12時半の部、オーチャードホール。
 熊川哲也芸術監督の最高傑作の一つである『くるみ割り人形』が本年、さらなる進化。カンパニーのバレエ・マスターも務める遅沢佑介が、“くるみ割り人形/王子”役で、自身、新境地を拓く快演を見せ、この作品の王子役に、“闘う青年”の側面に加え、“恋する青年”の一面も加わって。Kバレエ版の“雪の国”は名シーンとしてつとに有名ですが、降雪の表現がさらに多彩に豊かに――“雪の女王”役の毛利実沙子の冷気の表現が実にシャープ。Kバレエ版のキーパーソン、ドロッセルマイヤーを演じた石橋奨也の、ミステリアスで神秘的な夢先案内人ぶりにも魅力あり。第二幕の人形王国、中国人形を踊った毛利実沙子と関野海斗が、二人して音色を体現していく様が楽しい! ロシア人形を踊った三浦響基と奥田祥智もそれぞれに個性とパワーを発揮。いつも、…終わって欲しくないよう(涙)…と思うラスト・シーンですが、今回は何だか夢と現実とが地続きになった感じ。愛と美がいっぱい詰まった舞台にもらったパワーで、今年あと一カ月、頑張って乗り切るぞ〜!
2019-11-30 23:37 この記事だけ表示
 長年赤坂ACT劇場で上演され、赤坂サカスの冬の風物詩となっていたKバレエカンパニー『くるみ割り人形』、久々のオーチャードホールでの上演である(12月6日18時半の部)。赤坂ACT劇場では録音による上演だったけれども、今回は生オーケストラの演奏、そして舞台装置も改訂。
 いつにも増して美しい、「雪の国」の情景。激しく舞う踊り手。激しく降る紙吹雪。雪。雪。雪は、無音で降る。けれども、チャイコフスキーは鳴り響く。…その音は、心象風景。雪景色を見守る者の。――カナダの雪の中の少女が、手を伸ばす。と、そこには、時空を超えて、北海道の雪の中にいる少年がいる! …それは、十日ほど前、同じオーチャードホールで開催された「横山幸雄 華麗なるロシア4大ピアノ協奏曲の響宴」で観たヴィジョン、金がかった白一面の世界とも重なった。その白の世界で踊っていた相手の一人は、もちろん。
 二幕の「人形の国」に入ると、…ちょっと、オーケストラとダンサーの呼吸が合っていないかな…と。それと、一幕ラストの「雪の国」が息を吞むほど美しかったのとの対比で、ラストが少々物足りなく感じてしまい…。「人形の国」のラストの総踊りで、舞台前方までうわあっと押し寄せてくる、あの迫力が、インティメートな赤坂ACT劇場の劇場空間でなされたときと、劇場空間がさらに広がったオーチャードホールとでは、観ている側の受け取り方も異なってしまうからかな…とも思うのだけれども。もちろん、前述した演奏との呼吸の問題があるのかもしれず、来年以降に期待。

 10月の『ロミオとジュリエット』に寄せて、書いた。「同い年で、もう20年以上も芸術監督の携わる舞台を観てきていて、どこか、空気のように当然そこにいて、いつも当然のように美しい舞台を創り続けているように思っていて、私は何だか相当甘えているなと思ったのである。それは決して当然ではないのである。純粋な愛と同じくらい、純粋な美は存在し難い」と。最近、自分で書いたこの言葉の意味に深く気づかされた。芸術監督に、甘えている。ということはイコール、他の人、とりわけ自分より下の世代に対しての要求水準が厳しいということなのである。何しろ、同い年に、熊川哲也芸術監督という人がいたから。
 来年、創立20周年。ということは、Kバレエカンパニーを立ち上げたとき、熊川哲也は26歳である。
 先月の記者懇談会で、芸術監督は、「自分は蜷川(幸雄)さんみたいに(舞台を)年に十本とかはできない」と言いつつも、「人の三倍のスピードで走ってきたよね」と語っていた。もちろん、稀有な人である。それは否定しない。そりゃあ、世間にそうそう熊川哲也はいまいという思いと、でも、熊川哲也を見習ってみんな頑張ろうぜ! という思いと。本当にぶれない人なのである。美を探求して、とどまるところがない。
 来年一月の『ベートーヴェン 第九』と三月の『カルメン』で、芸術監督は久々、舞台に立つ。先月の記者懇談会で、その理由について語っていた。――観客のためではない。自分のためでもない。若いダンサーに、自分と同じ舞台に立って同じ空気を吸うということはどういうことなのか、その経験からしかわからない何か霊的なものを伝えるために、自分は舞台に立つのだと。

