藤本真由
(舞台評論家・ふじもとまゆ)
1972年生まれ。
東京大学法学部卒業後、新潮社に入社。写真週刊誌「FOCUS」の記者として、主に演劇・芸能分野の取材に携わる。
2001年退社し、フリーに。演劇を中心に国内はもとより海外の公演もインタビュー・取材を手がける。
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オペラ
指揮=大野和士、演出=ヨハネス・エラート、合唱=新国立劇場合唱団、管弦楽=東京フィルハーモニー交響楽団。新制作のプロダクションの初日。
作曲家リヒャルト・シュトラウスと原作者フーゴ・フォン・ホフマンスタール、オペラ史上に輝くコンビの最初の共作。――新たな時代到来の予見。使命の自覚。志を同じくする者との邂逅の至福、その者への祝福。そして、女性たちの内なる声を聴き、その声を音に乗せること――初演時の1909年から時を超えて、21世紀の今、否、その先まで見晴るかすような。
スポーツを観るようになって、声を出して応援をする。そのとき、自分の中からこんなにも声が出てくること、自分の中にこんなにも声があることに驚いた。そのあたりから、オペラもさらに身近なものとして聴くことができるようになった。そして、自分の中にあるものを言葉として出すためらいを以前より感じなくなった。作曲家は、言葉を得て音を紡ぎ出した。舞台評論家は、舞台を得て言葉を紡ぎ出す。
(19時、新国立劇場オペラパレス)
作曲家リヒャルト・シュトラウスと原作者フーゴ・フォン・ホフマンスタール、オペラ史上に輝くコンビの最初の共作。――新たな時代到来の予見。使命の自覚。志を同じくする者との邂逅の至福、その者への祝福。そして、女性たちの内なる声を聴き、その声を音に乗せること――初演時の1909年から時を超えて、21世紀の今、否、その先まで見晴るかすような。
スポーツを観るようになって、声を出して応援をする。そのとき、自分の中からこんなにも声が出てくること、自分の中にこんなにも声があることに驚いた。そのあたりから、オペラもさらに身近なものとして聴くことができるようになった。そして、自分の中にあるものを言葉として出すためらいを以前より感じなくなった。作曲家は、言葉を得て音を紡ぎ出した。舞台評論家は、舞台を得て言葉を紡ぎ出す。
(19時、新国立劇場オペラパレス)
指揮=レオ・フセイン、演出=ヴァンサン・ブサール、合唱=新国立劇場合唱団、管弦楽=東京フィルハーモニー交響楽団。2015年初演のプロダクションで今回が6度目の上演。
人生と人間を知れば知るほどヴェルディ作品はおもしろい。ヴィオレッタ(カロリーナ・ロペス・モレノ)、アルフレード(アントニオ・コリアーノ)、アルフレードの父ジェルモン(ロベルト・フロンターリ)、三者三様の打算や甘え――ヴィオレッタには「愛の相手、アルフレードで大丈夫?」、アルフレードには「社交界の人気者を独り占めした優越感もなくない? あと、生活費をヴィオレッタがいっぱい出していたこと、本当に気づいてなかったの?」、ジェルモンには「お父さん、息子の教育……」等々思った。そういった部分あっての人間を音楽は包み込んでいく。フロンターリが熱演を見せる第2幕1場の音楽において、ヴィオレッタとの愛を許そうとしないジェルモンなる存在に対する「赦し」を深く感じた。他者に愛され救われる部分も無論あろう。しかし、最終的には、愛する対象を得ることによって愛というものについてより深く知り、その結果、自分自身をも愛することができるようになって、救われる、そんなことを感じた。ロペス・モレノが実に強い女性としてタイトルロールを造形。第1幕の「花から花へ」で歌われる快楽志向はほとんど貧富の差をはじめとする世界の理不尽に対する復讐のよう。終幕における布を高く掲げてのtriumphantなポーズによって、この作品の原作小説のモデルとなった実在の高級娼婦マリー・デュプレシとその人生が示唆するものが改めて深く心に刻み込まれて。何度も観ているプロダクションだが、暗さが印象的なグイド・レヴィの照明も含め、今一度新たに感じ取れるものも多かった。
(4月6日14時、新国立劇場オペラパレス)
