とても美しいヴィジョンを観た!!! そして、いまだかつてないセクシーな魅力。
 何だか、不思議なくらい、年末考えて書き記していたことと重なるところの多い作品でした。公演は明日から東京芸術劇場プレイハウスにて〜。
2019-01-04 22:13 この記事だけ表示
 子供のころから、原作小説『メアリー・ポピンズ』が大好きだった。小学生のころ、彼女のように空を飛びたくて、風が吹くと飛んでいこうとして傘を広げて、…それでよく傘を壊して、母に怒られた。
 昨年、舞台のヴィジュアル撮影日に、取材があった。スタジオを訪れると、濱田さんがメリーの扮装をして、撮影している。…メリー・ポピンズがいる! と思った。そしてその取材で、改めて考えさせられた。メリー・ポピンズは、いったい何者なんだろう? と。魔法使い? 宇宙人? ミュージカル『メリー・ポピンズ』は、2004年に開幕してすぐ、ロンドン・ウエストエンドで観ている。そのときはあまりあれこれ考えずに、楽しい舞台だなあと思っていたのだけれども。
 そして、日本版の観劇(3月26日18時の部、シアターオーブ)。メリー・ポピンズ=濱田めぐみ、バート=柿澤勇人。
 原作が大好きだったから、私は、子供のころにジュリー・アンドリュースが主演した映画版を観て、ちょっとメリーの愛想がよすぎると思ったくらいだった。濱田メリーは、原作と映画版の中間くらいの不機嫌さに感じられて、いい塩梅。そして、もう、メリー・ポピンズそのものにしか見えなかった。「濱田めぐみ」が消えていた。それこそ、魔法のような。
 …最後、どうして、メリー・ポピンズは去っていってしまうのかな、と思った。バンクス一家がうまく行くようになったら、いなくなってしまう。さみしい! 彼女自身はさみしくないんだろうか。みんなとずっと一緒にいたいと思わないんだろうか。
 何だか、その姿が、自分の仕事とも重なって。
 どこまで書くとおかんになってしまうのか、その辺のさじ加減が難しいなあと、いつも思う。書いた方がいい場合と、書かない方がいい場合と…。いい感じの関わり方。距離感。悩むところ。
 柿澤勇人も非常によかった――彼は、昨年上演された彩の国シェイクスピア・シリーズ『アテネのタイモン』のアルシバイアディーズ役もすばらしく、彼岸に誇らしく思った。今回の舞台では、バンクス家の子供たちを温かく包み込み、見守るバート。舞台を観ていて、自分もすっかり子供に戻っているから、「メリーがいなくなっちゃったの」と、子役たちと一緒になってバートに訴えかけたいくらい。そして、心から熱い炎を発して、柿澤バートは歌い踊った。楽しかった! 一緒にそんな時間を過ごせたことを、本当に幸せに思った。
2018-12-30 00:50 この記事だけ表示
 …では、蜷川幸雄と私の間にあった感情がどのようなものであったか、はっきりと説明するのは難しい。師弟愛もあった。私の方では父に対するような愛を感じていたし、母のような愛への希求を感じたこともあった。シェイクスピア作品における王と道化のような関係にまでなれていたかどうかは、私の方にどこまで“道化”としての才能があったかによるけれども…。今年、「お二人は、僕の目にはこう映っていましたよ!」と、本当に素敵な、おしゃれな形で伝えてくださった方がいて、…そんな風に見えていたんだとしたら、うれしいな…と、ぐっと来るものがあったけれども。
 いずれにせよ、私は、彼が亡くなってからしばらく、自分の胸の中にぽっかりと空いた穴をぼんやり見つめていて、ある日、悟ったのである。…ああ、これは、失恋したときと同じ感覚だな…と。「それは恋」だと――「それは恋」は、蜷川幸雄がかつて演出した『近松心中物語』で流れた、森進一の歌う主題歌である(戯曲も歌詞も秋元松代の手による)。恋と言っても無論、「芸術上の恋」である。そして、通常「恋」という言葉から想像するような、甘い雰囲気というものは一切なかった。激しく切り結び合って、隙あらば斬る、そんな、凄絶な魂の闘いだった。そのときのことを思い出すと、…今の自分は自分に甘すぎるだろうか…と反省するときがある。もっと自分に厳しくあらねばならないのではないか、と。
 そして私は、昨年秋、『欲望という名の電車』に出演する大竹しのぶさんの取材に行った。
 …ああ、この人の胸にも、同じ穴が開いているんだな…と思った。「手を取って一緒に泣きたかった」と書いたのは、そういう思いからである。

 さて、取材をしているとき、私の胸にはもう一つの思いもあった。…自分、何やっているんだろうな…という思い。
 好きなミュージカルの曲は多い。けれども、その中で、『リトル・ナイト・ミュージック』の「センド・イン・ザ・クラウンズ」(道化!)と、『グレイ・ガーデンズ』の「アナザー・ウィンター・イン・ザ・サマー・タウン」が、とりわけ好きである。…どちらも、女性が年齢を重ねることを歌ったナンバーなのだけれども、「センド・イン・ザ・クラウンズ」が「…歳をとったことよ…」としみじみするのに対し、「アナザー・ウィンター・イン・ザ・サマー・タウン」は「…私ってば、いつの間にか歳をとっちゃってたんだ!…」と、自分で自分に驚く感じというか。
