっけ」という問いを受けて登場するのが、望海ベートーヴェンである。彼は、ナポレオンとゲーテに憧れを抱く――三人は、フランス革命後の混迷の時代にあって、音楽、戦術、文学、それぞれの分野において人間の可能性を突きつめた人物として描かれる。だが、ベートーヴェンを次々と不幸が襲う。貴族の令嬢との実らぬ恋。耳の不調。――そもそも不幸は少年時代から彼と共にある。貧しい家庭。彼に暴力をふるう父親。そんな境遇から救ってくれた貴族令嬢への実らぬ初恋――。ナポレオンは皇帝となり、ベートーヴェンは裏切られたと感じる。支配階級に対するベートーヴェンの傲岸不遜にも見える態度を心配心でたしなめるゲーテにも失望を感じる。
 そんな彼のかたわらに、“謎の女”(真彩希帆)がいる。ドアも机もいつも4回ノックする、謎の女が――。
 ベートーヴェンと“女”との、不思議な同居生活。仕事に没頭するベートーヴェンに、“女”は食事を運び、部屋を片付け、何とか人間らしい生活をさせようとする。“女”は「私はあなたの想像の生き物なの!」と言う――何やらよこしまな想像をしようとするベートーヴェン。抗う“女”。“女”は、自分にとりついた疫病神なのではなく、“才能”なのだろうか――。このあたりのやりとりは絶妙なおかしみに満ちている。そのやりとりが、一人の人間の中で交わされたと思いを馳せるとき、とりわけ。自問自答なのである。芸術家が、己の信じるところを貫き通すために、心の中で独り言つ。
 初恋の人はお産で命を落とす。――倒れたベートーヴェンは、ロシアの雪原にいる。彼を助け起こすのは、敗走するナポレオンである――二つの内的世界が交錯する。二人の男は心の会話を交わす――このくだりで、私は、柴田侑宏の名作『黒い瞳』での主人公ニコライとプガチョフの名シーンを思い出さずにはいられなかった――。二人は、戦術と音楽との共通点を見出す。群舞によって攻撃陣形と音の連なりとの共通点が視覚化される美しさ。
 ナポレオンは死ぬ。ベートーヴェンの前に“女”が姿を現し、自らの正体を明かす。「この世の全ての苦しみ/全ての哀しみ/不幸」と。「死は救いなの」という“女”に、「お前の名前がやっとわかった」とベートーヴェンは言う。「運命」と。「生きることが苦しみでも、俺はお前という運命を愛するよ」と、彼は“女”を抱きしめる――戯曲のト書きには、ここで、「ルートヴィヒは運命に勝つ。」と書かれている。
 運命に勝った彼がこの世に遺した人類の共有財産、「交響曲第九番」の「歓喜の歌」がやがて流れ出す。彼に関わったすべての人々、天国の天使たち、皆が共に歌う。今や純白の姿となった“女”も共に。「人生は、幸せだった!」と叫ぶ望海ベートーヴェン――そこには、この公演で宝塚での人生を終え、新たな世界へと転生する望海風斗への思いがこめられている。歓喜の歌と舞のうちに、舞台は終わる。運命に挑み、愛した果てに、新たな地平――希望の未来が輝いている。
2021-04-11 01:29 この記事だけ表示
 圧倒的な“ザ・ヒロイン”感に酔いしれるひととき。歌謡曲使いにも定評のある藤井大介の構成・演出が光る“アイドル・メドレー”コーナーでは、松田聖子や中森明菜からAKB48のナンバーまで展開されたが、星風まどかのアイドル性によって、興味深いアイドル論ともなっていた。「ボーダーライン」(1984)あたりのマドンナも思い出したり――昔のアイドルの奥ゆかしいキュートさが、彼女にはある。そして、どこか大らかな母性も感じさせて。鷹翔千空の男役としての今後の展開も大いに気になるところ。
2021-04-08 23:59 この記事だけ表示
 さすが齋藤吉正構成・演出、内容も衣装も攻めていて、口をあんぐり開けて観ている瞬間多し(笑)。
 美園さくらについては、新たな夢も生まれ、また、課題も見つかり。まずは“小林寺”での修行を最後の日まで頑張るべし!
