指揮=園田隆一郎、演出・振付・美術・衣裳・照明=勅使河原三郎、合唱=新国立劇場合唱団、管弦楽=東京フィルハーモニー交響楽団。2022年に初演されたプロダクションの再演。公演プログラムの井内美香「オルフェウス伝説とオペラ」の項がおもしろく、オルフェオがエウリディーチェを黄泉の国から連れ戻すにあたり、会話をすることは許されていても姿を見てはいけない、つまり、聴覚は許されていても視覚は禁じられているという状態について興味深く思いながら鑑賞。初演時から出演のダンサー、アレクサンドル・リアブコが踊るとき、物語を必要以上に補足するでもない、でも、そこに人が存在して動いていることの向こうにある豊饒さを思った。

(12月6日14時の部、新国立劇場オペラパレス)
 指揮=大野和士、演出=リチャード・ジョーンズ、合唱=新国立劇場合唱団、児童合唱=TOKYO FM少年合唱団、管弦楽=東京都交響楽団。人間を非人間的に扱うものとの闘い。作品の魅力をよく伝える素晴らしいプロダクション、ゆっくり書きます。上演は24日まで、お見逃しなく!

(14時の部、信仰立劇場オペラパレス)
 指揮=パオロ・オルミ、演出=粟國淳、合唱=新国立劇場合唱団、児童合唱=世田谷ジュニア合唱団、管弦楽=東京フィルハーモニー交響楽団。2003年初演プロダクションの8度目の上演。
 扉を開けると、そこに封印されていた19世紀のパリの生活が音によって鮮やかに甦ってくるような、そんな幕開け。第1幕のロドルフォ(ルチアーノ・ガンチ)のアリア「冷たき手を」とミミ(マリーナ・コスタ=ジャクソン)のアリア「私の名はミミ」、そして二人の二重唱「おお、麗しい乙女よ」に、轟音を立てて流れていくような時間の中に生の一瞬をピン留めしたような美しさ。第2幕ではムゼッタ(伊藤晴)の勝ち誇った感とマルチェッロ(マッシモ・カヴァレッティ)の気を引こうとする演技が非常に楽しく、ムゼッタのワルツ「私が街を歩くと」で頂点に達する。第3幕ではミミとロドルフォ、ムゼッタとマルチェッロ、二組のカップルそれぞれのすれ違いと別れの決意の対比が鏡合わせのように感じられた。第4幕、ムゼッタに連れられ、ミミは愛するロドルフォのそばで死にたいと懐かしの屋根裏部屋にやって来る。第3幕での別れの決意の際も、死にあたっても、コスタ=ジャクソンのミミは毅然としている。自分で決めて行動する。過酷な運命に翻弄されるばかりではない、自立した女性の姿がそこに見て取れる――伊藤のムゼッタのありようもそんなミミの姿への強力なサポートとなる。「願わくば花の下にて春死なん その如月の望月のころ」と詠んで実際に桜の花のころに死んだ西行法師(1118-1190)の幸せを思い出す。だから、悲劇に感じなかった。ミミの生き方に喝采を送った。そして、ミミの亡骸にすがりつくロドルフォの姿を、……詩人だったら、これを書いてくださいね……と見ている自分がいた――書かれたのがこの『ラ・ボエーム』という見方ももちろんできるわけだが。