人生と人間を知れば知るほどヴェルディ作品はおもしろい。ヴィオレッタ(カロリーナ・ロペス・モレノ)、アルフレード(アントニオ・コリアーノ)、アルフレードの父ジェルモン(ロベルト・フロンターリ)、三者三様の打算や甘え――ヴィオレッタには「愛の相手、アルフレードで大丈夫?」、アルフレードには「社交界の人気者を独り占めした優越感もなくない? あと、生活費をヴィオレッタがいっぱい出していたこと、本当に気づいてなかったの?」、ジェルモンには「お父さん、息子の教育……」等々思った。そういった部分あっての人間を音楽は包み込んでいく。フロンターリが熱演を見せる第2幕1場の音楽において、ヴィオレッタとの愛を許そうとしないジェルモンなる存在に対する「赦し」を深く感じた。他者に愛され救われる部分も無論あろう。しかし、最終的には、愛する対象を得ることによって愛というものについてより深く知り、その結果、自分自身をも愛することができるようになって、救われる、そんなことを感じた。ロペス・モレノが実に強い女性としてタイトルロールを造形。第1幕の「花から花へ」で歌われる快楽志向はほとんど貧富の差をはじめとする世界の理不尽に対する復讐のよう。終幕における布を高く掲げてのtriumphantなポーズによって、この作品の原作小説のモデルとなった実在の高級娼婦マリー・デュプレシとその人生が示唆するものが改めて深く心に刻み込まれて。何度も観ているプロダクションだが、暗さが印象的なグイド・レヴィの照明も含め、今一度新たに感じ取れるものも多かった。
(4月6日14時、新国立劇場オペラパレス)
指揮=飯森範親、演出=グリシャ・アサガロフ、合唱=新国立劇場合唱団、管弦楽=東京交響楽団。2008年初演のプロダクションで今回が6度目の上演。
渦巻く時代の変革のエネルギーと、そうして社会が変化していくことへの葛藤と。糾弾する女、この世のまやかしを見抜いてしまった女、女たちの存在に仮託されたもの、そしてそれぞれの登場人物に仮託されたものが実におもしろくて聴き入った。連帯の歌、第一幕ラスト近くで繰り返される「自由ばんざい」――。作品の向こうに、尊厳を踏みにじられ、言いたいことを言えずに死んでいった数多の命があることを思った。
(3月10日14時、新国立劇場オペラパレス)
渦巻く時代の変革のエネルギーと、そうして社会が変化していくことへの葛藤と。糾弾する女、この世のまやかしを見抜いてしまった女、女たちの存在に仮託されたもの、そしてそれぞれの登場人物に仮託されたものが実におもしろくて聴き入った。連帯の歌、第一幕ラスト近くで繰り返される「自由ばんざい」――。作品の向こうに、尊厳を踏みにじられ、言いたいことを言えずに死んでいった数多の命があることを思った。
(3月10日14時、新国立劇場オペラパレス)
指揮=ダニエレ・カッレガーリ、演出=エミリオ・サージ、合唱=新国立劇場合唱団、管弦楽=東京交響楽団。2000年初演のプロダクションで今回が6度目の上演。
創造する者が、作曲にあたって、人として、芸術家として激しく苦悩し、その心の中で、天使と悪魔が戦うのを聴いていた。――心苛まれ、生きることが苦しいこの世界。呪いたい。復讐したい。けれども、その良心、天使の部分から生まれた美しい旋律が、他ならぬその美を生み出した者の心を救う。罰を与えることは神の領域である。自分はここに、呪いでも復讐でもない、この作品を理解する者、すなわち、内なる悪魔に打ち勝った者、苦しさの中でなおも生きようとする者を祝福する作品を、この世に送り出す――。
リゴレットを歌うウラディーミル・ストヤノフの声は冒頭から生の哀しみに満ち、第1幕のフィナーレでは、音楽と彼の歌声と共に自分の存在がパン! とはじけるような思いがした――。復讐心に燃えるリゴレットと、天使のような存在であるその娘ジルダ(中村恵理)の第2幕ラストの二重唱が描き出す心理的クライマックス。この二人の音楽と、富と権力をかさに女を次々と弄ぶマントヴァ公爵(ローレンス・ブラウンリー)の音楽――後者には、生きる者としての陰影のなさに、影法師のない人間を見ているような不思議な思いがした。けれども、第3幕で公爵が歌う「女心の歌」は、一度聴いたら誰もが忘れられないであろう旋律である。