2021-03-24 23:59 この記事だけ表示
 作・演出の石田昌也&芝居の月組パワーが炸裂する作品でした! 今宵はこれにて〜。
2021-03-20 23:59 この記事だけ表示
 画面の前で夫と大爆笑中!
2021-03-20 16:36 この記事だけ表示
 月組宝塚バウホール公演『幽霊刑事〜サヨナラする、その前に〜』ライブ配信観ます!
2021-03-19 23:59 この記事だけ表示
 18日11時の部観劇(赤坂ACTシアター)。
 普通に出逢っていれば、似合いの二人として平穏な結婚生活を送っていたかもしれない。けれども、この物語の主役である男と女は、少しねじれた出逢い方をしてしまった。女は男が自分には身分不釣り合いであると思う。真相を隠す男は女のそんな気持ちを知っている。二人が湖畔で過ごす一夜。――そのひとときだけ、すべてを超越して、二人は真実の愛を交わす。そのひととき、普通に出逢って普通に結ばれていたら訪れなかったかもしれないひとときが、己の生において痛切に大切なものであるからこそ、すべてが明らかになり、二人が結ばれる上で何の支障もなくなったとき、男は去る。そんな愛の逆説を描いて、『ダル・レークの恋』は魅惑的な作品である。初演は1959年、菊田一夫の戯曲を主演の春日野八千代自ら演出、主人公ラッチマンは彼女の当たり役となった。1997年に酒井澄夫が潤色・演出を担当して再演、今回は酒井が監修に回り、谷貴矢が新たに潤色・演出を手がけている。近年では『霧深きエルベのほとり』の再演(2019)もあったが、菊田一夫作品の男女の心の機微を描いて深いところをしみじみおもしろく感じた。青年将校、無頼派と主人公ラッチマンが次々と変化を見せるあたり、初演の際、春日野八千代の男役としての縦横無尽の活躍が見どころであっただろうと想像できる。今回この役に挑んだのは月城かなと。ターバンもよく似合い、ノーブルでクラシックな魅力を見せた。パリでの無頼の日々、脚を組んだ際に膝に乗せた方の足先で、革靴の甲の部分をピカピカと客席に向かって光らせるシーンでは、男役の魅惑の技が炸裂。ゆったりと雰囲気を見せるところのある役を演じて今後への期待を大いに抱かせた。ヒロイン・カマラを演じるのは海乃美月。昔の時代の異国のプリンセスとして、現代女性のシャキシャキとは違う、しっとりとした情感がセリフ回しに欲しいところ。湖畔での場面では、「♪君の瞳に燃えた 不思議な炎 それが愛」と名曲「まことの愛」(作詞:酒井澄夫、作曲:西村耕次)に歌われるところの“不思議な炎”を瞳に観たい。暁千星のすべてを捧げ尽くすような舞に、バレエ『ラ・バヤデール』のブロンズ・アイドルの踊りの如き熱狂がある。彼女が踊りまくるダンシング・ショーを観てみたいものである。
2021-02-27 20:22 この記事だけ表示
 私の父が藤本家を継ぐため18歳の春で叔母のところに養子に行った話はすでに書いてきた。その甲斐あって、1974年には70年ぶりだかの藤本家の跡取りとなる息子、すなわち私の弟が生まれるのだが、その2年前には68年ぶりだかの藤本家の跡取りに生まれ損なった存在、すなわち私が誕生しているわけである。――殊更つらく当たられたとか、弟だけお小遣いが多かったとか、そういったことはない。けれども、将来の家の跡取りと、いつかは結婚してこの家を出て行くであろう人間とでは、接され方が明らかに違った。夏に父の故郷である宇部に里帰りするときはとりわけ苦痛だった。母が慣れない家でほぼすべての家事を担当し、子供二人だけで近くの海で泳ぐわけにも行かない。あまりにすることがないので、好きでもない勉強くらいしかすることがなかった。海辺の道を、母と弟と三人、最寄りのスーパーまで2キロほど歩いて買い物に行く。自分の影すらできない炎天下の中、熱く照り返すアスファルトの道を見つめながら、――私は将来的にはこの土地にはまったく関係がなくなる人間なのだから、ここにいさせないで欲しい――と思っていた。そして、スーパーの近くの本屋で暇をつぶすための本を買って帰ると、また本を買って、と祖母に言われるのだった――本も雑誌もあまり読まない人だった。
