今宵(11月16日18時半の部、東京文化会館大ホール)観劇してきたKバレエカンパニー『ドン・キホーテ』については、人生上、芸術上の理由により、また後日とさせていただきたく。山本雅也! 小林美奈! 栗山廉! ドッカンドッカン、盛大な花火が夜空に打ち上がり続けるような楽しさの中に、熊川哲也芸術監督の美への信念が感じられる舞台。東京公演は18日まで!
2018-11-16 22:59 この記事だけ表示
 熊川哲也芸術監督は、何と光に満ちた道を進んでいるのだろう――。4年ぶりに上演された『ロミオとジュリエット』を観て、そう感じずにはいられなかった(10月12日18時半の部&10月13日12時半の部、東京文化会館大ホール)。
 浅川紫織のジュリエット。宮尾俊太郎のロミオ。二人は、出逢った瞬間から運命付けられている――同じプロコフィエフ作曲の『シンデレラ』にも聞こえるどこか”doomed”の響きが、出逢いの刹那にもある。二人は、互いに愛することを教えるために生まれてきた。そのために出逢った。
 人は、愛することを知って初めて人となる――愛することを知るまでは、子供である。ジュリエットはネンネに過ぎないし、ロミオも恋に恋する少年である。両親から、乳母から、周りの年長の人間から、降り注がれる思い、愛を、ただ空気のように享受して生きているに過ぎない。それが。自分の中にも愛するという能力があることを知ったとき、人は初めて人になる。大人になる。自分の周りに広がる世界が、まるで違って見える。
 愛することによって、人生は、世界は、変わる。そして、自分も、他者も。
 浅川ジュリエットと宮尾ロミオのバルコニー・シーンに、熊川哲也が透徹して視ているのは、あまりに純粋な愛である。互いに、愛しか求めない。愛以外の何物をも求めない。何の打算も駆け引きもない。――そんな、輝かしいまでに純粋な愛は、残念ながら輝かしいまでに純粋とは言えないこの世界にあって、本来、到底成立し得ない。永らえられない。だから”doomed”――運の尽きた、不運な――なのである。この世に本来成立し得ない愛によって結ばれた二人は、当然死すべき運命である。この世にはその愛の呼吸できる場所がない。空気がない。
 ――けれども。私は、宮尾ロミオの亡骸を前に、浅川ジュリエットが自ら死を選ぶシーンで、思ったのである。愛は、生きる――と。
たとえ、人は死んでも、愛は残る。

 日にち変わって。小林美奈のジュリエット。山本雅也のロミオ。共に初役である。可憐に神に祈る小林のジュリエット。初々しく瑞々しい山本のロミオ。まさに初恋、まさに青春である。
 バルコニー・シーン。ここぞとばかりに妙技を繰り出す山本ロミオは――彼は、フィギュアスケート界期待の若手、友野一希に雰囲気がどことなく似ている――、好きになってしまった女の子にいいところを見せたい! と張り切る青年の魅力にあふれている。芸術監督からして、そんなチャーミングな存在だったな…と振り返ってみる。そして、積み重ねられてきた時間の光で照らした今の熊川哲也はといえば、このシーンにおいて、若き二人に、愛すること、その尊さ、その営為を芸術上描き出す尊さについて教えているのだった。
 愛を教える――愛する。この世に、それ以上に大切なことがあるだろうか。
 そして、思うのである。この世に本来成立し得ないはずの純粋な愛も、芸術の名のもとにおいては、見事に成立し得ていることを。そうでなくては、シェイクスピアの手によるこの物語が、何百年もの間人々に愛され続け、作曲家をはじめとする多くの芸術家のインスピレーションとなることはなかっただろう。
 それにしても。同い年で、もう20年以上も芸術監督の携わる舞台を観てきていて、どこか、空気のように当然そこにいて、いつも当然のように美しい舞台を創り続けているように思っていて、私は何だか相当甘えているなと思ったのである。それは決して当然ではないのである。純粋な愛と同じくらい、純粋な美は存在し難い。本来は。そして、音楽が美しければ美しいほど、芸術監督はその美の深淵をますます探求していくのだと、心に深く感じ入ったことだった。

 冷ややかな美を体現した『ジゼル』のミルタ。身体のラインが官能美に満ちていた『ラ・バヤデール』のニキヤ。軽快な音楽と一体となった『海賊』のメドーラ。チェレスタの澄んだ音色を具現化した『くるみ割り人形』のマリー姫。スケートを滑る楽しさをステップのうちに見せた『レ・パティヌール』のホワイトカップル。実在していたとしたらシンデレラはこういう人なのだ! と体感させた『シンデレラ』。そして、彼女自身、その存在が一段と謎めいて見えた、『白鳥の湖』のオデット/オディール。
 そして、ジュリエットを演じる浅川紫織は、愛の化身だった。
 彼女は、熊川哲也芸術監督の意図をよく汲み、凛とした美しさでもってそれを具現化できる、類まれなるダンサーだった。芸術監督のインスピレーションだった。そして無論、私にとっても。
 この舞台の後、股関節の手術を受けるとのこと。私の母もこの夏やっと両股関節の手術に踏み切り――説き伏せるまでがそれは大変だった!――、数年来の痛みから解放されて、今は生き生きとしている。彼女が痛みから解放される日を、切に願う。そして、幸せを。彼女が観客を幸せにした以上の幸せを。浅川紫織の人生の第二章に、幸あれ!
