「星逢一夜」は、主人公たちの子供時代の情景から始まり、子供時代の回想シーンで終わる。これはいったい、誰が語っている物語なのだろう…と考えていて、あるときはっとした。物語終幕において、九州・三日月藩藩主にして将軍吉宗の老中である主人公・天野晴興(早霧せいな)は、幼なじみたちが起こした一揆の責任を取り、自らが陸奥に流されることを受け入れる。その遠い地には、親しんだ者も、愛する者も、誰一人近くにいない。…永蟄居となった男は、子供時代の思い出を、自分が今の境遇に至るまでを、たった一人、繰り返し、繰り返し、心の中に思い起こす。彼を支えるのは、その美しい思い出、永遠に失われてしまった、無垢な子供時代の思い出ばかりである。
 それが、「星逢一夜」という物語なのだった。子供時代のイノセンスの喪失。
 唐突ながら、ここで自分の話をすると。…父が亡くなったとき、それは不思議な体験のいくつかがあった。そのことを書こうかどうしようか、ずっと考えていて、そしてそれを書かなければ例えば今年の蜷川幸雄演出「ハムレット」についてもきちんと書くことはできないのではないかと思うものでもあるのだけれども…。「星逢一夜」の関連で、一つだけ書いておくことにすれば。…私は、父が亡くなったとき、父とある意味一つになったというか、父という人間の意識のうち、私にとってとりわけ必要な一部と私自身とが一つになったような、それは不思議な感覚があったのである。生前話すことはなかったのに、父が私に関して考えていたことや、父の記憶などがすっと私の意識の内に入ってきた。とりわけ印象的だったのは、亡くなった晩、夢か現か、…幼い日、父が恐らくは疎開先で、姉と兄と三人、野山をかけめぐって遊んでいる情景を見たことだった。その情景を見たことで、私は、父の魂は、養子に出た先の跡取りとしてではなく、自分が生まれ育った家の人間に戻ることを望んで天に帰っていったのだと思った。次男として気ままに生きていたのに、唐突に跡取りになって苦労する。晴興にしても父にしても、昔はきっとそんな人間が多かったのだと思う。そして、それが内心どんなにつらいことであるか、口にはなかなか出せなかったのだとも。
それにしても不思議である。亡くなった晩に見た情景の中で父の着ているのと、子供時代の晴興が着ているのと、二つの着物の柄はどうして同じなのだろう…。ちなみに私の父が疎開していたのは、三日月藩の隣、熊本である。

 話は変わって「La Esmeralda」。
 作・演出を手がけた齋藤吉正の2012年作品「Misty Station」を録画してあったのを、あるとき観ていた。…止まらなくなった。一週間くらい、夜な夜なリピート。
「…どうしてこの作品、もっと生で観なかったんだろう〜!」
 それくらい、齋藤吉正作品は中毒性があるのである。そのことがあってから、私は、正しい吉正作品は気の済むまで観なくてはならないと心に決めた。
そして、「La Esmeralda」を、人の邪魔にならない二階の一番端の席で、手拍子し、拍手し、隣(は夫である)に聞こえない程度に口ずさみ、頭と身体を揺らし、心身で堪能していた。その姿を見た人からは「百年の恋も覚めるわ!」と言われそうなほど。そうして満喫しながら、…この作品を創った人間はある種の狂気にある、そう思った。この音と色と光の洪水を、自分の内に抱く人間。そしてその狂気こそが、観る者を熱狂させる。…それと同時に、私は、この作品を創った人間がとても好きだ、そう思った。この世に二人といない人。
 齋藤吉正は伝説的作品「BLUE・MOON・BLUE」で大劇場デビューを飾った。私のように熱狂的に受け入れた人間もいれば、受け入れなかった人間もいた。今をときめく花組トップスター明日海りお、そして雪組二番手望海風斗が宝塚に入ったのも、「BLUE・MOON・BLUE」という作品の存在が大きかったから――と書けば、作品の与えた影響力がおわかりいただけると思う。しかし、一部に受け入れられなかったことは、作り手の心に傷を残した。その傷というか傷痕というかにふれるたび、私は、あの作品に熱狂した人間として、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。悔しくてたまらない。観客を幸せにした、その一方で、なぜ傷つかなくてはならなかったのか――。無論、受け入れなかった人々を責めるわけでは決してない。万事、万人受けはありえない。けれども私は、作品を愛する人間の一人として、大きな責任を感じる。
 野暮を承知で「La Esmelada」の流れを記すと。海賊紳士と淑女たちが大海原に出帆した後、ビゼーの「カルメン」の曲が流れる闘牛場、チェッカーフラッグ翻るサーキット、1920年代のパリのクラブ、スペインのサン・ホセの火祭り等の場面が息つく間もなく展開。そして海賊たちは激しい嵐の中シーレーンとリヴァイアタンに翻弄されるも、やがてエメラルドの海を再び颯爽と翔けてゆく――愛の風を受けたこの大海原への航海において、歌詞に“帆”の一語が登場しないのは、帆が風を受けているのは当然の前提だからである――。
 そしてフィナーレでは、「BLUE・MOON・BLUE」を愛する人々への贈り物もある。雪組娘役陣を率いて大階段、望海風斗が歌い出すのは、「悲しき願い」。「BLUE・MOON・BLUE」でもフィナーレで、月組トップスター真琴つばさが男役陣を率いて歌い踊ったナンバーである。決して過去の名場面のノスタルジックな再現ではない。今回は望海が歌い出し、早霧が歌い継ぎ、二人和し、男役陣と娘役陣とが激しく入り乱れて踊る熱狂。
 火祭りの中詰、「You’re My Everything」(ディスコ・グループ「サンタ・エスメラルダ」のカヴァーの「悲しき願い」のB面曲というのが何ともしゃれているではないか)のせつないメロディが流れてくると、…熱い、暑苦しい叫びが、何だか聞こえてくるような気がする。
「みんなが去っていったって、お前には俺がいるじゃないか!!!」
(ちなみに齋藤作品には「俺/お前」呼びが多い。これまた雪組公演で、「♪俺とお前の合言葉/ロイヤル・ストレート・フラッシュ」等)
 ここはやはり、熱く、暑苦しく叫び返したい。
「世間があれこれ言ったって、お前には俺がいるじゃないか!!!」
 そうだ。タカラジェンヌはやめていっても、演出家は残る。齋藤吉正がいなかったら、「BLUE・MOON・BLUE」がなかったら、こんなにも宝塚歌劇を愛していなかったかもしれない。私の夫など、「BLUE・MOON・BLUE」を宝塚大劇場に観に行った帰り、興奮のあまり、花のみちの小林一三像に向かい、「宝塚を作ってくれて、一三、ありがとう!」と叫んだものである(「俺/お前」呼びにも似た…)。
 サーキットのシーンで、レースクイーンがチェッカーフラッグを振る。その一人、「勝利の女神が微笑む」と歌う桃花ひなの振りようが、…こんな風に振られたら、俺(あひるである)ももっと頑張れるかもしれない! と、人生のゴールに一目散に飛び込んでいきたくなるようにキュートでコケティッシュでふくふくとした娘役ならではの魅力に満ちていて、…私自身もそんな風に、チェッカーフラッグを振っていたいと思うのである。齋藤吉正だけでなく、傷つきやすいすべてのクリエイターたちのため。
 それにしても。この一ヶ月あまり、吉正ワールドに耽溺していたところ、…私自身の観方にも変容が訪れた。言葉の、思考の、意味を求めがちの人間である。歌を聴けば歌詞に引きずられる。しかし。「♪サン・ホセが歌い/お前が歌う/サン・ホセが踊り/お前が踊る」(というフレーズがもはや頭から離れない〜)――。ここに意味はもはや無意味である。必要なのは勢い、スピードをかきたてる言葉である。意味なるものは、勢いにのり、音の流れに身も心も委ねて疾走していった先に現れる。その際重要になってくるのが、音楽を素晴らしく自分の身体のうちに流し、体現するダンシング・スターである。今回の公演においては、沙月愛奈と笙乃茅桜、二人の娘役の活躍がめざましい。手も足もどこまでもびよーんと伸びていくような、沙月の小気味よさ。しとやかに正確無比に細かなステップを刻む、笙乃のしなやかさ。二人を中心に目を凝らし、言葉や意味を探って聴くのではなく、音楽を観ることに没頭したことで、Kバレエ「カルメン」を観ていても、以前より音楽の流れそのものに集中できるようになった自分を感じた。

 宝塚歌劇ならではの素敵な二作品を最後に、5人の雪組生が卒業する。