(10月4日14時の部、新国立劇場オペラパレス)
 指揮=大野和士、演出・美術=クリスティアン・レート(美術=ダニエル・ウンガー)、合唱=新国立劇場合唱団、管弦楽=東京フィルハーモニー交響楽団。多和田葉子が台本を、細川俊夫が作曲を手がけた新作オペラの世界初演。作曲家は自分の心の奥にある「果てしない海」みたいなものを想像して作曲していると語っているが(「クラブ・ジ・アトレ」誌2025年8月号インタビューhttps://www.nntt.jac.go.jp/opera/news/detail/6_030165.htmlより)、自分自身の内なる海のようなものをも呼び覚まされるような、そんな海の中でたゆたっているような感覚を与える音楽は、またいつか聴きたいと思わせる魅力があった。言葉の通じない移民ナターシャ(イルゼ・エーレンス)と青年アラト(山下裕賀)が出逢い、メフィストの孫(クリスティアン・ミードル)に案内されて現世の地獄――本作では、人間自体がこの世界を地獄のようにしてしまっているという解釈――を経巡る様に、『魔笛』におけるパミーナとタミーノの冒険を連想したり。プラスティックで汚染されている海を描く第2場「快楽地獄」における、サックスとエレキギターが加わるロック風の曲、第4場「ビジネス地獄」におけるミニマル・ミュージック風の曲も楽しい響き。第2場では二人のポップ歌手がプラスティック風にテカテカした衣裳を着ていたりして(衣裳=マッティ・ウルリッチ)、キッチュな味わい。第4場では会社のオフィス風空間でオフィスワーカー風の人々が同じ仮面をかぶって登場、ユーモラスな場面となっていた。“Do justice”という言葉が浮かんでくるような、どの立場にも殊更に肩入れすることなくフラットに描くことで鑑賞者の自由な思考や発想を促すクリスティアン・レートの知的な演出が魅力的。第2場や第4場のようにエンターテインメント性をも盛り込みつつ、研ぎ澄まされた美しさもあり、通俗性と芸術性との絶妙なあわいを行っていた。終幕も、希望でもなく、絶望でもなく、ただこの生の続きを生きていくことが描かれているように感じられた。アルコールインクアートでロールシャッハテスト用の画を描いていく過程を観ているようなクレメンス・ヴァルターの映像もおもしろかった。

(8月13日14時の部、新国立劇場オペラパレス)
 指揮=コッラード・ロヴァーリス、演出=ヨーゼフ・E.ケップリンガー、合唱=新国立劇場合唱団、管弦楽=東京フィルハーモニー交響楽団。2005年から上演されているケップリンガー演出版の5年ぶり6度目の上演。
 ピエール=オーギュスタン・カロン・ド・ボーマルシェが1775年に戯曲『セビリアの理髪師』を書いたとき、彼は1775年より後の世界を(予見することはできたとしても)知らない(1789年にはフランス革命が起きた)。1816年にジョアキーノ・ロッシーニがこの戯曲をもとにオペラを作曲したとき(台本:チェーザレ・ステルビーニ)、彼は戯曲誕生後から1816年までの世界を知ってはいても、1816年より後の世界を(予見することはできたとしても)知らない(1814年〜15年のウィーン会議により、反動的国際体制であるウィーン体制が成立し、王権への揺り戻しが起きた)。作品成立後の世界を知る者は、込められた予見がどの程度まで当たっていたかを見極めつつ、現時点での自らの予見をもって作品に対峙する。そんな歴史の流れを感じさせる、ロヴァーリスの指揮だった。それもあって、ケップリンガーの演出の時代背景がなぜフランコ独裁政権下の1960年代のスペインに設定されているか、今までになくよくわかる上演となっていた。昨年、新国立劇場オペラパレスでロッシーニの『ウィリアム・テル』が初めて上演され、作曲家の硬派な一面が鋭く紹介されたこともよい流れだったと感じた。このプロダクションでのドン・バジリオ役で4度目の登場となった妻屋秀和のアリア「中傷はそよ風のようなもの」がよかった。中傷が少しずつ広がっていく様が音楽的にも味わい深く、インターネット時代の“炎上”をも思わせる。そのアリアが、第一幕フィナーレの何だか不穏な空気へとつながっていっていると感じた。夜明けや夕暮れを思わせる八木麻紀の照明が美しい。