2018-10-14 00:21 この記事だけ表示
 あんなにも美しいバルコニー・シーンを観たことがない。何のまじりけもない、ただただ純度の高い愛と、その愛によって結び合わされた二つの魂がそこに在った。演出・振付の熊川哲也芸術監督は、かくも深く美しい心の結びつきを知る、視る、人。
 興奮さめやらぬまま、明日の昼の部(小林美奈&山本雅也)も観に行く。
(10月12日18時半の部、東京文化会館大ホール)
2018-10-12 23:23 この記事だけ表示
 聴き慣れているはずの『白鳥の湖』が、未だかつてない美しさで心に響く舞台だった。だから、今まで泣いたことのないところで泣いた。一幕の、宴の終わり。三幕の、オディールに騙されて王子が愛を誓う寸前。――王子もやはり、おかしいと思っていたのではないか……と思った。目の前にいるこの女性はオデットではない。美と愛の化身ではない。それでも騙されてしまうということは、王子の目にはそれだけ魅力的に映ったということなのだろうけれども。
 浅川紫織はといえば、ここへ来て、これまで観てきたのと何だか違う人のように見えたのだった……。この人は誰なのだろう、と思った。知らない人。否、私が今まで知らなかった、彼女。
 王子は過ちを犯した。彼は、その落とし前をつけなくてはならない。命をもって罪を贖わねばならない。オデットを追って、彼は湖に身を投げる。愛という宝が見出された湖は、その柩をおさめた塚となる。
 それにしても。悪魔は乙女をなぜ鳥の姿に変えたのか。そちらの方の言い分も探求してみたく。
 幸せそうに晴れやかに、宮尾俊太郎が踊る姿が印象的。伊坂文月は家庭教師役で秀でたコメディ・センスを発揮。浅野真由香、山本雅也、井上とも美のパ・ド・トロワにも引き締まった美しさがあった。最初から最後まで寸分の緩みもなく、浅川紫織の最後のオデット/オディールにふさわしい、素晴らしい舞台だった。
 カーテンコールでは、浅川紫織に熊川哲也芸術監督から赤い薔薇の花束のプレゼント。キザ(笑)。でも似合うからいいのです。ダンサー生活最後の日まで、そしてもちろんその後の人生も、幸あれ! まだまだ観ます!

(3月23日14時の部、オーチャードホール)
2018-03-23 23:31 この記事だけ表示
 すばらしかった『死霊の恋』の興奮も冷めやらぬ先週、引退会見を知らせるFAXが入り、正直衝撃が……。秋までまだいくつか出演舞台があるので、可能な限り多くのものを目と心に焼き付けたい次第。会見に先駆けての『白鳥の湖』公開リハーサル、第二幕のアダージオで作品に関し新たに感じることがあったので、来週のオーチャードホールでの舞台が心から楽しみ。
2018-03-14 22:15 この記事だけ表示
 2月27日18時半の部観劇(オーチャードホール)。テオフィル・ゴーティエの短編小説を題材にした熊川哲也振付の新作『死霊の恋』がすばらしい。原作のエッセンスをぎゅっと一場面に凝縮、死して吸血鬼となった高級娼婦クラリモンドと彼女に狂おしく恋焦がれる聖職者ロミュオー、そしてロミュオーに密かに恋心を抱く先輩聖職者セラピオンの三者のみで織り成す緊迫した作品を創り上げた。音楽はショパン「ピアノ協奏曲 第1番」。ピアノがオーケストラの音に絡み始める、その刹那に姿を現す、この世のものではない“女”。ロミュオーを翻弄するその舞を観ていると、ピアノの音色がぎゅっと心臓を締め付けるかのように鳴り響くのだった。クラリモンドが愛ゆえにロミュオーの元を去るという、原作とは異なる解釈も興味深い。クラリモンドを踊る浅川紫織の、足音や重力を感じさせないような、その浮遊感。
2018-02-27 23:19 この記事だけ表示
 秋からこっち、ずっと悩んでいた。――45歳。大竹しのぶが以前の蜷川幸雄演出版『欲望という名の電車』でブランチを演じたのと同じ年齢である。いい加減、自分の中の少女ときっぱり手を切るべきなのでは? 手を切っていないから、いつまでもどこか大人になりきれないところがあるのでは?