 齋藤吉正作品の魅力の一つに、娘役の活躍の場が豊富ということが挙げられる。今回、1920年代のパリのクラブにタイムスリップするシーンで、娘役・透水さらさが扮するのは、“黒いヴィーナス”ことジョセフィン・ベーカー。実在のベーカーと比べると肌の露出は控えめだが、史実通り、ちゃんと腰周りには多数のバナナをぶらさげている。透水はふっくらとした丸顔がチャーミングながら、その豊満さとギャップさえ感じさせるキレのいい踊りが武器の娘役である。そんな彼女の魅力が存分に活かされている。私は齋藤作品を観ると、「わがこころ環の如くめぐりては君をおもひし初めに帰る」という川田順の短歌を思い出すほど、宝塚歌劇を初めて好きになったときの感動を再び味わうことが多いのだけれども、今回、透水が、フィナーレの幕開けで、スタンダード・ナンバー「コメ・プリマ(初めてのように)」を、ここではいかにも正統派娘役のかわいらしさを放ちつつ、彩凪翔とデュエットしていたことに感慨を覚えた。「星逢一夜」でも、愛らしい声を聴かせる子供時代と、大人となって夫を一揆で失ってからの激しさと、一人の女性のさまざまな面を表現。ショーのエトワールでは堂々の有終の美の歌唱である。「Shall weダンス?」ではピリリとスパイスの効いた日替わりアドリブで客席を湧かせた芸達者の退団を惜しむ。
 此花いの莉は、昨年の全国ツアー公演「ベルサイユのばら−オスカルとアンドレ編−」で、コラニー文化ホール(山梨県立県民文化ホール)の20列以降の後列まで思いを飛ばす歌唱を聴かせたことが心に深く残っている。「La Esmeralda」では、シーレーンの歌手として、パンチの効いた歌唱を披露。「星逢一夜」では、将軍吉宗に命じられ、主人公・晴興が享保の改革に取り組んだ結果、日本中を不況が襲ったことを、江戸城近くの橋の下の夜鷹の場面で表現しているところに作劇の妙があるのだが、色気と演技力を誇る雪組娘役陣の一員として、場面をきっちり支えている。
 この場面において、やはり夜鷹役であだっぽさを見せるのが雛月乙葉。雛月は、5〜6月の「アル・カポネ」で20年代のフラッパー・ガールを演じていて、いかにもモダン・ガールといった断髪姿が実に粋。ピシャリとアドリブを飛ばす姿がまた粋だった。そんな彼女の粋な断髪姿が、「La Esmeralda」の1920年代のパリの場面で再び観られて、眼福至極。ショーの他の場面でもかつらのセンスのよさに見惚れた。姐御っぽい色気の持ち主もここに卒業である。
 私は、退団者がどの場面にどの役で出ているかあらかじめ調べておくことはなく、肉眼で観て芸がはっきりわかった限りにおいてこうして退団の日に文章を書いているのだけれども、その意味でも、齋藤吉正のタカラジェンヌ一人一人への愛の深さに脱帽するというのは、今回の「La Esmeralda」において、男役・悠斗イリヤの芸をしっかりと認識することができたからである。1920年代のパリの場面では、ヘミングウェイやピカソと並び、作曲家コール・ポーター(!)役で登場。味のある小芝居と歌で魅せる。中詰でも此花と共に美声を朗々と披露してくれた。
 花瑛ちほは、…今やめなくてはいけなかったのか! という思いでいっぱいである。彼女は少々規格外の娘役である。美形なのにドスが効いている。力をつけて、その規格外な部分をも娘役像の中に取り込んでいって、いつか、一癖も二癖も三癖もある女役を怪演する日を楽しみにしていたのだけれども…。「La Esmeralda」では、レースクイーンの一人として、人気者ホープを追って銀橋を渡る場面、「1、2、…何よ私あの人から遠いじゃない!」とばかりに不満げな小芝居を披露する姿に、…君は女・天真みちるか! (いや、天真みちるも女ですが)と突っ込みたくなった。卒業を惜しむ。
 この日曜まで、東京の宝塚のショー好き人間にとっては夢のような半月だった。東京宝塚劇場では雪組が、齋藤吉正のエキサイティングショー「La Esmeralda」を上演。さらに、歩いて十分ほどの東京国際フォーラムホールCでは、梅田芸術劇場誕生10周年を記念し、元トップスター5人を含めた豪華出演陣による「Super Gift!」(構成・演出:三木章雄)が上演されていたからだ。「Super Gift!」は今週末から大阪公演が始まるが、「この人から目が離せない!」というショーにおける求心力がいかなるものなのか、宝塚の現役生も大いに学んでほしい。それくらい、内容の濃い舞台だった。その中から、まずは、稽古場取材のときから心をわしづかみにされた人物について。
 稽古場で剣幸は、かつて月組トップスター時代に日本初演し、異例の一年間のロングランを記録した「ミー・アンド・マイ・ガール」より「街灯によりかかって」を披露した。稽古着姿で、扮装しているわけでもメイクしているわけでもない。それでも、…泣いてしまった。自分の前から姿を消してしまった恋人サリーを待ちながら、ビルは街灯によりかかって彼女への思いを歌う。剣はこのナンバーを、アイデンティティ・クライシスの曲として歌うのだった…。ビルは、ロンドンの下町で育ちながら、実は貴族の落胤であることがわかり、伯爵家に迎えられ、言葉遣いを含めた跡取り教育を施される。この教育こそが、ビルにとってアイデンティティ・クライシスをもたらす。自分はもはや、これまで育ち、生きてきた下町の連中と同じ階級には属さない。かといって、貴族階級にすんなり属せるかというと、そうは問屋が卸さない。自分とは一体、何者なのか――。ここに、「ミー・アンド・マイ・ガール」とは、アイデンティティの揺らぎを扱う作品となる。剣のこの歌を聞いた後、ディケンズの研究家である小池滋の著作「英国流立身出世と教育」を読み、教育によって階級差を超えようとしたイギリスの青少年が、その結果、どこにも属さない、属せないという苦しみにいかに悩むこととなったか、そしてその事実をイギリス文学がいかに扱ってきたかについて知ったのだが、この苦悩はビルともまた共通するものである。ビルにとって唯一、自分が何者であるか教えてくれるのは、“マイ・ガール”こと愛するサリーの存在である。何より自分は、彼女を愛し、彼女によって愛される存在である。ビルにとって、サリーを失うことはすなわち、自分自身をも失うことに他ならない。この後、サリーに会えなくなってしまったビルが、伯爵家を去ろうとするのもむべなるかな。
 単に、好きな子がいなくなってさみしい以上のものを、剣の歌唱は伝えるのである。その姿に、思う。自分が何者かを教えてくれる相手こそを、人は“愛する”ものではないかと。
 本番の舞台では、一幕の後半が「ミー・アンド・マイ・ガール」コーナーになっていて、「街灯によりかかって」を含めた作品のナンバーが歌われる。そして、楽しい「ランベス・ウォーク」へと続くくだり。伯爵家ではビルをお披露目するパーティが開かれ、居並ぶ人々を前にビルは一応は気取ってお辞儀をするが、しゃれたジャケットを脱ぎ捨て、「♪違うよ生き方が」と歌い出す。このとき、剣のビルは、ジャケットと共に、“貴族の御曹司”という演技をもはっきりと脱ぎ捨てる。…「それらしい“演技”さえできていれば、貴族ってことで通るのか?」…! それはすなわち、作品のラストで、貴族の落胤でも何でもない下町娘のサリーが、「マイ・フェア・レディ」よろしく言葉遣いと振る舞いを直し、貴婦人として迎えられるというハッピー・エンドに秘められた“階級”なるものへの大いなる皮肉にも通じる。今回の「Super Gift!」には剣と名コンビを組んでいたこだま愛も出演、サリー役として思いのこもった歌唱を披露しただけでなく、やはり“演じること”がキーワードである「スカーレット ピンパーネル」から「あなたを見つめると」のすばらしい歌を聴かせてくれたのだが、…この二人の「スカーレット ピンパーネル」はさぞや楽しませてくれるだろうな…と思わずにはいられなかった。宝塚OG「シカゴ」に続く第二弾として如何でしょう。
 そして、日本物の情感。剣は二幕冒頭では一転、退団公演「川霧の橋」の曲を歌ったが、これも、心に秘めて決して口には出せない、その思いを切々と綴ってゆくのである。そうして長い独白としてその曲を歌い終わって、思いを寄せる相手にやっと言えるのは「もうどこへも行くな」の一言だけである。そのせつなさ。
