2月6日13時半、IHIステージアラウンド東京。
 …この作品で私が一番好きなセリフは、息を引き取る間際にトニーが言う”I didn’t believe hard enough.”に対してマリアが返す”Loving is enough.”なのですが――「マリアはもう撃たれて死んだ」という嘘を信じてしまったため、トニーは「俺を撃て」と言ってほっつき歩き、チノに撃たれて死ぬわけです――、日本語に訳されたセリフが、「信じ方が足りなかった」に対して「私は信じてるわ」だったのは疑問。
 かつて『ウエスト・サイド・ストーリー』の曲で滑った鈴木明子さんのインタビューが公演プログラムに掲載されているのですが、音楽と技とのタイミングを合わせる難しさについての話が興味深く。
 観劇レポートは後日SPICEに掲載されます。
2020-02-06 22:31 この記事だけ表示
 本日『CHESS THE MUSICAL』夜の部(18時半、東京国際フォーラムホールC)にて聴いてきました。「Anthem」――“国歌”。さまざまな国の国歌を彷彿とさせる、荘厳なメロディ。――カナダ・オタワの小学校で三年間、カナダ国歌「オー・カナダ」を毎朝、英語とフランス語の日替わりで歌っていたことを思い起こし――さまざまな民族的バックグラウンドをもつ子たちが集まっていた、あの小学校――。心に浮かぶことはいろいろとあるのですが、本日に続き明日も朝から仕事で出るため、今宵はこれにて〜。
2020-02-03 23:53 この記事だけ表示
 1月20日13時の部、日生劇場。メアリー・シェリーのゴシック小説を独自の視点で再構成した韓国ミュージカル、その日本版の再演。軍医アンリ・デュプレと怪物を演じる加藤和樹が実にいい。アンリは戦場で科学者ビクター・フランケンシュタイン(柿澤勇人)に命を助けられ、固い友情で結ばれる。母の死以来、死者を甦らせることに取りつかれた友ビクターの“実験材料”となるべく、アンリは友の罪をかぶってギロチンで処刑される――だが、その生首を用いてビクターが生み出したのは、アンリの記憶をもたない怪物だった。ビクターのもとを逃げ出した怪物は、闇の闘技場で見世物としてひどい扱いを受け、おぞましい人間こそが怪物ではないかとの哀しき認識に至る。アンリが友ビクターに捧げる友情はいささかファナティックなものではあるのだが、加藤アンリは実に純粋なその友情のありようをさわやかに歌い上げて殉じていく。怪物となり、うす汚れた半裸姿でうなり声を上げて暴れていても、人間存在に激しく絶望しても、その姿にはどこか哀しい美しさがある。加藤は、昨年秋、難役である『ファントム』タイトルロールに挑戦、怪人の心の中の美を表現する好演を見せていたが、その経験を経て、舞台姿に自信の芯が一本ぐっと通ったように感じられる。孤独なビクターに愛をもって仕え続ける執事ルンゲ役の鈴木壮麻の、あくまで品よくチャーミングに効かせる笑いは、作品全体の軽やかなアクセント。リトル・ビクター(ビクターの子供時代)を演じる大矢臣(子役)の、客席へとまっすぐ向かってくる歌唱と演技も堂々たるものだった。
2020-01-20 23:06 この記事だけ表示
 東京国際フォーラムホールA(収容人数約5000。巨大!)にて19時より聴いてきました。素晴らしい! シンシア・エリヴォ――人間の尊厳のため、己の芸をもって、厳しく、激しく、闘い続ける人。その闘いの軌跡が、歌声の中に確かに聴こえる。それと同時に、しなやかなその心も――。歌声と共に、聴いているこちらの心も宙へと舞い上がっていくような「A Piece of Sky」(『イエントル』より)。『ヘアスプレー』のナンバーを一人メドレーで歌い、ワイヤ&スタンドのマイク・アクションでも大いに会場を沸かせたマシュー・モリソンのエンターテイナーぶりに、この三人が同じ舞台に立つことの意味を深く感じて。三浦春馬も二人によく食らいついて行っていて、このコンサートを経ての成長が楽しみ。ゆっくり書きたいので今宵はここで止めますが、皆様、明日の昼夜二回限りの公演をお聴き逃しなきよう!