 同い年の人間、評論家として、私は、熊川哲也芸術監督に恥じるような文章は決して書きたくない。これまでもあったその覚悟を、さらに固めた2018年。
2018-12-29 23:46 この記事だけ表示
 11月28日より来日公演が始まるマリインスキー・バレエの記者会見に本日出席。今回上演されるのは『ドン・キホーテ』、ガラ公演「マリインスキーのすべて」、『白鳥の湖』の三演目。「舞台はソリストだけでは成立しない。首、肩、脚の動き、同じ呼吸で一体となって動いているコール・ド・バレエの存在も大きい」と語るプリンシパルのエカテリーナ・コンダウーロワさん、「マリインスキー・スタイルの魅力は上半身の遣い方の素晴らしいところ」と語る入団2年目のセカンド・ソリスト永久(ながひさ)メイさん、二人のコメントが印象的。ガラ公演では、エフゲニー・プルシェンコの「ニジンスキーに捧ぐ」も手がけたユーリ・スメカロフ振付作品が登場、12月3日のガラ公演では彼自身も自作にダンサーとして出演の予定(曲は、今シーズン、エリザベータ・トゥクタミシェワがショートプログラムで使用している「アサシンズ・タンゴ」)。開演30分前に残席がある場合は全公演「U25チケット」(25歳以下は一律5000円)を発売するとのことです(詳細はジャパンアーツのホームページへ)。
2018-11-27 23:59 この記事だけ表示
 11月1日より、東急文化村とフランチャイズ契約を締結したKバレエカンパニー。その契約締結記念として本日開催された、熊川哲也芸術監督による記者懇談会に参加してきました。縛り等は一切なく、記者から寄せられる質問に芸術監督が答え続ける、超充実の一時間。そのシャープな芸術論に、幾度も心しびれる瞬間が…! 何なら一日中、いや、永遠に聞いていたい! と思いましたが、その続きはまた作品を通じてということで。聞いていて、…昔、隣のシアターコクーンの蜷川幸雄芸術監督が、熊川芸術監督のキャラクターを投影して演出した役のうちの一つを思い出し。本日、内容のすべてはご紹介できませんが、取り急ぎ、12月6日からオーチャードホールで上演される『くるみ割り人形』では、これまで全部は実現していなかったヨナンダ・ソラベンドの舞台美術の当初のデザインを一部復刻、その芸術性をよりはっきりと表すプロダクションになるとのこと。来年9月上演予定の『マダム・バタフライ』の話もいろいろおうかがいできて、ますます楽しみに。
2018-11-26 23:22 この記事だけ表示
 11月16日18時半の部、東京文化会館大ホール。
 第一幕。カポーテ(闘牛士のケープ)を激しくひるがえして踊るエスパーダ役の栗山廉(80年代のボーイズアイドルを思わせる美男子である)のあまりのかっこよさに、…「きゃっ」と声が本当に出そうになるのを抑えるのが大変だった。それくらい、熱の入った、堂に入ったカポーテさばき! 宝塚でも、マントさばきの美しさに男役としての成熟度が出るからして。第二幕。…ううむ。カポーテなしだと、声は出ない感じかな…。第三幕。カポーテ復活。これこれ! 再び昂揚。…なぜ、布を持っているのと持っていないのとで、こうも自分のテンションは変わるのか。布という客体があることで、何かに必死に、ひたむきになっている、その表情が現れやすいからか。今後の研究課題。
 バジル役は山本雅也。…こちらが落ち込んでいるとき、何食わぬ顔でおもしろいことをして笑わせてくれた後、「元気出せよ」と肩を叩いてくれて、…あ、気づいて心配してくれてたんだ…とうれしくなるような、そんな、明るい好青年の魅力。第三幕、黒い衣装で出てくると、ぐっと色気が増す。そして、回転しながらその脚で鋭く宙を切り裂いていったとき…、観ているこちらの胸も、一瞬、鋭く切り裂かれるような気がして。それにしても、バジルはキトリに激しくチュッチュチュッチュしていて、…数年前、銀座の四丁目交差点付近で迷っていたので道を案内した、その出会ってわずか5分後には隙ありとばかりにほっぺにキスしてきた見知らぬスペイン男のことを思い出し…。いや、たった一人の印象で決めつけてはいけませんが、でも、スペイン男…。