 芸と人間性に優れた人物がトップに立つとき、宝塚の舞台はもっとも安定する。そんな確信をさらに裏付けるような、今回の舞台だった。最上級生として座長を務める剣が、下級生の芸にもきちんと敬意を払いつつ、あくなき探究心でどこまでも芸を追求していくから、キャスト全員もどこまでも上を目指していける。だからこそ今回の「Super Gift!」は、単なるノスタルジアを超えて、実に見応えがあった。正直、「今一番気になる男役は?」と問われたら、「剣幸」と答えてしまうだろう。退団してから女優としてさまざまなキャリアを積んできた、その経験によってさらに彼女の男役芸が広がっていることは言を俟たないけれども、それでも、退団してもう四半世紀も経つ人物がさらに上を目指す姿に、男役芸の無限の可能性を見出した。現役生のさらなる発奮を期待したい。
 もちろん、男役としてだけでなく、女優としても大いに気になる存在である。濃厚な男役から一転、ドレスをまとって出てきて歌えば美しい女性である。今年の夏の「エリザベート」ゾフィー役でも、剣はすばらしい演技を見せていた。ゾフィーとルドヴィカの姉妹は、それぞれの子供、フランツ・ヨーゼフとヘレネを結婚させようと画策するが、フランツが選んだのはヘレネではなく、妹エリザベートの方だった。…どっちにしても自分の娘だから、まっ、いいかと“テヘッ”の表情を見せる未来優希のルドヴィカに対し、剣ゾフィーは「(姉妹のうち)まずい方だわ!」と突っ込む。その突っ込みようが鮮やかなほどにシャープで、そこに、姉妹ならではの気心をの知れようを感じさせた。そして、“姉妹のうちまずい方”というのは恐らく、ゾフィーとルドヴィカ姉妹にもずっと当てはまってきた言い方だったのだということに思い至る。“姉妹のうちまずい方”の産んだ“姉妹のうちまずい方”。血縁関係にあるからこそよけいにエリザベートの振る舞いが許せない。そんなことを感じさせる剣のゾフィーだった。
 今回、この作品を“宝塚”の項に分類したのは、読んでいただいたらおわかりのように、宝塚歌劇について大いに学ぶことがあったからだが、具体的には、杜けあきの歌唱に触発されたところなので、その話についてはまた詳しく。関西方面の皆々様は、3日からの梅田芸術劇場公演をお見逃しなきよう。
 ――「七夕の願い事が叶った!」と、喜ぶ人がいた。
 「まゆちゃんは何をお願いしたの?」と、幸せそうなその顔を見て、私は、願いが一つ叶ったと思った。何故なら、今年短冊に書いた願い事は、「皆が幸せになりますように」だったから。
 ――星逢、七夕の夜のドラマティックな再会が描かれる雪組公演「星逢一夜」を観て、心に思い浮かべたのはそんなやりとりだった。
 宝塚歌劇団期待の若手、上田久美子の大劇場デビュー作である。2013年、作・演出デビューを果たした「月雲の皇子」が好評を博し、当初は宝塚バウホール公演のみだったのが急遽東京公演が決定。ブラームスとシューマン夫妻を描いた昨年の「翼ある人々」は第18回鶴屋南北賞の最終選考に残った。そして三作目がこの「星逢一夜」。宝塚大劇場公演の評判も高く、東京へとやって来たが、宝塚歌劇の正統を行く、骨太さと繊細さとを兼ね備えた作劇が光る。ヴィジュアルの美しさ、舞台機構の活かし方も見事なもの。「翼ある人々」もそうだったが、何より、「…宝塚歌劇を好きでよかった…」としみじみ感じさせる作品世界が素晴らしい。周囲からの期待に押し潰されて摩耗することなく、伸びやかに力を発揮していって欲しい人である。
 ラテン・ショー「La Esmeralda」の作・演出は齋藤吉正。そして今作は、きわめて正しい齋藤吉正ワールドである。戦隊ものヒーロー作品のエキサイティングなオープニングが最後までハイテンションで続いていくようで、体感時間が世にも短い。彼の衝撃的&伝説的大劇場デビュー作「BLUE・MOON・BLUE」にも通じる、音楽の眩惑。「夏はまだまだ終わっちゃいないぜ!」とでも言うような、熱い熱いショー。齋藤吉正が元気に己を貫いて突っ走っていったときにしか生まれ得ない世界は、観る者をも元気にする。そしてやはり、思うのである。「宝塚歌劇を好きでよかった!」と。
 どちらの作品においても極めて高いレベルの舞台を展開していることに、雪組生は誇りをもっていい。これぞ、本道たる二本立て、私の愛する宝塚歌劇である。
 オペラ「アイーダ」をもとにした「王家に捧ぐ歌」の初演は2003年である。この12年間の宝塚歌劇団の成熟を鑑みるに、「♪エジプトは強い/強くてすごい/スゴツヨ/スゴツヨ」(という歌があるのである…)のままでよかったのか、疑問なしとしない。キャラクターそれぞれに特定の旋律が流れる、オペラのライトモティーフ的手法で作曲された甲斐正人の音楽は依然魅力を放っており、宙組子によるコーラスの厚みも力強さを与えていたのだが…。初演のラダメスは、万物の上に大きな翼をぱっと広げるような包容力の持ち主、元星組トップスター湖月わたるに宛てて書かれた役である。一方、湖月と同じくこの作品でトップお披露目となった朝夏まなとは、湖月とはまた異なるタイプの包容力の持ち主である。四代目市川猿之助は、「ここですね!」と、その本人にさえ気づいていないような心の小さな穴を探り当てて手当てし、そこから何かが流れ出してゆくのをさっと塞いでしまう、非常に繊細な包容力の持ち主なのであるが、湖月と四代目とを直線上に並べてみたとするならば、朝夏はどちらかというと四代目側に近いタイプである。そして朝夏は、自分の持ち味においてラダメスを造形することに成功し、立派なトップお披露目を果たした。前々から、自分の理想とする宝塚歌劇観をしっかりと持ち、それを観客に見せることを喜びとしてきた男役スターである。プレお披露目作品「TOP HAT」でも、宝塚の男役を必ずしも素敵に見せるとは限らないタップダンスに挑戦、ロマンティックな恋の主人公を演じて成功を収めており、このときのフィナーレで、「宝塚歌劇を愛する観客を、私が守ります!」と宣言するかのように歌い踊ったとき、その姿が一段と大きく見えた瞬間があったのが実に印象的だった。彼女の繊細な魅力が存分に活かされるよう、今後の演目に期待したい。
 アムネリス役の伶美うららの演技がとてもよかった。歌は苦戦していたが、それを補って余りある、深く共感できるアムネリスだった。伶美のアムネリスは、“父の娘”である。ファラオの娘と生まれたからには、ファラオを継ぐ勇者と結ばれ、国を守り続ける責務がある。もしかしたらその脳裏には、自分が男であったなら、ファラオとなったのに…という思いが常にあったのかもしれない。ファラオがアイーダの兄弟によって暗殺され、ラダメスが裏切り者とされたとき、アムネリスは混乱を鎮めるため自らがファラオを継ぐことを宣言し、ここで敢然と“男”となる。伶美は娘役だが、…この人が男役だったら、どうだったろう…と感じさせるボーイッシュな魅力を持っており、実際「銀河英雄伝説」では少年役にも挑戦している。その彼女の魅力が、女でありながら“男”となるその瞬間に、激しい火花の如くきらめくのである。それでも彼女の心の内には、女としてラダメスに寄せる恋心の火がくすぶっており、ラダメスを何とか生かす道はないかと苦悩する。そして、平和を守ってゆくことこそがその道に他ならないのだと信じるに至る。アムネリスこそが、ラダメスとアイーダが命を賭して訴えた思いを最も深く受け継いだ者であると印象付けるラストシーンでの姿も実に印象的で、ダブル・ヒロインとしての力量を強く示した。姿かたちも美しく、きらびやかな衣装の数々も素晴らしく似合っていた。
 初演に引き続き、アイーダの父、エチオピア王アモナスロを演じた一樹千尋は圧巻の一言である。エジプト軍の捕虜となり、「殺せ! 殺せ!」とかえって詰め寄る際の王としての威厳。その後、狂気を装って復讐の機会をうかがい、一度は成功するかに見えるが、エジプト軍に攻め滅ぼされ、本当に狂気に陥る。正気ながら狂っていると見せかける、しかしながら、実は正気の際に考えていた復讐のシナリオの方が狂気であり、国家滅亡にあってその狂気が噴き出す。モザイク模様のような狂気の表現に凄みがあった。
 アイーダをエジプトの女官たちが執拗に折檻するシーンなど、どうにもミソジニー(女性嫌悪)が拭えず、娘役が積極的に活躍できる作品ではないように思う。そんな中で、宙組娘役陣の元気印、大海亜呼が卒業する。はつらつとした踊りで宙組を支えてきたダンサーだが、今回はエチオピアの捕虜の女性の一人として、歌の場面でも活躍を見せていた。
