大ヒット韓国ドラマのミュージカル版の来日公演。ドラマは未見でほとんど予備知識がない状態で観劇したが、スリリングな展開、主人公カップルの恋の行方にドキドキハラハラ、多くの人々がこの物語に魅せられた理由がよくわかるな……と。韓国の財閥令嬢が北朝鮮に不時着し、北朝鮮軍軍人と出会って恋に落ちる。二つに引き裂かれた国がどうにかならないと二人の恋もまたどうにかならないわけで、国が引き裂かれている状態にあるとはいかなることなのか、改めて考えるきっかけとなった。北朝鮮から韓国にやってきた人々の眼差しを通じて消費社会批判がなされるところも興味深い。歌唱力の高い若手中心のキャストがエネルギーを発揮する舞台で、客席にはドラマのファンが多い印象。カーテンコールも盛り上がり、韓国キャストと日本の観客とでこの物語を分かち合う機会があったことをうれしく思った。

(7月9日13時の部、新国立劇場中劇場)
 18時半の部観劇(シアターオーブ)。ジョナサン・ラーソンの魂を近くに感じた。
 公式ホームページ、公演プログラムなどいろいろ書いていますが、後日またご紹介します。今宵はこれにて。
 2月にTBSラジオ「エンタメ満載! ここだけの話」に出演してお話しさせていただいた『シカゴ』来日公演の初日を観劇(18時半、シアターオーブ)。『シカゴ』大好きあひるも大満足のプロダクション、客席も大いに盛り上がっていました。マシュー・モリソンの弁護士ビリー・フリン役で、作品に新たな気づきあり。初日レポート書きましたので、掲載されたらご紹介します。
 14時の部観劇(IMM THEATER)。ミュージカル『RENT』のマーク・コーエン役のオリジナル・キャストとして知られるアンソニー・ラップの自伝を舞台化した、ラップ自身によるワンマン・ミュージカル。『RENT』創作過程及び上演中に彼が経験した二つの死――『RENT』の原作・作詞・作曲・脚本を手がけたジョナサン・ラーソンの死と、ラップ自身の母の死――が、『RENT』の楽曲&オリジナル曲によって綴られ、ラップから見た『RENT』という作品の本質が浮き彫りになっていく構成と語り口が見事。自分自身、祖母や父の死をいかに乗り越えたか考えながら観ていて、……この世に生まれ、生きることそのものが祝福なのだと感じた。『RENT』と言えば、昨年、ロジャー・デイヴィス役のオリジナル・キャストであるアダム・パスカルが有楽町の劇場「I'M A SHOW」で『RENT』の曲も含まれたアコースティックライブを行なっていて(http://daisy.stablo.jp/article/500691010.html?1709727706)、こちらの公演は後楽園の劇場「IMM THEATER」、劇場名が若干ごっちゃになりそうでしたが(明石家さんまが座右の銘『(I)生きてるだけで(M)まる(M)もうけ』から命名した劇場とのこと)、アンソニー・ラップとアダム・パスカル、この二人だったから『RENT』のマークとロジャーのあの関係性になったんだろうな……と感じたり。冒頭の「♪Five hundred twenty five thousand six hundred minutes」という『RENT』の「Seasons of Love」の歌い出しからうるっと来て、この曲の歌詞の通り、愛を人生におけるもっとも大切な「measure」として生きていきたい……と改めて。
 1月30日17時&31日12時視聴。

 大千秋楽の31日のカーテンコールで、エリザベートを演じた花總まりが、「皆様に支えられて、『エリザベート』の旅を終えることができました」「私のエリザベート、さよなら、ありがとう」と挨拶して、……花總まりのエリザベートと、観客としての私の旅も終わりだな……と思って、でも、それを書きたくなくて、11カ月が経ちました(苦笑)。
 会社員時代に、彼女が演じるエリザベートを観たとき、……今にして思えば、「You’re not living. You’re dying」と言われたような思いがしたのだと思う。それから、円形脱毛症にもなって、……やっぱり舞台人を取材する仕事がしたい……と思って会社を辞めるまでは少しあったけれども。
