17時の部を観劇(赤坂ACTシアター)。「You Are My Own」において、作中もっとも厳しい父の愛を炸裂させたキャリエール役岡田浩暉に痺れた!&クリスティーヌ役の愛希れいかは、「My True Love」歌唱で女優として一段大きな階段を昇った感あり。
2019-11-30 23:38 この記事だけ表示
 ファントムに扮した加藤和樹の演技はとてもよかった。岡田浩暉演じるゲラール・キャリエールと歌った「You Are My Own」に、…男性はこのように受け止められたいんだな…と感涙。仮面の奥にひそむ美しさがちゃんと表れているから、本日からの赤坂ACTシアター公演、自信をもって頑張って!
2019-11-09 01:28 この記事だけ表示
 内容に思いっきりふれます。

 『ビッグ・フィッシュ』の主人公エドワード・ブルーム(川平慈英)は、何かと話を大きくおもしろく広げていってしまうお父さんである。“ほら吹き”と思う人もいるかもしれない。釣った魚の大きさ――“ビッグ・フィッシュ”!――。少年時代、魔女に会って、自分の人生の最期について教えてもらった話。大木ほども背が高い巨人と友情を結んだ話。後に妻となる女性サンドラ(霧矢大夢)にサーカスで出逢った話、等々。子供のころはそんな話に楽しく耳を傾けていた息子ウィル(浦井健治)も、成長するにつれ、父の語る言葉が信じられなくなってゆき、親子の間に断絶ができる。そしてエドワードは病に倒れる。妻ジョセフィーン(夢咲ねね)との間に子を授かった、つまり、自らもまた父となることとなったウィルは、本当の父を知りたいと願い、故郷に戻る。そして彼が知った真実とは――?
 そんな一風変わった物語の語り部を演じて、川平慈英が大奮闘を見せる。彼は客席を巻き込むのが実に上手い役者である。いつだって最初からフルスロットルである。「楽しませる!」という気概に満ち満ちている。舞台に立つ以上、それがまずは彼の出発点であると言わんばかりに。私は「楽しむ!」という気持ちで客席に座る、座りたい人間だから、「楽しませる!」「楽しむ!」で、役者川平慈英とは非常に心のギアが合いやすい。
 そして、エドワードを演じる彼は、奇想天外な物語の数々を語って大いに楽しませる。…お話、もっともっと聞かせて! と思う。――かつて、指揮者のジャナンドレア・ノセダ氏にインタビューした際、こう話していたのを思い出した。たとえ同じおとぎ話でも、語り上手のおばあちゃんならば、子供は、「お話、また聞かせて」と何度もせがんでしまうものでしょう。指揮者の役割とはそういうものだと思っています、と――。
 …不思議に思う。どうして彼の息子ウィルは、こんなにおもしろいお父さんの話が楽しく聞けないのかしら、と。
 言うならば、父エドワードと息子ウィルとの関係とは、虚構を語る者と、その虚構を素直に受け止められなくなってしまった者、つまり、劇場空間に即して考えるならば、舞台上と客席との間で発生するもっとも不幸な関係のメタファーとも考え得る――白井晃が演出する舞台においては、しばしばそういった演劇論を感じ取ることができるのが、非常に興味深いところである。舞台上の人間に対してもっとも送ってはいけないと私が思うところの目線、それは、「あなたたちのやっていること、全部、嘘でしょ?」という目線である――もちろん、観客がどのような目線を送ろうがそれは観客の自由であって、演じる方には、そういった目線をも跳ね返す強靭なものが求められているわけだけれども。
 この物語の最後において、川平演じるエドワード自身は人生の最期を迎える――だから、舞台が終わってほしくない。続いていってほしい。自らの最期を、彼は息子ウィルに語ってほしいと願う。ウィルは、父の故郷の街を訪ねたことで、父の真実、すなわち、いつも話を大げさにふくらませているとしか思えなかった父が、唯一家族に語ることのなかった、人生におけて成し遂げていたある偉業――エドワードは、ダム建設によって水の中に沈んだ故郷の街の移転にあたって、大きな功績を果たしていたのだった――を知った。そして、なぜその偉業について父自身が語らなかったのか、その理由も。虚構の中に、真実は隠れていた――これまた秀逸なメタファーである。観客は、虚構を演じる役者のうちに、その人物の真実を観るのだから。