 帝国劇場公演「エリザベート」と共に、潤色・演出の小池修一郎復活を印象付けた宝塚月組公演「1789」だった。もともとはフレンチ・ミュージカル、フランス革命を民衆の側から描く群像劇を巧みに交通整理し、フランス革命を主に貴族の側から描く「ベルサイユのばら」という大ヒット作をもつ宝塚歌劇に適合させた。圧巻だったのは、「ベルサイユのばら」でもメインの登場人物であるフランス王妃マリー・アントワネットを演じた愛希れいかである。トップ娘役ながらトップスターと組まないというイレギュラーな配役だったが、スウェーデン将校ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンへの恋、その喜びに生きる一人の女性としての姿から、王妃として生きる覚悟に至るまでを、「ベルサイユのばら」に描かれているのとはまた異なるアプローチで描き出した。ときどき、はっとするほど大人の女性としての色気をただよわせる。デュエット・ダンスでの身のこなしもますます冴えわたり、舞台人としてのさらなる進化を見せた。愛希アントワネットに対してフランス国王ルイ16世を演じた専科の美城れんも、最後の最後で民衆を理解しない君主の哀しさを感じさせる。ラストの“人権宣言”の場面では、ルイ16世も含め、全員が一人の人間となって踊る。実際の生涯では恐らくあんなにも激しく踊ることはなかったであろうルイ16世の姿に、彼もまた一人の人間であったことが、美城の肉体を通して示されているように思えた。その場面及び民衆蜂起の場面の迫力あるボディ・パーカッション等を担当したKAORIaliveの振付が効いている。革命で倒される国王側がくっきりと描き出されることで、彼らに対して立ち上がる民衆の闘いもまたあざやかなものとなり、月組生による総力戦が光った。
 この公演で惜しくも退団する琴音和葉は、実在の革命派ジャーナリスト、カミーユ・デムーラン(凪七瑠海)の妻リュシル役を演じた。彼女が舞台に登場すると、まるで鈴の音が鳴るようなその声でわかる。実在のリュシルも夫をよく支え、最後は決然と断頭台に上がった女性だったそうだが、琴音リュシルも凪七デムーランに、楚々と、それでいて確かな意志をもって寄り添う様が印象的。ヴァランシエンヌ役を好演した「THE MERRY WIDOW」でも、琴音の静かながらもどこか決意を秘めた横顔が心に忘れがたい。琴音と同じく90周年の記念の年に初舞台を踏んだ瑞羽奏都もこのたび卒業である。西洋人のように彫りの深い顔立ちをもつ男役ながら、全国ツアー公演「愛するには短すぎる」では大真面目な顔でいきなり前転、虚を突き笑いをかっさらった。これぞ“心のキャラ”である。「1789」でもその長身から繰り出す踊りがダンス・シーンで際立っていた。
 石田昌也作・演出「長い春の果てに」の初演は2002年、原作はフランス映画「世界で一番好きな人」である。初演時に主演を務めた紫吹淳&映美くららの月組トップコンビは入団が13年離れており、脳外科医と難病を抱えるピアニスト志望の少女の恋物語は二人のその学年差にもしっくりくるもので、とりわけ映美にとってヒロイン・エヴァは当たり役となった。作品はその十年後、花組全国ツアー公演で再演された。初演の際、紫吹扮する主人公ステファンに絡む二人の大人の女性、ナタリーとフローレンスは、汐風幸と大空祐飛という男役スターが演じていたが、2012年の上演時には、桜一花と華耀きらりという二人の実力派娘役によって演じられることとなった。
 私にとってはどこか痛切な物語である。というのは、高校時代、数学の先生にずっと片思いしていたから。三年の間には彼氏がいた時期もあって、率直に言って、自分の心の中で“好き”の棲み分けがどうなされていたのか、自分自身でもよくわからないのだけれども、干支が一回り違うその先生にいつか大人の女性、恋の相手として認識されないかなあと思って生きていた。今でも思い出す。自分はまったくもってそういう相手とは認識されていないのだ…と落ち込み、学校からの帰りに抹茶クリームあんみつを食べて、その強烈な甘さに心の痛みをごまかしたりしていた日のことを。1月のセンター試験も終わればいよいよ受験戦線たけなわ、三年生は登校せずにそれぞれ自宅で勉強に励むことになる。そんなときである。先生が婚約したという話をどこからか聞いたのは。…悶々として、数学の勉強にまったく身が入らなかった。二次試験の本番で数学がほとんどゼロ点に近かったのは、そのせいもあるかもしれない。
「…そういう勉強で受かる人っているんだね…」
 そう、大変率直な感想を述べてくれた大学の同級生は、高校二年生までで三年分の勉強をすべて終わらせ、受験勉強がてら「源氏物語」全編を原文で読み、今は南の島在住のサラリーマンとなっている。それはさておき。合格発表の夜、何とか志望大学に受かることができた私に、先生は「おめでとう。すごいよ!」と電話をかけてきてくれたのだったが、私はお祝いの言葉を聞くのもそこそこに、「先生、婚約したの? いつ結婚するの?」と問い詰めたのだった。その後、先生に会ったのは一度きり。大学に受かったら、松任谷由実の「海を見ていた午後」に出てくる横浜山手のレストラン、ドルフィンにお祝いに連れて行ってくれると約束していたのだけれども、約束は果たされぬまま、私が高校を卒業して間もなく、学年の途中で、先生は学校を辞めてしまったのだった。
 人生でときどき、歳の離れた人にぽーっとなる。自分をどこか遠くに、高みに、導き連れて行ってくれる恋が好きなのだと思う。高校生の時、先生に憧れて数学を熱心に学んだ日のように。それで、先生と生徒が恋に落ちる物語を描いた少女漫画が好きで、随分集めていたのだけれども、「…今となっては、私にとって先生と言えるのは、リヒャルト・シュトラウス先生だ!」ということに気づいてからは、すっかり処分してしまった。
 そんな私にとって、歳の離れた脳外科医ステファンに憧れを抱く少女エヴァは、共感を寄せるどころではない。人生の一時期の自分そのものだった。エヴァが、ステファンに相手にされずに拗ねたり、ステファンを取り巻く大人の女性たちにやきもちを焼いたりする様は、自分自身の思いとして手に取るようにわかる。かつての自分のどきまぎや幼い悪戦苦闘を遠眼鏡で見るかのように。
「♪世界で一番好きな人の目の中に 私が映るの 幸せな気分/…/神様 お願い この想い どうか届けてね/世界で一番好きな人に届けて」
 宝塚歌劇の歌の中でどれか一つ歌ってと言われたら、エヴァが歌うこの「世界で一番好きな人」を選ぶと思う。
 問題なのは。とうに少女とは言えない年齢となった今でも、大人の男性や女性をどこか仰ぎ見るような子供っぽさと、一向に手が切れないことである。私はかつてエヴァだったし、今でもどこかエヴァなのである。…幼い。器用に立ち回れない。大人だったら当然知っていそうな手練手管もよくわからない。今でもときどき、「…こんなとき、大人の女性だったらどうするんだろう…」と悩んで、途方に暮れていたりする。成人年齢を二倍した以上生きてきているというのに! 大体が、自分が抱いている“大人の女性”のイメージを考えるだに、いかにも子供っぽい。大人の男性と仕事でも恋でも対等にやり合って、何年も何年も待たされても一向に進展しない関係に踏ん切りをつけることにも潔そうな感じというか。
 …それもまた幻想なのである。そう教えてくれたのが、華耀きらり演じるフローレンスだった。エヴァが、「私は、ナタリーにもフローレンスにも勝てない」と涙を流す、その相手。
 フローレンスは弁護士である。いかにも颯爽としている。エヴァにとっては恋のライヴァルかもしれないが、フローレンスからみれば、こんな小娘、ライヴァルにもならんという感じであろうか。けれども、エヴァからすれば仰ぎ見るような“大人の女性”フローレンスも、ステファンとの恋をめぐってはやはり心が揺れ、傷つき、最終的に自分をずっと見守ってくれていたブリスの思いに安らぎを見出す。自分にはブリスなのだと気づき、けれどもそれを今さら言い出せなくて、「(わかってくれないなんて)ばかぁ」とブリスの胸に飛び込む。全国ツアーではここのくだりをなんと客席通路でやっていて、至近距離で華耀のこの「ばかぁ」を観ることとなり、…女優やなあ、としみじみ思ったことだった。ちなみに、このときブリスを演じた望海風斗は、それまで娘役に思いを寄せられる役というのをあまり演じてきていなかったと思うのだけれども、このとき華耀の演技を受け止めて以来、男役ぶりが上がったように思う。
 …大人の女性といっても、昔は皆、少女だったのだ。華耀のフローレンスを観ていて、改めて気づいた。そして、その事実を如実に示せることにこそ、宝塚歌劇の娘役芸の真髄があるのだと。娘役。永遠の少女たち。いつまでもどこか、青春の甘やかな園に遊ぶ。大人になって、少女であったことを忘れる人もいる。覚えている人もいる。少女であり続けて悩む私のような人もいる。そんな、かつてのすべての少女たちを、かつて“少女歌劇”であったその場所は、優しく包み込む。
