8月29日19時、オーチャードホール
 フロレスタン役のミヒャエル・シャーデが素晴らしかった。政治家であるフロレスタンは、刑務所長の不正を暴こうとして、無実の罪で刑務所に囚われてしまった。彼の妻レオノーレは男装し、“フィデリオ”と名乗って刑務所に潜り込み、フロレスタンを何とか救い出そうとしている。第二幕で初めて登場するフロレスタンは、地下牢に鎖につながれている。そして、「神よ、ここは何と暗いことか」と、自らが行なった正義について、妻への想いについて歌う。――その歌声を聴いていて、思わずにはいられなかった。作曲したベートーヴェンは、彼自身の孤独と静寂の内に、いったい、何を聴いていたのだろう――と。
 そんな話を、初日レセプションの席でシャーデさんにしたところ、話してくれた。自分がよく仕事を共にした故ニコラウス・アーノンクール(世界的マエストロ)は、「音楽は、天とつながる見えないコードだ」と言っていた、と――そう語りながら、お腹のあたりから天上へと、手を動かす仕草をしていたのが印象的だった。
 終幕で、フロレスタンは妻の勇気ある行ないを讃えて歌う。その歌を聴いていて、ベートーヴェンはフェミニストでもあったのだな、と思い至った。女性がいなければ成し得ないこと。書き得なかった音楽――インスピレーション。無論それは、性別を超えて成立し得る話なのであるけれども。
 公演はあと一回限り(9月1日14時)。お聴き逃しなく!
2019-08-30 00:57 この記事だけ表示
 というわけで、リヒャルト・シュトラウス先生のオペラ『ばらの騎士』を観に行った際、私はシュトラウス先生に謝る気満々でしかなかった(12月6日14時の部、新国立劇場オペラハウス)。先生、ごめんなさい、与えられた使命をきちんと果たすことができず、申し訳ありません。――いったい先生があの世からどんな怒り方をしてくるのか、予想もつかなかった。
 元帥夫人(マルシャリン)とオクタヴィアンが過ごした一夜を描く、序奏。いつもながら、思う。先生、あっかるいなあ! と。私はときどき非常に暗く落ち込んでしまう質なので、先生の音楽の明るさにいつも本当に助けられるのである。励まされる。それからしばらく、美しい音楽にただ、涙していた。――開演前、新国立劇場オペラ部門で働いている同い年の従姉と話していたら、「先日観たとき泣けちゃって、なのにハンカチ持ってなくてあせった」と言っていた。「泣いたの、三幕?」と聞いたら、「二幕から泣けた〜」と。そしたら自分は序奏から泣いていた。美しい音楽。美しい思い出。
 しかし。次第に思う。――あれ、思ってたのと何だか違う?  “ばらの騎士”オクタヴィアンがゾフィーと永遠の愛と美を誓う話じゃないぞ。いや、そう受け取ってももちろんいいんだけど、今回むしろ、時も愛も移ろうと歌うマルシャリンの方が心にぐっと来る。そのマルシャリンは、ゾフィーの中にかつての自分を見ている。ああいう風に、修道院を出てすぐ結婚した若い娘がいたわ、その娘はいったいどこへ行ってしまったのかしらと。そしてオクタヴィアンとの別れは避けられないものであるとも。それにしても。オクタヴィアンは、こんなに内省的な魅力をたたえたマルシャリンから、どうしてすぐに小娘ゾフィーに乗り換えてしまうのかしら。――と思って公演プログラムを読んだらば、それこそがまさにこのオペラのおかしさであると、他ならぬ台本のフーゴ・フォン・ホフマンスタール先生が述べているのであった。ゾフィーと結婚しようとするオックス男爵にしても、確かにいささか女と金に汚いおじさんではあるけれど、でも、ユーモアがあって、人として魅力ゼロというわけじゃない、だからこそオペラ完成ギリギリまでタイトルロールにならんとする勢いだったのに(結局はシュトラウス先生の“悪妻”パウリーネの一言で『ばらの騎士』に決定)、それなのにゾフィーはただただ突っぱねまくり。それもまたこのオペラの笑えるところ。
 ――何で私、オクタヴィアンとゾフィーが永遠の愛と美を誓う話だと思い込んでたんだろう……? それは己が、ゾフィーみたいに潔癖でつまんない小娘だったからだ〜〜〜。
