大変失礼を承知で、まずは、男役・凰稀かなめにその昔、勝手に抱いていたイメージから記すこととしたい。
――これだけ美しいと、他人に興味を抱くことなんてあるんだろうか――。
 そして、彼女にはいい意味で、すばらしい意味で、それはたくさん“裏切られた”! いかにも宝塚の男役に似つかわしい、美しい人だから、彼女は必ずやトップスターになると多くの人が考えていたと思う。そして彼女は、自らがトップスターにふさわしい人間であることを、期待の遥か上を行く境地で証明してみせて、そうして宝塚歌劇を去ってゆく。――こんなに痛快なことがあるだろうか。
 一時期、ついてしまったセリフ回しが気になったことがあって、癖がない方がいいと思うのだけれども…とつぶやいた。「宝塚のトップスターは、言われても直したりなんかしない」と言われた。だが、そんなことはなかった。癖はなくなって、その方が彼女の美をより引き出したと思う。もって生まれた美しさと、それにさらに磨きをかけんとする美しき努力と。その双方が彼女には備わっているのだ。
 そして、周囲を思い、率いる力。若くまだまだ難しい組、宙組をまとめ上げてみせた。その力あってこその「ベルサイユのばら」のオスカルである。宝塚歌劇百周年に見事なまでにふさわしい。バスティーユ進軍の際の、燃える炎のような姿をまざまざと思い出す。そうだ。彼女がそんなにも燃える心を、命を、宿していることを知らずにいた。それだって見た目からの勝手なイメージである。美とは恐ろしいものである。虚心坦懐に向き合うということをしないと、圧倒されて終わってしまう。
 ――私は何だか、この人とはあまり接点がないんだろうな…と頑なに思い続けてきたところがあったのだけれども、いざ退団となってみるとまったくもってその逆で、どんどん接点が増えてきたように思った。そして、今後も――。
 例えば会見の場で、彼女はあまり表情に出すということをしない。それが私にはうらやましい。表情にせよ涙にせよ、平気で出してしまう、出てしまう質なので。けれども、観察を続けるだに、「あ、今うれしいんだ!」等々、微細な表情の変化でその思いがわかるようになってきた。
 そして、気づいた。彼女は、自分を表現する上で、舞台、演技やセリフ、踊りを必要とする。私は、自分を表現する上で、書き言葉を必要とする。同じことではないかと。
 凰稀かなめはその意味で、実に表現者向きの人なのである。そして、舞台と客席とで、出会うべくして出会った人だとも思う。

 「白夜の誓い」の主人公グスタフV世は、啓蒙思想に通じ、芸術にも理解の深い君主である。その役柄を彼女に宛てた時点で、作・演出の原田諒を評価する。
 原田が手がけた「ロバート・キャパ 魂の記憶」は凰稀の代表作の一つだが、その関係で、2012年のタカラヅカスペシャルで、彼女はお茶の間で人気者となった某戦場カメラマンのパロディを演じていた。嬉々として。…途中まで、凰稀かなめその人だと全然わかっていなかった。そんな芝居心は、ショー「PHOENIX 宝塚!!−蘇る愛−」の“伝説の宝鳥”の場面、七変化を見せるシーンでも大いに発揮される。聖職者に老人、そして最後には美脚を披露してのマドモワゼル。「Amour de 99!!−99年の愛−」のパイナップルの女王でも思ったことだけれども、彼女の“女装”は、美しい中にどこか男役が演じるからこその毒気が感じられるのがいい。それだからこそ後を引く。旺盛な芝居心に支えられたショースターである。それにしても。「孤独だっていいじゃない/自分が赤く燃えていれば」とは、彼女にぴったりの歌詞を、ショーの作・演出担当、藤井大介は書いたものである。
 トップ娘役・実咲凜音は残って次期トップスター朝夏まなとを支えることとなったが、必ずしも添い遂げ退団が美徳であるとは思わない。そして、凰稀かなめと実咲凜音のトップコンビが私は好きである。ベタベタしてはいなくて、けれども、信頼関係に基づいてきちんと芸を見せるプロフェッショナルな点が。これからは、実咲が凰稀から学んだ多くのことを伝えていく姿を楽しみにしたい。
 そして。私に、凰稀かなめについて大きな示唆を与えてくれた人物二人が、退団公演に共に出演していたのは本当にうれしいことだった。汝鳥伶と、緒月遠麻と。彼女との接点を見出しかねていた私に、舞台上の二人は、その美点を教えてくれた。二人の存在がなかったら、舞台人としての彼女を理解しようとする上でひるんでしまっていたかもしれない。
 ――不思議なくらい、これから! という気がするのである。何だかやっと始まった思いでいっぱいである。ということで。2015年2月15日、宝塚歌劇宙組トップスター凰稀かなめさん、卒業、心からおめでとう! どうか幸せな日を。そして、これからもよろしくお願いいたします。
 あひると南の島在住のサラリーマンは、宝塚大劇場に赴いた際、花のみちにある小林一三先生像(朝倉文夫作)と心の中で会話を交わすことを常としている。ある夏の日、いつものように夫婦はそれぞれ先生と語らんとしていた。…先生、お言葉を!