 最後の日のエリザベートの演技に、花總まりは、1996年の宝塚雪組における初演の際にこの役を演じることになった、その際に背負った重いものを解き放っていくかのようだった。あどけなさいっぱいの少女時代。ふてぶてしささえ感じさせた一幕ラスト。華奢な身体のどこにそんなエネルギーがあるんだろう……と思わせる生命力。剣幸演じるゾフィーとの会話のあまりのかみ合わなさに、笑った。お互い、まったく話が通じていない。そんなゾフィーによってフランツ・ヨーゼフがすばらしく自分を押し殺している様を田代万里生が巧みに表現――彼が何かしようとしてもすべてゾフィーに先取りされている。そして、花總エリザベートに出逢って、<死>としてのレゾン・デートルが崩壊する古川雄大のトート――彼が演技していてときに見せるわけのわからなさが私は好きである。田代フランツが「悪夢」のナンバーで、本当に最後のギリギリのところまで古川トートと対峙するのもいい。

 花總まりとダブルキャストでエリザベートを演じた愛希れいかだが、2019年の製作発表で「『エリザベート』を漢字一文字で表すと」と聞かれ、「欲」と答えて人々をちょっとびっくりさせたことを思い出す演技だった。人間の嫌なところにすっと踏み込んで表現できる人である。……確かに嫌な女だよな……と思う。自分の美しさが人に影響を与えられると思っているところであるとか、ヴィンディッシュ嬢に「♪あなたの方が自由」と歌いかけるところであるとか。けれども、愛希がすっと表現すると、その嫌なところが逆に愛らしさのようにも見えてくる。
 花總まりは1991年から2006年まで、愛希れいかは2009年から2018年まで宝塚に在団していて、それだけ年次が違うと宝塚の娘役像も変わってきている。エリザベートをダブルキャストで演じるうち、花總まりは自分より年次が下の娘役はどんな感じであるのか愛希れいかの演技から吸収し、愛希れいかの方も花總まりの芸を吸収した感があったのがおもしろかった。
 博多座のみの登場となったトート役井上芳雄の絶好調ぶりが光った。ルドルフ(立石俊樹)とのデュエット「闇が広がる」で、かつて自分が演じたルドルフを惜しみなく注ぎ込んでいく様がすごかった。エリザベートと結ばれたけれども、その必然として死なれてしまった孤独を感じさせる冒頭から、獲物を狙う猛禽類の如くさんざん計画を練って追いつめいたぶり、結果彼女の命を手に入れて、でもやっぱり手に入らなかった……なラストまでの、役作りの一貫性、そのゆるぎなさ。「最後通告」の最後でろうそくの炎を手で消すときの、……いつかお前の命もこうやって消えるんだぞ、俺の手で……とでも言いたげな様子の冷やかさ。「悪夢」で佐藤隆紀のフランツ・ヨーゼフを追いつめる迫力。ゾフィーを演じる涼風真世の歌声の強さ、凄み、嫣然とした美しさも心に残った。
 9月25日12時45分の部&29日12時45分の部観劇(日生劇場)。1996年初演ミュージカルの日本初演。時は20世紀初頭。貧しいユダヤ系移民ターテ(石丸幹二)、新進気鋭の黒人ピアニストのコールハウス・ウォーカー・Jr.(井上芳雄)、裕福な白人女性マザー(安蘭けい)、三者に象徴されるコミュニティが交じり合って織り成す歴史の流れが、時代の音楽や風俗と共に描かれていく――お騒がせ女優イヴリン・ネスビット(綺咲愛里)や“脱出王”として知られる奇術師ハリー・フーディーニ(舘形比呂一)といった実在のキャラクターの存在がアクセントとして効いている。マザーの息子リトルボーイがどうやら何やら見えちゃう子というのもおもしろい。
 人種差別に遭い、最愛の妻サラ(遥海)を失って復讐の鬼と化すコールハウス。演じる井上芳雄の内なる炎が周囲の人々に点火していく様を、半ば呆然として観ていた――一幕でコールハウスとサラが歌うデュエット「The Wheels of a Dream」が輝かしい未来への希望に満ちたものであるからこそ、その後の展開が哀しい。そんな井上コールハウスの炎を受け取って、コールハウスの暴力行為を止めようとする実在の教育者・作家ブッカー・T・ワシントン役のEXILE NESMITHが琴線にふれる歌唱を聴かせた。ターテとマザーは、最初の出逢いあたりではもう二度と交わることはないのでは……と思わせるのだが、やがてターテは映画監督として成功し、夫を亡くしたマザーと結ばれる。井上コールハウスがその炎をもって燃え上がらせた物語を、石丸ターテ(その演技には詩情があふれていた)がそっときちんと受け取って迎える終幕が美しい。人と人との関わりの不思議を感じさせる作品である――生きてみなければ、人生のその先、どうなっていくかわからない。安蘭けいの宝塚退団作『My Dear New Orleans−愛する我が街−』(2009)がちょっと雰囲気の似た作品だったことを思い出した。そして、彼女の舞台を客席で観ているときの幸せな時間の記憶が自分の中に残っているのをかみしめていた。