 『リトル・ナイト・ミュージック』に関しては、1973年のブロードウェイ初演のCDを一時期毎日繰り返し聴いていて、その中で「センド・イン・ザ・クラウンズ」を歌うグリニス・ジョーンズは少々声が老いすぎているようにも感じて、ロンドンのウエストエンドにあったミュージカル専門店「ドレス・サークル」の店員のおじさまに「他にいいのないですかね」と相談したら、「老いた女の歌なんだからあれでいいの!」とちょっとガミガミ言いつつ他の人のCDを出してきてくれたことも。ちなみに、2009年のブロードウェイ再演も観たけれども、キャサリン・ゼタ=ジョーンズが、まったく気持ちは盛り上がっていないのに、この曲を歌う瞬間になったら突如として涙だけ流し始める、その芸当に、本当にびっくりした…。
 『グレイ・ガーデンズ』については2006年のブロードウェイ初演を観て大好きになり、これまたCDを一時期毎日繰り返して聴いていたけれども、「♪私の季節はだいぶ前に終わってしまった/なのに、誰もパーティのテントをしまいに来なかった」と歌う「アナザー・ウィンター・イン・ザ・サマー・タウン」の歌詞は、今かみしめると『欲望という名の電車』に何だかとても重なるような…。ちなみに、『グレイ・ガーデンズ』で主人公イーディス・ブービエ・ビールを演じたクリスティーン・エバーソールは、この演技で2007年度のトニー賞ミュージカル部門主演女優賞を受賞するのだけれども、その際、…ハリウッドではもう歳が行き過ぎていると言われた私が、今こうしてブロードウェイで賞を受けるなんて! …という、女性が年齢を重ねることについてあれこれ言われることに対するある種の告発のようなスピーチを、実に美しい澄み切った声でしていて、それは凄みがあったことだった。
 30代の私は、この二つの曲を繰り返し聞いていて、「…いつか、自分が歳をとったなと思ったとき、この二つの曲を歌いこなせる女優が日本に現れて、その歌を聴いてしみじみしたいな…」と思っていたのだった。同世代で、そういう女優になれそうな人がいたらいいな…と思っていた。それで何だかあれこれ必死になっていた部分も大いにあったのだった。
 …いるじゃん! 目の前に! 『グレイ・ガーデンズ』もやって、今度『リトル・ナイト・ミュージック』をやろうとしている人が。
 大竹しのぶ!
 私とは15歳違いである。私が10歳のとき、相手は25歳。子供にとっては、…大人! という感じである。それが、年齢を重ねていくにつれて、年齢差、その体感は、薄れたり、揺らいだりしていくものであるということに、年齢を重ねたからこそ気づいた。その人の中で年月がどう重なっているかが重要なのである。だから、年上でも若いな、幼いなと感じる人もいれば、年下でも立派な大人だなと感じる人もいる。年齢は本当に一つの数的メルクマールに過ぎない。そして、45歳(取材当時)になった私からすれば、大竹しのぶは、いい意味で年月を重ねていて、でも、いい意味で本当に若々しくて、…あちらから見ればずうずうしく映るかもしれないけれども、もう、同世代ってことでいい! と。
 彼女の『グレイ・ガーデンズ』は、残念ながら観られなかった――実家の愛犬は死ぬわ、厳寒のニューヨークに出張はするわ、帰ってきたら仕事が大変なことになっているわ、そんな2009年12月だった――。『リトル・ナイト・ミュージック』こそは!

 『リトル・ナイト・ミュージック』は、イングマール・ベルイマンの映画『夏の夜は三たび微笑む』をミュージカル化したものである。ヒロイン・デジレは、娘フレデリカを母に預けて旅回りの役者稼業をしている。母はかつて貴族の囲われ者で、デジレの生き方についていろいろ思うところがある。デジレは今はカールマグナス・マルコムという軍人の愛人であり、彼の妻シャーロットもその関係に気づいている。一方、成功した弁護士フレデリック・エガーマンには、息子ヘンリックよりも年下の18歳の幼な妻アンがいるが、結婚から一年近く経とうというのにアンはフレデリックとの同衾を拒み続けており、ヘンリックもまた深く悩める若者である。ある夜、フレデリックはデジレの公演を観に行き、かつて恋仲だった二人は再び愛を交わす。フレデリックとアンの夫婦仲がうまく行っていないことを知ったデジレは一計をめぐらし、週末、母の館へと皆を招待する。作詞・作曲はスティーヴン・ソンドハイム。ときにチャイコフスキーをも思わせる優美なワルツは、空の彼方へ、ふわっと、聴く者の心をいざなうように響く。音楽もセリフも実にウィットに富んだ中に、一つのテーマとして“欲望”――デジレ!――がある。女中のペトラに誘惑されたり、青春真っ盛りのヘンリックは最終的にアンと駆け落ちするし、一度はデジレの求婚を拒むフレデリックも、やはり自分の心の中にある愛を認め、デジレと結ばれる。拒まれた際にデジレが一人歌い、そして、結ばれたデジレとフレデリックがラストで二人、今度はリプライズで歌うのが、「センド・イン・ザ・クラウンズ」。
 …迷うことなくデジレでしょう!!!
 舞台冒頭からそう思ってしまったあひるであった。なんであんなにチャーミングなのか…。確かにデジレの生き方は、彼女の母が懐疑的に思うように、人生設計がきちんとできている、何らかの打算や計算ができているものではないかもしれない。未婚の母で、今は女優としても少々行きづまっていて、愛人もかっこいいにはいいけど頭が何だか空っぽぽいし…。でも、終始、生き生きしている。生を謳歌している! 立ち止まっても、傷ついても、生を謳歌することをやめない。その都度その都度、命の炎を燃やしている。だから、心ひかれる。
 「センド・イン・ザ・クラウンズ」。
 涙涙涙。
 そして、ラストのリプライズ。
 …えっ?! そっちの役?!