ある時代の墓碑銘たらんとした作品のようにも聴こえた。王侯貴族が横暴をふるう時代。だが、そこに、例えばエプスタイン文書があらわにするおぞましさと同じものを感じた。
(2月18日18時の部、新国立劇場オペラパレス)
創造する者が、作曲にあたって、人として、芸術家として激しく苦悩し、その心の中で、天使と悪魔が戦うのを聴いていた。――心苛まれ、生きることが苦しいこの世界。呪いたい。復讐したい。けれども、その良心、天使の部分から生まれた美しい旋律が、他ならぬその美を生み出した者の心を救う。罰を与えることは神の領域である。自分はここに、呪いでも復讐でもない、この作品を理解する者、すなわち、内なる悪魔に打ち勝った者、苦しさの中でなおも生きようとする者を祝福する作品を、この世に送り出す――。
リゴレットを歌うウラディーミル・ストヤノフの声は冒頭から生の哀しみに満ち、第1幕のフィナーレでは、音楽と彼の歌声と共に自分の存在がパン! とはじけるような思いがした――。復讐心に燃えるリゴレットと、天使のような存在であるその娘ジルダ(中村恵理)の第2幕ラストの二重唱が描き出す心理的クライマックス。この二人の音楽と、富と権力をかさに女を次々と弄ぶマントヴァ公爵(ローレンス・ブラウンリー)の音楽――後者には、生きる者としての陰影のなさに、影法師のない人間を見ているような不思議な思いがした。けれども、第3幕で公爵が歌う「女心の歌」は、一度聴いたら誰もが忘れられないであろう旋律である。
ある時代の墓碑銘たらんとした作品のようにも聴こえた。王侯貴族が横暴をふるう時代。だが、そこに、例えばエプスタイン文書があらわにするおぞましさと同じものを感じた。
(2月18日18時の部、新国立劇場オペラパレス)
<『ヴォツェック』http://daisy.stablo.jp/article/518970660.html?1767165750>
演出のリチャード・ジョーンズは、新国立劇場には、2009年にドミトリー・ショスタコーヴィチの『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を演出して以来の登場。この舞台、非常におもしろかった。「2009年の心のベスト」の一つである(もう上演しないのだろうか)。
1925年に初演されたオペラ『ヴォツェック』。これまで観てきた『ヴォツェック』関連の舞台というと、暗いモノトーンの中、遠い世界の物語を見るようなイメージがあった(9月に小川絵梨子が演出したストレートプレイの『ヴォイツェック』は、翻案バージョンで異なるが)。それが、こんなにも現代的な、それも自分に近い話として展開されることに驚いた。上官や取り巻く人々から残酷な扱いを受け、何とか家族のためにと懸命に生き、でも、力尽き、不貞に走った愛する内縁の妻を殺して、池で溺れて死んでいくヴォツェック。彼は参加している実験のために支給された豆を缶から食べ、その缶をゴミ箱に捨てるという行為を劇中何度も繰り返す。そして、最初に大人の演者たちによって示された構図が、終幕、ヴォツェックとマリー(その時点で共に死んでいる)の子を含む子供たちが、大人たちとまったく同じ衣裳(の小さなレプリカ)をまとう姿でもう一度示される。恐ろしい連環の暗示。――巨大資本が牛耳るこの社会において、人間として扱われずに搾取されていくばかりのように思うときがある。でも。
「でも、生きていくんですよね!」と声が聴こえたような気がして、「もちろん!」と答える。非人間的な扱いに対する最高の抵抗は、あくまで人間として生きること。そのとき、芸術は最高の力を与えてくれる。
無調を中心とした音楽だが、楽しんで聴くことができた(指揮=大野和士、合唱=新国立劇場合唱団、児童合唱=TOKYO FM少年合唱団、管弦楽=東京都交響楽団)。その音楽の響きが、時代における人間のありようを描く要請によって生まれたものであることを思った。
演出のリチャード・ジョーンズは、新国立劇場には、2009年にドミトリー・ショスタコーヴィチの『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を演出して以来の登場。この舞台、非常におもしろかった。「2009年の心のベスト」の一つである(もう上演しないのだろうか)。