 学年が上がれば、娘役はいつか女役にシフトしたりもする。舞台構成上、もちろんそれも必要なことではある。華耀きらりは娘役にこだわり続けた。ツルゲーネフの「初恋」を原作とした昨年の「ノクターン」では、入団13年目にして初めてバウホール公演の単独ヒロインが回ってきた。7学年下の柚香光扮する主人公ウラジーミルが思いを寄せる年上の女性、ジナイーダ役である。女役として演じることもできたと思う。けれども、華耀は娘役として押し通した。あっぱれなほどに輝かしかった。発光していた。こんなに美しいものを観られて、幸せに思えるほど。
 彼女と組むと、男役はとてもやりやすそうなのである。男役を見るまなざし。ドレスさばき。リフトの際の身のこなし。どこをとっても、娘役芸の矜持に貫かれている。
 そんな華耀は、1月の特別公演「風の次郎吉−大江戸夜飛翔−」で新境地に挑んだ。女だてらに男装し、江戸の街を闊歩する武士の娘、堀田けい役。女性が男装して演じている男役との差異をきちんと見せなくてはならず、その上でめちゃめちゃはっちゃけた役どころだったが、娘役芸のぎりぎりで通した。遠山の金さんに思いを寄せ、女らしくしようとしてみるもやっぱり上手く行かず、得意の武術で助太刀致す、そのいじらしさ。このとき、はねっ返り娘けいに常に付き従うじいや、本田吾介役で飄々とにじみ出るおかしみを見せ、華耀といいコンビぶりを見せた神房佳希も、残念ながら本日をもって退団である。神房は、退団公演「カリスタの海に抱かれて」では、上には弱く下には強い、天真みちるが俗物の極みを見せる軍人の部下であるフランス兵役を演じ、上官に対して腹に一物あるところをコミカルに見せて笑いを取った。
 華耀が「カリスタの海に抱かれて」で扮したのは、フランスの植民地カリスタ島の総督夫人ブリエンヌ役。「間男」という直截な物言いをこの高貴な人にさせるのはいかがなものか…と感じさせる、しっとりとした貴婦人である。レヴュー「宝塚幻想曲(タカラヅカ ファンタジア)」では、オープニング、はっとする瞬間があった。舞台で踊っていた華耀が、その流れで使う羽根を、袖から持ってきてくれた相手から受け取る。そのとき、まるで「ありがとう」と言うようにちょっと肩をすくめるのだけれども、その後ろ姿に娘役芸のプロフェッショナリズムが凝縮されたような、それは美しい仕草を見せた――。そして、花組トップスター明日海りおにリフトされ、軽やかに、華やかに回り続けるあの至福。
 …先日、記者懇親会から帰るとき、楽屋口に偶然、彼女がいた。最後だもの、何か、何か言いたい…! しかし。泣いてしまいそうになって、「…とっても素敵でした」というのが関の山だった。ああ子供っぽい。退団を控えてさみしさもあるだろうに、舞台上では笑顔を貫き通すその人に学ばねば。
 誇り高く美しい女友達が、夢の花園を去ろうとしている。その潔い背中を見送るような思いである。けれどもきっと、美しい人はこれからも美しく生き続けるだろう。その道と自分の道とがどこか交わっていればと願う。
 昨年のゴールデンウィークに、NHKスペシャル「宝塚トップ伝説〜熱狂の100年〜」という番組が放送された。宝塚5組のトップスター(当時)それぞれに焦点をあてて紹介する形になっていたのだけれども…、これがまあ何ともはや。例えば。雪組トップスター壮一帆については、“三度の組替えを経てトップに上りつめた苦労人、日本物にこだわりをもつ”といった感じ。苦労話をアピールするタイプではないし、その時期上演していたのがたまたま「心中・恋の大和路」だっただけで、別に日本物だけにこだわりをもっていたわけじゃないぞ、と思った。壮の場合は、8月にNHK「思い出のメロディー」で退団公演「My Dream TAKARAZUKA」の一部がオンエアされ、洋物にもこだわりをもっていることがアピールできたわけで、まあいい。星組トップスター柚希礼音に至っては、キスシーンへのこだわりがフィーチャーされていた。別に観客は柚希のキスシーンだけを観に劇場に行っているわけじゃないぞ、と思った。思って、…何だか悲しかった。ある意味、それは彼女の置かれている状況を端的に指し示しているのかもしれない、と思えて。
 宝塚歌劇を観る楽しみの一つに疑似恋愛幻想があることを決して否定するものではない。けれども、宝塚歌劇を観る楽しみが疑似恋愛幻想のみに集約されてしまっていたとしたら――? そして、そのような固定概念が世間に遍く広まっており、この番組での彼女の紹介のされ方もまた、その概念のさらなる固定化に拍車を掛けるものだとしたら――? 
 百周年を迎えた宝塚歌劇団を六年にわたって牽引してきた柚希礼音は、絶大な人気を誇るトップスターである。そして、時代時代で絶大な人気を誇ってきた存在は、時代時代で疑似恋愛幻想をもっとも多く背負ってきた、背負わされてきた存在である場合が多い。歌、芝居、踊りのいずれにも大きな穴はなく、うち一つに武器があると望ましい。そして、健康優良児タイプ(に、少なくとも傍目からは見える)。疑似恋愛幻想を投影する上で、翳りとか屈折といったものはあまり必要がないようである。もっと言えば、投影する相手が何を発信しようとしているかさえあまり必要がないというか、むしろ、発信は投影の邪魔ですらあるかもしれない。私がたまたま宝塚歌劇のそれになじみがあるだけで、宝塚以外の場所でも状況は同じであろう。――相手だって、あなたと同じ人間なんですよ。そう言いたくなってくる。たとえ相手がスターであれ、トップスターであれ、幻想を一方的に押し付けていい、そんな逆説的に特権的な立場がこの世にあり得るだろうか。
 ――柚希礼音はとても優しい人だから、そんな重い圧力を、身体を張って受け止め続けてきた。そして! 異なる地平で勝利を収めて宝塚歌劇団を去ってゆく。快哉である。退団公演「黒豹の如く」で、柚希は、柴田侑宏が彼女に宛て、心の血のインクで書いたようなセリフを、今この瞬間、劇作家の内より生み出されたようなみずみずしさをもって成立させた。それは、彼女の芝居の力である。疑似恋愛幻想とは無縁の地平に存する。私は、朴訥な彼女の内から感情がポンっと唐突に飛び出してくる瞬間が好きである。彼女自身が舞台に立つことを望むのならば、これからも彼女の芝居を観続けていきたいと思う。「太陽王」のフィナーレでエレガンスを感じさせた踊りも。柚希礼音スーパー・リサイタル「REON in BUDOKAN〜LEGEND〜」の「君はどこに」で聴かせた歌声も。
 疑似恋愛幻想のみに従事すると思えば、宝塚の男役とは、退団後、何とも潰しの効かない職業であるだろう。けれども、宝塚で男役を演じてきた経験が生きる場を見出すこと、その経験が生きる場を作り出してゆくこともまた可能であるはずだ。その闘いに、微力ながらも関わっていけたら、そう願う。「あの海を行く帆船は風で進む方向が決まる訳じゃない。帆の向きで決まるんだ。世界の風がどう吹こうと、俺は俺の思うままに生きる」――そう、柴田も餞の言葉を贈っているではないか。

 そして、柚希礼音が身体を張って重い圧力を受け止め続けている間、トップ娘役・夢咲ねねはずっとその隣にいた。それもまた重圧のポジションである。柚希礼音と夢咲ねねが並ぶと、アメリカの学園ヒエラルキーの頂点、花形フットボール選手と人気チアリーダーのカップルのようなゴージャス感がある。だからこそ、疑似恋愛幻想の圧はいや増す。
 専科の轟悠の相手を務めたニール・サイモン原作「第二章」で、夢咲が生き生きと芝居をしていた姿が印象に残っている。女優であるヒロインを演じ、女優ルックの数々を着こなしてあでやかだった。柚希相手に生き生きと芝居をしていなかったということでは決してない。ただ、そこは、疑似恋愛幻想圧のない場所だった。“柚希礼音の相手役”を演じなくていい場所だった。
 重い責務を果たし続けたものである! 二人とも。

 2013年の東京宝塚劇場のお正月公演の三本立てで、私は、舞台に立つ柚希礼音の姿に感銘を受け、新年互礼会で彼女にどうしても伝えたかった。宝塚のトップスターとは尊い仕事であると思った、と。――私は少々涙ぐんでいたと思う。彼女は、「もう少し頑張らないけません」と言った。それからもう二年である。その間、蘭寿とむが辞め、壮一帆が辞め、凰稀かなめが辞めた。いくらなんでももう潮時であろう。柚希のパワフルな舞台姿を観ていると、つい、もうあと五年くらいできそうな気がしてきてしまうけれども。
 美に生きる大切な友人の船出に、幸多からんことを!