 いつの間にか、何だかものすごい見えない圧により、風間杜夫演じるフレデリックに自らを重ね合わさざるを得ないあひるであった。…私にとって、大竹しのぶを受け止めるということは、そういうことなのである。男の側に立つ。この後、秋に観た『ピアフ』でもそうだった。宝塚歌劇における男役/娘役の関係性を、舞台と客席とで行なう感じというか。しかし。あひるはかつて、「男役になりたかった」と書いて、笑いを誘った人間である。男役、娘役で言うなら、どう考えても娘役向き。なのだが、大竹しのぶはいつでも絶対に「女」で向かってくる。…すごいと思う。しかたない。いつか来るマブダチの日のためにも、自分の中の「男」を強固に磨いておかねばなるまい…と決意するあひる。
 それにしても。あんなに何度も繰り返し聴いていた「センド・イン・ザ・クラウンズ」を、フレデリックの立場でしみじみ聴くことになるとは、まったくもって思わなかった…。そして、そうして聴いていて、幸せだった。生きてみなきゃ、わからない。人生って本当におもしろい。ちなみに。リプライズの方の歌詞では、「リア王」への言及があるのだった。

 ヘンリック役のウエンツ瑛士が、思春期特有の青年のもやもやをナイーヴに表現していて◎。カールマグナス役の栗原英雄も、軍人ならではのぴんと一本筋の通った立ち姿に軍服がよく似合う。“欲望”がテーマのこの作品においてキーパーソンである女中のペトラ役の瀬戸カトリーヌ(このときは「瀬戸たかの」)も、「粉屋の息子」の歌唱において存在感を示していた。それにしても。あの三拍子(の曲だけではないけれども)に日本語を乗せて歌うのは難しい! スタッフ・キャストに拍手。

(4月23日13時半の部、日生劇場)
2018-12-29 18:56 この記事だけ表示
 12月10日19時、東京オペラシティコンサートホール。
 第1部。オープニングの『オペラ座の怪人』の「マスカレード」に続き、「ザ・ファントム・オブ・ジ・オペラ」(デュエット相手はオペラ歌手の林正子)の前奏が流れ始める。そして登場した岡幸二郎の第一声で、…なぜだか、涙がすぐさまあふれ出すのだった。仮面をつけているわけではないのに、つけているようにしか見えない、そのたたずまい。知られたいのか知られたくないのか、怪人の、その内奥。…殺される!、 そう思った――歌声に…殺される! と思ったのは、「エリザベート TAKARAZUKA20周年 スペシャル・ガラ・コンサート」で、一路真輝のトートが歌った「最後のダンス」を聴いて以来かもしれない――。まるで金縛りに遭ったように、ぶるぶる震えながら、涙を流し続けていた。アンドリュー・ロイド=ウェバー版『オペラ座の怪人』にせよ、モーリー・イェストン作曲の『ファントム』にせよ、劇場に棲まう怪人の物語には、芸術における忘我、エクスタシーの瞬間が如実に捉えられ、表されている。続く「ミュージック・オブ・ザ・ナイト」。――そのとき、その場に、岡ファントムと自分と、二人しかいないような、そんな感覚に囚われた――。
 岡のトニー、島田歌穂のマリアで聴く『ウエスト・サイド物語』の「トゥナイト」。――コンサートだから、舞台装置はない。けれども、歌声を聴いていると、星がぱああっと夜空一面にきらめく、恋に心躍る瞬間があるのだった。『オペラ座の怪人』にしても、『ウエスト・サイド物語』にしても、…こういう曲だったのだ…と、改めての発見が多い。
 第2部。『ミス・サイゴン』から「命をあげよう」、そして「ブイ・ドイ」。岡は、「命をあげよう」で、母になる。そして、「ブイ・ドイ」では、父になる。母なる愛と、父なる愛とが、岡幸二郎という一人の人間の中に在る――その目まぐるしい変化に、聴いているこちらも心忙しく(笑)ついて行かなくてはならない。「命をあげよう」を聴きながら、私は、神に、自分の無力さについて祈っていた――力がまだまだ足りないために、自分が幸せを願うすべての人々に幸せをもたらすに至ってはいません…と。
 そこから『レ・ミゼラブル』の楽曲へと続いて行って、アンコールは「ワン・デイ・モア」。キャスト全員での力強い歌唱に、またもや、…自分でもすぐには理由のわからない涙がとめどなくあふれ出す。――それぞれの想いを抱える人々。その想いの交錯で、この世界は成り立っている。そんな世界の中で、人は生きる。一日、一日を生きる。今日も生きた。明日はわからない。でも、きっとまた生きる。死が訪れる、その日まで――。
 竹本泰蔵指揮の東京フィルハーモニー交響楽団のサウンドとあいまって、いい意味で、実に破壊力の高いコンサートである――ナンバー一つ一つが、宝石箱の中できらきらと輝く宝石のようである。そして、ゲストの楽曲を含め、構成が巧みに練られている。例えば、林正子によるオペラ『蝶々夫人』の「ある晴れた日に」に続き、『蝶々夫人』を基にした『ミス・サイゴン』の「命をあげよう」が流れ、「ブイ・ドイ」から『レ・ミゼラブル』の「ブリング・ヒム・ホーム」への流れは、父なる愛でスムーズにつながっていく。ピアノ・アレンジが美しい『キャッツ』の「メモリー」と、一世を風靡した『レ・ミゼラブル』の「オン・マイ・オウン」とで、まったく異なる表情を見せる島田歌穂。石井一孝が直球勝負で聴かせる「ブリング・ヒム・ホーム」。マイクをもってのミュージカル・ナンバーとオペラ・アリアの両方を歌った林正子は、「ワン・デイ・モア」ではなんとテナルディエ夫人パートに挑戦。そして、あんなにおもしろい人だったとは! 彼女だけではない、全員からおもしろさを引き出す岡のホストぶり。歌に泣き、トークではいっぱい笑って…。
 先月上旬に取材させていただいた際(https://spice.eplus.jp/articles/216950)、私は途中で岡さんに、「泣いていいですか」と聞いたのだった――心打たれる瞬間があったから。結局、泣きはしなかったけれども、でも、そのとき泣きたかった気持ちが、この夜の彼の歌声によって、昇華されて、天へと立ち昇ってゆくようで…。そして取材の際、岡さんと私は、…この年齢まで生きたら、もう絶対、これから先の時間を無駄にしたくないですよね…という話で盛り上がっていたのだった。歌の力。ミュージカルの力。ミュージカルだからこそ可能となる美。これから先、ぜひ一緒に闘わせてください!