…この人は、舞台に立つことに命を懸けてきた役者なのだ――と、物語を語り終えて、語り部を引き継いで、舞台後方へと去っていく――エドワードとして死んでいく――川平慈英の背中に、思わずにはいられなかった――。

 ブロードウェイ・ミュージカルである。日本語ジョークに翻訳されているけれども、アメリカン・ジョーク満載である。だから、川平慈英は、アメリカ人としてのエッセンスを付け加えて、エドワードというキャラクターを創出している。「これは日本ではない国の話ですよ!」という提示は、観客にとっては非常にわかりやすく、ありがたい。
 川平エドワードが終生愛を捧げ続ける妻サンドラを演じるのは霧矢大夢。彼女の宝塚在団中の当たり役の一つに、『ガイズ&ドールズ』のアデレイドがある。コケティッシュなアメリカ人女性が大得意。だから、川平とカップルとしての相性が抜群である――もし二人で『ガイズ&ドールズ』のネイサン・デトロイトとアデレイドを演じるようなことがあったら!―― 在団中の彼女には、与えられた課題を高いレベルでクリアすることに長けたイメージがあったのだけれども、難作『この熱き私の激情』(2017)において、自分の内から課題を生み出し、演じるという作業に果敢にチャレンジしていく姿に好印象を抱いた――というのも、この作品においては自らの“女”に極限まで向き合わざるを得ないところがあり、宝塚歌劇の男役経験者にとってはそれがときに非常に難しい作業となるのだろうということを痛感するものだからである。そんな貴重な経験を経て、霧矢大夢は今や立派に女優である。だからこそ、ところどころでヒゲ面の老農夫として出てくる場面が、その魅力のすてきなアクセント。女性としてのチャーミングさがつまった、サーカスのオーディションでのソング&ダンス。エドワードとサンドラが、サンドラの大好きな黄水仙の花が一面に咲き乱れる中で愛を誓い合う一幕ラストは、川平と霧矢、二人の役者のキュートな魅力があふれて、まるでおとぎ話のワンシーンのよう――。
 ウィルを演じた浦井健治だが、愛する父を信じたいのに信じられない、その息子ならではのジレンマがもっと浮き彫りになると、二人の対立とその和解が一層明白になるようにも思った。何だか、演じている自分自身をどこか信じていないような、そんなもどかしさを、観ていて途中まで感じたからである――それはすなわち、エドワードとウィル、虚構を語る者とその虚構を素直に受け止められなくなってしまった者との対立が、一人の人間の内に起きているのかもしれないという事態を示唆するものだけれども。だが、まずは川平、そして霧矢と、エネルギーが次々に転火していった中で、父エドワードの最期を精いっぱい語ろうとするウィルのナンバーでは、霧が晴れたような歌唱を聴かせてくれて大いに安心。浦井は、四月に主演したミュージカル『笑う男』では、見世物となるため幼少期に口の両端を切り裂かれ、いつも笑っているような顔にされてしまった主人公を演じていた。原作はヴィクトル・ユーゴー、社会の歪み、醜さを鋭く切り取ったこの物語の中で、“笑う男”としての運命を生き抜く様を描き出すその演技は美しかった。内なる美を信じて、役者としてさらに邁進してほしいと思う(今回、前髪が長すぎて何だか美貌を損ねているようにも思ったのだけれども、役柄上の指定だったら申し訳ない)。
 最近、宝塚トップ娘役の退団後の活躍がめざましいけれども、ウィルの妻ジョセフィーン役の夢咲ねねもそんなトップ娘役の一人である。女優と娘役とで舞台上におけるありようはいかに違うのか、そこを鋭く言語化していきたいというのが今の私自身の課題なのだけれども、彼女もまた、娘役から脱皮して、女優としての成長を見せていると感じた。