 キトリ役の小林美奈は大柄な人ではないので、第一幕の衣装、たっぷりとしたスカートが少し重そうに見えたのだけれども、グラン・パ・ド・ドゥでは山本バジルと丁々発止のテクニシャンぶりを見せて。『ドン・キホーテ』のバジルと言えば、熊川哲也芸術監督の当たり役としてよく挙げられる役柄(個人的に好きなのは『コッペリア』のフランツなのですが)。ということで、全体的に猛特訓が行なわれたことがうかがえる、引き締まった舞台。もちろん、夢追い人ドン・キホーテには、美の夢を追い続ける人の姿が投影されて。1999年、芸術監督がバレエカンパニーを立ち上げたとき、彼をまるでドン・キホーテでもあるかのように言う人もいなくはなかったなと。でも、来年でもう設立20周年。夢は美しい現実となり、さらなる美しい夢に向かって前進し続けていっていて――。

 バジルが死を装って、キトリとの愛を成就させようとする場面。
 …先月のあの美しい『ロミオとジュリエット』のパロディにしちゃうの、ちょっと早すぎやしなかった?(苦笑い)
 私はとりあえず、先週末が終わらなければわからないと思った。それがあっての「また後日」だった。…気持ちはわかる。でも、たとえあの“物語”がその前の時点でもう終わってしまっていたとしても、私は、あの『ロミオとジュリエット』が観られただけでも――見守る人の心の美しさにふれられただけでも――“物語”の価値はあった、そう思っていたから。…私はあくまで、作品の美しさ、その名誉のために言っているのですが。願わくば、2018年版『ロミオとジュリエット』も、2011年版『ロミオとジュリエット』と同様、永らえんことを(2011年版についてはhttp://daisy.stablo.jp/article/448444611.html及びhttp://daisy.stablo.jp/article/448444612.html>。でも、今回の『ドン・キホーテ』で、久しぶりに芸術監督のやんちゃな魂にふれられて、何だかうれしかったなと(最近めっきり円熟路線だった故)。
 それで、『ロミオとジュリエット』のときに書き残したことを一つ。
 私たちは、残された肖像画を通じて、シェイクスピアがどんな顔をしていたか、何となく知っている。けれども、シェイクスピア作品を愛するというとき、それは、あくまでその文章に対する愛であって、シェイクスピアの見た目自体ははたして、その愛の理由に含まれているんだろうか。舞台に立つ人間、生身で美を体現する人間においては、その人の見た目と美は不可分であるから、その人の体現する美を愛するというとき、そこには見た目に対する愛も当然含まれているだろうけれども、物書きと文章においては、そういった関係性は必ずしも成立するものではないような。F.スコット・フィッツジェラルドの研究をしていた私の母が、「やっぱり顔も好きだったんだと思う」と真顔で語ったときがあって(“ジャズ・エイジの寵児”と呼ばれるにふさわしい美男ですよね)、無論、そういうところから入る愛もあるとは思うものだけれども。
 舞台に立つ人間は、演技が終わって、目の前にいる観客から拍手をもらうことができる。物書きにおいてはそうはいかない。誰がいつ、どこで読んでいるかもわからないし、拍手をもらうということもない。昔はうらやむこともあったけれども、今では、それぞれ異なるつながり方をしているだけなのだと思うようになってきていて。そう考えると、会ったこともない、顔も見たこともない人間の書いた文章を、会ったことのない誰かが愛してくれるというのは、物書きにとってはある意味、究極の経験であって。
 あ、でも、何も私は、ただただ芸術のために、他のさまざまな思いを犠牲にして、会わない、話さない相手と、もっぱら文章を通じてコミュニケーションを取ろうとしているわけではないですよ。美の追求のためだけにそのような状況を作り出そうとか、そんな思惑なんて一切ない。ただ、なぜか、そういう状況が多発するというか…。私だって普通に人と会っても話したい、そう長らく思い続けているのだけれども、不器用なのがいけないのか、なかなかそうはならなくて…。ときに自分でも激しく困る。
 来週の記者懇談会、3月の会見以来の肉声を聞けるのを楽しみにうかがいます。
2018-11-24 23:37 この記事だけ表示
 今宵(11月16日18時半の部、東京文化会館大ホール)観劇してきたKバレエカンパニー『ドン・キホーテ』については、人生上、芸術上の理由により、また後日とさせていただきたく。山本雅也! 小林美奈! 栗山廉! ドッカンドッカン、盛大な花火が夜空に打ち上がり続けるような楽しさの中に、熊川哲也芸術監督の美への信念が感じられる舞台。東京公演は18日まで!