2018-12-13 23:55 この記事だけ表示
 11月7日18時半の部、シアターオーブ(結末にふれます)。
 …正直、一幕は、ちょっと舞台が重いかな…と。スーパー歌舞伎U『ワンピース』、主人公ルフィを助けるカマバッカ王国のエンポリオ・イワンコフ役でのプリティーな怪演で天下に名を轟かせた浅野和之が、執事ベイツ役で実に細やかにボケ倒しているのだけれども、いまいち拾ってもらえていないような…。
 休憩後。二幕から出番となるマッジ役朝海ひかるが舞台に登場し、ぱあっと両手を広げた瞬間、…大輪の花があざやかに咲いたようだった。そして、相手のセリフにピシャッと返す、その間がとてもいい。ボケもツッコミもキュート。舞台がテンポよく弾みだした。そうなってくると、携帯もインターネットもない1930年代が舞台の、多分に古風なラブ・コメディ、その物語の行方に俄然ドキドキし始める。なんせ、主人公の舞台スター、ジェリー(坂本昌行)とヒロイン・デイル(多部未華子)は、互いの名前さえ知らずに恋に落ちるのだから。そして、デイルがジェリーをマッジの夫ホレス(益岡徹)だと勘違いしてしまったことから、恋は大混戦状態。…いったいどうしてマッジは、自分の夫が目の前で私を口説いていても平気なの〜??? と困惑するも、どんどん彼の魅力にはまっていくデイル(を観ているのが、すべてをわかっている観客としては大いに笑いどころなわけである)。ジェリーの方では普通に独身同士で惹かれ合っていると思っているから、ガンガン口説きにかかる。歌も踊りも◎、坂本ジェリーが実にロマンティックである。しかし、このまま既婚者に恋をしていたってどうしようもない〜とあせるデイルは、自分に思いを寄せるキザなイタリア男と勢い余って結婚してしまう。この恋、どうなる?
 実は。ベイツは主人であるホレスに命じられ、さまざまな変装をしてデイルを見張っていた。ウェイター、シェフ、“年老いたものの魅力はまだ失ってはいない”未亡人(ベイツ本人談)、ゴンドラ漕ぎ。そして牧師に化け、デイルとイタリア男との結婚を取り行なっていたのだった。無資格牧師による挙式、よって、婚姻は無効〜。なぜ若い二人の恋を助けたのかと尋ねられ、浅野ベイツは、胸に手をおいてしみじみ答えるのだった。「愛です」と。心を寄せ合う二人には、手助けが必要だと思ったと。…落涙。酸いも甘いも嚙み分けた大人の男性が見せる、深い思いやり。自分より人を、大勢を思うことのできる優しさに、最近心打たれがち。なんてダンディ! そしてセクシー。急な代役登板となった『You Are The Top 今宵の君』で初めて舞台姿を観て以来、浅野和之は私にとってセクシーな人なのである。『ワンピース』のイワンコフも、性差を超えてセクシー。今回は、未亡人の扮装をして、スカートを少しまくり上げて美脚を披露する、そのチラリズムがセクシー。
 相手の欠点を次から次へと並べ立て、「それ以外は大好きなんだけどね」と、息の合った夫婦ならではの掛け合いソングを益岡ホレスと歌う朝海マッジも、堂々たる大人の女性の貫録美である。アンサンブルにも踊れるダンサーが揃い、見応えのあるダンス・ミュージカルとなっているところ、名ダンサー朝海ひかるがちょびっとしか踊らないのはもったいないけれども、ところどころで軽やかなステップを踏んでいて眼福。大人たちが手助けする、若者の恋。『TOP HAT』はそんな粋な話でもあるのだった。
2018-11-08 23:01 この記事だけ表示
 レズビアンをカミングアウトしている娘が、そのカミングアウト数か月後に自殺とおぼしき形で命を絶ったそのゲイの父親との日々を振り返る。日本ではミュージカルの題材としてはあまりなじみがないであろうテーマを扱ったブロードウェイ発の佳作に、スタッフ・キャストが真摯に取り組む姿勢に好意がもてる。「ミュージカルなんて……」と思っている方々(がまだまだいることを最近知ってちょっと驚いたのですが)に是非観ていただきたい作品です。

(2月8日14時半の部、シアタークリエ)
2018-02-10 14:35 この記事だけ表示
――We’re all part of the masterplan. (Oasis “The Masterplan”)

 白井晃が演出するミュージカル『アダムス・ファミリー』がKAAT神奈川芸術劇場ホールで上演されると知って、自分にとってきっと何か大きな意味のある公演になるだろうと思った。そして、自分の予感した通りになった。――“舞台”と“役者”が揃っていた。かつて、「私は確かにこの世界の一部だった。そのことを感じて、私はこのうえもなく幸せだった、と――」と感じ、記したことがある。2011年、東日本大震災のあったあの年。そう感じたのが他でもない、KAAT神奈川芸術劇場近くの駐車場だった。その日は『国民の映画』の初演を観にKAATに足を運んでいた。そして、作品で“芸術の庇護者”ゲーリングを演じていた白井晃さんと駅で偶然一緒になり、いろいろとお話しさせていただきながら帰った。人生にはさまざまな日があるもので、その思い出の濃淡はそれぞれだけれども、決して忘れられない一日というものもまた、ある。