2019-11-07 23:19 この記事だけ表示
 主人公エドワード・ブルーム(川平慈英)の最初のナンバーから涙涙涙で、…終盤、嗚咽。自分で自分に内心「あひる、うるさいよ〜」と突っ込むくらい、嗚咽。…舞台、終わってほしくなかった…。明日からの公演をご覧になれば、わかります(11月1日〜28日、シアタークリエ)。風変わりな体裁の演劇論ともとれる作品。
2019-10-31 23:51 この記事だけ表示
 今宵観劇(18時半、赤坂ACTシアター)。自らの愛する「レキシ」の楽曲を用いて、原案・演出・上演台本のたいらのまさピコ(河原雅彦の「レキシネーム」)は、「好きなことやれ〜!」の精神をすさまじい深度と濃度で貫き通し、スタッフ・キャストがそれに見事に応えた。爆笑と、嗚咽と。スタンドに弾丸ライナーで突き刺さる満塁ホームラン! こういう痛快な舞台が観たかった!!!
2019-03-12 23:20 この記事だけ表示
 本日夜の部(18時半、日生劇場)観劇。こんなにもこの作品に共感できるとは、5年前の初演を観たときには思わなかったなと…。人間、長く生きてみなくてはわからないもの。愛と赦しの物語に、音楽もひときわ心に沁みて。頭と心を整理したく、しばしの間、観劇のおともに、作品に寄せて昨年、ファントム役の石丸幹二さんにさせていただいたインタビュー記事をお楽しみいただければ。

https://spice.eplus.jp/articles/197498
2019-01-24 22:59 この記事だけ表示
 とても美しいヴィジョンを観た!!! そして、いまだかつてないセクシーな魅力。
 何だか、不思議なくらい、年末考えて書き記していたことと重なるところの多い作品でした。公演は明日から東京芸術劇場プレイハウスにて〜。
2019-01-04 22:13 この記事だけ表示
 子供のころから、原作小説『メアリー・ポピンズ』が大好きだった。小学生のころ、彼女のように空を飛びたくて、風が吹くと飛んでいこうとして傘を広げて、…それでよく傘を壊して、母に怒られた。
 昨年、舞台のヴィジュアル撮影日に、取材があった。スタジオを訪れると、濱田さんがメリーの扮装をして、撮影している。…メリー・ポピンズがいる! と思った。そしてその取材で、改めて考えさせられた。メリー・ポピンズは、いったい何者なんだろう? と。魔法使い? 宇宙人? ミュージカル『メリー・ポピンズ』は、2004年に開幕してすぐ、ロンドン・ウエストエンドで観ている。そのときはあまりあれこれ考えずに、楽しい舞台だなあと思っていたのだけれども。
 そして、日本版の観劇(3月26日18時の部、シアターオーブ)。メリー・ポピンズ=濱田めぐみ、バート=柿澤勇人。
 原作が大好きだったから、私は、子供のころにジュリー・アンドリュースが主演した映画版を観て、ちょっとメリーの愛想がよすぎると思ったくらいだった。濱田メリーは、原作と映画版の中間くらいの不機嫌さに感じられて、いい塩梅。そして、もう、メリー・ポピンズそのものにしか見えなかった。「濱田めぐみ」が消えていた。それこそ、魔法のような。
 …最後、どうして、メリー・ポピンズは去っていってしまうのかな、と思った。バンクス一家がうまく行くようになったら、いなくなってしまう。さみしい! 彼女自身はさみしくないんだろうか。みんなとずっと一緒にいたいと思わないんだろうか。
 何だか、その姿が、自分の仕事とも重なって。
 どこまで書くとおかんになってしまうのか、その辺のさじ加減が難しいなあと、いつも思う。書いた方がいい場合と、書かない方がいい場合と…。いい感じの関わり方。距離感。悩むところ。