2020-01-16 23:20 この記事だけ表示
 初日(1月7日)前の公開ゲネプロを見学(1月6日18時15分、シアタークリエ)。劇団音楽座が1988年に初演した、SFタッチの日本発オリジナルミュージカルが、豪華キャストで装い新たに登場。壮絶な過去を背負った孤独なヒロイン佳代に扮する咲妃みゆ、その精神追いつめられる演技に、ときに観ていて心えぐられそうに。そんな彼女を不器用ながら一途な愛で優しく包み込む作曲家志望の主人公悠介を演じて、井上芳雄が日本の男の朴訥な魅力を発揮――二人が心通わせ、笑顔を見せるシーンに涙。二人が働く喫茶店のマスターとその妻役の吉野圭吾(福井晶一とダブルキャスト)&濱田めぐみが交わす、噛み合っていないのに噛み合ってしまうやりとりの軽妙さ。二人をあたたかく見守る宇宙人トリオの土居裕子(初演からたびたび演じたヒロイン佳代役は彼女の当たり役)、畠中洋、内藤大希が響かせる、絶妙なハーモニー。上原理生も、悠介の師匠を演じてディープな美声を聴かせる。そして、悠介のデート相手やテレビレポーターなどの役どころで登場する仙名彩世の、80年代バブリーな演技に大笑い。ショーアップ場面ではダルマ姿(足をすべて出す衣装)で軽快なダンスも披露〜。――自分が日頃考えている芸術論を、宇宙にまで敷衍していったら…――そんな思いにとらわれて。
2020-01-06 23:36 この記事だけ表示
 9月19日夜の部、ロンドン・ギールグッド劇場。
 ――そこは、さながら“戦場”だった。<『レ・ミゼラブル』の有名な歌を歌いたい/聞きたい>人たちと、<『レ・ミゼラブル』を上演するからには、それがコンサート・バージョンであろうと、真実の『レ・ミゼラブル』の物語を伝えたい/観たい>人たちとの。あひるは後者! ――闘いの熱気立ち込める劇場。
 <真実の『レ・ミゼラブル』を伝えたい>派の旗頭は、日替わりで主人公ジャン・バルジャンを務めるジョン・オーウェン=ジョーンズ。そして、芝居の要をがっちり固めるのが、アンジョルラス役のブラッドレー・ジェーデンである――大がかりな舞台装置やその転換に頼れないコンサート形式、演奏会形式ほど、演者の演技力がより一層浮き彫りになることは、今年8月に聴いた<パーヴォ・ヤルヴィ&N響 オペラ『フィデリオ』演奏会形式初日http://daisy.stablo.jp/article/469315262.html?1577597446>でも感じたことである――。ジェーデンは、これまで通常形式の公演で、アンジョルラスに加えてジャン・バルジャンとジャベールを演じた経験もある。誰かが下手をかまそうものなら、俺が代わりにやってやろうか! くらいの勢い――もっとも、ジョン・オーウェン=ジョーンズにその心配はいっさいなかったけれども。彼は、ジャン・バルジャンとして、その歌と演技のうちに、重厚な物語を細やかに、ていねいに語っていくのだった。
 「One Day More」。
 …なぜだろう、ジョン・オーウェン=ジョーンズが、そのたった三音節の三語を発するだけで、こんなにも涙があふれるのは…。それはきっと、その夜その一瞬のことではなく、彼という役者、人間が、これまで生きてきたすべての時間が凝縮されてほとばしるからなのだ。その三語をそのように歌える領域に到達するまでに、彼が費やしてきた膨大な時間を思う。この夜の舞台。そしてまた次の夜の舞台。――“One stage more”。そうして舞台を積み重ねてきた人間の真実が、その刹那にあふれ出る。
 ――『レ・ミゼラブル』を観るのは久しぶりだった。日本で新演出になってからも観ているのだけれども、私の脳裏に焼き付いているのは山本耕史のマリウスである(ということは、2003年か2004年の上演)。そして今回、ジョン・オーウェン=ジョーンズ&ブラッドレー・ジェーデンたちの奮闘のうちに、私は、ヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』の物語の一つの軸が、神の意志をいかにこの地上において実現させるべきかをめぐる対立であることに深く思い至ったのだった。<真実の『レ・ミゼラブル』を伝えたい>派の大勝利!