 アメリカン・コミックをベースとしたブロードウェイ・ミュージカル『アダムス・ファミリー』は、2014年の日本初演版から大好きな作品である。映画版も2本作られ、日本でもCMでそのテーマソングが流れていたから、聴けば「あれね」とおわかりの方も多いだろうと思う。だが、ミュージカル版は映画版とはまた異なる話となっている。お化けのアダムス・ファミリーはニューヨークのセントラルパークに宏大な屋敷を構えている。家長のゴメス。その妻モーティシア。娘のウェンズデーに息子のパグズリー。グランマ。そしてゴメスの兄のフェスターおじさん。執事を務めるのはゾンビのラーチ。キャラクターがそれぞれ実に濃い。ラテン系のゴメスとクールなモーティシアはお互いにメロメロで、「一日最低二回!」がモットー。ウェンズデーはボウガンを振り回す不気味な無表情のおさげ少女。姉に拷問されるのが大好きなパグズリーは、爆発物もお手の物。100歳を超えて生きるグランマは隠れて大麻を吸ったりする不良老人。月のような禿げ頭のフェスターは、性的指向が不明ながらも今は月に恋している。
 ウェンズデーがボウガンを振り回しているときに出会って恋に落ちた人間の青年ルーカス・バイネッケと、彼の両親マルとアリスが、そんなアダムス家のディナーに招かれてやって来る。ウェンズデーの望みはただ一つ。どうかこのディナーがうまく行くよう、そしてルーカスとの結婚が認められるよう、ごく普通の一夜を過ごすこと。彼女は結婚の意思を父ゴメスにだけ打ち明ける。母モーティシアにぶち壊されては困るからと。そこで、父と娘は母に対して秘密を持つ。ディナーは進む。アダムス家恒例の大暴露ゲームが行なわれる。聖杯に口をつけ、それぞれが心に隠していた秘密を明かすというゲーム。パグズリーは、姉が結婚して自分をもう拷問してくれなくなることを恐れている。そこで、グランマからこっそりくすねた秘薬を聖杯に入れる。飲んだ人の心の闇があらわになってしまう秘薬を。その聖杯をウェンズデーが飲んで、結婚話がうまく行かなくなることを願って。ところが、その秘薬をルーカスの母アリスが飲んでしまい、マルとの結婚生活に対する不満をぶちまけたから大騒ぎ。ウェンズデーの結婚話も明かされ、聞いていなかったモーティシアは大激怒。はたしてウェンズデーは無事ルーカスと結婚できるのか。そして、夫婦間に何の秘密がないこともモットーとしていたゴメスとモーティシア、不満が大爆発したマルとアリス、二組の夫婦の行方は――?
 改めて、不思議な物語である。お化け一家と普通の人々との融合を描くばかりではない。アダムス家は年に一度、死者を呼び起こしては共に踊り狂う。終われば祖先たちはあの世に戻る。だがこの年は、ウェンズデーの恋がうまく行くよう、フェスターおじさんがあの世とこの世との間の扉に鍵をかけてしまっているから、祖先たちはあの世に戻れない。彼らはこの世にあって、恋や夫婦関係のてんやわんやを見守る――そして、舞台上では、木をはじめとする舞台装置をも動かして空間を形作る。生者と死者とが入り乱れている。
 大暴露ゲームの果ての大騒動を受けて、フェスターおじさんは、バイネッケ一家を帰らせないよう、嵐を起こす。まるでシェイクスピアの『テンペスト』のプロスペローである。プロスペロー。演出家の化身。劇作家の化身。そう、フェスターおじさんはさながら、この一夜の“演出家”である。そして狂言回し的存在でもある。フェスターおじさんは愛についても歌う。シーザーとクレオパトラは、ロミオとジュリエットは、本当にお互いにふさわしい相手だったのかどうか等々、盛大に茶々を入れながら。そして結局は、彼が祖先共々優しく見守る通り、ウェンズデーとルーカスの愛は成就し、二組の夫婦はより強い愛によって互いと結ばれる。結婚する娘を新たな生活へと送り出しアダムス家の家長ゴメスが到達するのは、「愛はすべてに勝る」という境地である。不思議な一家と、一見普通な人々との融合。
 私がこの作品は“劇場論”でもあると記したのはこの点においてである。人は劇場に行く。舞台上に立つのは、ある意味“普通”ではない人々である。人は普通、人前で大声を出したり歌ったり踊ったりしない。それが許されているのが劇場という場所である。その様を見守るうち、自分はあくまで“普通”の人間だと思っている観客にも、決して普通ではない状態が現れる。盛大に泣いたり笑ったり手を叩いたりする。普通人前ではそういうことはしない。それが許されているのが劇場という場所である。一見“普通”の人々が一見“普通”ではない人々に出会いに行き、自分の中にもまた“普通”ではないものを認めること、そうして互いの中にある“普通”ではないことを認め合うこと、ひいてはときに、普段“普通”と考えている状態が実は決して“普通”ではなく、普段“普通”ではないと考えている状態の方がむしろ“普通”であるかもしれないとの認識にさえ至ること、それが、劇場という空間の持つある種の魔法、魔力であり、この魅惑の作品に凝縮されて表現されている。その魔力を操るのが、ここではフェスターおじさんなのである。
 そして、フェスターおじさんは月に恋している。チャイコフスキーが白鳥に恋したように。彼が月への思いを歌う「月と僕」は、実に不思議な美しさをたたえたシーンである。かつて白井晃は『アンデルセン・プロジェクト』でロベール・ルパージュ演出作品に出演したが、フェスターおじさんと月との恋を描く場面では、そのルパージュの影響をも思わせる秀逸な演出が施されている。フェスターおじさんはロケットに乗って月へと飛び、月と一つとなり、カーテンコールでは月との間に生まれた子供を抱いて登場する。『白鳥の湖』の音楽が、一体となったチャイコフスキーと白鳥との間に生まれた“子供”だとしたら、フェスターおじさんと月との間に生まれた子供もまた“芸術作品”に他ならない。フェスターおじさんが月への愛を吐露するシーンで流れるドビュッシーの『月の光』もまた、一体となったドビュッシーと月との間に生まれた子供かもしれない。――それにしても。人はつくづく、さまざまなものと一つになりたいと願うものである。