1925年に初演されたオペラ『ヴォツェック』。これまで観てきた『ヴォツェック』関連の舞台というと、暗いモノトーンの中、遠い世界の物語を見るようなイメージがあった(9月に小川絵梨子が演出したストレートプレイの『ヴォイツェック』は、翻案バージョンで異なるが)。それが、こんなにも現代的な、それも自分に近い話として展開されることに驚いた。上官や取り巻く人々から残酷な扱いを受け、何とか家族のためにと懸命に生き、でも、力尽き、不貞に走った愛する内縁の妻を殺して、池で溺れて死んでいくヴォツェック。彼は参加している実験のために支給された豆を缶から食べ、その缶をゴミ箱に捨てるという行為を劇中何度も繰り返す。そして、最初に大人の演者たちによって示された構図が、終幕、ヴォツェックとマリー(その時点で共に死んでいる)の子を含む子供たちが、大人たちとまったく同じ衣裳(の小さなレプリカ)をまとう姿でもう一度示される。恐ろしい連環の暗示。――巨大資本が牛耳るこの社会において、人間として扱われずに搾取されていくばかりのように思うときがある。でも。
「でも、生きていくんですよね!」と声が聴こえたような気がして、「もちろん!」と答える。非人間的な扱いに対する最高の抵抗は、あくまで人間として生きること。そのとき、芸術は最高の力を与えてくれる。
無調を中心とした音楽だが、楽しんで聴くことができた(指揮=大野和士、合唱=新国立劇場合唱団、児童合唱=TOKYO FM少年合唱団、管弦楽=東京都交響楽団)。その音楽の響きが、時代における人間のありようを描く要請によって生まれたものであることを思った。
指揮=園田隆一郎、演出・振付・美術・衣裳・照明=勅使河原三郎、合唱=新国立劇場合唱団、管弦楽=東京フィルハーモニー交響楽団。2022年に初演されたプロダクションの再演。公演プログラムの井内美香「オルフェウス伝説とオペラ」の項がおもしろく、オルフェオがエウリディーチェを黄泉の国から連れ戻すにあたり、会話をすることは許されていても姿を見てはいけない、つまり、聴覚は許されていても視覚は禁じられているという状態について興味深く思いながら鑑賞。初演時から出演のダンサー、アレクサンドル・リアブコが踊るとき、物語を必要以上に補足するでもない、でも、そこに人が存在して動いていることの向こうにある豊饒さを思った。
(12月6日14時の部、新国立劇場オペラパレス)
(12月6日14時の部、新国立劇場オペラパレス)
指揮=大野和士、演出=リチャード・ジョーンズ、合唱=新国立劇場合唱団、児童合唱=TOKYO FM少年合唱団、管弦楽=東京都交響楽団。人間を非人間的に扱うものとの闘い。作品の魅力をよく伝える素晴らしいプロダクション、ゆっくり書きます。上演は24日まで、お見逃しなく!
(14時の部、新国立劇場オペラパレス)
(14時の部、新国立劇場オペラパレス)
指揮=パオロ・オルミ、演出=粟國淳、合唱=新国立劇場合唱団、児童合唱=世田谷ジュニア合唱団、管弦楽=東京フィルハーモニー交響楽団。2003年初演プロダクションの8度目の上演。
扉を開けると、そこに封印されていた19世紀のパリの生活が音によって鮮やかに甦ってくるような、そんな幕開け。第1幕のロドルフォ(ルチアーノ・ガンチ)のアリア「冷たき手を」とミミ(マリーナ・コスタ=ジャクソン)のアリア「私の名はミミ」、そして二人の二重唱「おお、麗しい乙女よ」に、轟音を立てて流れていくような時間の中に生の一瞬をピン留めしたような美しさ。第2幕ではムゼッタ(伊藤晴)の勝ち誇った感とマルチェッロ(マッシモ・カヴァレッティ)の気を引こうとする演技が非常に楽しく、ムゼッタのワルツ「私が街を歩くと」で頂点に達する。第3幕ではミミとロドルフォ、ムゼッタとマルチェッロ、二組のカップルそれぞれのすれ違いと別れの決意の対比が鏡合わせのように感じられた。第4幕、ムゼッタに連れられ、ミミは愛するロドルフォのそばで死にたいと懐かしの屋根裏部屋にやって来る。第3幕での別れの決意の際も、死にあたっても、コスタ=ジャクソンのミミは毅然としている。