3月11日14時の部観劇(オーチャードホール)。
 「ドン・キホーテ」ってこんなにもおもしろい演目だったんだ…と改めて思った。どちらかというと、物語を楽しむというより華麗なテクニックを楽しむ演目のように思えていたからだけれども、熊川哲也芸術監督の手にかかれば、登場人物たちが生き生きと息づく。まずは、街の人気カップル、キトリとバジルの恋の行方と、それを取り巻く人間模様が賑々しく描き出される。アンサンブル一人一人まで、この街に生きている人間なのだときちんと伝わってくる細かな目配りと、演じる一人一人の意識。そこに、騎士に憧れ、キトリを見て崇拝するドルシネア姫だと勘違いするドン・キホーテと、彼に付き従うサンチョ・パンサのデコボココンビがしっかり絡んでくる。風車に突進して意識を失ったドン・キホーテが見る夢の情景は、バレエならではの美しい、そして意味深長にも感じられる幻影である。バレエにおいてはドン・キホーテの影が薄いことが多く、この作品をさらに深めるとしたらこの夢の情景を含め彼のキャラクターを深めていくんだろうな…と思っていたのだが、この役を演じる“Kバレエの至宝”スチュアート・キャシディの存在感際立つ演技と、場面場面でドン・キホーテとサンチョ・パンサをしっかりその他の登場人物に絡めて描く演出が効果大である。
 芸術監督演出の舞台を私が愛するのは、そこに確かに“愛”があるからである。主役カップルの愛だけではない。芸術監督が愛をもって一人一人にきちんと目を配っているからこそ、出演者全員が舞台にきっちり息づくことができる。バレエでも演劇でも同じことだが、演出家の目配りが全員に行き渡っていなかったりすると、出演者の目線はどこか宙を泳いで客席にまっすぐ届かなかったりするものである。
 芸術監督がローザンヌ国際バレエ・コンクールでゴールド・メダルを獲得したのも、英国ロイヤル・バレエ団でプリンシパルに昇格したのも、「ドン・キホーテ」を踊ったときだった。芸術監督にとってはそれだけ思い入れの深い演目であって、彼がこの音楽を聴くと感じるさまざまなときめきが十二分につまっているからこそ、こんなにもおもしろい舞台に仕上がっているのだと思う。非常に心満たされた状態で創っている舞台なのだ…ということが伝わってきて、そうなると、オーチャードホールが何だか、美の祈りを捧げる厳かな聖堂のように感じられてくるから不思議である。

 さて、この日、主人公バジルを踊って、入団2年目の篠宮佑一がセンセーショナルな主役デビューを果たした。登場、まずは好いた者同士のじゃれ合いで、キトリに強引にキスしに行ってかわされるくだりがかわいらしい。そして、お金がないという理由でバジルとの結婚に反対するキトリの父から財布をこっそり頂戴し、「お金ならあるよ」「あったのか、…いや、これ、俺の財布じゃないか〜」のやりとり、メリハリのついた芝居で笑いを誘うあたり、演技の巧さに感心。そして、客席が乗ってきたのがわかったのか、踊りも含め舞台がどんどんテンション・アップ。極めつけは、「ドン・キホーテ」といえばおなじみ、結婚式のグラン・パ・ド・ドゥ。会心の踊りだったのだろう、ソロが終わった瞬間、ニッカーと笑ったのである! …こんなに笑顔全開の人、あんまり観たことないかも…と、こっちもつられて思わず笑顔。すると、彼の高揚が伝染したようで、続いて踊るダンサーたちもみんなニコニコ。楽しい作品だから、幸せな結婚式の場面だから、それがぴったりなのである。終幕に向けみんなが楽しくなって、そして、篠宮バジルはといえば、もうもう振り切れてしまい、踊りのキレは冴え渡るわ何だか面妖なポーズは出そうだわ…。よくぞ初主演でここまで踊り切った! という感動の涙と、…あの、今あなた相当おもしろいことになってますよ〜というおかしさへの笑いとで、泣き笑いでフィナーレを迎えたあひるであった。振り切れておもしろいことになっている、その様が愛おしいのを目の当たりにしたことのある舞台人はといえば、それこそ芸術監督然り、壮一帆然り、四代目市川猿之助然り、…でも、初主演でここまで行った人、他に観たことあったかな…と記憶を探って、思い出した。「スカーレット ピンパーネル」新人公演初主演の紅ゆずる。
 舞台上の人々と客席の人々とを自分のエネルギーで巻き込んでいけるという意味では主役向きなのだと思う。そして、おもいっきりキザに決める、その様が微笑ましく似合うという意味では芸術監督にも通じる魅力をもつ。若いのに何だか老成した雰囲気も感じさせるところがあり、愁いを秘めた役柄も観てみたいものである。ちなみに、明日13日の最終日には、バジルの恋敵、白塗りコミカル・キャラのガマーシュを演じるとか。それもまた幅の広い…。篠宮佑一。今後の活躍が楽しみである。
 街を歩いていて、偶然耳にする音楽がある。自分の意思とはまったく関係なく、耳に飛び込んでくる音楽。そうして聴こえてくる音楽もまた、何らかの意味をもっているのではないかと考え始めたのは、数年前からのことである。きっかけは、熊川哲也芸術監督と、ピョートル・チャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」。以前、「オー人事」のCMでも流れていたから、冒頭のメロディをご存知の方も多いと思う。少々不思議な経緯ではある。「弦楽セレナーデ」にジョージ・バランシンが振り付けた「セレナーデ」はKバレエカンパニーのレパートリーに入っているが、私は芸術監督自身がこの作品を踊るのを目にしたことがあるわけではない。何故、両者が結びついたか――。