 そのうち祖母が年末年始に東京にやって来るようになったが、そのときはそのときでまた大変だった。いる間、すべて彼女のしたいようにしないと不満が爆発する――どこか、息をひそめるようにして暮らした。一緒に買い物に行くことがあっても、彼女が買いたいものを見て、買って、それで終わりだった。母方の祖母にもらったミニチュアの家具セットや、父方の実の祖母にもらった陶器のバラの置物は今も飾っているけれども、彼女に何かそういうかわいいものを贈られたことが一度もない。一緒に旅行に行ったこともあったけれども、楽しそうにしている顔を見たことがない。こうして振り返ってみても不思議なくらい、一緒に楽しく過ごしたという記憶がない。
 子供のときは、「藤本」という名字から早く他の名前に変わりたいと、そんなことばかり思っていた。念願叶って結婚して、年末年始に、彼女と実家で顔を合わせる――ちなみに、私の実家を建てたのは義理の祖父母である。私は、そこも自分の家だと思っているからくつろいで過ごしているけれども、彼女からしたら家を出て行った人間である。伯父が設計した家の、二階の一番日当たりのいい部屋、彼女以外の人間は使ってはいけないことになっていたその部屋へと夜になって上がっていくとき、彼女は「まあ、ごゆっくり」と言い残していくのだった。
 彼女が年齢を重ね、宇部から東京へと来られなくなってからは、顔を合わせることがなくなった。彼女は、自分の実家の敷地に甥が建てた施設で暮らしていた。里帰りする際、父は、彼女の誕生日にあげる寄せ書きに私も何か一言書くよう言ってくる。私が何か書いたところで彼女が喜ぶわけでもないし、私のことなんかどうせ忘れているだろうしと、私は拒絶するのだったが、父は有無を言わせなかった。
 父が亡くなって、本当に久方ぶりに宇部に行くことになったとき、――怖かった。自分の面倒をちゃんと見るように、そのことばかり父に言っていた祖母が、父が自分より先に亡くなったと知ったら、怒り出すのではないかと思った。その一方で、私は、年老いた彼女は、もう十年以上会っていない私のことは忘れているだろう、跡取りでもない孫のことなど、家の存続には関係のない存在なのだから、忘れていてもおかしくないとも思った。だから。
「…真由ちゃん?…」
 ベッドに横たわった彼女が、私の顔を見てそう言ったとき、私は本当に、心からびっくりした。…覚えているんだ…と。
 そのとき、私は赦したのだと思う。彼女を。私という人間と人生の時間を分かち合った記憶を、自分の内に確かに留めていたその人を――。子供のころは、いつかそんな日が訪れるようとは、思ってもみなかった。
 彼女はそれから一年も経たないうち、あと半年ほどで百歳というところで亡くなった。そのとき思った。百年も前に生まれた人である。考え方が今の時代にそぐわなくてもしかたない。私は決定的に赦した。

 宙組公演『アナスタシア』は、最後のロシア皇帝ニコライ二世の娘をめぐるいわゆる“アナスタシア伝説”がモチーフとなった作品である。私は子供のころから“アナスタシア伝説”やカスパー・ハウザーといった歴史上の謎に魅せられていて、この世で真相がわからなかったらあの世に行ったときに教えてくださいと神様にお願いしていた。子供のころからあの世に行く気満々だったようですが、それはさておき。