2019-12-29 15:58 この記事だけ表示
 2015年の公演の際、トート役の井上芳雄が、エリザベート役の花總まりのことを、「日本『エリザベート』界のレジェンド」と呼んでいた。絶大な人気を誇るこのウィーン・ミュージカルが1996年に宝塚雪組によって日本で初演された際、エリザベート役を務めたのが花總まりだった。1998年に宙組でもう一度、退団後は2015年、2016年、そして2019年と、彼女はこの役を演じ続けている。
 6月半ばに舞台を観たとき、…ちょっと苦戦しているかな…という印象を受けた。しかし、決してそこで終わらないのがレジェンドのレジェンドたるゆえんである。約一カ月後。――そこには、一段と光と輝きを増した花總エリザベートがいた。彼女が自分自身の人生を振り返り、人間存在が表皮を介してすっかり裏表になるほどすべてを絞り出すという行為をもって、いま一度この役を創り直したからこそ、その光と輝きを得ることとなったのである。けれども、そのために、彼女がそれこそ心から血反吐を吐くような過程をくぐり抜けたであろうことを考えると、私は、その強靭な精神力に気の遠くなるような思いがする…。レジェンドだから、演技がよくて当たり前とされる。よくて当たり前のその先に行くには、一つ一つのセリフ、歌詞、動き、しぐさをていねいに洗い直し、そこにまた新たな意味を付加して、役柄の全体像をさらに大きなものへと創り上げていくしかない。――彼女は見事にそれをやり遂げていた。そこにレジェンドのプライドがあった。
 花總まりは、私の一つ下の年齢である。永遠の少女のように、いつまでも若々しく、美しい人である。――でも、それでもやはり、年齢を重ねた者は、永遠の少女ではいられない。自分自身、そう思う。――失くした夢もある。叶わなかった願いもある。時を巻き戻してやり直したい出来事もある。心の中に少女のままの自分がいて、けれども、自分の中にそうして積み重なっている時間もあって、心のピントのズレに視界がくらっとしそうなときもある――。そんな、時の流れを、花總まりはエリザベートという役柄の中に生きる。若くしてオーストリア皇帝に見初められ、皇室の中で籠の鳥となり、いつまでも自由を求め続ける一方でどこか縛られ、自分をこの世界でない場所へといざなう<トート=死>と対峙し、ときに戯れながら、人生の時間を積み重ねていく一人の人間を。その生の普遍。19世紀の西洋の皇后というかけ離れた存在に、日本の観客が熱い想いを寄せ続ける理由も、そこにあるのではなかったか。
2019-12-29 15:57 この記事だけ表示
 この長いタイトルの作品は、トルストイの長編小説『戦争と平和』のブロードウェイ・ミュージカル版である。そして、…陰気くさく背を丸め、眼鏡姿でやる気なくマラカスを振る男ピエール、それが、本作における井上芳雄の役どころである。
 …これまで観てきた井上芳雄の中で、一番心に来る! 陰気くさいのに、否、陰気くさいところが世にも色っぽい。
 2000年の役者デビュー作『エリザベート』のルドルフ皇太子役は、衝撃だった。その好演は彼に“ミュージカル界のプリンス”の称号をもたらした。それから20年間が経って、井上芳雄は今でもプリンスである――ミュージカル界におけるありようがプリンスなのだと思う――その内面がちょっとスパイシーでブラックなところもおもしろいのだけれども。しかし、ルドルフをおいておいて、彼に本当にぴったり来る役は、いったい何なのだろうか。その疑問が、この数年ずっと私の中にある。ただ、…これ、彼に合う役なのかな…と思っていても、いざ劇場に足を運んで客席に座れば、その強固なまでに構築された役作りの前に、感服する他ない自分がいる。2017年の『グレート・ギャツビー』タイトルロールの演技は、観劇後、F・スコット・フィッツジェラルドの研究者だった母との間で、…フィッツジェラルドはなぜこのようなキャラクターを生み出したのか…という議論を交わすきっかけとなった。そして、昨年の『黒蜥蜴』。――私はそれまで、この作品において、自分は黒蜥蜴を追いつめる名探偵明智小五郎向きであることに絶大な自信を持っていた――そのような目線で舞台を観るわけである。しかし。井上芳雄の確固たる演技の前に、私は、…こんな明智になら、黒蜥蜴としてぜひ追われてみたい! と、うっかりうきうき信念を180度曲げる結果となった――そうやって私は、自分の中に新たな自分を発見したわけである。
