指揮=コッラード・ロヴァーリス、演出=ヨーゼフ・E.ケップリンガー、合唱=新国立劇場合唱団、管弦楽=東京フィルハーモニー交響楽団。2005年から上演されているケップリンガー演出版の5年ぶり6度目の上演。
 ピエール=オーギュスタン・カロン・ド・ボーマルシェが1775年に戯曲『セビリアの理髪師』を書いたとき、彼は1775年より後の世界を(予見することはできたとしても)知らない(1789年にはフランス革命が起きた)。1816年にジョアキーノ・ロッシーニがこの戯曲をもとにオペラを作曲したとき(台本:チェーザレ・ステルビーニ)、彼は戯曲誕生後から1816年までの世界を知ってはいても、1816年より後の世界を(予見することはできたとしても)知らない(1814年〜15年のウィーン会議により、反動的国際体制であるウィーン体制が成立し、王権への揺り戻しが起きた)。作品成立後の世界を知る者は、込められた予見がどの程度まで当たっていたかを見極めつつ、現時点での自らの予見をもって作品に対峙する。そんな歴史の流れを感じさせる、ロヴァーリスの指揮だった。それもあって、ケップリンガーの演出の時代背景がなぜフランコ独裁政権下の1960年代のスペインに設定されているか、今までになくよくわかる上演となっていた。昨年、新国立劇場オペラパレスでロッシーニの『ウィリアム・テル』が初めて上演され、作曲家の硬派な一面が鋭く紹介されたこともよい流れだったと感じた。このプロダクションでのドン・バジリオ役で4度目の登場となった妻屋秀和のアリア「中傷はそよ風のようなもの」がよかった。中傷が少しずつ広がっていく様が音楽的にも味わい深く、インターネット時代の“炎上”をも思わせる。そのアリアが、第一幕フィナーレの何だか不穏な空気へとつながっていっていると感じた。夜明けや夕暮れを思わせる八木麻紀の照明が美しい。

(5月30日18時半、新国立劇場オペラパレス)
 指揮=沼尻竜典、演出=粟國淳、管弦楽=東京交響楽団。フィレンツェを舞台にした作品の2本立ての再演。アレクサンダー・ツェムリンスキー作曲の『フィレンツェの悲劇』の原作はオスカー・ワイルド。寝取られモラハラ夫とその妻と妻の浮気相手の男と、3人が織り成す心理ドラマにワイルドらしい皮肉なオチ。ジャコモ・プッチーニ作曲の『ジャンニ・スキッキ』は、タイトルロールに扮したピエトロ・スパニョーリの抑制の効いたコミカル歌唱と演技がとても楽しい。ラウレッタ役の砂田愛梨が歌うアリア「私のお父さん」には、私自身が父に結婚したいと告げた日の気持ちを思い出し、涙。登場人物は自分に有利な遺産相続になるようやきもきしているし、ラウレッタも「私のお父さん」で婚約指輪を買いに行きたいわと歌っていて、 “欲望”というテーマも共通するダブルビルなんだなと。そして『ジャンニ・スキッキ』は普段ミュージカルになじんでいる方にも非常に聴きやすい作品かと。公演は明日8日まで。

(2月4日14時、新国立劇場オペラパレス)
 指揮=マルク・アルブレヒト、演出=マティアス・フォン・シュテークマン、合唱=新国立劇場合唱団、管弦楽=東京交響楽団。本番直前にオランダ人役のエフゲニー・ニキティンの体調不良による降板が告げられ、カヴァーの河野鉄平を代役に20分遅れで開演。責務に誠実に向き合うゼンタ役のエリザベート・ストリッドがきりっと舞台を引き締めた。船に敢然と乗り込むラストのかっこいいこと。新国立劇場合唱団も力強く舞台を支えた。序曲を聴いていて、20代の作品とはいえ、苦悩も含めこんなに激しい思いを内に抱え、それを書き表したワーグナーの心身の強靭さを思った。