 そして私はそんなフェスターおじさんに恋する。そういう人間なのである。美に生き、美を体現する人々に恋をする。そしてその“恋”を言葉で書き留める。恋をしたからその相手が美しく見えるわけでは、決して、ない。

 私は『アダムス・ファミリー』のすべてのセリフを、すべての歌詞を、今の自分に向けられたものとして聞いた。娘の成長。それに戸惑う父と母。子離れの時――。妻の不満。それと向き合い、長年のうちに自分自身を塗り込めてしまった固い殻から出てくる夫。喜び。――そして、愛。「愛こそすべてに勝る」。それは、救いでもある。どんな絶望にあったとしても。
 ――そして私は、かつて、「私は確かにこの世界の一部だった。そのことを感じて、私はこのうえもなく幸せだった」、そう感じたのと同じ、あの場所に立っていた。心に痛切な思いがあった。人に心などなければいいと願いたくなるような痛みが。他ならぬその痛みが私に告げていた。お前は生きている! 生きている、と――。「生きているうちにこの世の感情すべてを味わい尽くしなさい」――そう言った人の魂はなおも、生きていた。
 リヒャルト・シュトラウス先生による、オクタヴィアンとの使命は終わっていた。いつ?
 ――わからない。私にそのときわかったのは、もうはっきりと終わっていた、ただ、そのことだった。
2017-12-29 22:26 この記事だけ表示
 大人が本気で取り組んでいる子供ミュージカルって本当にいいな……としみじみ思ったのが、「フロッグとトード〜がま君とかえるくんの春夏秋冬〜」である(8月18日14時の部、東京芸術劇場プレイハウス)。もともとは「ふたりはともだち」に始まるアメリカの人気絵本シリーズをブロードウェイ・ミュージカル化したもの。なかでも、かえる君を演じる鈴木壮麻がすばらしい。ちょっぴり偏屈ながま君を、かえる君は友達として心底愛している。優しいかえる君がある日、一人になりたいという書き置きをドアに貼っていなくなってしまったため、探し回るがま君。やっと出会えたがま君に向かい、かえる君は歌う。一人になったからこそわかる、友情の大切さ、そして幸せを――。鈴木壮麻はまるで凄腕のスナイパーのような芸の持ち主である。人の心の急所、弱いところを的確に狙って鋭いものをきりきりと差し込んでくるような。自分には友達が一人もいないため、手紙を一度ももらったことがない、だから郵便が届く時間は悲しいとがま君は言う。がま君が悲しいとかえる君も悲しい。そこでかえる君は内緒でがま君宛ての手紙を書く。しかし。ここで配達を頼んでしまったのがカタツムリだったのが運のつき。春に出して、夏になって、秋になってもまだ届かない。その間かえる君はがま君に「手紙届かなかった?」と何度も訊いていやがられたりする。ある冬の日、ささいなことがきっかけでがま君はかえる君に大立腹、絶交を言い渡す。そこへ手紙がようやく届く。カタツムリ、配達遅っ! いったいどのような状況になっているんだか。がま君はようやく届いたその手紙を読んで、かえる君との絶交を当然思い直すのだけれども、絶交を告げられてから思い直しを告げられるまでの鈴木かえる君の表情、表現が何だかものすごく深すぎて、ほとんど絶望さえしていて、――こんな顔、子供に見せて大丈夫ですか〜〜〜と思いながら子供のように涙するあひる(絵本の登場人物にあらず)であった。ああ、仲直りしてよかった。ところが。がま君はかえる君へのクリスマス・プレゼントの配達をよりによってあのカタツムリに頼んでしまったため、またもやプレゼントは遅配なのであった。せっかくのクリスマスなのに。ま、がま君とかえる君は一緒に楽しい時間を過ごせたから、いいのかな。それにしても。がま君にはかえる君、弥次さんには喜多さんがいて、いいな。
2017-08-26 16:59 この記事だけ表示
 9月の「Dramatic Musical Collection2016」にゲスト出演した壮一帆が、「ひとかけらの勇気」をきりり熱唱していて、…やっぱり「スカーレット・ピンパーネル」の楽曲はいいなあ…と改めて感じたものだった。その翌月、待望の男女混合版日本初演公演が始まった。
 宝塚版は演出家小池修一郎により潤色がなされており、「ベルサイユのばら」に親しんだ宝塚の観客のため、主人公パーシー・ブレイクニーがフランス王妃マリー・アントワネットの遺児ルイ・シャルルを奪還するというオリジナル・ストーリーになっている。このたび上演されたバージョンはブロードウェイ版に手を加えたもので、宝塚版のように大人数の出演者でもなければ大がかりな舞台装置が出てくるわけでもないが、ガブリエル・バリーの演出は全体を実にすっきりまとめている。宝塚版で加えられ、今や愛され歌い継がれるナンバーとなった「ひとかけらの勇気」は、「悲惨な世界のために」なるタイトルで、異なる歌詞、異なる状況で登場する。翻訳・訳詞・潤色を手がけた木内宏昌の修辞が格調高い。