2018-11-16 22:59 この記事だけ表示
 熊川哲也芸術監督は、何と光に満ちた道を進んでいるのだろう――。4年ぶりに上演された『ロミオとジュリエット』を観て、そう感じずにはいられなかった(10月12日18時半の部&10月13日12時半の部、東京文化会館大ホール)。
 浅川紫織のジュリエット。宮尾俊太郎のロミオ。二人は、出逢った瞬間から運命付けられている――同じプロコフィエフ作曲の『シンデレラ』にも聞こえるどこか”doomed”の響きが、出逢いの刹那にもある。二人は、互いに愛することを教えるために生まれてきた。そのために出逢った。
 人は、愛することを知って初めて人となる――愛することを知るまでは、子供である。ジュリエットはネンネに過ぎないし、ロミオも恋に恋する少年である。両親から、乳母から、周りの年長の人間から、降り注がれる思い、愛を、ただ空気のように享受して生きているに過ぎない。それが。自分の中にも愛するという能力があることを知ったとき、人は初めて人になる。大人になる。自分の周りに広がる世界が、まるで違って見える。
 愛することによって、人生は、世界は、変わる。そして、自分も、他者も。
 浅川ジュリエットと宮尾ロミオのバルコニー・シーンに、熊川哲也が透徹して視ているのは、あまりに純粋な愛である。互いに、愛しか求めない。愛以外の何物をも求めない。何の打算も駆け引きもない。――そんな、輝かしいまでに純粋な愛は、残念ながら輝かしいまでに純粋とは言えないこの世界にあって、本来、到底成立し得ない。永らえられない。だから”doomed”――運の尽きた、不運な――なのである。この世に本来成立し得ない愛によって結ばれた二人は、当然死すべき運命である。この世にはその愛の呼吸できる場所がない。空気がない。
 ――けれども。私は、宮尾ロミオの亡骸を前に、浅川ジュリエットが自ら死を選ぶシーンで、思ったのである。愛は、生きる――と。
 たとえ、人は死んでも、愛は残る。

 日にち変わって。小林美奈のジュリエット。山本雅也のロミオ。共に初役である。可憐に神に祈る小林のジュリエット。初々しく瑞々しい山本のロミオ。まさに初恋、まさに青春である。
 バルコニー・シーン。ここぞとばかりに妙技を繰り出す山本ロミオは――彼は、フィギュアスケート界期待の若手、友野一希に雰囲気がどことなく似ている――、好きになってしまった女の子にいいところを見せたい! と張り切る青年の魅力にあふれている。芸術監督からして、そんなチャーミングな存在だったな…と振り返ってみる。そして、積み重ねられてきた時間の光で照らした今の熊川哲也はといえば、このシーンにおいて、若き二人に、愛すること、その尊さ、その営為を芸術上描き出す尊さについて教えているのだった。
 愛を教える――愛する。この世に、それ以上に大切なことがあるだろうか。
 そして、思うのである。この世に本来成立し得ないはずの純粋な愛も、芸術の名のもとにおいては、見事に成立し得ていることを。そうでなくては、シェイクスピアの手によるこの物語が、何百年もの間人々に愛され続け、作曲家をはじめとする多くの芸術家のインスピレーションとなることはなかっただろう。
 それにしても。同い年で、もう20年以上も芸術監督の携わる舞台を観てきていて、どこか、空気のように当然そこにいて、いつも当然のように美しい舞台を創り続けているように思っていて、私は何だか相当甘えているなと思ったのである。それは決して当然ではないのである。純粋な愛と同じくらい、純粋な美は存在し難い。本来は。そして、音楽が美しければ美しいほど、芸術監督はその美の深淵をますます探求していくのだと、心に深く感じ入ったことだった。