自分で決めて行動する。過酷な運命に翻弄されるばかりではない、自立した女性の姿がそこに見て取れる――伊藤のムゼッタのありようもそんなミミの姿への強力なサポートとなる。「願わくば花の下にて春死なん その如月の望月のころ」と詠んで実際に桜の花のころに死んだ西行法師(1118-1190)の幸せを思い出す。だから、悲劇に感じなかった。ミミの生き方に喝采を送った。そして、ミミの亡骸にすがりつくロドルフォの姿を、……詩人だったら、これを書いてくださいね……と見ている自分がいた――書かれたのがこの『ラ・ボエーム』という見方ももちろんできるわけだが。
(10月4日14時の部、新国立劇場オペラパレス)
扉を開けると、そこに封印されていた19世紀のパリの生活が音によって鮮やかに甦ってくるような、そんな幕開け。第1幕のロドルフォ(ルチアーノ・ガンチ)のアリア「冷たき手を」とミミ(マリーナ・コスタ=ジャクソン)のアリア「私の名はミミ」、そして二人の二重唱「おお、麗しい乙女よ」に、轟音を立てて流れていくような時間の中に生の一瞬をピン留めしたような美しさ。第2幕ではムゼッタ(伊藤晴)の勝ち誇った感とマルチェッロ(マッシモ・カヴァレッティ)の気を引こうとする演技が非常に楽しく、ムゼッタのワルツ「私が街を歩くと」で頂点に達する。第3幕ではミミとロドルフォ、ムゼッタとマルチェッロ、二組のカップルそれぞれのすれ違いと別れの決意の対比が鏡合わせのように感じられた。第4幕、ムゼッタに連れられ、ミミは愛するロドルフォのそばで死にたいと懐かしの屋根裏部屋にやって来る。第3幕での別れの決意の際も、死にあたっても、コスタ=ジャクソンのミミは毅然としている。自分で決めて行動する。過酷な運命に翻弄されるばかりではない、自立した女性の姿がそこに見て取れる――伊藤のムゼッタのありようもそんなミミの姿への強力なサポートとなる。「願わくば花の下にて春死なん その如月の望月のころ」と詠んで実際に桜の花のころに死んだ西行法師(1118-1190)の幸せを思い出す。だから、悲劇に感じなかった。ミミの生き方に喝采を送った。そして、ミミの亡骸にすがりつくロドルフォの姿を、……詩人だったら、これを書いてくださいね……と見ている自分がいた――書かれたのがこの『ラ・ボエーム』という見方ももちろんできるわけだが。
(10月4日14時の部、新国立劇場オペラパレス)
指揮=大野和士、演出・美術=クリスティアン・レート(美術=ダニエル・ウンガー)、合唱=新国立劇場合唱団、管弦楽=東京フィルハーモニー交響楽団。多和田葉子が台本を、細川俊夫が作曲を手がけた新作オペラの世界初演。作曲家は自分の心の奥にある「果てしない海」みたいなものを想像して作曲していると語っているが(「クラブ・ジ・アトレ」誌2025年8月号インタビューhttps://www.nntt.jac.go.jp/opera/news/detail/6_030165.htmlより)、自分自身の内なる海のようなものをも呼び覚まされるような、そんな海の中でたゆたっているような感覚を与える音楽は、またいつか聴きたいと思わせる魅力があった。言葉の通じない移民ナターシャ(イルゼ・エーレンス)と青年アラト(山下裕賀)が出逢い、メフィストの孫(クリスティアン・ミードル)に案内されて現世の地獄――本作では、人間自体がこの世界を地獄のようにしてしまっているという解釈――を経巡る様に、『魔笛』におけるパミーナとタミーノの冒険を連想したり。プラスティックで汚染されている海を描く第2場「快楽地獄」における、サックスとエレキギターが加わるロック風の曲、第4場「ビジネス地獄」におけるミニマル・ミュージック風の曲も楽しい響き。第2場では二人のポップ歌手がプラスティック風にテカテカした衣裳を着ていたりして(衣裳=マッティ・ウルリッチ)、キッチュな味わい。第4場では会社のオフィス風空間でオフィスワーカー風の人々が同じ仮面をかぶって登場、ユーモラスな場面となっていた。“Do justice”という言葉が浮かんでくるような、どの立場にも殊更に肩入れすることなくフラットに描くことで鑑賞者の自由な思考や発想を促すクリスティアン・レートの知的な演出が魅力的。第2場や第4場のようにエンターテインメント性をも盛り込みつつ、研ぎ澄まされた美しさもあり、通俗性と芸術性との絶妙なあわいを行っていた。終幕も、希望でもなく、絶望でもなく、ただこの生の続きを生きていくことが描かれているように感じられた。アルコールインクアートでロールシャッハテスト用の画を描いていく過程を観ているようなクレメンス・ヴァルターの映像もおもしろかった。