 柿澤勇人も非常によかった――彼は、昨年上演された彩の国シェイクスピア・シリーズ『アテネのタイモン』のアルシバイアディーズ役もすばらしく、彼岸に誇らしく思った。今回の舞台では、バンクス家の子供たちを温かく包み込み、見守るバート。舞台を観ていて、自分もすっかり子供に戻っているから、「メリーがいなくなっちゃったの」と、子役たちと一緒になってバートに訴えかけたいくらい。そして、心から熱い炎を発して、柿澤バートは歌い踊った。楽しかった! 一緒にそんな時間を過ごせたことを、本当に幸せに思った。
2018-12-30 00:50 この記事だけ表示
 …では、蜷川幸雄と私の間にあった感情がどのようなものであったか、はっきりと説明するのは難しい。師弟愛もあった。私の方では父に対するような愛を感じていたし、母のような愛への希求を感じたこともあった。シェイクスピア作品における王と道化のような関係にまでなれていたかどうかは、私の方にどこまで“道化”としての才能があったかによるけれども…。今年、「お二人は、僕の目にはこう映っていましたよ!」と、本当に素敵な、おしゃれな形で伝えてくださった方がいて、…そんな風に見えていたんだとしたら、うれしいな…と、ぐっと来るものがあったけれども。
 いずれにせよ、私は、彼が亡くなってからしばらく、自分の胸の中にぽっかりと空いた穴をぼんやり見つめていて、ある日、悟ったのである。…ああ、これは、失恋したときと同じ感覚だな…と。「それは恋」だと――「それは恋」は、蜷川幸雄がかつて演出した『近松心中物語』で流れた、森進一の歌う主題歌である(戯曲も歌詞も秋元松代の手による)。恋と言っても無論、「芸術上の恋」である。そして、通常「恋」という言葉から想像するような、甘い雰囲気というものは一切なかった。激しく切り結び合って、隙あらば斬る、そんな、凄絶な魂の闘いだった。そのときのことを思い出すと、…今の自分は自分に甘すぎるだろうか…と反省するときがある。もっと自分に厳しくあらねばならないのではないか、と。
 そして私は、昨年秋、『欲望という名の電車』に出演する大竹しのぶさんの取材に行った。
 …ああ、この人の胸にも、同じ穴が開いているんだな…と思った。「手を取って一緒に泣きたかった」と書いたのは、そういう思いからである。

 さて、取材をしているとき、私の胸にはもう一つの思いもあった。…自分、何やっているんだろうな…という思い。
 好きなミュージカルの曲は多い。けれども、その中で、『リトル・ナイト・ミュージック』の「センド・イン・ザ・クラウンズ」(道化!)と、『グレイ・ガーデンズ』の「アナザー・ウィンター・イン・ザ・サマー・タウン」が、とりわけ好きである。…どちらも、女性が年齢を重ねることを歌ったナンバーなのだけれども、「センド・イン・ザ・クラウンズ」が「…歳をとったことよ…」としみじみするのに対し、「アナザー・ウィンター・イン・ザ・サマー・タウン」は「…私ってば、いつの間にか歳をとっちゃってたんだ!…」と、自分で自分に驚く感じというか。
 『リトル・ナイト・ミュージック』に関しては、1973年のブロードウェイ初演のCDを一時期毎日繰り返し聴いていて、その中で「センド・イン・ザ・クラウンズ」を歌うグリニス・ジョーンズは少々声が老いすぎているようにも感じて、ロンドンのウエストエンドにあったミュージカル専門店「ドレス・サークル」の店員のおじさまに「他にいいのないですかね」と相談したら、「老いた女の歌なんだからあれでいいの!」とちょっとガミガミ言いつつ他の人のCDを出してきてくれたことも。ちなみに、2009年のブロードウェイ再演も観たけれども、キャサリン・ゼタ=ジョーンズが、まったく気持ちは盛り上がっていないのに、この曲を歌う瞬間になったら突如として涙だけ流し始める、その芸当に、本当にびっくりした…。