 「客層、何だか変わったよね〜」という野球のシーンがあり、その試合が「ニューヨーク・ジャイアンツ対ボストン・ブレーブス」で、家に帰って大リーグのチーム名の変遷について勉強。
 父親が暴力をふるっている家で姉ジェンは弟ジョンを守るようにして生きているが、大学進学で家を離れて自由な人生を知る。残されたジョンは同時多発テロをきっかけに兵士となることを決意し、戦地で死ぬ(第一幕)。ジェンは息子に弟と同じジョンの名をつけシングル・マザーとして育てるが(弟ジョンと息子ジョンは同じ役者が演じる)、弟を失った悲しみが彼女の子育てを多分にoverprotectiveなものにしていて……(第二幕)。取材のためこの作品の台本を読んだとき、……厳しいところを突かれているというか、女にゃつらい話だ……と思ったのである。しかし。田代万里生の息子ジョンの演技を観ていると、最終的に母ジェンと厳しくもしっかり向き合う青年として描き出していて、それも、悩みながらもジェンがきちんと育てたからであるという風になっていて、観ていて清々しかった。あの、何でもどんと来い! の包容力たるや。短パン姿での悪ガキ演技も大変かわいらしく。市川洋二郎が演出・翻訳・訳詞・ムーブメントを担当、ラストに非常に解放感があった。
 8月17日18時の部観劇(帝国劇場)。
 6月30日に新国立劇場オペラハウスで『ラ・ボエーム』を観たときのこと。詩人ロドルフォとお針子ミミの出逢いのシーンで、思った。恋に落ちたから詩が生まれたのか、詩が生まれたから恋に落ちたのか……。
 そして、『ムーラン・ルージュ! ザ・ミュージカル』観劇2回目、そのラスト。主人公の作曲家クリスチャン(『椿姫』のアルフレードと『ラ・ボエーム』のロドルフォを混ぜ合わせたような設定)を演じる井上芳雄を観ていて、思ったのである。純情芸術家が激しい恋を知り、狂おしい思いに身を焦がし、けれども相手は命を失い、――その結果、この物語が生まれた。そうして物語が生まれたことを、ラストにおけるクリスチャンは知っている。だから、次に恋するならば、恋の結果として物語、作品が生まれたことを知っている状態で恋するのだな……と。
 絶対もっとおもしろくなると思うので、とりわけ第二幕を中心にストーリーのブラッシュアップを望みます!
 3月22日14時の部観劇(日生劇場)。黒船来航時期の日本を舞台に描く1976年初演のブロードウェイ・ミュージカル(作詞・作曲:スティーヴン・ソンドハイム、脚本:ジョン・ハイドマン)を、イギリスのマシュー・ホワイトの演出で。フィクションが混ざりつつも日本の歴史としてはまあだいたいそんなところなのだけれども、それは海外の人の目にはどう映っているのかなというところをせっかくなのでもっといろいろ知りたかったなという思い。「日本人ってこういうところありますよね」でも、「イギリスにもこういうことがあって」でも、本当に何でもいいのです、そこに、“黒船来航”にも象徴される異文化との出逢いのおもしろさが生まれてくると思うので。狂言回しを演じた山本耕史は客席を含む各方向にあれこれ鋭くツッコミを入れることのできる役者なので、もったいないなという気持ちもあり。香山弥左衛門役の海宝直人の歌唱に魅力。名曲「木の上で」のハーモニーも聴き応えあり。この日はスティーヴン・ソンドハイムの誕生日ということで、その音楽性を分析したアフタートークがとても興味深く、ソンドハイム作曲の『スウィーニー・トッド』の「Johanna」(フィギュアスケーター壷井達也が昨シーズンのエキシビションで滑っていましたね)と『リトル・ナイト・ミュージック』の「Every Day a Little Death」(一時期愛唱歌だった)を口ずさみながら帰路に就き。