 ピエール。
 貴族の私生児として生まれ、財産はあるものの妻との仲は冷え切り、無為に生きる男。現実と接点をもつわけではない思索に耽る男。しかし、若き伯爵令嬢ナターシャとの出会いが彼を変えていく。ある魅力的な男と駆け落ちしたことで、婚約も解消され、生きるか死ぬかの瀬戸際まで追いつめられるナターシャ。ピエールは彼女の命を救いたいと願う。自分が、彼女の愛にふさわしい人間となった日には、その愛を受け取ってほしいと――。
 そんな終幕のピエール井上の上空に、…宇宙的に美しいヴィジョンが見えたのだった。何十年に一度しかやって来ない彗星(コメット)の上から、こちらに手を伸ばしていざなう人がいる。その彗星の目指す果ては、日本ミュージカル界のさらなる美しき発展――。
 2019年、ミュージカル作品についてひときわ深く観て考えるようになったのは、この年始の舞台で、井上コメットと遭遇し、その魂と出逢ったからなのだろうと思う。
2019-12-28 18:45 この記事だけ表示
 昨年の夏頃だったか、夫が帰宅するなり、iPadを開いて言うのだった。
「ねえ、これ見て〜」
 …エイティーズっぽいイントロ。なぜか一人だけちょんまげ姿で和装の男。そして歌い出し。
「♪世襲制〜」
 …笑撃。しかも「♪世襲制」は「♪What do you say?」と韻を踏んでいるのだった。何じゃこのおもしろさは〜。それ以来、ちょいちょい「♪世襲制〜」と口ずさむように。
 それがレキシとの出会いだった――曲は「KATOKU」。ちなみにそのプロモーション・ビデオは、ジャーニーの1983年のシングル「Separate Ways」のオマージュである。
 そして知る。…そのレキシの曲を用いたジュークボックス・ミュージカルが制作されると。――愛のレキシアター『ざ・びぎにんぐ・おぶ・らぶ』。原案・演出・上演台本は、河原雅彦(共同台本:大堀光威)。――河原雅彦といえば、2014年、Only Love Hurts(面影ラッキーホール)の楽曲を用いた歌謡ファンク喜劇『いやおうなしに』(脚本・福原充則)を演出した人――ときにきわどく、パンチの効いた物語性ある歌詞の楽曲を用いて、一つの濃厚な世界を作り上げていた。そして、なぜか宝塚歌劇を生観劇する前に宝塚歌劇専門チャンネル「タカラヅカ・スカイ・ステージ」に加入していた人。…これは、何かが起きる! いざ観劇!
 楽しすぎる! 楽しすぎるあまり、…どうしてこれ、齋藤吉正が宝塚で作らなかったんだろう…と、謎の悔しさに襲われるあひるであった――いえ、齋藤吉正はその後、月組で『I AM FROM AUSTRIA』を作ったからいいのですが。それくらい、宝塚の手法を換骨奪胎して作られていた! ここ数年の宝塚の日本物作品の歴史要素があれこれ詰め込まれ、ナンバーの進行も宝塚のショーの如く、しかも、あれこれてんこもり。それだからこその、齋藤吉正のショー作品のような麻薬的、中毒的魅力。だいたいが、<愛のレキシアター『ざ・びぎにんぐ・おぶ・らぶ』>という角書+タイトルの感じが、どことなく齋藤吉正風――齋藤作品で印象的な角書をあげると、「ショー・イリュージョン」「キューティーステージ」「バイレ・ロマンティコ」等。「グランステージ」に至っては、フランス語なの? 英語なの? とツッコミを入れたい――。今回の河原作品について言えば、角書の「愛」とタイトルの「らぶ」とで、「これは愛の物語です!」というダメ押し感。
 そもそも、レキシとは、1974年生まれのミュージシャン池田貴史のソロユニット。彼の日本史への愛を、ウィットに富んだ歌詞に織り込み、多くラヴ・ソングの形で歌い上げていく。エイティーズ楽曲へのオマージュもいっぱい。そんなレキシの楽曲を心から愛する河原雅彦が――レキシに関わった者がもらえるレキシネームで呼ぶなら「たいらのまさピコ」――、その楽曲を用いて心から愛するところの演劇の舞台を作っちゃおう、そして観客と分かち合っちゃおうというのがコンセプト。そして今回、非常に心惹かれたのは、音としての日本語の扱い方だった。先に挙げた「世襲制」と「What do you say?」の韻の踏み方も然り。一つ劇中から好例を引くと、「僕の印籠知りませんか?」という楽曲が一幕最後に登場する。歌うは主人公「織田こきん」を演じる山本耕史。このとき山本は、「印籠」という言葉を、日本語としての意味をきちんと観客に届けながらも、その一方で、音的に英語ともとれそうな、その響きをただ胸で転がす楽しさを聞く者と分かち合うような、そんなギリギリのところに見事落とし込んで発語する。その「♪印籠〜」という響きを聴いているだけで、…涙がこぼれてきそうなくらい、しみじみ上手い。