 『グレイ・ガーデンズ』については2006年のブロードウェイ初演を観て大好きになり、これまたCDを一時期毎日繰り返して聴いていたけれども、「♪私の季節はだいぶ前に終わってしまった/なのに、誰もパーティのテントをしまいに来なかった」と歌う「アナザー・ウィンター・イン・ザ・サマー・タウン」の歌詞は、今かみしめると『欲望という名の電車』に何だかとても重なるような…。ちなみに、『グレイ・ガーデンズ』で主人公イーディス・ブービエ・ビールを演じたクリスティーン・エバーソールは、この演技で2007年度のトニー賞ミュージカル部門主演女優賞を受賞するのだけれども、その際、…ハリウッドではもう歳が行き過ぎていると言われた私が、今こうしてブロードウェイで賞を受けるなんて! …という、女性が年齢を重ねることについてあれこれ言われることに対するある種の告発のようなスピーチを、実に美しい澄み切った声でしていて、それは凄みがあったことだった。
 30代の私は、この二つの曲を繰り返し聞いていて、「…いつか、自分が歳をとったなと思ったとき、この二つの曲を歌いこなせる女優が日本に現れて、その歌を聴いてしみじみしたいな…」と思っていたのだった。同世代で、そういう女優になれそうな人がいたらいいな…と思っていた。それで何だかあれこれ必死になっていた部分も大いにあったのだった。
 …いるじゃん! 目の前に! 『グレイ・ガーデンズ』もやって、今度『リトル・ナイト・ミュージック』をやろうとしている人が。
 大竹しのぶ!
 私とは15歳違いである。私が10歳のとき、相手は25歳。子供にとっては、…大人! という感じである。それが、年齢を重ねていくにつれて、年齢差、その体感は、薄れたり、揺らいだりしていくものであるということに、年齢を重ねたからこそ気づいた。その人の中で年月がどう重なっているかが重要なのである。だから、年上でも若いな、幼いなと感じる人もいれば、年下でも立派な大人だなと感じる人もいる。年齢は本当に一つの数的メルクマールに過ぎない。そして、45歳(取材当時)になった私からすれば、大竹しのぶは、いい意味で年月を重ねていて、でも、いい意味で本当に若々しくて、…あちらから見ればずうずうしく映るかもしれないけれども、もう、同世代ってことでいい! と。
 彼女の『グレイ・ガーデンズ』は、残念ながら観られなかった――実家の愛犬は死ぬわ、厳寒のニューヨークに出張はするわ、帰ってきたら仕事が大変なことになっているわ、そんな2009年12月だった――。『リトル・ナイト・ミュージック』こそは!

 『リトル・ナイト・ミュージック』は、イングマール・ベルイマンの映画『夏の夜は三たび微笑む』をミュージカル化したものである。ヒロイン・デジレは、娘フレデリカを母に預けて旅回りの役者稼業をしている。母はかつて貴族の囲われ者で、デジレの生き方についていろいろ思うところがある。デジレは今はカールマグナス・マルコムという軍人の愛人であり、彼の妻シャーロットもその関係に気づいている。一方、成功した弁護士フレデリック・エガーマンには、息子ヘンリックよりも年下の18歳の幼な妻アンがいるが、結婚から一年近く経とうというのにアンはフレデリックとの同衾を拒み続けており、ヘンリックもまた深く悩める若者である。ある夜、フレデリックはデジレの公演を観に行き、かつて恋仲だった二人は再び愛を交わす。フレデリックとアンの夫婦仲がうまく行っていないことを知ったデジレは一計をめぐらし、週末、母の館へと皆を招待する。作詞・作曲はスティーヴン・ソンドハイム。ときにチャイコフスキーをも思わせる優美なワルツは、空の彼方へ、ふわっと、聴く者の心をいざなうように響く。音楽もセリフも実にウィットに富んだ中に、一つのテーマとして“欲望”――デジレ!――がある。女中のペトラに誘惑されたり、青春真っ盛りのヘンリックは最終的にアンと駆け落ちするし、一度はデジレの求婚を拒むフレデリックも、やはり自分の心の中にある愛を認め、デジレと結ばれる。拒まれた際にデジレが一人歌い、そして、結ばれたデジレとフレデリックがラストで二人、今度はリプライズで歌うのが、「センド・イン・ザ・クラウンズ」。
 …迷うことなくデジレでしょう!!!