(8月13日14時の部、新国立劇場オペラパレス)
(8月13日14時の部、新国立劇場オペラパレス)
指揮=コッラード・ロヴァーリス、演出=ヨーゼフ・E.ケップリンガー、合唱=新国立劇場合唱団、管弦楽=東京フィルハーモニー交響楽団。2005年から上演されているケップリンガー演出版の5年ぶり6度目の上演。
ピエール=オーギュスタン・カロン・ド・ボーマルシェが1775年に戯曲『セビリアの理髪師』を書いたとき、彼は1775年より後の世界を(予見することはできたとしても)知らない(1789年にはフランス革命が起きた)。1816年にジョアキーノ・ロッシーニがこの戯曲をもとにオペラを作曲したとき(台本:チェーザレ・ステルビーニ)、彼は戯曲誕生後から1816年までの世界を知ってはいても、1816年より後の世界を(予見することはできたとしても)知らない(1814年〜15年のウィーン会議により、反動的国際体制であるウィーン体制が成立し、王権への揺り戻しが起きた)。作品成立後の世界を知る者は、込められた予見がどの程度まで当たっていたかを見極めつつ、現時点での自らの予見をもって作品に対峙する。そんな歴史の流れを感じさせる、ロヴァーリスの指揮だった。それもあって、ケップリンガーの演出の時代背景がなぜフランコ独裁政権下の1960年代のスペインに設定されているか、今までになくよくわかる上演となっていた。昨年、新国立劇場オペラパレスでロッシーニの『ウィリアム・テル』が初めて上演され、作曲家の硬派な一面が鋭く紹介されたこともよい流れだったと感じた。このプロダクションでのドン・バジリオ役で4度目の登場となった妻屋秀和のアリア「中傷はそよ風のようなもの」がよかった。中傷が少しずつ広がっていく様が音楽的にも味わい深く、インターネット時代の“炎上”をも思わせる。そのアリアが、第一幕フィナーレの何だか不穏な空気へとつながっていっていると感じた。夜明けや夕暮れを思わせる八木麻紀の照明が美しい。
(5月30日18時半、新国立劇場オペラパレス)
ピエール=オーギュスタン・カロン・ド・ボーマルシェが1775年に戯曲『セビリアの理髪師』を書いたとき、彼は1775年より後の世界を(予見することはできたとしても)知らない(1789年にはフランス革命が起きた)。1816年にジョアキーノ・ロッシーニがこの戯曲をもとにオペラを作曲したとき(台本:チェーザレ・ステルビーニ)、彼は戯曲誕生後から1816年までの世界を知ってはいても、1816年より後の世界を(予見することはできたとしても)知らない(1814年〜15年のウィーン会議により、反動的国際体制であるウィーン体制が成立し、王権への揺り戻しが起きた)。作品成立後の世界を知る者は、込められた予見がどの程度まで当たっていたかを見極めつつ、現時点での自らの予見をもって作品に対峙する。そんな歴史の流れを感じさせる、ロヴァーリスの指揮だった。それもあって、ケップリンガーの演出の時代背景がなぜフランコ独裁政権下の1960年代のスペインに設定されているか、今までになくよくわかる上演となっていた。昨年、新国立劇場オペラパレスでロッシーニの『ウィリアム・テル』が初めて上演され、作曲家の硬派な一面が鋭く紹介されたこともよい流れだったと感じた。このプロダクションでのドン・バジリオ役で4度目の登場となった妻屋秀和のアリア「中傷はそよ風のようなもの」がよかった。中傷が少しずつ広がっていく様が音楽的にも味わい深く、インターネット時代の“炎上”をも思わせる。そのアリアが、第一幕フィナーレの何だか不穏な空気へとつながっていっていると感じた。夜明けや夕暮れを思わせる八木麻紀の照明が美しい。
(5月30日18時半、新国立劇場オペラパレス)