 終幕、マルシャリンはゾフィーにオクタヴィアンを譲る。身を引く。でも決して悲劇のヒロインになってはいけないと、シュトラウス先生&ホフマンスタール先生。三重唱。――何も一世一代の別れじゃない。マルシャリンにとって、オクタヴィアンの前にも、後にも、愛をささやける人はいる。そして、今回のような美しい別れ方ができてしまったマルシャリンは、ますますもってモテることであろう。では、オクタヴィアンとゾフィーの方は? オクタヴィアンが永遠にゾフィーを引き寄せられるかは疑問であると、これまたホフマンスタール先生が記している(三宅新三『リヒャルト・シュトラウスとホーフマンスタール』より)。マルシャリンの予感が当たるならば、ゾフィーはいずれ“マルシャリン”となるであろう。過度に潔癖な小娘は欲望を知り、彼女にもまた愛人ができるのであろう。そのとき、オクタヴィアンは? 作品において、マルシャリンの夫の元帥という人はまったくもって影が薄いので、参考にすらできないけれども。
 ということで。使命を心得違いしていました。かつてはわからなかったこのオペラの真意を知ること、それこそが使命。三重唱に続く、オクタヴィアンとゾフィーの二重唱。そして幕切れ、「♪チャンチャン」とも「な〜んちゃって!」とも聞こえる、あまりに軽妙な音楽。――「わかったじゃないか〜。よかった!」とシュトラウス先生が盛大にウィンクしていて、やられた〜と思って、泣きながら笑っていた。――実人生で何があったわけじゃなし、この年月、ただただ客席に座っていただけですが、ようやっと理解しました。つくづく、劇場ってすごいところなり。
2017-12-29 22:28 この記事だけ表示
 めちゃめちゃ忙しい。それはさておき、決してくりかえしの話ではない、今日観てきたシュトラウス先生のオペラのお話(14時の部、新国立劇場オペラハウス)。
 タイトルからして、<主人公=ばらの騎士=オクタヴィアン>だと何だか思い込んでいた。間違っていた。真の主人公はマルシャリン(元帥夫人)なのだった。そしてマルシャリン目線で観ると、まったく違う物語がそこにあった。驚愕! 時が移ろってせつないばかりのロマンティックな話にあらず。終幕の三重唱に涙していたら、その後シュトラウス先生の超特大ウィンクがバッチンとやって来て、笑った! 時を超えた盛大ないたずらに、やられた〜という感じ。マルシャリンが理解できる人生を今日まで歩めてきて、幸せなり。
 笑える話なのです。オックス男爵役のユルゲン・リンと、ゾフィーの父ファーニナル役のクレメンス・ウンターライナーのコメディ・センスも非常に効いていて。第一幕登場直後、男爵がツーステップのような面妖な足取りで進んでくるだけで爆笑。自分が渡さなきゃいけない持参金を花嫁側からせしめようと、男爵が公証人とせこいお金の交渉をしている後ろで、イタリア人テノールが朗々とベルカントで歌い上げる場面は抱腹絶倒。音楽の美しさは言うまでもなく、演劇的にも本当に優れた作品なのだなと。さすが、リヒャルト・シュトラウス&フーゴ・フォン・ホフマンスタール、名コンビ。今回の公演はあと一回、9日14時の部を残すのみ。お聴き逃しなく。
2017-12-06 22:33 この記事だけ表示
 5月23日17時の部、新国立劇場オペラパレス。
 第一幕、タイトルロールを演じるクラウス・フロリアン・フォークトが、歌いながら上空から降りてくる。その声を聴いてわかった。リヒャルト・ワーグナーもまた、シェイクスピアやベートーヴェンと同じく、彼岸を知る人なのだと。
 ――それで、作曲家が以前より身近に感じられるようになり、自身が多分に投影されたと思われるローエングリンの物語も、より共感をもって眺められるようになった。…それは理解者がなくて、苦しかっただろうな…と。
 ワーグナーの音楽をそのように表現するフォークトの声には、まさに”glorious”の語がふさわしい。神々しい声。輝かしい声。おいそれとは聞けない声。40分の休憩時間でもさばききれないほど、他日公演のチケットを買い求める長い列ができていたのもむべなるかな。