 舞台冒頭からそう思ってしまったあひるであった。なんであんなにチャーミングなのか…。確かにデジレの生き方は、彼女の母が懐疑的に思うように、人生設計がきちんとできている、何らかの打算や計算ができているものではないかもしれない。未婚の母で、今は女優としても少々行きづまっていて、愛人もかっこいいにはいいけど頭が何だか空っぽぽいし…。でも、終始、生き生きしている。生を謳歌している! 立ち止まっても、傷ついても、生を謳歌することをやめない。その都度その都度、命の炎を燃やしている。だから、心ひかれる。
 「センド・イン・ザ・クラウンズ」。
 涙涙涙。
 そして、ラストのリプライズ。
 …えっ?! そっちの役?!
 いつの間にか、何だかものすごい見えない圧により、風間杜夫演じるフレデリックに自らを重ね合わさざるを得ないあひるであった。…私にとって、大竹しのぶを受け止めるということは、そういうことなのである。男の側に立つ。この後、秋に観た『ピアフ』でもそうだった。宝塚歌劇における男役/娘役の関係性を、舞台と客席とで行なう感じというか。しかし。あひるはかつて、「男役になりたかった」と書いて、笑いを誘った人間である。男役、娘役で言うなら、どう考えても娘役向き。なのだが、大竹しのぶはいつでも絶対に「女」で向かってくる。…すごいと思う。しかたない。いつか来るマブダチの日のためにも、自分の中の「男」を強固に磨いておかねばなるまい…と決意するあひる。
 それにしても。あんなに何度も繰り返し聴いていた「センド・イン・ザ・クラウンズ」を、フレデリックの立場でしみじみ聴くことになるとは、まったくもって思わなかった…。そして、そうして聴いていて、幸せだった。生きてみなきゃ、わからない。人生って本当におもしろい。ちなみに。リプライズの方の歌詞では、「リア王」への言及があるのだった。

 ヘンリック役のウエンツ瑛士が、思春期特有の青年のもやもやをナイーヴに表現していて◎。カールマグナス役の栗原英雄も、軍人ならではのぴんと一本筋の通った立ち姿に軍服がよく似合う。“欲望”がテーマのこの作品においてキーパーソンである女中のペトラ役の瀬戸カトリーヌ(このときは「瀬戸たかの」)も、「粉屋の息子」の歌唱において存在感を示していた。それにしても。あの三拍子(の曲だけではないけれども)に日本語を乗せて歌うのは難しい! スタッフ・キャストに拍手。

(4月23日13時半の部、日生劇場)
2018-12-29 18:56 この記事だけ表示
 12月10日19時、東京オペラシティコンサートホール。
 第1部。オープニングの『オペラ座の怪人』の「マスカレード」に続き、「ザ・ファントム・オブ・ジ・オペラ」(デュエット相手はオペラ歌手の林正子)の前奏が流れ始める。そして登場した岡幸二郎の第一声で、…なぜだか、涙がすぐさまあふれ出すのだった。仮面をつけているわけではないのに、つけているようにしか見えない、そのたたずまい。知られたいのか知られたくないのか、怪人の、その内奥。…殺される!、 そう思った――歌声に…殺される! と思ったのは、「エリザベート TAKARAZUKA20周年 スペシャル・ガラ・コンサート」で、一路真輝のトートが歌った「最後のダンス」を聴いて以来かもしれない――。まるで金縛りに遭ったように、ぶるぶる震えながら、涙を流し続けていた。アンドリュー・ロイド=ウェバー版『オペラ座の怪人』にせよ、モーリー・イェストン作曲の『ファントム』にせよ、劇場に棲まう怪人の物語には、芸術における忘我、エクスタシーの瞬間が如実に捉えられ、表されている。続く「ミュージック・オブ・ザ・ナイト」。――そのとき、その場に、岡ファントムと自分と、二人しかいないような、そんな感覚に囚われた――。