 と、そのとき。ファンを引き連れた一人のタカラジェンヌが目の前を通り過ぎた。
「…今の、見た?」
「見た」
 ――見届けてほしい――。そう、言われた気がした。
 こう書くと。「百周年は壮で行く」の預言の話を書いたときも、ある人物から、「一三先生はそんな、一人のタカラジェンヌだけに目をかけるようなことはしない」と言われたものだったが(もっとも、あの預言が誰の声によるものだったか、私自身は書いてはいない)、またもや何か言われるかもしれない。もちろん、先生も、いわんや神も、誰か一人だけを依怙贔屓するということはありえない。ただ、各人にそれぞれ果たすべき役割が任されるということはあろうと思う。
 目の前を通り過ぎたのは、緒月遠麻だった。

 緒月遠麻はキノコ好きジェンヌとして知られる。最近でこそ“キノコ女子”がブームだが、彼女のキノコ好きは高校生のころからだというから先駆者的存在である。そしてある時期、その舞台からはキノコ愛が炸裂して伝わってきたものだった。
「今朝もキノコ食べてきた!」
「酒のあてに、キノコ!」
「元気がないの? だったらキノコを食べればいいよ」
 私自身はどちらかというとキノコの類は苦手な方だったのだが、啓蒙されるうち、食べられる種類もキノコに関する知識も増えた。自宅近くの商店街の店の看板を見て、「…あ、これ毒キノコなんだ」と気づいたり、「マイ流しそうめん機」を売っていたヴィレッジ・ヴァンガード高円寺店で「キノコ栽培キット」に心ひかれたり。それにしても、この人は舞台とキノコ、いったいどっちが好きなんだろう…と考え込んだ時期もあり、さまざまなキノコの特色を男役のさまざまなカラーとして表現してみてはと提案してみたこともあった。
 しかしながら。キノコへの愛が大いに表明された時期を越え、緒月遠麻は舞台人としてますます大きな存在となっていった。例えるならば、真顔で頓狂なことをして見せる様が何だかとても気になる近所の子供がいて、それがいつしか花と成長していたような。男役の技量のうちに、本来もつ女性としての美しさも溶け合わさって。
 彼女には新人公演主演の経験がない。そして、その経験の有無は、トップスターになる上での必要不可欠な条件であるのみならず、宝塚歌劇の舞台で重要な役を演じる上での条件でもあると考えている人もいて、そういう人々からすれば、例えば、緒月が「ベルサイユのばら」でアンドレとアランという重要な役どころを役替わりで演じたりすることは不思議に映るようである。ほとんど、10代の終わりに受験勉強がどれだけできたかを計るに過ぎない大学入試の結果で、その後の人生が決まってしまうと考えるようなものである。それが何だ! と言いたい。舞台で着実に成果を出していって、その技量にふさわしい役柄を与えられることに何の問題があろう。舞台に立ってすぐに技量を発揮できる者、時間をかけてゆっくり技量を身につけ、個性を発揮していく者。宝塚歌劇にもさまざまなタイプのタカラジェンヌがいて、努力が実ったときに報われるようであって欲しいと心から願う。そして、緒月遠麻は彼女にしか可能とはならなかったであろう唯一無二の道、けれども、後に続く多くの者が希望を見出せる道を切り開いたタカラジェンヌだったと思う。
 「風の錦絵」の小坊主のロケット。「ロシアン・ブルー」のユーリ先輩。「ロジェ」のシュミット(殺人犯)。「オネーギン」のある革命思想家。「ニジンスキー」のセルゲイ・ディアギレフ(宝塚では珍しい同性愛の役どころ)。「銀河英雄伝説@TAKARAZUKA」のヤン・ウェンリー。「風と共に去りぬ」のベル・ワットリング(女役!)。「翼ある人々」のロベルト・シューマン。「ベルサイユのばら−オスカル編−」のアンドレとアラン。――それにしても、多種多様な役柄で個性を発揮したものである。ほとんど、多種多様なキノコの特色を表現したようなものである。今振り返ってみても、どれが一番とは選べない。
 退団公演「白夜の誓い」では、主人公グスタフV世の幼なじみなれど、後に袂を分かってその暗殺者となるアンカーストレム役。率直に言って、グスタフV世との対立が割に急にやってくる印象があり、難しい役どころだが、堂々たる演技で押し切った。ショー「PHOENIX 宝塚!!−蘇る愛−」では、コメディ仕立ての“伝説の宝鳥”の場面の警部キタロール役で、十八番の真面目くさったコミカル演技を披露。“祈り”の場面では、男性性と女性性とが融合した美しさにはっとした。

 残念ながら縁がなくて、緒月さんには一度も取材させていただくことがなかったのだが、先月下旬の新年互礼会で初めて言葉を交わす機会があった。まずはキノコの話題から入るあひる。そして、退団後の進路についておうかがいしていたところ、…何たることか、涙が〜〜〜。これまで舞台上でさまざまな役柄を演じる姿を楽しみ、キノコ愛をも感じてきたのに、その機会がもしかしたらなくなってしまうのかも…と考えたら、何だかとてつもなくさみしくなってしまい、涙がそれはぴゃあ〜と流れて一向に止まらない。初対面の人相手に。しかしながら、彼女の対応は大変男前だった。そして、今後舞台に立つことに関しても前向きな感触を得た、と思う。これからも、緒月遠麻らしい、自分自身の道を切り拓いていってください。舞台人としてだけでなく、キノコ親善大使やイメージ・キャラクターを務めてみても、きっといい味を発揮することと思います。
 フェルゼンがいないのである。スウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンが。――宝塚宙組公演「白夜の誓い」の話である。
 「白夜の誓い」の主人公、スウェーデン王グスタフV世といえば、フェルゼンと同時代人。2001年の宙組「ベルサイユのばら−フェルゼンとマリー・アントワネット編−」の一幕ラストで、フェルゼンに、マリー・アントワネットを救いにフランスに赴けと告げる人物である。それなのに、今回の作品ではフェルゼンへの言及が一回もない。少し不自然にも思えるほどに。