 山本耕史。――彼は、全き芸の人である。私は長らく彼を、…評論家の要らない人だな…と思って観ていた。自分自身の力だけで芸を磨いていける人。…数年前のミュージカル・コンサートに登場したときのことを思い出す。海外ミュージカル・スターたちに交じって、彼は英語とフランス語で歌った。発音は完璧、思いの乗せ方も極上。歌い終わって、聴衆の反応にふむふむと頷く姿。…こういう人に、「あんた、評論家としてやるじゃねえか」と言われたら、評論家冥利に尽きるな…と思える、そんな人。そう思って、内心ひそかに炎燃やしていたのですが。…今回、遂に、その魂に出逢えた! と。演じる役どころは、10歳から35歳の今になるまで家に引きこもって母親と二人暮らしのニート。ジャージ姿に長髪で、でも身体はマッチョに鍛えていて、憧れの歴女ブロガー・カオリコ様(松岡茉優)を応援するとき披露するオタ芸はキレッキレ――途中、レキシの魂が乗り移ったという設定でMC的存在を司る劇団シキブこと八嶋智人からも、「山本耕史くんが演じています!」と突っ込まれるくらい、その貴公子的なルックスからはちょっと想像できないような役どころである。けれども。――彼が、自分自身の力だけで芸を磨いてきた長年の並々ならぬ努力のほどが、ニートに扮するその姿の中に、まざまざと浮かんで見えたのである――。何かの道を究めていこうとすると、人はときに、自分の内に引きこもるくらいの勢いで自分と向き合い、一心に芸を磨いていかざるを得ない。マニアックである。「オタク」である。それは、今こうして文章を書いている私自身とて同じことである――だからこそ、自分と同じように情熱を燃やしている人がそこにいた! と思うと、とんでもなく幸せになって、――泣きたくなるのである。
 物語自体はシンプルである。ボーイ・ミーツ・ガール。こきんも、カオリコも、ネット上で自分を盛っている。そんな二人が出会い、恋に落ちて、互いの真の姿を知り、変わっていく――変わらなければ、恋は成就しない。二人が迷い込むのが、夢の国レキシーランド。日本の歴史にまつわるさまざまなアトラクションを、自分自身が扮装体験して楽しみながら――こきんは園内で、「土方歳三」(大河ドラマ『新選組!』にまつわるツッコミがもちろん入る)「源義経」「中臣鎌足」の三つのコスプレを披露する――、“愛の始まり”=<ざ・びぎにんぐ・おぶ・らぶ>へと向かって行く。その“愛の始まり”で歌われるナンバーは「狩りから稲作へ」。縄文時代から弥生時代への移り変わりが、<好きな人と一緒にいたい=稲作定住化>という思いを乗せたラヴ・ソングとして描かれる。
 「そうだレキシーランド行こう」の、キラキラとした浮遊感――私が青春を過ごした80年代には、確かにあのキラキラとした多幸感があった――。「姫君Shake!」では、こきんの母親「織田胡蝶」役の高田聖子が、「濃姫」のコスプレで、いくつになってもお姫様でいたい女心を歌い上げる――私は、この作品で、母親である胡蝶にもまた、彼女に長らく思いを寄せ続けている「明智」(藤井隆)との間に、女性としての幸せが訪れるところが好きである。そうでなければ、長年息子に尽くしてきた彼女の人生は報われない――ちなみに、「姫君Shake!」には、「♪あなたとの日々を、イマジン〜」という歌詞が出てくるのだが、ここで、たいらのまさピコは、「イマジン」のただ一語のためだけに、「ジョン・レノン&オノ・ヨーコ」を舞台上に登場させるという荒技を繰り出す。高田聖子の歌唱では、「墾田永年私財法」での「♪墾田永年私財法〜」に対する「♪743年〜」というコブシの効いた合いの手シャウトも忘れ難い――年号も忘れ難い。学生のころ、こんな歌があったなら、日本史がもっともっと好きになっていたのに!