 ローエングリンは、エルザ姫に、自分の正体も名前も尋ねることなく愛してほしいと言う。そして、彼が聖杯の地から乗ってきた小舟を曳いている白鳥はと言えば、実は、エルザの弟ゴットフリートが魔法によって変えられた姿である。日本でいう「鶴の恩返し」の鶴の要素を、ローエングリンとゴットフリートとで受け持っているということになる。
 エルザは悩む。悩んで遂には禁じられた問いを口にする。貴方は誰? お名前は? と――。それはそうであろう。愛する人の名前を発することは愛する上で甘美な瞬間の一つではある。その禁忌を超えて、愛はなおも成り立ち得るのか。おそらくは、心のみによって愛し愛されることによって。
 「ローエングリン」といえば、チャイコフスキーが同じ白鳥の出てくる「白鳥の湖」を作曲するにあたって影響を受けたといわれる作品である。聴いていると確かにその“禁問の動機”を初めとして、チャイコフスキーがワーグナーを聴いた痕跡が感じられる。スティーブン・ソンドハイムの楽曲にチャイコフスキーを聴いた痕跡を感じるのと同じように。芸術とは多分に相互承認によって芸術たり得る。例えばヴェルディはそのオペラ「ファルスタッフ」で、彼岸を見た人シェイクスピアへの芸術家としての敬意を表していた。私にとっては「白鳥の湖」の方が以前から親しんでいる音楽ではあるので、その音楽を思い浮かべながら、…チャイコフスキーはこのように「ローエングリン」を聴いたのだ…と、大変興味深く聴いた。今週25日にはちょうどKバレエカンパニーで「白鳥の湖」が上演されるので、絶好のタイミングだな…と思いながら。さて、「白鳥の湖」は今の私にどのように響くだろうか。
 初日観劇(3月6日14時の部、新国立劇場オペラハウス)。
 リヒャルト・シュトラウス先生とデート?の気分でわくわく出かけるあひる。先生の音楽の中には、これぞシュトラウス節〜と思えるフレーズがあって、それを聴くと胸がきゅうんとしめつけられるようにときめき。この日もまた。サロメは、…この男の生首でもいいから欲しい! とまで思いつめるわけで、預言者ヨカナーンから一瞬たりとも目を離さないとか、全体的に恋の狂気があってもいいんじゃないかな…と思ったけれども。ただ、前に、ベンジャミン・ブリテンのオペラ「ピーター・グライムス」を聴いていて、…社会から孤立し追いつめられていく人間の狂気がもっとあってもいいんじゃないかな…と思っていたら、その後、違う演奏会で、まさに狂気そのものとしかいえない音を聴いたことがあり。そう演奏している人がいる以上、その人はそういう狂気を自分の内に聴いているんだな…と、せめてもの思いで一緒に耐えたけれども、聴くだにもうその場で吐いてしまうんじゃないかというくらい気持ちが悪くなって、劇場に行くのがちょっとこわくなってしまうほどの思いをしたことがあって…。難しいところではある。それから、ヨカナーンはサロメを拒絶するばかりでなく、神を求めてその赦しを乞えとちゃんと伝えているんだな…と改めて気づいた次第。
 サロメに叶わぬ想いを寄せるも報われず自死を選ぶナラボート役は望月哲也。昨年3月の「河原忠之 リサイタルシリーズ2015 “歌霊” 第7回〜リヒャルト・シュトラウス vol.II〜」での歌唱も心に残っている。シュトラウス先生は根は非常に明るい人なんだろうな…と、曲を聴いていて思うのである。だからこそ、曲に励まされる。そのあたり、望月の歌声は非常に合っているように思う。

 去年11月、シルク・ドゥ・ソレイユ「トーテム」の取材でシンガポールに出張した際、マリーナ・ベイ・サンズのカジノ棟の前で一人、「ワンダー・フル」を観ていた。美しい夜景をバックに繰り広げられる、光と音のショー。当然、出演者はなしである。
「…うわあん、“美しいね”って誰かと分かち合える方がいいよう〜」
 思いっきりセンチメンタルになって、何故か東京より遠く思える三日月を見上げて泣いてしまったあひる。夜の闇に泣き顔を隠し、そこから歩いて15分くらいのガーデンズ・バイ・ザ・ベイに移動、やはり光と音のショー「OCBCガーデン・ラプソディ」のためにスタンバイ。巨大人工ツリーを見上げる絶好の場所に陣取っていると、そのカラフルな点滅が始まると同時に聴こえてきたのは…。
「チャーン、チャーン、チャーン、チャチャーン!」
 シュトラウス先生の「ツァラトゥストラはかく語りき」!!!