 評の分かれる「白夜の誓い」だが、私は大変興味深く観た(大劇場公演から、東京宝塚劇場公演に向けて手直しされたと聞く)。何より、「白夜の誓い」における“スウェーデン”に、「アルジェの男」の“アルジェ”、「A-“R”ex」の“マケドニア”と同種のアナロジーが成立しているならば、国を牛耳る“親ロシア派”に対する“グスタフV世”の闘いは支持して然るべきだろう。ということで、さらなる洗練された闘い方を考えてみたい。
 まず、フェルゼン不在問題についてであるが、一言でいい、言葉があれば、「…どうしてこんなにも出てこないんだろう…」と悩まずに済んだはずである。例えばグスタフV世が愛する女性のフランスからの救出を部下に頼むところで、「今、フェルゼンはフランス王妃の救出に向かっているのだが」と語る等。あまりなじみの深くないスウェーデン史において、フェルゼンは宝塚歌劇の観客にとって非常に有名なキャラクターである。ましてや、宙組の前作は「ベルサイユのばら−オスカル編−」。前作がそうであったからこそ余計に言及したくなかったとも考えられるが、一言でもあれば、「物語が地続きなのね」とさらに楽しめたのでは? ここで思い出すのは、2008年の星組公演「THE SCARLET PIMPERNEL」と続く星組全国ツアー公演「外伝 ベルサイユのばら−ベルナール編−」である。「THE SCARLET PIMPERNEL」では、にしき愛演じる独裁者ロベスピエールがクローズアップされていた。すると、「外伝 ベルサイユのばら」作・演出の植田紳爾は、若き日の理想に燃えるロベスピエールを作品に登場させ、やはりにしきに演じさせた。作品双方を観る層が多いと踏んでのことだと思うが、それによって物語につながりができ、観客はロベスピエールという人物を多角的にとらえることができるようになったわけである。もちろん、観客全員に「ベルサイユのばら」及びフェルゼンについて知識があるわけではないだろう。けれども、「ベルサイユのばら」をはじめとする宝塚歌劇の名作群の力を借り、客席に蓄積されていると思われる知識に訴えかけてゆく手段を考えてみてもいいのではないだろうか。
 「白夜の誓い」はグスタフV世のいささか無念な死で物語が終わるが、この後スウェーデンがどうなったかというと。V世の息子グスタフW世が即位し、フェルゼンは彼のもと元帥にまで昇りつめる。その間、大使として赴いたウィーンで愛するマリー・アントワネットの忘れ形見マリー・テレーズにちらと再会したり、国際交渉の場でナポレオン・ボナパルトと顔を合わせ、「フランス王妃と寝た男」として冷遇されたり(もっとも、フェルゼンとマリー・アントワネットの間には肉体関係は一切なかったという説もあり、その場合、ナポレオンの下品な言いがかりに過ぎないわけだが)、そして果てには冷酷な権力者となって民衆に撲殺される。というわけで、その後のフェルゼンを描けば、「ベルサイユのばら−フェルゼン編−」と「白夜の誓い」双方の続きの物語となるわけである。あんまり恋愛の要素はなさそうではあるが、それはさておき。
 何だか展開が読めてしまうセリフや演出も散見された。例えば、グスタフV世が夜風にあたってくると言ってベランダに出る、すなわち、舞台上に設置された壁の向こう側に行く。となると、彼を舞台正面にもってくるには盆を回すしかなく、果たして盆は回るのであるが、その際、舞台正面側にいた舞踏会の客たちは、途中で盆から歩いて降りて舞台袖にはけるのである。せっかく着飾った姿なのに、スペクタクルとはならずもったいない。ロシア女帝エカテリーナU世が、グスタフV世の妻ソフィア王妃と女性同士、二人だけで話したいから人払いをしてくれと言う。それだけで、往年の傑作「黒い瞳」(1998〜1999月組・2011年雪組全国ツアー)の名シーン、エカテリーナU世とヒロインとの二重唱が思い出され(もっとも、宙組の文脈でエカテリーナU世といって思い出すのは、この役を演じて花總まりがりりしい男装を披露した「望郷は海を越えて」なのだが)、果たしてエカテリーナU世とソフィアとは二重唱を披露する。ちなみに、ある日、エカテリーナU世役の純矢ちとせの熱唱に、凍てついたロシアの大地と、雪組版でエカテリーナ役を好演した晴華みどりの姿が見えるなあ…と思っていたら、果たして晴華みどりさんその人が客席にいて驚いたのであるが。また、グスタフV世とアンカーストレム伯爵が対立し、アンカーストレムが部屋を退出して舞台の脇の方に行った瞬間、宝塚でよくある相克のデュエットが歌われるんだろうなと思ったら、果たして二人は対立の二重唱を歌う。どうしてこのように展開が読めてしまうかというと、展開が読めるだけの間がそこに存在してしまっているからである。劇的瞬間の連続を作り出す上では、「ベルサイユのばら」の作劇・演出に学ぶところも多いように思う。…と、大いなる老婆心を発揮してしまったのも、作・演出の原田諒が、基本的には非常に誠実に宝塚歌劇の作品作りに向き合っていると思うからこそ。今後の作品にも期待するものである。
 2014年の宝塚歌劇のワースト作品は「眠らない男・ナポレオン―愛と栄光の涯に―」である。ただし、組子の頑張り自体は高く評価するものである。
 何が問題か。まずは、エピソードが並べられているだけで有機的なストーリーが語られないこと。次に、女性差別的な内容であること。何も、ナポレオンの時代にさまざまな差別があった歴史的事実を改竄しろと言っているのではない。ただ、当時存在していた差別を、今日に生きる我々からの何らかの批判的視座なくしてそのまま描くことは、単なる差別の再生産ではないだろうか。これは、一度我が身に受け止め、その痛みと共に描くということなくして暴力をそのまま舞台に持ち込めば、暴力の再生産でしかないのと同じ話である。そして最後に、独裁、独裁者を賛美する内容であること。ナポレオンを教祖と仰ぐ宗教のプロパガンダ演劇のように思えて、率直に言って薄気味悪かった。この作品ではフランス人作曲家が起用されていたが、その楽曲にも冴えがなかった。例えば、オーストリア皇帝フランツ1世に扮した一樹千尋が歌った曲など、同じ作曲家の作品「ロミオとジュリエット」において、彼女が2010年の日本初演から三度演じた当たり役、キャピュレット卿のナンバーと、メロディといい歌詞といい、酷似。独裁は、国の政治体制であれ、宝塚の舞台上であれ、決して許されるべきではない。「ナポレオン、ナポレオン」のリフレインが空しく響く。それは、独裁者への讃歌ではなく、挽歌である。