 ダンシング・スター鶴美舞夕は、「黒豹の如く」のカルナバルの場面で活躍、ショー「Dear DIAMOND!!」の女装した男役たちが柚希に絡むシーンで圧倒的な色気を放った。歌姫・音花ゆりは、品の良さと気の強さとを両立させる魅力をもった娘役である。彼女が演じた役でもっとも印象に残っているのは、「ジャン・ルイ・ファージョン−王妃の調香師−」(2012)のヴィジェ・ルブラン。マリー・アントワネットや自画像を残した18世紀の実在の美貌の画家、キャリアウーマンの元祖ともいえる存在を演じて、その個性が輝いた。「Dear DIAMOND!!」のエトワールでは有終の美を飾る歌声を聴かせた。タカラヅカ・スカイ・ステージ視聴者には「萩の月」CMキャラクターとしてもおなじみ、“踊るお姉さん”海隼人も、ショーのロケット・ボーイではつらつとした踊りを披露していた。
 みずみずしい――。それが、宝塚歌劇団の座付き作家、柴田侑宏の十年ぶりの待望の新作、星組公演「黒豹の如く」に接して抱く感慨なのだった。柴田は大ベテランである。今年83歳を迎えた彼は、1958年の入団以来、昨年百周年を迎えた宝塚歌劇団を支えてきた。日本物、洋物問わず、香気あふれ、抒情性に満ちたその一連の作品群。柴田の存在なくして、宝塚歌劇の今日の姿はありえない。
 病を得て目を悪くして後は、口述筆記による執筆、また、演出を他の者に任せる形で作品創りに関わってきた。その分業体制下の最初の作品の題名が「黒い瞳」(1998)――言わずと知れた名作である――とは示唆に富む。二度ほど柴田氏にお会いし、お話させていただく機会を得たが、私が発する声、そこから自然とにじみ出るものによって私の人となりを知り、判断されているのだろうと、身の引き締まる思いがした。無論、そこであわてて声色を取り繕ったところでどうにかなるものでもない。そして、彼が私の文章に接する機会があるとすれば、それは誰か読み上げてくれる人物の声を通じてなのだろうと考えると、身の引き締まる思いがする。私の書く文章は、声に出して読み上げられたとき、聴く人の心に届き得るものだろうか――。
 「黒豹の如く」は、六年にわたって宝塚を牽引してきた星組トップコンビ、柚希礼音&夢咲ねねの退団作にあたる。柴田は二人に、海軍大佐と、彼のかつての恋人で今は未亡人であるヒロインとの、再会して燃え上がる恋の物語を描いた。――1920年、スペイン。主人公アントニオ・デ・オダリス侯爵(柚希)は、大航海時代に七つの海を駆け巡った海賊を祖先にもつ海軍大佐である。第一次世界大戦後の世界は空の時代へと移り変わろうとしており、かつての輝かしい栄光は過去の話、スペイン海軍には無用論さえささやかれている。野望に燃えた大実業家のビクトル・デ・アラルコン公爵は、アントニオを、ファシズム体制下の海軍の最高司令官に招こうとする。アントニオはこの誘いをはねつけながらも、その一方で、自らが時代遅れの産物とはなっていないかと苦悩する。
「強いとは何か? 国の力か? 金の力か? もう男の力など用はないのか! 俺の海はどこだ、どこへ行った。俺の海はどこだ、どこにある。/海の男たちの時代は 終わったのか」――
 物語の中で、独裁と金権政治は明確に否定される。ヒロインの愛と絶大な権力とを手に入れようとするアラルコン公爵の野心は、彼の愛人の妄執により結局は潰える。迷えるアントニオも一つの決意に至る。
「あの海を行く帆船は風で進む方向が決まる訳じゃない。帆の向きで決まるんだ。世界の風がどう吹こうと、俺は俺の思うままに生きる」
 作中、もっとも印象深いセリフである。そして、新たな任務を得、ヒロインや仲間たちに見送られて旅立つアントニオは歌う。「大海原は俺の故郷」と。
 ――作家が自らの心の内にペンを突き立て、そこから湧き出る血の紅いインクでしたためたようなこれらの言葉を、客席で聴き、脚本で読む。若々しい。そこに、今なお理想に燃える一人の青年を見る。その青年の、熱情に震える手に自分の手を重ね合わせ、伝えたい。私もまた、志を同じくする者なのだと――。
 柚希扮するアントニオの叔父、退役軍人アロンソ・デ・バンデラス侯爵役で英真なおきが出演している。星組組長を長らく務めた英真は、組配属のときから柚希を見守り、柚希トップ時代の2012年に専科に移動した。気心の知れた二人のやりとりは作中のハイライトであり、クラブでグラスを傾けながら海と女たちについて歌う「海と女 永遠の謎」は、作家が、半世紀以上、命を傾けて支えてきた宝塚歌劇と、そこに生きる女たち、それを取り巻く女たちへの讃歌である。
「怒りだすわけも/涙流し すぐに笑うわけも/分からないけど 愛しく思う女たち」
 自らも女性である英真と柚希とが、男の姿で、それぞれの男役芸を存分に発揮しながら、男性作家から託された女たちへの讃歌を歌う。――宝塚歌劇でしかありえない讃歌。柴田侑宏が去りゆく柚希礼音に贈ったのは、そんなみずみずしいきらめきに満ちた作品である。
 2014年9月29日。都内で行なわれた雪組公演「ルパン三世−王妃の首飾りを追え!−」の制作発表会は、夢乃聖夏扮する銭形警部のパフォーマンスから始まった。…ルパンが犯行予告したから来てみたら、何だって現場にマスコミがいるんだぁ〜! 居並ぶ報道陣に向かってまくしたてる夢乃銭形。…そう来なくっちゃ、ここは絶対夢乃聖夏だ! と思った。夢乃は作・演出の小柳奈穂子の笑いのミューズである。前回、小柳が雪組で担当した「Shall we ダンス?」において、夢乃は大方の予想通り、映画版で竹中直人が快演したドニー役を演じることとなり、劇場を大爆笑の渦に巻き込んだ。そして今回の「ルパン三世」でも、大方の予想通り、とっつぁん役を任された。夢乃聖夏はそのような期待を寄せられる存在なのである。小柳の作品に賭ける意気込みと、夢乃への信頼を感じた。そして、夢乃がパフォーマンスのトップバッターを務めたことに、安心感を覚えた。役者として大きくなったんだな…と、そんな感慨を抱いていたら、この作品が彼女の退団公演となったのだった。
 実は、彼女は私の夫の父親と同じ、佐賀県多久市の出身である。聖夏の「聖」は、多久の人々にとっては大切な場所、市内にある重要文化財、多久聖廟(孔子廟)にちなんでいるのだという。
「遠い先祖をたどったら、もしかしたら同じとかかもしれない」(夫)
 それを知って以来、義理の父親の遠い遠い親戚に接するような気分で、彼女の舞台を観るあひる。そうか、この熱い暑い夏の太陽のような人と…。そういえば、非常に大らかなところは似ているかもしれず。