 そして、「きらきら武士」――こきんが、ちょっと「SEIMEI」の羽生結弦風の衣装を着て、白馬(人間二人による)に乗って己の内の“魔物”と対峙しに行こうとする、その決意を、ポンポンを操るチアリーダーたち含め、舞台上の全員で励まし、応援するシーン。――あの、きらきらのすべてを集めてスパークさせたような一瞬を観られただけで、これまで評論家をやってきてよかった…と思うくらい、励まされた…。私は、評論家とは、最良の観客の一人として、創り手・演者を励ますものだと思っている。でも、やっぱり人間だから、励まされたいときもある…。――あの「きらきら武士」の場面は、その後、何かあるたび、ゾンビの如く心の中で幾度も幾度も甦って、私を励ました――これからも励まし続けてくれるのだろうと思う。
 カーテンコールが含まれる、ラストのナンバー「古墳へGO!」。かわいいピンクのミニカーに乗って迎えに来るカオリコ。こざっぱりとした服装で乗り込むこきん――『美女と野獣』の野獣ではないけれども、ニート姿にときめいてしまったので、こざっぱりした姿が物足りなかったりして(笑)。
 ――舞台を、東京で二回観た。もっと観たかった。大阪オリックス劇場での大千穐楽――無理すれば行けた。でも、強行すると次週の予定に支障を来すことは目に見えていた。だから、遠くで想っていた。近所の善福寺川界隈で桜の花見をしながら、オリックス劇場が面している新町北公園の桜を想っていた――近松門左衛門作品にも出てくる新町遊郭があったあたりで、新町北公園には「新町九軒桜堤の跡」がある――。そして、古墳時代後期の住居址が復原された「松ノ木遺跡」に、私はたどり着いていた。
「♪ただあなたが楽しんでくれるかが気がかり…」
 「古墳へGO!」の歌詞に、観客への思いを託す演出家――そこにあるのは、愛である。らぶである。舞台を創る者の、舞台を観る者への。だから、「♪ただあなたと二人で行きたい ほら遠くまで行ける気するでしょ?」ともある歌詞に対しての答えは一言。
「行こう!」
 ――そんなことを、桜の花びら舞い散る遺跡で、想っていた――。

 河原雅彦は1969年生まれで、齋藤吉正は1971年生まれで、同世代としては、レコード&カセットテープの時代に青春を送った人間ならではの、手間暇を惜しまない創作姿勢を感じる。聞きたい曲があったら、ラジオをチェックして録音したりとか、ダビングしたりとか、…手間暇がかかる――ユーチューブなんて便利なものはなかった。でも、かつてのあの苦労を経験した人間だからこそ、創れる舞台がある。レキシの楽曲を守るべく、レキシの信任も厚いミュージシャン・ヒロ出島(山口寛雄)が音楽監督として参加したことも、大きな意義があったと思う。
 そしてこの作品は、「日本語で歌う・日本語を歌う」ということに対して大きなものを突きつける舞台でもある。日本語を、その音を楽しむことを含めて楽しめる舞台がもっと増えればいいのに…と思う。「きらきら武士」で、「♪武士 武士」歌っているととっても楽しい――発音は、pushy catの”pushy”に近い感じだけれども。そうやって音としても楽しんで、日本語の美しさをさらに奥深く発見していきたい。その意味でも、私は、この『ざ・びぎにんぐ・おぶ・らぶ』について発信できる日本の評論家であることを心から誇りに思う。――「河原の奴、他校の奴と組んですごいことやるらしいぜ」と噂に聞いていて、いざ、文化祭最終日、暮れてきた空に「L・O・V・E」と盛大な花火が上がって、…うちの学校ってすごくない? と見とれているような、そんな感じ。「うちの学校」っていうのは、この場合、日本舞台芸術界なんですが。というか、もっともっと他校と組んで、楽しい花火を打ち上げていっちゃって〜!