 宝塚歌劇の舞台には、名娘役・花總まりの“ファントム”がときおり甦る――。今年、そんなことを思った瞬間があった。本家本元の花總まりが華麗に復活を遂げ、帝国劇場で主演を含む活躍を見せているというのに、彼女の影、亡霊を追うことにいったい何の意味があろう。ということで、そのような亡霊にとらわれることなく、それでいて、彼女の切り開いた道に続く舞台を見せている娘役たちを紹介して、御祓いとしたい。

 今年、ヒロインとしてもっとも優れた演技を見せたのが、花組宝塚バウホール公演「ノクターン−遠い夏の日の記憶−」の華耀きらりである。この作品はツルゲーネフの「初恋」をモチーフにしていて、華耀は、花組のホープ、柚香光扮する主人公ウラジミールの憧れの年上の女性、ジナイーダを演じた。柚香よりも学年が上の立場で務めるヒロイン役となったが、華耀は女役ではなく、娘役としてこの役を演じきった。そこに彼女の娘役魂、貫徹されたプロフェッショナリズムを見る。堂々と真ん中でここまで娘役を貫く姿を見せたのは、花總まり以来だと思う。これまでの華耀の舞台で私がもっとも好きだったのは、全国ツアー公演「長い春の果てに」(2012)のフローレンス役で、彼女の好演によってほとんどヒロインに見えたものだったが、フローレンス然り、ジナイーダ然り、華耀は、少女が自分をもてあます様を表現して美しい。「長い春の果てに」の方は、私自身が最近ようやっと手放した“ファントム”とも関連する話なので、またいずれ。「ノクターン」では、自分に思いを寄せる親子二人が居並ぶ食卓で、自分の母が金の無心に近い話を始め、いたくプライドを傷つけられて無言で座っている様に、凄みを含んだ美しさがあった。「ラスト・タイクーン」の、気位が高いと見せかけて実は情に厚い大女優ヴィヴィアン役も素敵だったし、「TAKARAZUKA ∞ 夢眩」では、ケント・モリ振付のハードな場面を、娘役らしさを決して失うことなく、それでいて男役陣に負けじとかっこよく踊っていた。男役陣を引き連れ、いかにも娘役らしくたおやかに踊る場面も華麗な限り。「エリザベート」の、エリザベートの姉ヘレネ役もよかった。通常この役は、皇帝フランツ・ヨーゼフに選ばれなかった哀れで少々滑稽な存在として造形されがちに思うが、彼女の演技は違った。お見合いの場面ではハンカチを握りしめ、気の毒なほどどぎまぎとしていて、内気な性格をはっきりと打ち出す。彼女の演技を観ていると、確かにフランツには選ばれなかったけれども、この世に生まれてきた人間誰もがそうであるように、ヘレネはヘレネとしてやはり選ばれし者なのであって、彼女には彼女の選ばれし運命、人生、幸せがあったことを思わずにはいられなかった。今年の華耀きらりの舞台は、宝塚の娘役道の一つの到達点である。

 今年の宝塚の新人賞は、雪組新トップ娘役、咲妃みゆである。昨年、「THE MERRY WIDOW」と「月雲の皇子−衣通姫伝説より−」でヒロインを務めて快進撃を見せ、春の全国ツアー公演「ベルサイユのばら−オスカルとアンドレ編−」のロザリー役で雪組デビュー。自分がロザリーならばこのようにオスカルを慕いたいし、自分がオスカルならばこのようにロザリーに慕われたい。私にとっては理想のロザリーだった。原作の漫画で、ロザリーが、…どうしてオスカル様は女なんだろう…と思ってさめざめと泣くように、オスカルとロザリーとの関係には、吉屋信子的に言えば「エス」(「sister」の「s」)、今で言えば「百合」の要素が濃厚に香ってこそだと思うが、そこについても、あくまで“清く正しく美しく”表現。可憐な春風。
 「一夢庵風流記 前田慶次」では、男装して前田慶次の命をつけ狙う捨丸役。壮一帆演じる慶次に本気で食ってかかり、いなされる様が、二人の舞台人としての関係をも感じさせて興味深かった。そして、タイトルロールを務めた日生公演「伯爵令嬢−ジュ・テーム、きみを愛さずにはいられない−」で、鮮烈なトップ娘役デビューを飾った。原作は70年代終わりから連載された少女漫画で、泳げないのにしょっちゅう水に落ちて部分的に記憶を失うヒロイン・コリンヌは、現代の感覚からすれば少々ウザいキャラのような…。だが、作品の制作発表会で、扮装して出てきた彼女が、ぴょんぴょん飛び跳ね、「怒らないで、怒らないで〜」とセリフを発した瞬間、報道陣から思わず好ましさの笑いがもれた。作品の副題、「きみを愛さずにはいられない」が心に刻み込まれた瞬間。そして、実際の舞台。七色にも思える声の使い分けも絶妙に、見事に難役を成立させてみせた。舞台人として花總まり以来のポテンシャルを秘めた逸材である。彼女がその力を美に尽くしていけるよう見守っていくことが、今の私の喜びである。

 そして、花總まり。
 彼女が12年以上トップ娘役を務めた中で、私は、「一度くらい開演アナウンスをして、最後に大階段を降りてくる姿が観たい!」と思っていた人間なので、花總まりが「レディ・ベス」に主演し、帝国劇場の舞台、最後に出てきて迎えられる姿を観て、夢が叶ったような思いだった。「レディ・ベス」にしても「モーツァルト!」にしても、彼女の登場シーン、…え、こんなに美しい人がこの世に本当にいるの?!…と、思わず二度見してしまう。世界の皇族よりも似合うのではないかと思える、気品あふれるドレス姿。「モーツァルト!」の姉ナンネール役では、貴族ではないのでドレスさばきが多少荒っぽいのも演技のうちである。エリザベス1世に扮した「レディ・ベス」では、女王としての責務に目覚めていく第2幕、何だか必要以上に“演じて”しまっているようなのが気にかかったので、一度、ストレートプレイでがっちり演出を受けてみるのもいい勉強になると思う。「レディ・ベス」での男装が世にもりりしくかわゆかったので、男装シーンのあるシェイクスピア作品なんていかがでしょう。そして来年は待ちに待った「エリザベート」。GO GO HANACHANG!