 そんな思いを抱えて、Kバレエカンパニー『くるみ割り人形』を観に行った(12月22日14時の部、赤坂ACTシアター)。2005年に初演され、赤坂ACTシアターで上演されて今年で十周年、この舞台を観ないでは年が越せない、自分にとってはほとんど年越しそばのような演目である。
 チャイコフスキーの胸躍る、それでいてどこか淡雪のようにうっすらとした物悲しさをもたたえた美しい音楽にのって、クリスマスツリーが巨大化し、はたまた一瞬にして眼前に雪の国が現出し、夢と現実とがあざやかに交錯するように物語が終わる。何かが大きく変わるわけではない。けれども、熊川哲也芸術監督は、毎年、このバレエ作品に、その時々で彼の心のうちにある美しい想いのありったけを注ぎ込んでいる。それが伝わってくるから、何度観ても、ツリーの仕掛けに、客席通路に現れる巨大なネズミにはっと驚き、はらはらと雪の舞い続ける純白の情景に涙せずにはいられない。一年の終わりにあの『くるみ割り人形』が観られる。美しい舞台のうちに、心温かに、穏やかに、一年を振り返ることができる。そうして、この一年で私の心にふれた美しい舞台の数々を反芻し、記すことができる。――健やかに一年を過ごせたことへの、ほとんどご褒美のような。
 今年は宮尾俊太郎が初役でドロッセルマイヤーを踊った。少女クララに劇中劇の形で彼女の“使命”を知らしめ、共に人形の国へと旅立つ人。彼の芝居心が大いに生き、新しいドロッセルマイヤー像の造形へと至った。これまでクララにとってドロッセルマイヤーは憧れの対象という感じに思えていたのだが、宮尾ドロッセルマイヤーの場合、クララがもう少し成長したら女性として寄り添える相手になれるのでは、そんな新たな展開が胸にふくらむようだった。
 雪。舞う雪。激しく降る雪。――私は少女のころに見た、カナダの雪を思い起こしていた。大雪が降って、玄関先がリンクのようにつるつるに凍って、そこでスケートした思い出。メープルの木から滴り落ちる樹液、メープルシロップを新雪につけてその場で味わった思い出。そんな雪にまつわる思い出の向こうに、北海道の地で、やはり雪を眺めている、同い年の少年の姿が見えた。サンタクロースに「バレエがうまくなりたい」と願ったこともあったらしき少年。今も彼の思いは変わらない。己のバレエを、美を追求し続ける、その思いは。
 ――無理して少女の部分と手を切らなくていいのだ、と思った。少女の部分があって、大人の部分もあって、それでいい。芸術監督だって、『クレオパトラ』からの『くるみ割り人形』なのだし。
 秋にカナダ時代の懐かしいアルバムを見ていて、我ながら愚かしいことに、昔の自分に嫉妬していた。――何にも知らない無邪気な顔して笑っちゃって、この後いろいろ苦労するんだよ、と。30年前と同じ顔をしていると書いたのは若干は体裁である(ブランチ!)。まったく同じ顔をしていたら気持ち悪い。かつてできていた表情が今はできなくなって、けれども、人生を重ねてきたからこそできる表情ができて、それが今の私なのである。
2017-12-30 22:38 この記事だけ表示
 古くはパリ・オペラ座の舞台ですら、ダンサーがパトロンと出会う場所であったことを考えると、新作『クレオパトラ』においてここまで正面きってエロティシズムを取り上げた熊川哲也芸術監督の姿勢にまずは敬意を表したい。舞台作品として成立させる上では、芸術性の担保が成されなくてはならない。