 大爆笑。さっき泣いたあひるがもう笑った。だって、まさかこんなトロピカルな夜空の下でシュトラウス先生を聴くとは夢にも思わず。ちなみに、クラシックは他にはサン=サーンスの「瀕死の白鳥」くらいで、あとはディズニー・メロディ満載。先生が、「仲間はいるぞ〜」とド派手に励ましてくれた感じ。思えば、この人が親友になれる人だよと教えてくれたのも先生だったし。「ツァラトゥストラはかく語りき」の冒頭のこの上昇する三音をひっくり返せば、「アラベッラ」第三幕でヒロインが恋人のもとへと階段を降りてくる下降の三音…。すっかり気を取り直し、ホーカーに寄ってシンガポール・チキンライスを食べて帰りました。ちなみに、この出来事で生成した“かたまり”は「トーテム」公演プログラムに掲載されています。それにしてもシュトラウス先生の音楽は後世の美に本当に貢献しているなあと改めて感じ入った出来事。
 初日観劇(2月28日14時の部、新国立劇場オペラハウス)。
 何だか勝手に難しいというイメージを抱いていたのだけれども、聴いてみたらまったくそんなことはなく。暗闇に浮かぶ白い“箱”の中で展開する舞台、クリストフ・ロイの演出は洗練の極み。箱の向こうに広がる畑や雪景色、ディルク・ベッカーの美術も鮮やか。ユディット・ヴァイラオホの衣裳も現代風ながらも色彩に意味をもたせてスタイリッシュ。
 ヒロイン・イェヌーファが赦しを見せる第三幕が圧巻である。彼女は赦す。自分に恋するあまり自分の顔を傷つけた男を。身ごもった自分がひそかに産み落とした私生児を、自分の人生を思うあまり殺してしまった義理の母を。そして恐らくは、自分を孕ませるだけ孕ませておいて逃げてしまった不実な男をも。赦しの果てに彼女は真実の愛を知る。過つは人、赦すは神。つまりはそのとき、彼女は神に近づく。そうして近づいた瞬間に、作曲家レオシュ・ヤナーチェクはとりわけ美しい音楽を与える。
 ――以前、問うたことがある。完璧な存在である神こそが完璧な美を創造し得るはずであって、不完全な存在である人間が美を創造しようとする営為には意味がないのではないかと。――そんなことはない、と声は言う。不完全な存在が完全に向かおうとする、その行為の中にこそ美が秘められているのだと。その問答を思い出した。
 今年から新国立劇場で新たにシリーズ上演が始まるリヒャルト・ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」序夜「ラインの黄金」の初日を観劇(10月1日19時の部)。火の神ローゲを初めて演じるステファン・グールドが素晴らしい! 人間味と説得力あふれる演技と、聴く者を酔わせる神々しい声、まさに半神という存在にふさわしく。グールドは2017年まで続く今回の“指環”シリーズ四作品にすべて登場、ジークムントとジークフリートも歌う予定なので、シリーズの今後も非常に楽しみに。スーツ姿のローゲが神々の“黄昏”を予見し、どこかしたり顔にも見える表情で眼鏡をかけ直したラストが、まさに今後の予告編。今回観ていて、天上界と地上界と地底界の抗争に、革命家でもあったワーグナーが身を置いていた時代の実際の階級闘争に思いを馳せ、自分自身、新たな“指環”が見えてきそうな予感。いつも心にきらりと引っかかる印象を残す妻屋秀和は巨人族のファーゾルト役が上品にぴったり。7月の東京二期会「魔笛」(宮本亜門演出)では、肥大した脳のかぶりものを着こなしてザラストロを怪演していたのだけれども、今回は、高さが30センチはあろうかという厚底靴を履き、宇宙服にも海底服にも見えるいでたちで登場。何だかコスプレづいているけれども、新国立劇場「アラベッラ」の、とぼけた賭け事好きのパパ、ヴァルトナー伯爵役も温かみがあって好きだったなと。
 明日はまた一人のリヒャルト、シュトラウス先生の「ダナエの愛」の初日!