 ↑何だか強そうなタイトル! 実際、武道館に立った柚希礼音は強かった。武道館ロビー、「武道憲章」が掲げられた前で囲み会見に応じる姿に、彼女に本当に似つかわしい場だなあと…。5年前、安蘭けいを継いで彼女が星組トップスターに就任したとき、この日を想像できた人間がはたしていただろうか。柚希礼音は彼女らしい確かな大きな歩みでずんずん進んで、そうして到着した先が、日本武道館なのだった。
 映像を含め、ハイテク技術が駆使されていたけれども、手作り感、舞台と客席とで一体になって盛り上がっていこうという心遣いが胸に沁みるステージだった。客席も一緒に踊る場面と、一緒に歌う場面がある。私は初日(11月22日18時)に先駆けての舞台稽古を見学していたのだが、聴衆8500人が入り、反応が返ってくると想定して、がらんとした武道館の客席に向けて稽古が行なわれている。少しでもその役に立ちたい一心で、ダンスレッスンのシーンでは、近くに座っていた記者数名と共に立ち上がり、教えを受けて懸命に踊ってみた。
「…うーん、いまいち」
 REON先生はめちゃめちゃ厳しかった。素人相手に妥協というものがない。その厳しさあってこそ、今の彼女があるのだろうなと思った。しかし。宝塚きってのダンサートップが「ロミオとジュリエット」のフィナーレで踊ったダンスをいきなり踊らされる身にもなってほしい。
「…私たち、絶対ちゃんと踊れてないよね…」
 うなだれる取材陣。そして、一緒に歌うシーン。「明日へのエネジー」を、主旋律と、娘役パートと、男役パートに分かれて歌う。これまたいきなり難しい。私は座席的に娘役パートで、シンガー音花ゆりのよく通る美声に合わせようと思っていたら…、本番、彼女はオブリガードを担当していて、目論見が外れてしまったという。
 そして、それから数時間後に行なわれた初日を観た。観客がいなくても、超満員になっていても、柚希礼音という人は変わらず自然体でこの場に立ってしまうんだなと、そのことに本当に心を打たれた。広い会場でも心がちゃんと伝わってくることにも。MCで彼女は言った。ちえちゃん時代(彼女の本名である)、自分はコンプレックスだらけだった。けれども、宝塚に、男役に出会えて、本当によかったと。日本武道館という場でそんな率直な心情を述べてしまえる彼女は、弱さに打ち克った真の強さをもっている人なのだと思った。昨年秋、東京国際フォーラムホールCで開催された、柚希礼音スペシャル・ライブ「REON!!II」のときは、客席から舞台にかかる掛け声が何だか暴走気味で、ちょっとこわかったのだけれども、いざ日本武道館という広い場所に来たら、舞台と客席との呼応もいい感じにおさまっている。これまで彼女が演じ、歌ってきた曲を取り上げるコーナーもあった。とりわけ心に響いたのは、二番手時代、「スカーレット ピンパーネル」の悪役ショーヴランを演じて歌った「君はどこに」である。…泣いた。彼女はあのころと変わらずにいたのだと思えたから。柚希礼音は今年百周年を迎えた宝塚歌劇を代表するトップスターである。通常グッズにすら販売制限がかかるほどの圧倒的人気を誇る。そんな彼女を、どこか遠い存在に感じる自分がいたのだなと思った。でも、そうではなかった。そして、彼女が今年初めに主演した「眠らない男・ナポレオン―愛と栄光の涯に―」を観て、ほとんど逆上するほど怒り、その後激しく落ち込んだ理由をはっきりと悟った。確かに彼女は圧倒的人気を博するトップスターである。けれども、だからといって決して独裁者ではない。独裁者型のトップスターならば、自分が日本武道館に立つような特別な人間であることを誇示したことだろう。けれども彼女は、星組のメンバーと、観客と、みんなで一緒にそこにたどり着いたことを何より大切にしていた。でなければ、一緒に歌ったり踊ったり、あんなにも楽しい時間を分かち合えるなどということはなかっただろう。ちなみに、初日のダンスレッスンシーンでは、ダンサー鶴美舞夕が近くに立って見本を踊っていた。…無理。これ真似するの。そして今度歌うのは男役パート。…何かと打撃を受けることの多い観劇だった。
 ペンライトが七色に分かれて光る日本武道館の客席を観ていて、…綺麗だなと思った。その光景を観られて幸せだった。それは、長年重責を背負い続けてきた彼女だからこそ可能となった光景なのだと思う。柚希礼音は来年5月、宝塚を卒業する。その日まで、そしてその日の後も、大勢の人を幸せにした分、彼女が幸せであることを心から祈っている。
 2014年11月16日をもって宝塚を退団する桜一花は小柄な娘役である。その体格と芸域の広さを生かして、子役からおばあさん役まで演じてきた。そんな中でもとりわけ印象深いのが、“小柄ながらド迫力”系の役柄である。「ファントム」のカルロッタ。「オーシャンズ11」のクィーン・ダイアナ。退団公演「エリザベート」の皇太后ゾフィーは、その集大成ともいえる役どころである。エリザベートをねちねちいじめる姑という、従来ゾフィーに抱きがちなイメージは、桜の演技には当てはまらない。それどころか、ゾフィーも気の毒だったな……と思えてくる。何もゾフィーもあれこれ口やかましく言いたくはなかっただろう。けれども、エリザベートがあまりにも至らないのである。これはその立場ならできて当然と思うから言う。しかし、その言葉を素直に受け入れることはなく、口答えだけは一人前。こちらとしては真っ当なことを言っているだけなのに、いじめられているととられても……という感じであろう。「皇后の務め」のナンバーの、「しつけが悪いわ」「親切で言うのよ」「争いたくない」の歌詞がストレートに響き、「わたしを妬んでる」とエリザベートに言われて返す「馬鹿げたこと言わないで」に、女官たちの如く「ごもっとも」と頷きたくなる。その立場にふさわしい立ち居振る舞いができない者を妬む人間などどこにいようか。かくして、変人エリザベート対常識人ゾフィーの構造が浮かび上がる。美しい者と美しくあらざる者との対立では決してない。