 このミュージカルにおいて、日本人男性として初めてパーシー・ブレイクニーを演じることとなった石丸幹二が素晴らしかった。“スカーレット・ピンパーネル”を名乗り、革命後の恐怖政治の嵐吹き荒れるフランスから貴族を秘かに救い出しているパーシーは、仲間以外の前ではおちゃらけ者を演じている。元は女優であるフランス人妻マルグリットが自分を裏切っているのではないかと内心では苦悩しながら。舞台上の登場人物たちの前では多面性を演じに演じるパーシー・ブレイクニーのすべてを知っているのは、物語のすべてを目撃することのできる観客だけであり、このとき、パーシーと観客との間にはある種の共犯関係が生まれている。そんなパーシー・ブレイクニーを演じて、石丸が実にいきいきと楽しそうなのである。パーシーの真実の姿はいったいどこにあるのか、その疑問がそのまま、舞台人石丸幹二の真実の姿はいったいどこにあるのかなる疑問と重なってしまうほどに。
 マルグリットは昔の恋人であるフランス政府全権大使ショーヴランに脅されており、それによって、プリンス・オブ・ウェールズの舞踏会でスカーレット・ピンパーネルに危機が迫る。彼女はスカーレット・ピンパーネルにひそかに危機を知らせようとする。そこに現れたスカーレット・ピンパーネルつまりは他ならぬマルグリットの夫であるパーシー・ブレイクニーは、スカーレット・ピンパーネルと名乗り、彼女に姿を見せることなく、その背中越しに言葉を交わす。妻さえも気づかぬ、知らぬ、夫の声。この場面の石丸パーシーのささやきが実にエロティックだった。――貴公子が似合う、非常に整った容姿の持ち主である。だが、私は不思議と彼を、異性として意識したことがこれまでなかった。その一方で、例えば「エリザベート」でトートを演じた際は、私がトートなる存在――黄泉の世界へと誘う存在――に求める両性具有性よりも男性性が多く発露されているように感じていた。それが。自分の声の力だけで妻の真の心に迫ろうとする、ひいては、彼女を愛する自分の心をも救おうとする石丸パーシーは、月に照らされ神々しいまでにきらきらと輝いていた。その姿に思ったのである。「My hero!」と――。彼女がいまだ自分を愛していることを知って歌う「あなたはそこに」――宝塚版で言えば「目の前の君」――が“舞台は最高のエクスタシー”だったのもむべなるかな。
 洒落者パーシーの数々の華麗な衣装も整った美貌で見事に着こなし、何より、ブリティッシュ・ジェントルマンとしての立ち居振る舞いが実にしっくり来る。ジェントルマンとしての根本がしっかりとある上でのおちゃらけ者のコミカル演技も軽妙至極。そして言うまでもなく、歌唱が素晴らしい。ワイルドホーンのナンバーの微細な音の高低も、耳に心地よく歌いこなす。「ひとかけらの勇気」転じて「悲惨な世界のために」でにじませる闘いの決意も心にぐっと響く。生涯の当たり役の一つだと思う。
 妻マルグリット役を演じたのは、日本初演の宝塚星組版で主人公パーシー・ブレイクニーを務めた安蘭けい。弟を救うため自らパリに潜入したり、宝塚版よりかなり威勢のいい女性になっている。終幕、剣をとって敵方とかっこよく戦うところはもう、宝塚版でパーシーを演じた彼女の姿を観たことのある観客にとっては大サービス場面。
 そんな安蘭マルグリットが歌う「あなたを忘れよう」――宝塚版で言えば「忘れましょう」――を聴いていたら、――日本初演の際の思い、月組による再演の際の思い、それはさまざまな思いが胸に去来して、涙が止まらなかった…。私は宝塚版も、そして今回のバージョンも、どちらも大好きである。今回のバージョンを観て、小池修一郎による宝塚版が実によくできていたことに改めて感じ入ったし、今回のバージョンも、宝塚版に親しんだ観客が、その親しみの思いにまったく齟齬をきたすことなく楽しめる潤色、物語となっている。「スカーレット・ピンパーネル」という作品が大好きだから、二つのバージョンがあって、そのどちらもこんなにも楽しめて、二倍以上に幸せだなと思ってしまう。その二つのバージョンをつなぐのは、両方に出演し、作品を舞台に乗せる上で力を尽くした安蘭けいの存在である――。ちょうどその後、「エリザベート スペシャル・ガラ・コンサート」の公演プログラムのための取材で安蘭さんにお会いし、そんな感想を伝えることができたのも、幸せな経験だった。
 このバージョンではジャコバン党のリーダー、ロベスピエールと、プリンス・オブ・ウェールズとは同じ役者によって演じられることとなっている。私が観劇した日に二役を務めたのは佐藤隆紀。パーシーとおちゃらけ者の部分で共鳴し合うプリンス・オブ・ウェールズを演じては、とぼけたコメディ・センスが発揮される。二幕の冒頭では、新たなナンバー「新たな時代は今」をロベスピエールとして歌い、舞台上でプリンス・オブ・ウェールズへと姿を変えるシーンがある。豊かな声量での歌唱の果て、さっと異なった姿を現した際、――何だかぞくっとしてしまった。
 この日、劇場には、作曲家フランク・ワイルドホーン氏と、彼の奥方、元宝塚宙組トップスター和央ようかさんの姿があった。宝塚版で名曲「ひとかけらの勇気」を誕生させ、そして今回のバージョンでも新たなナンバーを書き加えた作曲家と、彼のインスピレーションである奥方にも、素敵な作品、その二つのバージョンを生み出してくれたことに、心から感謝。

(10月20日13時半の部、赤坂ACTシアター)
 帝国劇場で上演されたミュージカル「エリザベート」、そのカーテンコールで最後に登場する、白いドレス姿、神々しい美しさに光り輝く花總まりを観ていて、思った。…この人にすら、娘役の呪縛はあったのだ…と。でも、それだからこそ、長い間、こんなにまでも、花總まりが娘役としてではなく、女優としてエリザベートを演じる姿を観たかったのだ…とも。演出の小池修一郎氏には直接伝える機会があったけれども、彼女がまたこの役を演じることを可能にしたすべての人々に、深い感謝を捧げたい。