 岡のトニー、島田歌穂のマリアで聴く『ウエスト・サイド物語』の「トゥナイト」。――コンサートだから、舞台装置はない。けれども、歌声を聴いていると、星がぱああっと夜空一面にきらめく、恋に心躍る瞬間があるのだった。『オペラ座の怪人』にしても、『ウエスト・サイド物語』にしても、…こういう曲だったのだ…と、改めての発見が多い。
 第2部。『ミス・サイゴン』から「命をあげよう」、そして「ブイ・ドイ」。岡は、「命をあげよう」で、母になる。そして、「ブイ・ドイ」では、父になる。母なる愛と、父なる愛とが、岡幸二郎という一人の人間の中に在る――その目まぐるしい変化に、聴いているこちらも心忙しく(笑)ついて行かなくてはならない。「命をあげよう」を聴きながら、私は、神に、自分の無力さについて祈っていた――力がまだまだ足りないために、自分が幸せを願うすべての人々に幸せをもたらすに至ってはいません…と。
 そこから『レ・ミゼラブル』の楽曲へと続いて行って、アンコールは「ワン・デイ・モア」。キャスト全員での力強い歌唱に、またもや、…自分でもすぐには理由のわからない涙がとめどなくあふれ出す。――それぞれの想いを抱える人々。その想いの交錯で、この世界は成り立っている。そんな世界の中で、人は生きる。一日、一日を生きる。今日も生きた。明日はわからない。でも、きっとまた生きる。死が訪れる、その日まで――。
 竹本泰蔵指揮の東京フィルハーモニー交響楽団のサウンドとあいまって、いい意味で、実に破壊力の高いコンサートである――ナンバー一つ一つが、宝石箱の中できらきらと輝く宝石のようである。そして、ゲストの楽曲を含め、構成が巧みに練られている。例えば、林正子によるオペラ『蝶々夫人』の「ある晴れた日に」に続き、『蝶々夫人』を基にした『ミス・サイゴン』の「命をあげよう」が流れ、「ブイ・ドイ」から『レ・ミゼラブル』の「ブリング・ヒム・ホーム」への流れは、父なる愛でスムーズにつながっていく。ピアノ・アレンジが美しい『キャッツ』の「メモリー」と、一世を風靡した『レ・ミゼラブル』の「オン・マイ・オウン」とで、まったく異なる表情を見せる島田歌穂。石井一孝が直球勝負で聴かせる「ブリング・ヒム・ホーム」。マイクをもってのミュージカル・ナンバーとオペラ・アリアの両方を歌った林正子は、「ワン・デイ・モア」ではなんとテナルディエ夫人パートに挑戦。そして、あんなにおもしろい人だったとは! 彼女だけではない、全員からおもしろさを引き出す岡のホストぶり。歌に泣き、トークではいっぱい笑って…。
 先月上旬に取材させていただいた際(https://spice.eplus.jp/articles/216950)、私は途中で岡さんに、「泣いていいですか」と聞いたのだった――心打たれる瞬間があったから。結局、泣きはしなかったけれども、でも、そのとき泣きたかった気持ちが、この夜の彼の歌声によって、昇華されて、天へと立ち昇ってゆくようで…。そして取材の際、岡さんと私は、…この年齢まで生きたら、もう絶対、これから先の時間を無駄にしたくないですよね…という話で盛り上がっていたのだった。歌の力。ミュージカルの力。ミュージカルだからこそ可能となる美。これから先、ぜひ一緒に闘わせてください!
2018-12-13 23:55 この記事だけ表示