 思えば、「ファントム」のカルロッタもそのような演技だった。桜は決して美に見放された人間としてカルロッタを造形しなかった。カルロッタの問題は、オペラ座という美の殿堂においては美の力のみで勝負するべきなのに、金と政治の力に頼ってこれを牛耳ろうとしたところにある。だから彼女は美に復讐された。美の殿堂においては当然の帰結である。私はこの作品について、「2011年の花組での上演では、キャリエール役の壮一帆が仲間と共に劇場の“ファントム”と闘い、そして世界は姿を変えた」と記したことがあるが、この“仲間”の力強い一員が舞台人・桜一花であったことは言を俟たない。そして世界は姿を変えたのである。美の殿堂においては当然美が、美のみが支配するように。
 私自身も決して大きな方ではないので、小柄なのにド迫力な彼女の舞台に元気をもらっているところがあった。第二幕で背の高い重臣たちを従えるゾフィーの勇ましい姿など、痛快であった。それでいてしっとりとたおやかな様は女性として憧れである。全国ツアー公演「長い春の果てに」で彼女はナタリー役を演じていたが、私はこの主題歌が大好きだったので、彼女のソロでは心で一緒に歌って、……楽しかった。宝塚の娘役のプライドを賭けて造形したゾフィー役の雄姿に、盛大な拍手を送りたい。
 同時退団の春花きららは美貌の娘役である。壮一帆ディナーショー「So in Love」を観たとき、整ったかわいらしさながらクールに男前であることを知り、そのギャップを味わい深く感じた。「エリザベート」では勉強しないエリザベートをたしなめる家庭教師役、そして第二幕冒頭ではその美貌にふさわしい“中国の美女”の役どころを務めた。やはり「So in Love」に出演していた大河凛も退団である。カフェの男で聴かせた歌声に心地良いものがあり、彼女の男役をもっと観ていたかったと思う。
「君の手紙何度も読んだよ 君の愛が僕には必要 君なしの人生は耐えられない」
 第一幕の大詰め、皇帝フランツ・ヨーゼフ役の北翔海莉は、舞台中央奥に向かい、客席に背を向けて歌う。その背中は雄弁である。――そして知る。二度とめぐり会うことはないと思っていた心に、再びまみえたことに。
 愛の深いフランツである。それだけの愛があってもなおエリザベートとしっくりいかないというのはむしろ、東宝版「エリザベート」に抱く印象に近い。そして、人生を貫いたその愛のすべてを賭して、フランツは最後の勝負に出る。「夜のボート」。愛して、しかしフランツは揺れる。もしかしたら、いないのかもしれない。けれども、旅路の終わりに確かにそこに愛する人がいる、そう信じたいと――。その揺れが彼の誠意である。人は一人で生まれ、一人で死ぬ。どんなに愛し合っていても、二つの人生の行く先がぴったりと重なることは、もしかしたらないのかもしれない。そう感じつつもなおも信じること、それも愛である。北翔フランツが「最終答弁」でトートに歌う「あなたは恐れてる 彼女に愛を拒絶されるのを!」で鋭い強調をおくのが「拒絶されるのを!」であるのももっともである。拒絶されたかもしれないにせよ、自分は愛を貫いた。では、あなたは? ――と。
 現在東京宝塚劇場にて公演中の熱い熱いラテンショー「パッショネイト宝塚!」の同名主題歌で、「パッショネイト!」という歌詞の直後にドラムが重低音でドコドンと鳴り、それに合わせて星組トップスター柚希礼音が左右に身体を揺する。それがもう、これぞ柚希礼音! という感じで、非常にツボである。その歌詞とドラムと振りの三点セットを頭の中でエンドレスリピートしてしまうほど。格闘技とダンスの中間に位置するブラジルの腿法カポエイラを取り入れたダンス・シーンでは、柚希は並外れた身体能力をスパークさせる。無心に舞い、闘い、次第に呪術的にすら思えてくるその姿に、5年にわたって宝塚のため、命を削って舞台に立ってきたトップスターの心を思う。その根底には宝塚への愛があって、それが客席の宝塚への愛と響き合う。文句なしに柚希礼音の代表作である。芝居作品「The Lost Glory―美しき幻影―」で娘役トップ夢咲ねね相手に踊るタンゴ(グスタヴォ・ザジャック振付)でも、柚希は粋な男の魅力を発揮。松井るみが装置を担当した、数多のペットボトルで表現されるニューヨークの儚い摩天楼の中で、富と栄光に酔いしれる人々の心の闇を一身に背負って立つ。新境地である。
 二月に壮一帆宝塚退団の第一報を聞いた瞬間、思ったのである。私は彼女を送る文章は書けないし、書かないのだと。
 タカラジェンヌの退団に際する文章を認めてきて八年ほどになるが、一体全体、私はどうして「送る」という言葉を最初に用いたのだろう。自分でも不思議である。宝塚の人間でも、宝塚に雇われているわけでもないのに。おかしな人だなあと思われる向きもあったことだろう。
 心に嘘はつけない。壮一帆が宝塚を退団しても、私は、宝塚の、美を志す仲間だと思える多くの人々と、これまで通り共に歩んでいくつもりである。退団に際して文章を認めることにも変わりはないと思う。けれども、「送る」という言葉はもはや使えない。