 冷ややかな美を体現した『ジゼル』のミルタ。身体のラインが官能美に満ちていた『ラ・バヤデール』のニキヤ。軽快な音楽と一体となった『海賊』のメドーラ。チェレスタの澄んだ音色を具現化した『くるみ割り人形』のマリー姫。スケートを滑る楽しさをステップのうちに見せた『レ・パティヌール』のホワイトカップル。実在していたとしたらシンデレラはこういう人なのだ! と体感させた『シンデレラ』。そして、彼女自身、その存在が一段と謎めいて見えた、『白鳥の湖』のオデット/オディール。
 そして、ジュリエットを演じる浅川紫織は、愛の化身だった。
 彼女は、熊川哲也芸術監督の意図をよく汲み、凛とした美しさでもってそれを具現化できる、類まれなるダンサーだった。芸術監督のインスピレーションだった。そして無論、私にとっても。
 この舞台の後、股関節の手術を受けるとのこと。私の母もこの夏やっと両股関節の手術に踏み切り――説き伏せるまでがそれは大変だった!――、数年来の痛みから解放されて、今は生き生きとしている。彼女が痛みから解放される日を、切に願う。そして、幸せを。彼女が観客を幸せにした以上の幸せを。浅川紫織の人生の第二章に、幸あれ!
2018-10-14 00:21 この記事だけ表示
 あんなにも美しいバルコニー・シーンを観たことがない。何のまじりけもない、ただただ純度の高い愛と、その愛によって結び合わされた二つの魂がそこに在った。演出・振付の熊川哲也芸術監督は、かくも深く美しい心の結びつきを知る、視る、人。
 興奮さめやらぬまま、明日の昼の部(小林美奈&山本雅也)も観に行く。
(10月12日18時半の部、東京文化会館大ホール)
2018-10-12 23:23 この記事だけ表示
 聴き慣れているはずの『白鳥の湖』が、未だかつてない美しさで心に響く舞台だった。だから、今まで泣いたことのないところで泣いた。一幕の、宴の終わり。三幕の、オディールに騙されて王子が愛を誓う寸前。――王子もやはり、おかしいと思っていたのではないか……と思った。目の前にいるこの女性はオデットではない。美と愛の化身ではない。それでも騙されてしまうということは、王子の目にはそれだけ魅力的に映ったということなのだろうけれども。
 浅川紫織はといえば、ここへ来て、これまで観てきたのと何だか違う人のように見えたのだった……。この人は誰なのだろう、と思った。知らない人。否、私が今まで知らなかった、彼女。
 王子は過ちを犯した。彼は、その落とし前をつけなくてはならない。命をもって罪を贖わねばならない。オデットを追って、彼は湖に身を投げる。愛という宝が見出された湖は、その柩をおさめた塚となる。
 それにしても。悪魔は乙女をなぜ鳥の姿に変えたのか。そちらの方の言い分も探求してみたく。
 幸せそうに晴れやかに、宮尾俊太郎が踊る姿が印象的。伊坂文月は家庭教師役で秀でたコメディ・センスを発揮。浅野真由香、山本雅也、井上とも美のパ・ド・トロワにも引き締まった美しさがあった。最初から最後まで寸分の緩みもなく、浅川紫織の最後のオデット/オディールにふさわしい、素晴らしい舞台だった。
 カーテンコールでは、浅川紫織に熊川哲也芸術監督から赤い薔薇の花束のプレゼント。キザ(笑)。でも似合うからいいのです。ダンサー生活最後の日まで、そしてもちろんその後の人生も、幸あれ! まだまだ観ます!

(3月23日14時の部、オーチャードホール)
2018-03-23 23:31 この記事だけ表示
 すばらしかった『死霊の恋』の興奮も冷めやらぬ先週、引退会見を知らせるFAXが入り、正直衝撃が……。秋までまだいくつか出演舞台があるので、可能な限り多くのものを目と心に焼き付けたい次第。会見に先駆けての『白鳥の湖』公開リハーサル、第二幕のアダージオで作品に関し新たに感じることがあったので、来週のオーチャードホールでの舞台が心から楽しみ。
2018-03-14 22:15 この記事だけ表示