 夢乃は、“男役十年”を越える研12まで、星組で過ごした。持て余すような長い手足を生かして黒人役を造形した「My Dear New Orleans」(2009)、「エンパイア・ステート・ビル、でっかいなあ」の迷セリフを残した主演作「摩天楼狂詩曲」(2010)などが思い出に残るが、何といっても観客の度肝を抜いたのが、ショー作品「BOLERO」(2010)のアフリカン・ダンシング・ファンタジー“トマケ”の場面であろう。夢乃率いる男役陣が、「トマケトマケトマトマケトマケトマ…」と叫びながら激しく歌い踊る。その思い切りのよさ。すべてが吹っ飛ぶあまりのインパクト。夢乃の姿を思い浮かべつつ、作品を観ておらず、“トマケ”について何の知識もない夫の前で唐突に叫び踊ってみたところ、「何その土着な踊り〜」との感想が見事得られた。
 雪組時代は、本人も認めるように、前トップスター壮一帆との“迷コンビ”ぶりが印象的である。壮がトップとして主演した「ベルサイユのばら−フェルゼン編−」、「Shall we ダンス?」、「一夢庵風流記 前田慶次」の三作共、壮に付き従い何のかんのある“迷コンビ”。熱い、熱すぎるジェローデル。爆笑の嵐を巻き起こしつつ、人間として成長を遂げるドニー。前田慶次と勝負して負け、たまさかその鬱憤のはけ口となるも、笑顔を浮かべて「旦那ぁ〜」と明るく慶次に従い、最後には友となる深草重太夫。壮慶次の手荒いアドリブを受け、その身が心配になる日もあったが、夢乃の明るさが、壮のこの退団公演を湿っぽいものとしない上で大きな役割を果たしていた。全国ツアー公演「若き日の唄は忘れじ」で演じた壮の“刎頸の友”、小和田逸平役で、「ふんけいっ!」と自らの体躯で大の字を描いてみせたことも忘れがたい。「Shall we ダンス?」のドニー役といい、ショーでのダンスの場面といい、長い手足をどこか持て余し気味の熱く激しい動きが、男役・夢乃聖夏の真骨頂である。
 さて、「ルパン三世」の銭形警部である。作品をご覧になれなかった方も、宝塚歌劇公式ホームページでポスターを見ていただきたい。あの表情。あの左足の上がり具合。躍動感。思わず見入ってしまう、あまりのインパクトと思い切りのよさ。あのポスターで、宝塚版「ルパン三世」に大いに興味をひかれた人、宝塚版「ルパン三世」の成功を予感した人も多かったのではなかろうか。
 前項でふれたように、「銭形マーチ」に乗って「ベルサイユのばら」の秀逸なパロディが展開されるシークエンスは、「ルパン三世−王妃の首飾りを追え!−」の肝とも言える。生のオーケストラの演奏によって繰り広げられる、大野雄二作曲のあのメロディ。東京公演初日後の囲み会見で、この点につき大野氏に質問したところ、原曲においては、この曲を歌った三波春夫を生かすため、サビが“和”になる、すなわちそこでチャンチキが鳴るのだが、宝塚版における青木朝子の編曲につき、「お、やるなと思った」と大変うれしそうであった(脚本ではここの「銭形マーチ」につき「ロック」と書かれており、他にも「ロココ調」などあちこちで使われている)。このビッグ・ナンバーの芯を任されたのはもちろん、宝塚が自信をもって送り出した銭形警部、夢乃聖夏である。そして、大方の予想通り任された「Shall we ダンス?」のドニー役で大爆笑をさらったように、やはり夢乃は期待を裏切らない。長い体躯と手足で再現するとっつぁんのがに股。アニメ的な動き。夢乃のシトワイヤンとっつぁんが民衆の中に飛び込み、ロベスピエールと共に「シトワイヤン…行こう!」と「ベルサイユのばら」のバスティーユの戦闘の如きダンス・シーンを繰り広げる際、笑わずにはいられようか。だいたいが、ルパン三世とその一味はカリオストロ伯爵の魔術によって首尾よく8年後にタイムスリップするというのに、一人取り残されて激動の8年を真面目に生き抜くあたりがとっつぁんらしい。「銭形マーチ」の哀感あふれる歌詞とあいまって、心に沁みるその哀愁。大真面目なのに、どうしようもなくおかしい。そこに、夢乃聖夏ととっつぁんとが見事重なる。今こうして思い出していてもやはり笑いで身体が震えそう。楽曲を締めくくる歌詞は「いつかは俺が主役になる時が来る/主役になる時が来る/ワォ!!」!
 …なんて楽しい去り際だろう! やはり、すべてを吹っ飛ばして余りあるインパクト。他の男役スターではちょっと考えられない。それがいかにも男役・夢乃聖夏にふさわしい。これからも、明るく、熱く熱く、笑いとボケにあふれた楽しい人生を歩まれんことを。

 近松門左衛門の「冥途の飛脚」を原作とした「心中・恋の大和路」で、この達者な人は誰だろう…と思った、それが、ヒロイン梅川のいる槌屋の女将・お清役の舞園るりだった。セリフのはしばしにどことなく底意のありそうな、なさそうな。組の地力は、大劇場公演において、たとえ一言であれセリフを任された者がきちんとそれを発せているかどうかでまずはわかる。組がいくつかに分かれての公演の際は、より多くの者にセリフがつき、このとき組の地力がさらにはっきりする。「心中・恋の大和路」は日本物ということで難易度も高かったと思うが、下級生に至るまで演技がきちんとしており、雪組の底力を大いに感じさせた。今回退団となる舞園もそんな雪組を立派に支えてきた一人である。
 同じく退団の帆風成海にも、まだまだこれからでしょう、そう思えてならない。彼女は「Shall we ダンス?」宝塚大劇場公演で代役で務めた探偵の助手ポール役があまりに達者だった。ただ、まだまだ新人公演学年、あまりに達者にまとまりすぎる前にもっとはじけていってもいいのでは? とも思った。その達者さは「心中・恋の大和路」の番頭役ではしっかりとした重しとして効いていた。「一夢庵風流記 前田慶次」での前田利家の家来、富田重政役で、前田慶次と馬の松風双方に翻弄されるコミカルな受け演技も忘れがたい。今回の「ルパン三世」では、時空を超えた銭形警部とロココのベルサイユで出会い、意気投合する近衛兵コンビの一人、アンリ役。相方ジョルジュ役の真那春人と二人、とっつぁんに従い、時にいさめ、共に泣く。ルパンたちは一味でタイムスリップしているけれども、銭形は一人なわけで、仲間ができてよかった…とほっとさせてくれる役どころであり、帆風の達者なコメディ演技を楽しむことができた。退団が惜しまれる。
 フェルゼンがいないのである。スウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンが。――宝塚雪組公演「ルパン三世−王妃の首飾りを追え!−」の話である。
 しかし。作・演出の小柳奈穂子にとって、不在は織り込み済みなのである。その不在を逆手に取って、ルパン三世は、フェルゼンが成し得なかったことを、見事成し遂げてしまうのである!