 その上で、エロティシズムの表現とは実に難しい。自分自身についていえば、本当に観念で生きていて、肉体よりも人の観念の方にエロスを感じるタイプである。例えば、第一幕第一場、自分の美しさに憧れる男娼と一夜を過ごして弄び、最後には死に至らしめる女王クレオパトラ、その情景を創出せしめた芸術監督の思考に何よりエロスを感じる。しかしながらもちろん、観念よりも肉体表現あるいは肉体そのものにエロスを感じる人もまた多いのだろうし、男性と女性によってもまた感じ方、受け取り方は異なってくると思われる。踊り自体でいえば、クレオパトラのお付きとして第1ヴァリエーションを踊った小林美奈の舞は非常にエロティックだった。
 第一幕はエロティシズムに多分に焦点が当てられているが、第二幕になるとだいぶ趣が変化する。これは対比を意識してのことなのだろうか。ちょっとよくわからない。そして、アントニウスとオクタヴィアヌスとオクタヴィアあたりの話が展開されていくと、「…あれ、今、いったい何の話を観ているんだっけ?」と、何だかぼやけていく感じがある。とはいえ、遅沢佑介のオクタヴィアヌスと矢内千夏のオクタヴィアの舞が大きな見どころであるところが悩ましいが…。そして、このあたりのぼやけもあってか、何だか物語が収斂していかない。ラスト・シーンは、音楽と、クレオパトラに扮した中村祥子の身体性も相俟って、熊川芸術監督がこれまでに創り出してきた作品の中でももっとも斬新であざやかで衝撃的である。あのラスト・シーンに見事収斂していくような物語の語り口が必要であると思われる。観ていても何だか、クレオパトラがどのような女性だったのか、よくわからない。「めちゃめちゃ嫌な女だなあ」でも、「ここまで女の武器を駆使しているならあっぱれだわ」でも、何でもいい。何らかの感慨を抱きたい。
 ちなみに芸術監督は囲み会見にて、彼の考える絶世の美女について、愛嬌、頭のよさ、そして「すべてをわかっちゃっている人」と語っていたが、芸術監督、すべてをわかっちゃっているのは人間じゃなくて神様だよ〜と思うあひるであった。神こそが美を司っているわけだから、それでいいのか。

(10月20日14時の部、東京文化会館大ホール)
2017-12-28 22:39 この記事だけ表示
 7月のKバレエカンパニー「トリプル・ビル」の公演で、荒井祐子は伊坂文月とペアを組んで「ラプソディ」を踊った。振付はフレデリック・アシュトン、来年3月にKバレエで上演される「バレエ ピーターラビットと仲間たち」の振付家でもある。ラフマニノフ作曲の「パガニーニの主題による狂詩曲」を用いたこの作品に物語はなく、音楽にのって超絶技巧が展開されてゆく。音楽を観る喜びがそこにはある。
 5月の「白鳥の湖」以来、私は勝手に荒井祐子を美の同志だと考えている。日本の女の子には日本の女の子の美がある。その美は誰より、日本の女の子同士で認め合うことで、さらに確かなものとなり、磨かれてゆく。私はそんな活動を、宝塚歌劇を観、評論することで、愛する宝塚歌劇の仲間たちとずっと続けてきた気がする。そして、今ここに、新たなる分野に新たなる仲間を見出したのだ。私にとって最高のバレエ・ダンサーの一人に。荒井祐子が輝く瞬間が好きだ。ひときわ大きく見える瞬間が好きだ。細やかにステップを刻む瞬間が好きだ。彼女の美しい心がその踊りに発露する瞬間が好きだ――。
 「ラプソディ」では、振付を正確にこなす、そんな次元を超えて、音楽や振付に対し、ちょっとしたニュアンスやしぐさなど、彼女ならではの解釈がその身体で示されるたび、――、…ああ、彼女はこのようにこの美しい楽曲を聴いているんだな、このように聴けるなんてうらやましいな、そう思う瞬間が何度もあった。
 第18変奏、アンダンテ・カンタービレ。二人は互いの回りを舞う。――その情景がいつまでも心から離れない。今や私の心の中で、荒井祐子がくるくる、くるくると回っているのである。――永遠に!