 花總まりが初めてエリザベートを演じたのは1996年宝塚雪組公演、日本初演の舞台である。そのときはまだまだ無名の作品だった。今のように、世界中で上演され、必ずやヒットが約束されている人気作品ではなかった。この20年ほどの間に、作品の評価は著しく変わった。そのことは、作品に接する人々の意識も著しく変わったことを意味する。初演に携わった人々は、人気作品に出演するということではなく、この作品を何とかして日本の舞台に乗せる、そんな一途な思いで作り上げていったのだと思う。花總まりはその思いを共有する一人である。
 そして、日本版のエリザベートはまずは彼女に宛書された役なのである。「嫌よ おとなしいお妃なんて/なれない 可愛い人形なんて」(「私だけに」)の歌詞は、いかにも可愛い人形のような人が歌ったとき、その凄みをいや増す。この可愛い人形のような人の中にある、自らの生を全うしたいという強い意志。今回の「エリザベート」の舞台を観ていても、このドレス姿も、あのドレス姿も、どれもこれもフィギュアにして家に飾っておきたい! と思った。それくらい、どの衣装を着ても美に満ち満ちているのだけれども、それでもやはり、私が一番愛するのは、舞台で実際に生きて動いている、人間・花總まりなのである。
 多くの日本人が持つ高貴な人物のイメージを具現化したような人である。日本においては皇室の伝統がある。日本の皇室は世界の王室に比べてもひときわ高貴と神秘のベールに包まれている。日本においてロイヤルな人々を舞台に乗せるとは、そのイメージに一定以上合致することが重要なのだと思う。花總まりのエリザベートを観ていると、高貴な人々の人生に思いを馳せずにはいられない。その人々も我々と同じ人間であり、さまざまな思いを抱え、それでも微笑んで在る。
 花總エリザベートと、田代万里生扮するフランツが結婚を誓い、幸せそうに手を取り合ったとき、――チャールズ皇太子とダイアナ妃の結婚式に夢を見、その後の二人の破局にどこか裏切られたような思いがした人々の気持ちが初めてわかった。絵に描いたような美男美女。おとぎ話で「Happily ever after.」と記されるにふさわしいような。それなのに二人はすれ違う。田代フランツには、…この人は、エリザベートが死した後、一体どのようにして生きていったのだろう、本当の意味で生きていたのだろうか…と思わせる痛切な哀しみがあった。ダブルキャストの佐藤隆紀は、オープニングで一人突き抜けるような声量にまずはインパクトを感じ、年齢を重ねるごとに、…「とても素晴らしかった、わたしはとても嬉しく思う」という、実際のフランツ・ヨーゼフの、謁見や行幸の際のお決まりの言葉を思い出した。そして、何とはなしに昭和天皇が思い出されたのである。国家の象徴としての存在。
 エリザベートを黄泉の国に誘うトートは、城田優と井上芳雄の二人。個人的には、城田は、1998年宝塚宙組版の姿月あさと以来の“私のトート”である。大理石の彫像が生きて動き出したような、中性的な美しさ。死にいざなう甘美な夢想。歌唱もシャウトが心地よい。ただ。役作りの深みにおいては花總エリザベートに対峙しきれていまい。リベンジを期待する。井上芳雄は、2000年の東宝初演版のルドルフで綺羅星の如くデビューした人である。秋にはミュージカル「パッション」に主演、日本初演のこの作品で、スティーブン・ソンドハイムの難曲をまるで難しくないかのように歌いこなし、醜いヒロインに惚れ込まれ、最終的には愛をもって応える難役をきっちり演じて作品を成立させた。まさにミュージカル界を背負って立つ存在である。その舞台にも思ったのだが、彼には、人が“プリンス”と聞いてイメージする、揺るぎなくまっすぐな魅力があるのである。それは年齢を重ねても変わるものではない。そんなイメージから、何となく、フランツ・ヨーゼフ役者のように思っていたのだが、どうしてどうして、花總エリザベートに寄り添い、ときに突き離し、翻弄し、愛し続ける、見事なトートを造形した。宝塚の男役にも学んだと思しきマントさばきや手の動きも美しい。「最後のダンス」で花總エリザベートを追いつめる井上トートの迫力は凄まじく、…、ふと見ると、自分が花總エリザベートと完璧にシンクロした荒い呼吸をしていて、驚いた。今回観劇しての二大ベスト・シーンは、花總エリザベートが昇天の際、城田トートにキュートにキスしにいった箇所。そして、「私が踊る時」で、井上トートが手を差し出したのを、花總エリザベートが少々サディスティックにすら見える女王の微笑みを浮かべ、蠱惑的にチャーミングに、手でつん、と突っぱねた箇所である。
 ルキーニは山崎育三郎と尾上松也の二人。山崎は、1996年星組版の紫吹淳ばりの色気ムンムンのセクシーなイタリア男。客席に降りての客いじりもちゃめっ気たっぷり、こういったクセのある役どころがハマる感がある。来年の公演では登板のない尾上松也に詳しくふれておくと、歌舞伎のバックグラウンドが生きた造形だった。よく通る声。異質な存在感。エリザベートやフランツ・ヨーゼフら“セレブな有名人”を語るルキーニの意識は、生まれたときから人生の時々刻々を世間に報じられ、知られている(とされる)歌舞伎の人ならでは。…何でもかんでも、全部知ってると思ってるんだろう、でもな…という「キッチュ」の挑発。その裏にある、やはり人間としての痛み。今後の歌舞伎作品での活躍に期待したい。