 7日15時、東京文化会館大ホールで、マエストロ・ジャナンドレア・ノセダの振るトリノ王立歌劇場の「仮面舞踏会」を聴いていて、気づいた。これもまた、今回の来日公演で取り上げられたもう一つの演目である「トスカ」と同様、嫉妬によって死がもたらされるオペラなのだと。ヴェルディの「仮面舞踏会」(1859)では、総督リッカルドは秘書である親友レナートの妻アメーリアと心秘かに愛し合う。これを知ったレナートは嫉妬に燃え、リッカルド暗殺を企む一味へと身を投じ、仮面舞踏会にてリッカルドを殺めるが、リッカルドはアメーリアとはあくまで清らかな間柄であること、レナートを赦すことを告げて息絶える。プッチーニの「トスカ」(1900)では、騎士で画家のカヴァラドッシと歌姫トスカは芸術家同士、愛と美に結ばれているが、権力者スカルピアがトスカに横恋慕し、結果、三者とも死を遂げる。「トスカ」には、“イアーゴーはハンカチを使ったが、私は扇を使う”とのスカルピアの言葉がある。言うまでもなく、シェイクスピアの「オセロ」からの引用、オセロの耳に嫉妬を吹き込むイアーゴーへの言及である。「仮面舞踏会」の直前に「リア王」の作曲に難航し、これを断念したヴェルディは、「仮面舞踏会」発表から38年後の1887年、実際に「オテロ」を作曲するのだった。音の世界に生きる芸術家たちが、シェイクスピア作品とそのテーマをどのようにとらえていたか、非常に興味深い。
 2010年のトリノ王立歌劇場の初来日公演で取り上げられたのは、ヴェルディの「椿姫」(1853)とプッチーニの「ラ・ボエーム」(1896)だった。考えてみれば、二作共、病に倒れたヒロインが、愛のもと、死を迎える作品である。そして、「今回私が選んだ2作は初来日公演で披露した演目(「椿姫」と「ラ・ボエーム」)のあとに作曲家が葛藤しながら誕生させた“転換期の名作”という共通の位置にある作品です」と、マエストロは来日公演のちらしで語っている。ヴェルディと、その後継者とされるプッチーニ、イタリア・オペラの二人の偉大な作曲家が、同種のテーマをいかに描いていたか、そして、芸術家としてどのように進化を遂げていったのか。マエストロは来日公演にあたり、よくよく考え抜いて演目を選んだのではないだろうか。
 死にあたって自らの暗殺者を赦すリッカルド役ラモン・ヴァルガスの人としての誠実さ。アメーリア役のオクサナ・ディカは愛と、夫、息子への思いとに揺れる人妻として芯の通った歌唱を聴かせ、物語のドラマ性を強靭に牽引。愛の二重唱の蕩けるような甘やかさ。レナート役の長身の美丈夫ガブリエーレ・ヴィヴィアーニも、嫉妬故に忠実な友である上司を裏切ることとなる、心理描写の難しいキャラクターを堂々たる歌唱で描き出し、カーテンコールでは客席に投げキスするハッスルぶり。子供のころから、いつか仮面舞踏会に出てみたいと思っていて、長じるにつれ、人生そのものが仮面舞踏会に他ならないと思うようになってきた私は、マエストロ・ノセダの奏でる音楽に身と心を委ねながら、ヴェルディがこのタイトルに託した意味に思いを馳せていたのだった。
 27日、都内で行われた「トリノ王立歌劇場来日公演記者会見」に出席してきました。29日に初日の幕を開けるこの公演は、ヴェルディの「仮面舞踏会」、プッチーニの「トスカ」、そして2回の特別コンサートという構成。タクトを振るはもちろん、芸術監督を務めるジャナンドレア・ノセダ氏。以前にも会見やインタビューでお話をうかがう機会がありましたが、氏が話しているのを聞いていると、こんなにも芸術について考えている人がいる! と、いつも、何だかとってもうれしくなってしまい。
 今回の会見には、本当に豪華な歌手陣に加え、「トスカ」を担当した演出家のジャン・ルイ・グリンダ氏も出席していて、演出のポイントとして“天使の急降下”というキーワードを挙げていたので、その点について具体的にうかがうと共に、ノセダ氏には、そのキーワードと音楽とがどのように絡み合っていくのかについて質問。「あんまり説明してしまうと観に来てもらえなくなってしまうから」と、おちゃめなグリンダ氏。物語の出来事は24時間のうちにすべて進行するという、大変スピーディーに展開される「トスカ」の音楽には、映画的な魅力があると語り。続いて、ノセダ氏。「トスカ」のみならず、プッチーニの音楽には映画的な感覚があり、レンズが広角になったり望遠になったり、映るイメージが移り変わっていくのが、音楽から伝わってくる。あと30年長く生きていたら、プッチーニは間違いなく映画音楽を手がけていたと思う。そして、今回の演出についてあえてふれるならば、どのような人も、人生の最後の15秒には自分の人生をフラッシュバックで振り返ると思う、そんな演出を損なわずに音楽を盛り上げる上では、自分自身も非常に集中して指揮しなくてはならない、と。質問したときも、答え終わったときも、何だかニーッととてもうれしそうなので、「Thank you」と、こちらもにっこり。