 記憶喪失の娘アーニャ(星風まどか)は、自分の過去を知るため、ロシアからパリを目指す。詐欺師のディミトリ(真風涼帆)とヴラド・ポポフ(桜木みなと)は、懸賞金を得るため、アーニャを行方不明の皇女アナスタシアに仕立て上げることにする。ロシア新政府の役人グレブ(芹香斗亜)はアーニャを追う。パリへとたどり着いたアーニャは、アナスタシアの祖母であるマリア皇太后(寿つかさ)との対面を果たす。ロシア革命で家族を奪われ、孤独に生きるマリア皇太后は、財産目当てで寄ってくる親戚や“偽アナスタシア”たちに嫌気がさしており、最初のうちアーニャにつらく当たるが、やがて、彼女こそが大好きな孫娘のアナスタシアであることを認める。そのとき、アーニャ=アナスタシアの“過去への旅”は終わる――自分がいったい何者であるのか知る旅。
 このくだりの、星風アーニャと寿皇太后の演技が素晴らしかった――心打ち解けて皇太后の前なのについつい座ってしまう星風アーニャ、そのしぐさの実に自然だったこと! そんな彼女に、皇太后も閉ざしていた心を開いていく。高貴な者ならではの尊大さと、老いゆえの頑なさと、その後ろに隠している柔らかで傷つきやすい魂と――そのとき、私は、久方ぶりに対面した藤本の祖母が「…真由ちゃん?…」と私の名前を発した瞬間を思い出していた。そして、人生初めての感慨に打たれた。
 私は、彼女にとって、たった一人の女の孫である。それは、どこまで行っても変わらない。
 思えば、不思議である。子供のとき、あんなに「藤本」という名字を早く変えたくてしかたがなかったのに、私は結局旧姓のまま仕事をしている――こうして、書いている。

 宝塚版では、アーニャをパリへと連れて行く詐欺師ディミトリが主人公となっている。一幕を締めくくる名曲「過去への旅」も、もともとはアーニャのソロであるところ、宝塚版ではディミトリの歌い出しからアーニャとのデュエットという形になっている。「♪もう少し 俺の心強くいてくれ」とどこか頼りなさげに歌い出すとき、真風が演じるディミトリのナイーブな魅力が炸裂する。ディミトリは詐欺師だ。アーニャをパリに連れていくのも懸賞金目当てのこと。けれども、逞しく生きるアーニャに心ひかれ、彼女こそが幼い日に見た皇女アナスタシアではないかと思い、彼の心は揺れ動く。ディミトリの心情をもきっちりと描き出すこと、そして、「過去への旅」の中で「♪Home, Love, Family 見つけ出そう取り戻そうよ」と歌われるところの”Home, Love, Family”を、孤独だったディミトリとアーニャが共に見つけ出すことがハッピーエンド――とすることによって、物語がラストまで勢い削がれぬまま展開することとなった。そして、その勢いのまま、華麗なるフィナーレへと突入するのが、宝塚版の醍醐味である。
 さて、アーニャをはつらつと好演した星風まどかだが、専科を経て花組トップ娘役となることが先日発表された。真風涼帆もディミトリ役を宝塚の男役の美学満載で魅せていただけに、ハッピーエンドの作品を観ながらもどこかおとぎ話が終わってしまうような寂寥感を感じなかったと言えば噓になる。けれども、…あのとき、二人コンビを組んでいて、よかった…と互いに思えるような今後のさらなる活躍をそれぞれに大いに期待するものである――共に舞台に立った記憶は残るのだから。ちなみに、次期宙組トップ娘役となる潤花は、雪組時代の『ハリウッド・ゴシップ』(2019)での肝っ玉ヒロインぶりがインパクト大だった人。今公演のロケットでもあふれんばかりの笑顔でアピールしていた。
2021-02-21 00:10 この記事だけ表示
 両作品とも、望海風斗&真彩希帆、雪組トップコンビの退団作であるという事実への落とし込み方が優れており、見事に共通するテーマもあり。雪組全体気迫みなぎるものがあり、素敵な千秋楽でした。東京でお待ちしています!
2021-02-08 23:12 この記事だけ表示
『f f f−フォルティッシッシモ−』、すごい作品だった!!!
2021-02-08 14:45 この記事だけ表示