 不在問題について語るべきはむしろ、併演のショー「ファンシー・ガイ!」の方であろう。作・演出の三木章雄は、花組公演「カノン」(2012)において、…準トップなる呼称が存在するとするならば、それは(当時二番手だった)壮一帆にふさわしい…との思いのもと、トップコンビに壮と実咲凜音を加えた形で、「アルビノーニのアダージョ」に乗せたダブル・デュエット・ダンスを展開した。その思いには深く共感するものではあるが、壮を継いで雪組トップスターとなった早霧せいなのお披露目公演で、そのときの衣装、そして「アルビノーニのアダージョ」を、別々の場面においてであるとはいえ、用いる必要があったのかどうか。
 不在問題これで終わり。
 さて、宝塚の「ルパン三世」である。キャラクター設定はそのままに、小柳によるオリジナル・ストーリーが展開される。「ルパン三世」といえばおなじみ、大野雄二による名曲の数々も華やかに作品を盛り上げる。宝塚歌劇は何も「ベルサイユのばら」だけを上演している劇団ではない。しかしながら、宝塚と言えば「ベルサイユのばら」を上演している劇団というのもまた、世間一般に広く共有される認識ではある。ルパン三世と宝塚歌劇との出会いの場として、小柳は、この「ベルサイユのばら」の世界を選択した。フランス王妃マリー・アントワネットおわす、ロココのフランス、パリ――。始まりは現代。“王妃の首飾り”を盗みにベルサイユ宮殿に侵入したルパン三世は、一味(と銭形警部)と共にタイムスリップ、そこでマリー・アントワネットと運命的な出会いを果たす。この作品においては、フェルゼンはスウェーデンに帰国していて不在であることがしっかり言及される。「ベルサイユのばら−フェルゼン編−」で言うならば、一幕ラスト、「♪振り向けば 心の荒野に/優しく微笑む 愛の面影」と絶唱してフランス宮廷を辞し、後にフェルゼン自身が「私がフランスからの帰国以来、生きていたと思うか? 私の心は生きながら屍となっていた」と振り返るあたりの出来事だと即座に想像がつく。フェルゼンの無事を祈るアントワネット。請われてルパンは彼女を街に連れ出すが、そこで目にしたものは、彼女とフェルゼンの仲とを揶揄する芝居であった。自分はかごの鳥に過ぎないとしょげるアントワネットに、ルパンは、多くを学んで自由に生きることのすばらしさを歌う。そして、自分の未来を尋ねるアントワネットに、子供や孫に囲まれ、旦那に添い遂げて幸せに暮らすと告げるのである! 初めてこの作品を観たとき、…なんて残酷な嘘をつくのだろう…と思わずにはいられなかった。だが、ルパンは“嘘”を“誠”にする。時を超える錬金術師、カリオストロ伯爵の力を借り、銭形警部を一人1785年に残して、一味は8年後のパリにタイムスリップ。ルパンは処刑前夜のアントワネットの独房に忍び込み、“犯行”を予告。処刑当日、見事マリー・アントワネットを救い出し、やはり救われていた国王一家と再会させる。物語には、革命期に実際に起きた“王妃の首飾り事件”も巧みに取り込まれている。
 一人1785年に取り残された銭形警部が、己の運命を嘆いて歌うのが、三波春夫の歌唱で名高い「銭形マーチ」。このナンバーの用い方が、ルパン三世×宝塚歌劇の融合として世にも絶妙である。銭形は、再びルパンと出逢うまでの8年の月日を、シトワイヤン銭形として、革命の指導者ロベスピエールの片腕となって生きる。フランスのその激動の年月が、銭形の歌う「銭形マーチ」にのって描かれてゆくのだが、曲が流れる中、「シトワイヤン…行こう!」という掛け声のもと、ロベスピエールとシトワイヤン銭形と市民たちが繰り広げるダンスは明らかに「ベルサイユのばら」の名場面、バスティーユでの戦闘のダンス・シーンを模しており、そこを貴族たちが逃げまどう。ルパンがアントワネットの独房に忍び込む場面は、やはり「ベルサイユのばら」の“フェルゼン編”及び“フェルゼンとマリー・アントワネット編”の大詰、フェルゼンが牢獄に忍び込む場面をなぞっている。大工仕事が得意なルイ16世により、アントワネットの登るギロチンには回転の仕掛けがなされており、これによって彼女は命を救われるのだが、その遺体を運ぶと見せかけ、死体運び人に扮した五ェ門と次元が、荷車に載せた人形を銭形に見せる。銭形がこれをあっさり通したことで、彼がルパンの王妃救出作戦を見抜き、これに協力するため、身をやつして革命の時代を生き抜いてきた事実が明かされる。この場面は、やはり「ベルサイユのばら」の世界を巧みに取り入れ、行きすぎたフランス革命の時代におけるイギリス貴族パーシー・ブレイクニーの活躍を描いてヒットした「THE SCARLET PIMPERNEL」(2008、2010)のもじりである。また、レーザー光線をくぐり抜け、高貴な姫を「ローマの休日」よろしく街に連れ出す泥棒という、今回の作品におけるルパン三世のキャラクター付けには、「シークレット・ハンター」(2007)の主人公ダゴベールを思い起こさせるものがある。
 ここまで大胆な「ベルサイユのばら」のパロディを、他でもない宝塚歌劇でやってのけてしまう。「ルパン三世」の世界を借りたからこそ可能になった技である。演出家の手腕はそのまま、王妃の一番大切なもの、すなわち命を盗み出してしまうルパン三世の手腕とも重なる。まるで、「宝塚歌劇で、『ルパン三世』なんだから、こんな幸せな夢を見たっていいじゃない?」と、演出家が、観客に向かい、芸に秀でた男役トップスターよろしく、男前に、お茶目にウィンクを決めてみせたような。小柳奈穂子、かっこよすぎである。
 もう一つ、“嘘”は“誠”になる。ルパンに出会うまで、カリオストロ伯爵はあくまで“自称”錬金術師、その実は単なる詐欺師だった。それが、タイムスリップしてきたルパンに時を超える魔術はあると諭され、師匠アルトタスに学んだ魔術に挑む。そして見事ルパン一味を8年後に飛ばし、本物の錬金術師となり、果てには現代にまで現れる。カリオストロ伯爵は、小柳が温めてきた題材なのだという。つまり、ルパン三世とカリオストロ伯爵、その二人が演出家の分身となり、時を超え、自由に活躍する。
 タイムスリップの条件がよくできている。必要なのは、500のダイヤと“マリアの涙”、そして死にたてのネズミの死骸。500のダイヤに相当するのは他でもない“王妃の首飾り”である。聖母マリアがキリストの死の際流した涙が結晶してできたとされる伝説の宝石“マリアの涙”はハプスブルグの秘宝となっているが、1793年、アントワネットたちを救い出したルパンたちの手元にはない。ここで、命を救い、その命をつなぐために“王妃の首飾り”を彼女に託すルパンの深い想いに、マリー・アントワネットは涙を流す。そのマリーの涙こそが世界で一番貴重な宝石“マリアの涙”となり、ルパンたちを無事現代へと戻す。ルパンの歌うオリジナル曲「My Dear Queen’s Diamond」は、叶わぬ想い寄せる王妃の瞳と涙をダイヤモンドの美しさにたとえた、心に残るナンバーである。
 嘘が誠になり、時空を容易に超えることができ、涙が流される場所といえば、思い浮かぶのは劇場である。「ルパン三世−王妃の首飾りを追え!−」は、宝塚歌劇の座付き作家である小柳奈穂子による、舞台論、秀逸な宝塚歌劇論であり、座付き作家としてのますますの飛翔を宣言するものである。キーワードは、“ルパン三世”が宝塚歌劇の象徴としての“マリー・アントワネット”に語る“自由”である。“清く正しく美しく”に沿う限り、宝塚歌劇作品は限りなく自由でいい。そしてこの作品は、宝塚歌劇ファンと「ルパン三世」ファン、双方から広く支持され、宝塚大劇場、東京宝塚劇場とも連日大入りを記録したのである。
 「ルパン三世」の原作者、モンキー・パンチ氏は、東京公演初日後の囲み会見で、ルパンと宝塚歌劇の美意識とが意外とうまくマッチしたと語っていた。1998年、この作品が「ルパン三世 I'm LUPIN」なるタイトルでミュージカル化された際に取材させていただき(ルパン三世のそっくりさんという設定の主人公に扮したのはルー大柴である)、驚きと新鮮な感想をうかがったことが今も忘れられない。彼が生み出した「ルパン三世」の豊かな世界と、宝塚歌劇との大胆なコラボレーションへの快諾に、敬意と感謝の念を捧げたい。そして、あまりに名高いナンバーの数々を手がけた作曲の大野雄二。作品に詳しくなくとも日本国民ならば一度は耳にしているであろうあの楽曲群あってこその「ルパン三世」の世界を、宝塚ならではの“歌劇”で楽しめたことは大きな収穫である。テーマ曲が流れ始めた瞬間の、客席の「待ってました〜!」のあの雰囲気。アーティスト大野雄二の世界に大いに魅せられた次第である。
 この作品は、雪組新トップコンビ、早霧せいな&咲妃みゆのお披露目公演である。ルパン三世のダンディズムと小柳奈穂子の男前も大いに乗っかって、早霧ルパンが軽妙な活躍を見せる。今回の役作りにあたってはアニメ版ルパンの初代の声優を務めた故山田康雄の声色を参考にしたそうだが、これが功を奏した。というのは、早霧は囲みなどで普通に話しているのを聞いていると魅力的な声なのに、舞台上での男役発声に多少難が感じられるところがあった。何も無理して声帯を締め付けるように話さずとも、男役としての発声は成立させられることを、今回の作品で学んだのではないかと思う。この点、山田康雄に大いに感謝したい。終幕、王妃の首飾りは甦ったカリオストロに奪われ、マリー・アントワネットへの想いを胸に、次の獲物を狙って明日へと歩いてゆく背中に、男役としてのせつない哀愁がにじむ。「ルパン三世」と「ベルサイユのばら」とをつなぐ上で、マリー・アントワネット役の咲妃みゆは重要な役どころである。あまりにパロディに転んでは今後の宝塚歌劇における「ベルサイユのばら」の上演がぶち壊しになってしまう。だが、小柳の演出及び咲妃の奮闘あって、「ベルサイユのばら」とは違う、それでいて「ベルサイユのばら」へと戻ることも可能な役作りがなされた。ダンスに秀でて軽やかな物腰の、それでいて気品あふれるロココの女王。ルパンに連れられ、お忍びで出かけた街で、自分とフェルゼンとの仲を揶揄する舞台を観、愚痴をこぼす。なるほど、王妃と言えど人間、もしそんな舞台を実際に観る機会があったなら酔っぱらいたくもなるだろうなと納得させられる。咲妃が演じる「ベルサイユのばら」のマリー・アントワネットも観てみたいと思わせるものがあった。そんなフレッシュな二人を、一昨年の「フェルゼン編」や昨年の全国ツアー「オスカルとアンドレ編」など、「ベルサイユのばら」を三次元少女漫画世界として見事成立させてきた芸達者な雪組陣ががっちり支える。新生雪組、好調なスタートである。