 そもそもなぜ、私は「送る言葉」を書き始めたのか。それには主に二つの理由がある。その人が宝塚の舞台に立つ姿をもはや観ることはないという惜別の思いと、そして、その人が退団後旅立ってゆくであろう演劇界において、これまで宝塚の舞台でのその人を観たことのない人々に向けての、紹介の思いと。その両者の懸け橋になれればという思いが少なからずあったのだと思う。かなり前になるけれども、とあるトップスターの退団後第一作の舞台について、宝塚の元トップだからもっとチケットが売れると思っていたのに、正直見込みが外れたと言われたことがある。私はもう、胸がつぶれるような思いでその言葉を聞いていた……。観客動員の数ではなく、その人にはどんな芸が、どんな魅力があるのか、その点において判断してほしいと思った。そして、宝塚の舞台を観ていない人たちにも、私なりに精いっぱいその魅力を伝えたいと思って書いてきた。
 けれども、退団公演「一夢庵風流記 前田慶次」「My Dream TAKARAZUKA」での壮一帆を観て、反省したのである。今まで自分は、その人がもう二度と宝塚の舞台に立つことはない、そして、男役の場合はもう二度とその姿を見せることはない、その、退団によって何かが失われるという側面ばかりに焦点を当てて書いてこなかっただろうか。さみしさや悲しさばかりにとらわれて書いてこなかっただろうか――と。正直、思う。涙してばかりいないで、ある人が男役として発揮していた魅力は、その人が女優の姿になろうがその人の中に確かに残るのだということをはっきり書き記していれば、違った結果になっていたこともあったのかもしれないと。

 退団公演での壮一帆は、それほどまでに明るいのである。前向きで、未来を信じて、輝いている。
 退団作品においては、退団による別れを自然になぞらえられるよう、別れや死の物語が選ばれることが多い。だが、「一夢庵風流記 前田慶次」で壮演じる前田慶次は、死なないし、去らない。舞台を埋め尽くす雪組生全員に囲まれ、松竹より特別出演の愛馬松風の馬上で、「楽しゅうござるのう」と、それは楽しそうに言う。それが、壮一帆が宝塚人生最後に発するセリフなのだった。
 「My Dream TAKARAZUKA」の方はさすがにさよなら演出が濃厚に施されている。とりわけ、宇崎竜童&阿木燿子コンビによるメモリアルソング「伝説誕生」は、歌詞があまりに直球ど真ん中である。この歌詞を壮一帆に歌わせるのか……と、聴いていてちょっと照れる。壮の大階段での歌唱から、愛加あゆとのデュエット・ダンスに至る「ケセラ」も、さよならの代わりにありがとう……とのフレーズにちょっとやられそうになる。けれども、不思議と涙はないのである。むしろ、「伝説誕生」の一節を奏乃はるとが歌い継ぐとき、「ケセラ」の影ソロを麻樹ゆめみが歌うとき、その思いが心に押し寄せてきて、泣きそうになる。
 それは清々しい退団なのだった。宝塚でやるべきことはすべてやり終えて、かといって決して疲れ切った風ではなく、後は頼もしい雪組のみんなに任せて、飛び立ってゆく。未来への希望を胸に。宝塚を卒業しても、人生は続く。決して終わりではない。だからこそ、どこまでも明るい。さすが、退団に際してのインタビュー記事で、自分のお葬式でもどんちゃん騒ぎしてほしいと語った人だけある。

 一時期、自分は一体何のために評論を書いているのか、わからなくなったことがある。単なる宣伝のためなのか。優劣をつけるためなのか。悩んで、つらくて、宝塚の舞台で笑顔の人々を観ていてさえ心が凍りつく時期があった。
 そんな私の心を救うように差し伸べられた一つの手。それが、真飛聖と壮一帆がトップと二番手としてがっちり組んでいた頃の花組だった。私は今でも、真飛聖に心から感謝している。
 その真飛が宝塚大劇場で退団公演を行っていた頃、舞台を観ていて、……私は、そこに、自分が悩んでいるのと同じことで悩んでいる人の姿を見出したのである。「金こそが正義に勝る真実の力なんだ」と、その心とは裏腹のセリフを吐いている人。「愛のプレリュード」で壮一帆が演じた、ジョセフ・バークレーのセリフである。
 舞台をはじめとするさまざまな芸術活動が、経済活動でもあることを、私は決して否定するものではない。経済活動としての一面もなかったら、芸術家は皆飢えて死んでいるだろう。しかしながら、それが経済活動だけになってしまっていいのか。舞台にまつわることのすべてが、チケットが何枚売れた、そんな金銭的事実だけに還元されてしまったとしたら。美しい舞台を創ろうという試みも、その舞台の美しさを何とか書き表そうとする評論の試みも、すべて、金銭に還元されて評価されるのだとしたら。虚しいだけではないか。それならば、舞台芸術などに関わらずに、効率よく金を稼げる職業に従事した方がましである。
 私とて、自分が美しいと信じる舞台を一人でも多くの人に観てもらいたい。けれども、私が文章を書くのは、その舞台に何らかの美しさを認めたからであって、それ以上でも以下でもないのである。宣伝のためでも、何らかの優劣をつけるために書いているわけでもない。
 舞台人・壮一帆なら、そんな私の気持ちをわかってくれると、私にはそのときはっきりとわかったのだった。なぜなら、彼女は、舞台上の美に純粋に生きる人だったから。そして、そんな気持ちを妨げるこの世のさまざまな事柄に対して、敢然と腹を立てているとしか思えない人だったから。