(7月17日14時、オーチャードホール)
 「白鳥の湖」の印象深い音楽的体験はこれまで二度ある。一度は、2007年に国立モスクワ音楽劇場バレエが来日、首席指揮者フェリックス・コロボフが振った舞台を聴いたとき。途中から指揮者はほとんど踊りをぶっちぎって、自分の音楽の世界を展開していた。三幕で出てきた道化は目を四苦八苦、その音楽のスピードについて行けなくなっていた。四幕はもはや舞台上で起きている物語と音楽とがまったくかみあっていなかった。厳然たる音楽の前に、物語はほとんどメロドラマにさえ見えた。振り終わったコロボフくんは、「…俺の――『白鳥』!…」と言わんばかりに満足気に高揚していたが、バレエ団的にはあの演奏はどうだったんだろうか…。もう一度は、2005年にマシュー・ボーン版が来日してのオーチャードホールでの公演の際、東京フィルハーモニー交響楽団が演奏を務めたとき。二幕のアダージオ、ザ・スワンと王子の踊りに、コンサートマスター荒井英治のヴァイオリンが艶やかにからみつき、官能的だった。ただ、このときも、ヴァイオリンのスピードが踊りのそれを上回っているきらいがあった。二度とも、音楽が踊りに先行していたわけである。

 今年5月のKバレエカンパニー「白鳥の湖」。――私は、後にも先にも、あんな「白鳥の湖」を観たことも、聴いたこともない。遂に音楽と踊りとが溶け合い、――そして、物語の、音楽の、新たな地平が私の中で拓かれた。そのためには、荒井祐子のオデット/オディールが、熊川哲也のジークフリードが必要だった――。
 二幕、アダージオ。――官能の極み。オデットは、王子の――否、私の――腕の中で、女性の姿になり、また、白鳥の姿にもなった。白鳥なのか女性なのか、どちらともつかぬ生き物が、私の髪の中に頭を埋めていた――。その、どちらともつかぬ美しい生き物を、私はただただ撫でさすり、その感触に恍惚を覚えていた。
 三幕、舞踏会。生を謳歌する「カルメン」タイトルロールの経験が生きた黒鳥。小柄な彼女がひときわ大きく、艶やかに見える瞬間。どこか優柔不断で気弱なところもある王子を、至宝スチュアート・キャシディ扮するロットバルト共々、その気迫で圧倒する。――王子が黒鳥にひかれるのも無理はない、そう思った。それほどまでに、黒鳥は生のパワーに満ちあふれているのだ。美の前に、白黒、善悪などもはやどうでもよかった――。
 四幕、再び湖のほとり。もはや、人間と白鳥、愛が種を超えていることすらどうでもよかった。そこに愛がある以上、問題なのは、種を超えて愛し合うことを問題視する周囲の方だった。――その意味で、マシュー・ボーン版「白鳥の湖」の解釈に同意する。ただ、私は、ボーン版の振付ほど、チャイコフスキーの音楽に暴力性を聴かないけれども――。そしてクライマックス。
「私は、音楽を通じて、白鳥と一体となった――」
 「白鳥の湖」の音楽とは、チャイコフスキーのそのような宣言だったのである。だからこそ官能の極みなのである。“舞台は最高のエクスタシー”――まさに、この日劇場で感じたことであるが――に倣って言うならば、“音楽は最高のエクスタシー”。人はそれぞれ孤独な存在として生まれ、死ぬ。人が他者と一体となる上ではさまざまな手段があろうが、多くの人にとってその筆頭に上がるであろう手段はセックス、肌と肌を合わせることである。だが、芸術家とは、劇場空間においても自らと他者、あるいは他者同士、あるいはその場に集った人々すべてをも一つにしてしまうことができる存在である。それぞれの芸術の手段を用いて、心を一つにさせることで。それこそが“舞台は最高のエクスタシー”の瞬間に他ならない。「白鳥の湖」において、チャイコフスキーの芸術はさらなる段階へと達している。すなわち、人間とは異なる種、白鳥をも一体としてしまっている。まず自らが白鳥と一体となり、それを聴く人間をもまた一体としてしまう。「白鳥の湖」を聴き、観るとは、究極的には、チャイコフスキーと一体となり、その行為を通じて彼が一体となった白鳥ともまた一体となるという、至福の体験だったのである――。…芸術家とはほとんど変態と紙一重であるな、そう思った。その変態性こそがすなわち芸術性だったりするわけだが。

(5月25日15時&5月26日14時、オーチャードホール)