(5月30日18時半、新国立劇場オペラパレス)
 指揮=沼尻竜典、演出=粟國淳、管弦楽=東京交響楽団。フィレンツェを舞台にした作品の2本立ての再演。アレクサンダー・ツェムリンスキー作曲の『フィレンツェの悲劇』の原作はオスカー・ワイルド。寝取られモラハラ夫とその妻と妻の浮気相手の男と、3人が織り成す心理ドラマにワイルドらしい皮肉なオチ。ジャコモ・プッチーニ作曲の『ジャンニ・スキッキ』は、タイトルロールに扮したピエトロ・スパニョーリの抑制の効いたコミカル歌唱と演技がとても楽しい。ラウレッタ役の砂田愛梨が歌うアリア「私のお父さん」には、私自身が父に結婚したいと告げた日の気持ちを思い出し、涙。登場人物は自分に有利な遺産相続になるようやきもきしているし、ラウレッタも「私のお父さん」で婚約指輪を買いに行きたいわと歌っていて、 “欲望”というテーマも共通するダブルビルなんだなと。そして『ジャンニ・スキッキ』は普段ミュージカルになじんでいる方にも非常に聴きやすい作品かと。公演は明日8日まで。

(2月4日14時、新国立劇場オペラパレス)
 指揮=マルク・アルブレヒト、演出=マティアス・フォン・シュテークマン、合唱=新国立劇場合唱団、管弦楽=東京交響楽団。本番直前にオランダ人役のエフゲニー・ニキティンの体調不良による降板が告げられ、カヴァーの河野鉄平を代役に20分遅れで開演。責務に誠実に向き合うゼンタ役のエリザベート・ストリッドがきりっと舞台を引き締めた。船に敢然と乗り込むラストのかっこいいこと。新国立劇場合唱団も力強く舞台を支えた。序曲を聴いていて、20代の作品とはいえ、苦悩も含めこんなに激しい思いを内に抱え、それを書き表したワーグナーの心身の強靭さを思った。

(1月19日14時の部、新国立劇場オペラパレス)
 指揮=ヴァレンティン・ウリューピン、演出=ドミトリー・ベルトマン、合唱=新国立劇場合唱団、管弦楽=東京交響楽団。2019年初演以来の再演。
 第1幕第2場の「タチヤーナの手紙」の場面を聴いていて(タチヤーナ役はエカテリーナ・シウリーナ)、……チャイコフスキーは幸せな恋を知る人なのだな、と感じた。でも、この恋が上手く行かないことは、曲の中に暗示されているな、とも。第2幕第2場の詩人レンスキー(ヴィクトル・アンティペンコ)のアリアを聴いて、チャイコフスキーは“書く”人たちに美しい音楽を与えるのだな、と重ねて思った。
 最後の方で、舞踏会でタチヤーナが着ていたドレスが脱いだまま置かれているのを、オネーギン(ユーリ・ユルチュク)が抱きしめる演出がある。私はここを観ると、田山花袋の『蒲団』(妻子ある主人公が、自分の家を出ていった女弟子が使っていた寝具の匂いを嗅ぐ描写がある、日本の自然主義文学を代表するとされる小説)のことを思い出す。

(1月31日&2月3日14時の部、新国立劇場オペラパレス)
 指揮=飯森範親、演出=ダミアーノ・ミキエレット、合唱=新国立劇場合唱団、管弦楽=東京フィルハーモニー交響楽団。2011年に初演され、今回が11年ぶり3度目の上演。解放感あふれるキャンプ場での出来事という設定にしているのが効いていて、パオロ・ファンティンの作り込んだ美術も非常におもしろい。

(5月30日18時半の部、新国立劇場オペラパレス)
 指揮=マウリツィオ・ベニーニ、演出=バルバラ・リュック、合唱=新国立劇場合唱団、管弦楽=東京フィルハーモニー交響楽団。新国立劇場オペラパレスにベッリーニ作品、初お目見え。のどかで美しい音楽に、不穏な演出。大きな木に男女対になった人形が吊るされ、……この女があかんなら、今度はこっちの女と結婚しろ〜とばかりに圧をかけてくる共同体が、怖い。私は、シェイクスピアの『終わりよければすべてよし』にふれるたび、……その男、やめとけ……とバートラムについて思うのですが、この作品におけるエルヴィーノについても、歌うアントニーノ・シラクーザが美声なだけに何だかよけい、……その男、やめとけ……と思い。1831年の作品初演の際、夢遊病って最先端の病だったんだろうなと、その時代にその病へと至る状況について考えたり。

(10月9日14時の部、新国立劇場オペラパレス)