 「本当にその役に合う声の歌手が配されているか、それが芸術監督としての私の方針」とノセダ氏。イタリアの多くの歌劇場が経営難に苦しむ中で、トリノ王立歌劇場が黒字経営となっているというのは、やはり、質の高い舞台を提供し続ける、そのことに尽きるのではないかと思うことしきり。三年前の初来日公演での「椿姫」と「ラ・ボエーム」も素晴らしく、どのような舞台が繰り広げられるのか、今回も本当に楽しみ。
 ドニゼッティ作「愛の妙薬」はとっても楽しいオペラである。何も悲劇や悲恋が描かれるばかりがオペラではない。オペラって何だか重くて難しそうだな…と敬遠されている方は、こんな作品から入ってみては如何? 新国立劇場オペラパレスで上演されているプロダクションなら、まるでおもちゃ箱をひっくり返したようにカラフルでキュートな仕上がり。“ELISIR”――イタリア語で“妙薬”の意――を一文字一文字、レタリング風に巨大にかたどった装置がさまざまな色彩の照明で彩られる様が非常に印象的で、ぱかっと開いたその一文字から行進して次々と出てくる兵隊たちは、まるでおもちゃの兵隊さんのよう! 読書好きのヒロイン・アディーナが読んでいる「トリスタンとイゾルデ」の本にちなんで、舞台装置は本がモティーフになっていて、巨大な本にベンチ代わりの本まで、あちこちに本が置かれて。我らがヒーロー、恋する青年ネモリーノに、“愛の妙薬”と称して安ワインを売りつける薬売りのドゥルカマーラが乗って登場するプロペラ機も、おもちゃの飛行機を人間サイズに拡大したみたいなポップな趣。ネモリーノを歌うはアントニーノ・シラグーザ。その声で、この愛が叶わなければ僕は死んでしまう――などと歌われると、観客の方がうっとり死んでしまいそうな。
 ネモリーノはアディーナが好き。でも、恋人なんて日ごととっかえひっかえするものよ――と、アディーナはつれない。必死なネモリーノは、アディーナの読んでいた「トリスタンとイゾルデ」にあった惚れ薬――ようは、媚薬――を、ドゥルカマーラから買い求めて、飲む。でもそれはただのワイン。酔って気が大きくなったネモリーノの、いつもとは違う態度にアディーナは動揺。そこに、恋敵の色男ベルコーレが絡んで、さあ、二人の恋の行方は――?
 世の中には、いる。お酒の力を借りてでもいいから、何とかこの現状を打破してくれ! と言いたくなる人が。ま、そういうあひるはといえば、めっぽうお酒に弱いのですが。すぐに気持ち悪くなってしまうので、酔っていい気分になったことが生涯で二度三度あるかどうか。しかもそのときもすぐに眠くなってしまい、何の素敵なハプニングも起こらずじまい。かように、我を忘れる、忘我の瞬間が訪れることがないので、素敵な舞台に酔いしれに劇場に足を運ぶのですが。
 それにしても。このオペラにおいては、“ELISIR”を信じきっているネモリーノの純粋さが結局は愛を勝ち得るわけですが、愛そのものを“妙薬”と信じてしまう誤解というものが、世間ではどうもよく見られるような……。何も、愛なる万能薬がある日忽然と宙から現れるわけではない。その愛を何とか愛として長らえさせたい、この世にどうにか存在させ続けていきたい、そう心から思える相手が出現して、互いがその目的に向かって必死に努力を重ね続けている、そのプロセスが愛なのである。人間は結局のところ、愛した分愛される。それに、一人の人間がたった一つの愛にのみしばられるものでもあるまい。相手と自分だけの関係、この世にただ一つだけの愛を築けばいいことなのに。
 ――なあんて、そんなことをついつい考えてしまうのはあひるのいつもの癖なれば。難しいことをきりきり考えがちなもので、キュートな恋模様にたくさん笑って、楽しかった! 「愛の妙薬」の上演は明日12日まで〜。