 舞台と客席とで同じ想いを共有できる相手を発見して、私は本当に幸せだった。私が今日評論家として歩んでいる上ではもちろん、多くの舞台人に多くを負うているものだけれども、とりわけ壮一帆に出会わなかったら、私は、舞台人の気持ちを解さない評論家として終わっていたかもしれない。

 不思議である。そうして壮一帆と“出会って”からのこと。「百周年は壮で行く」の預言の前だったか、後だったか。部屋を整理していた私は、昔の取材ノートを見つけた。取材ノートは定期的に整理しているので、残っていること自体が珍しい。それは、2003年の秋、最初に彼女を電話取材したときのノートだった。電話取材のときは片手が電話でふさがっていてノートをめくれないので、一枚ずつの紙を片手で押さえて必死でメモを取って、後からホッチキスでまとめたものなのだが、通常のノートとは違う形態だから残っていたのだと思う。めくっていて、思い出した。それは、彼女が宝塚バウホール&日本青年館公演「送られなかった手紙」で、単独初主演を果たした際の取材ノートで、そのとき、私は確かに思ったのである。この人はこれからトップになっていく人で、私はその軌跡を今見ているのだなと。後にも先にも、そんなことを思ったのは初めてだった。
 ノートを読み返すと、「相手がどう来ようとすべてを受け止められる懐の大きい男役になりたい」「(2004年の)90周年まで残っているとは夢にも思わなかった」「何も準備しないで宝塚を受験してしまったので、周りの人以上に闘ってきた」等のフレーズが見受けられて、今となっては非常に感慨深い。ちなみに、「送られなかった手紙」は、私の大好きな「プロヴァンスの碧い空」を創った太田哲則の作品で、私は期待と共に観に行き、若手に随分と難しい芝居をやらせるんだなとびっくりしたものである。それこそが深い愛なのだと、今となっては思うけれども。そして、私は彼女のことをそれから長らく、あまりに整っているので自分とは縁のない二枚目だと思っていたのである。

 私は壮一帆が幸せに舞台に立っている姿を観るのが好きである。そんな姿を観ると、自分も幸せになって、心がカーンとどこかへ突き抜けて、ときにとんでもない美を発見するからである。そうして発見した美を書いているときもまた幸せである。美しいものはどこまでも観足りないし、書き足りない。今こうして書いていてもそう思う。美に関しては貪欲である。
 けれども、壮が雪組のトップスターになって、私は、幸せとは決して、彼女一人がいい衣装を着ていい役を演じているところにはないと、改めて心に深く思ったのだった。舞台に出ているみんなが幸せになっていて、その中に壮がいて、幸せに舞台に立っている。それが一番の幸せなのである。そのことを教えてくれた、壮のトップ時代に雪組に在籍していた全員、専科や外部から出演していたすべての人々に、壮と共に舞台を幸せに務めて見せてくれたことに対して、心からの感謝を捧げるものである。そして、これからも、舞台人・壮一帆が舞台に立ったとき、その幸せがどこまでも広がってゆくことを期待してやまない。
 客席に座っていると、舞台上に立っているのとは当然違うものが見える。だから、お節介にもあれこれ言いたくなったりする。けれども、私は、壮一帆の舞台を観ていて、彼女がその心を自由に羽ばたかせて演じているのを観るのが一番の幸せであって、私が口出しすべきことは何もないと思うようになった。私はその舞台を観て、その美を書きとめるだけでいい。私が何か言うべきことがあるとしたら、それは、彼女が彼女らしくない舞台を見せたときだけである。そうして相手のありのままを受け止めることこそ愛なのだと、彼女の舞台に教えられたという思いでいっぱいである。
 昨年二月、中日劇場でトッププレお披露目公演が始まったとき、何となく思った。彼女は退団しても美に生き続けたい人なのだと。だから私は、宝塚以外で彼女が美を追求できる場所をできるだけ多く見つけたいと、これまで以上に真剣になった。そして今、思う。そのような場所は多くある。仲間も多くいる。大丈夫! と。一つだけ餞の言葉があるとすれば、「女を演じなくていいから!」ということである。私は先に、「オーランドー」についての文章の中で、退団について、男性から女性への転生の瞬間であると書いたけれども、なあに、オーランドーだって、男性の服の方が楽だなとか、服装が変わっただけで扱いも変わってくるものだなとか、実にあっさりしたものである。ただ、男性と女性、両方知っているという強みがオーランドーの武器である。壮一帆は、壮一帆として、今でも一人の美しい女性である。だから、そのままでいい。女性の所作といったものは、芸の人である以上、また会得していくものだと思うから。
 そして、壮が退団した後の雪組も大丈夫である。公演が終わって、自分も全部書き切ってしまったら、自分としてもあまりにも楽しみが一度になくなってしまうので、雪組の頼もしい仲間たちについては、これからゆっくり、楽しみに書いていきたいと思う。壮一帆の舞台についても、技術論を含め、書き残したことが多くあるので、そちらについても楽しみに書いていきたい。そうして書くことが、宝塚の何がしかの財産ともなると願いつつ。

 今、私は、一人の人間として、一人の人間とその人の舞台とを愛しているのだと、心から言える。
 宝塚歌劇が創立100周年を迎えた2014年、壮月最後の日に。
 壮一帆、いざ、大海原へ!!