(1月19日14時の部、新国立劇場オペラパレス)
 指揮=ヴァレンティン・ウリューピン、演出=ドミトリー・ベルトマン、合唱=新国立劇場合唱団、管弦楽=東京交響楽団。2019年初演以来の再演。
 第1幕第2場の「タチヤーナの手紙」の場面を聴いていて(タチヤーナ役はエカテリーナ・シウリーナ)、……チャイコフスキーは幸せな恋を知る人なのだな、と感じた。でも、この恋が上手く行かないことは、曲の中に暗示されているな、とも。第2幕第2場の詩人レンスキー(ヴィクトル・アンティペンコ)のアリアを聴いて、チャイコフスキーは“書く”人たちに美しい音楽を与えるのだな、と重ねて思った。
 最後の方で、舞踏会でタチヤーナが着ていたドレスが脱いだまま置かれているのを、オネーギン(ユーリ・ユルチュク)が抱きしめる演出がある。私はここを観ると、田山花袋の『蒲団』(妻子ある主人公が、自分の家を出ていった女弟子が使っていた寝具の匂いを嗅ぐ描写がある、日本の自然主義文学を代表するとされる小説)のことを思い出す。

(1月31日&2月3日14時の部、新国立劇場オペラパレス)
 指揮=飯森範親、演出=ダミアーノ・ミキエレット、合唱=新国立劇場合唱団、管弦楽=東京フィルハーモニー交響楽団。2011年に初演され、今回が11年ぶり3度目の上演。解放感あふれるキャンプ場での出来事という設定にしているのが効いていて、パオロ・ファンティンの作り込んだ美術も非常におもしろい。

(5月30日18時半の部、新国立劇場オペラパレス)
 指揮=マウリツィオ・ベニーニ、演出=バルバラ・リュック、合唱=新国立劇場合唱団、管弦楽=東京フィルハーモニー交響楽団。新国立劇場オペラパレスにベッリーニ作品、初お目見え。のどかで美しい音楽に、不穏な演出。大きな木に男女対になった人形が吊るされ、……この女があかんなら、今度はこっちの女と結婚しろ〜とばかりに圧をかけてくる共同体が、怖い。私は、シェイクスピアの『終わりよければすべてよし』にふれるたび、……その男、やめとけ……とバートラムについて思うのですが、この作品におけるエルヴィーノについても、歌うアントニーノ・シラクーザが美声なだけに何だかよけい、……その男、やめとけ……と思い。1831年の作品初演の際、夢遊病って最先端の病だったんだろうなと、その時代にその病へと至る状況について考えたり。

(10月9日14時の部、新国立劇場オペラパレス)
 指揮=トマーシュ・ネトピル、演出=ウィリアム・ケントリッジ、合唱=新国立劇場合唱団、管弦楽=東京フィルハーモニー交響楽団。軽やかな音楽の向こうにある苦悩が感じられた瞬間があった。

(12月12日14時の部、新国立劇場オペラパレス)
 指揮=大野和士、演出・美術・衣裳=ヤニス・コッコス、合唱=新国立劇場合唱団、管弦楽=東京フィルハーモニー交響楽団。ジョアキーノ・ロッシーニの最後のオペラ作品を日本で初めて原語で舞台上演。輝かしく美しい音楽が堪能できると共に、歴史と思想史を伝え、現在、未来を考える手がかりと成し得る、そんなメディアとしての舞台芸術、オペラの可能性に改めて目を拓かれる舞台。あまりに有名な序曲が何だか挽歌のようにも聴こえ――文化や時代に終止符を打つ歴史上のさまざまな出来事について思いを馳せ。“森”がもつ文化的、民俗学的意味合いについても考えた。第二次世界大戦下における日本とアジア諸国の関係性、第二次世界大戦後のアメリカと日本の関係性が鏡合わせのように見える瞬間もあった。知性と感性に訴えかけるバランスがよくとれていて、今後新国立劇場オペラパレスにおいて長く上演されていってほしいプロダクション。

(11月26日14時の部、新国立劇場オペラパレス)
 物語の社会的背景や登場人物のおかれた状況、そしてさまざまな感情につき、奥深く、それでいて実にバランスよく提示するマウリツィオ・ベニーニの指揮が多くの示唆に富んでいて、冒頭から心をぐっとつかまれた。非常に新鮮にこの物語を受け止めることができ、カヴァラドッシに仮託されたものについて改めて興味深く思った。新国立劇場の人気プロダクション、アントネッロ・マダウ=ディアツの演出もわかりやすく、オペラに初めてふれる方にもお勧めしたいこの公演は21日まで。

(14時の部、新国立劇場オペラパレス)
 指揮:フランチェスコ・ランツィロッタ(管弦楽:東京フィルハーモニー管弦楽団)。このオペラを聴くといつも出だしから問いかけられているように感じるのだけれども、今日においても通じるその鋭い問いかけとさまざまな論点が明快に伝わってくる舞台だった。

(19時の部、新国立劇場オペラパレス)