 それにしても、このインターネット時代に不思議なもので、今となっては作品の公式ホームページすらない。DVDも出ない…と、とある劇場で会ってご挨拶した、ウォルト・レキシーの中の人(=八嶋智人さん)が言っていた。――すべては、関わった人、観た人、その心の中にしかない。でも、今となっては幻のようなその思い出が、私の生を確かに支えている不思議。――そうそう、忘れてはいけない、八嶋智人の活躍。オープニング、「♪スコーンスコーン」というフリから観客の「♪小池屋スコーン」という返しを引き出し、反応の多い少ないによってその日の観客の年齢層を見極め、その後の進行上、見事舞台と客席とをつないでいくあの手腕。その様がとても上品だった! …とお伝えしたら、「俺、下品だよ」と返された。…だから、そんなところが上品!
2019-12-27 20:55 この記事だけ表示
 12月13日19時の部(初日)、東京国際フォーラムホールC。
 ジョン・トラボルタ主演の1977年の同名アメリカ映画のミュージカル版が初演されたのは、1998年ロンドン・ウエストエンド――観ていて、みんなで楽しく盛り上がれる作品だなという印象が。ビージーズの「Night Fever」に乗って、@「♪ナイト」であまりに有名なトラヴォルタ・ポーズをし(右手の人差し指を天に向かって突き上げるアレです)A「♪フィーバー」でその右手を左に向かって振り下ろすという振りも覚えやすく、カーテンコールで一緒に踊るのにもってこい。…だったのですが。今回、2018年に登場した新演出版を観て、…こんなにも自分探しの旅が描かれる内省的な物語&『ウエスト・サイド・ストーリー』オマージュ作品だったんだな…と、改めて。
 ――1970年代、ニューヨーク・ブルックリン。主人公トニー・マネロは金物屋で働く若者。失業中の父親は飲んだくれで、家庭にはいまいち安らぎがない。そんなトニーの生き甲斐はディスコであざやかな踊りを披露すること。ディスコで開催される高賞金のダンス大会のことを知り、目を引く踊りを見せていた年上の女性ステファニーをパートナーに誘ってみるトニー。マンハッタンで働くステファニーは、知的な会話を求める上昇志向の強い女性で、周りにあまりいないタイプ。パートナーの件については承諾するも、トニーの誘いにつれない様子。――けれども。彼女もまた、必死に背伸びしていたことが判明する。ケンカをしてボロボロの状態でダンス大会に出場するトニー。しかし。――プエルトリコ系のコンビの踊りの方が自分たちより絶対に上手かったのに、自分たちが優勝したことに憤り、人種差別だ、こんな審査はインチキだ! と、賞金をプエルトリコ系のコンビに渡して、トニーはディスコを後にする。――そして、思いもかけない友達の死――。トニーは決意する。――自分は何とかして、この街から抜け出さなくてはいけない――と。終幕、ステファニーは、トニーの存在に安らぎを感じていたことをやっと認める。その上で、「私たち、友達でいましょう」と言う。そこに流れるのが名曲「How Deep Is Your Love」! 友情を確かめるシーンで、流れるのは紛うことなきラヴソング――友達でいることが、二人の愛、と。しかし。その一方で、…この先どうなるものやら…とも思う。というか、ヒロインが主人公を男として拒み続ける理由がいまいち腑に落ちず…――男女の関係になってしまって、それゆえに揉めて別れたりして相手の存在を失うより、このまま友人でいた方がいいという判断なのか。それはさておき。
「How Deep Is Your Love」――もともと、テイク・ザットによるカバー・バージョン(1996年の解散前にリリースされた最後のシングル)が好きだったのですが。…恋愛と救済をごっちゃにしてはいけない…という橋本治の『恋愛論』に薫陶を受けた人間としては100パーセント同意しかねる歌詞のくだりもあり、そもそも愛の深さとは、別に敢えて見せてとか言うべきものでも敢えて見せるべきものでもなく、何かの際にはっと明らかになって心打たれるようなものであると思うのですが、それでもやはり、名曲であることは間違いなく。「♪You may not think that I care for you/ When you know down inside that I really do」という箇所がとりわけいいなと。
 主人公トニーを演じたリチャード・ウィンザーは、イギリスの鬼才マシュー・ボーンのダンス・カンパニーの出身で、その来日公演にもたびたび参加してきた人。踊る! キレッキレに男を見せつける――そして今回、芝居心、役者としてのナイーヴなトニーの造形に心惹かれるものが。イギリス人クリエイターたちと真摯に作り上げた作品で日本の舞台に再び登場する日が楽しみ。
2019-12-27 15:13 この記事だけ表示