 あるとき、演奏会で「弦楽セレナーデ」を聴く機会があった。バレエで「セレナーデ」を観るときはどうしても舞台上で繰り広げられている踊りを観ているから、音楽そのものが伝えるヴィジョンを観るわけではない。これはいい機会だと思った。「世界はこんなにも美しいのに、自分はどうして絶望しているのだろう」――「オー人事」のあのくだりが、その夜、こう聴こえた。――華やかなロシアの夜会。さわやかな朝。そして再びあのくだりが流れ、今度は、「世界はこんなにも美しいのだから、自分は書いていこう」、そう聴こえた。
 ――不思議に思った。バランシンは何故、こんなにもロシアの情景を思い起こさせる楽曲に、「セレナーデ」のような振りをつけたのだろうと。「弦楽セレナーデ」はチャイコフスキーが旅先において、故郷への思いをも胸に書いた作品である。バランシンの「セレナーデ」はといえば、ロシア出身の振付家がアメリカに渡って最初に振り付けた作品で、生徒が稽古場で転んでしまった姿をそのまま振りに取り入れたりしている。そして、ロシア的とは思えない。次に「弦楽セレナーデ」を演奏会で聴く機会があったとき、私は天上のバランシン先生に問いかける気持ちでこの曲に接した。
「…だって、ロシアだの何だの言ったって、アメリカ人にはわからないじゃないか〜〜〜」
 ――バランシンもまた、望郷の念をもってこの作品を振り付けたのかな、と思った。振付時、彼が育った帝政ロシアは既にない。そして彼自身は、当時バレエ後進国であったアメリカの地に在る。ロシアのバレエとアメリカのバレエ、その断絶。そこから彼は、アメリカならではの新しい魅力に満ちたバレエを次々と生み出していったわけである。
 そして、何とはなしに、芸術監督のことを思い出した。イギリスのバレエの歴史と、日本のバレエの歴史とでは、長さはそんなに変わらないんだよ、そう言っていたことを。
 その夜、演奏会からの帰りのバスが信号待ちしている際、ふと車窓を見やると、そこには看板。
「らーめん てつや」
 しかも。“札幌らーめん”の名店の東京第一号店だそうで。小麦のおいしさが味わえる麺でした。それはさておき。この夜以来、「弦楽セレナーデ」が鳴ると、パブロフの犬のように芸術監督の美について深く考えることになった。それはときに思いもかけぬ場所で響いた。お正月三が日、播州の夫の実家を訪ね、帰りに新幹線の駅まで送ってくれた義理の父の車のラジオから聴こえてきたこともある。
 そして、この体験があってから、Kバレエの暮れの恒例の「くるみ割り人形」を観に行ったら、…芸術監督の魂に一層深くふれる思いをしたのだった。芸術監督の「くるみ割り人形」では、それは激しく雪が降る。その中をダンサーたちが激しく踊る。…チャイコフスキー先生、ロシアの雪はどんな風に降るのかな? 俺の故郷の北海道ではこんな風に降るんだよ…と、芸術監督が作曲家の魂に問いかけているようなのである。芸術監督の作品には大自然への畏怖の念がしばしば美しく表現されているけれども、この場面もそうである。彼が少年の頃、冬ともなれば大雪に接し、…外に出て遊べないな、とか、止んだら雪で遊ぼう…などと思っていたことが感じ取れる。
 「くるみ割り人形」は、熊川少年のジャーニーの物語なのである。バレエに選ばれ、北海道から世界に渡り、そして、…日本バレエ界の救世主になれ…との言葉を胸に、美のために闘い続けている人間の。芸術監督は非常に品のいい人だから、彼が体験したであろう困難も、この作品において、人形の兵隊たちと戦いを繰り広げるねずみたちに品よく投影されている。
「…だって、俺が闘い続けなければ、愛する日本の観客に、俺が思う美しいバレエを見せられないだろ…」
 クララとくるみ割り人形率いる兵隊たちは力を合わせて闘い、ねずみたちを蹴散らす。そして、激しく雪の舞う国を経て、人形の国へ。かけられていた呪いは解け、美が実現される。熊川少年は、実は人形の国からの使者であるドロッセルマイヤーによる、この呪いの物語を描く人形劇を観ていて一人エンジェルを目にし、ドロッセルマイヤーに見出される“クララ”でもある。そして“クララ”は、熊川“ドロッセルマイヤー”の“劇”にエンジェルを目にし、美に立ち上がる観客一人一人でもある。両者が力を合わせたときが最強である。

 ぽーんとジャンプして出てきた男性が「熊川哲也です〜」と名乗った瞬間、「何かむかつく」という不条理な理由で射殺されるシュールな笑いの舞台も観た。テネシー・ウィリアムズ作品のとあるキャラクターに擬せられたときは、実にキザながらも魅力的な人物だった。他の舞台作品に陰に陽に登場するとき、芸術監督の描写は何だかいつもキザである。
「言うこととか、確かにキザです! でも、それが似合ってるからいいんです!」
 昨年、体調を崩して劇場に行けなかったとき、舞台とはまったく関係ない場所で偶然知り合った芸術監督&Kバレエファンの言葉である。同感。
 でも、と思う。キザの向こうに、繊細で美しい魂が隠れているんだぞ、と。私なんかときどきがさつだから、傷つけたこともあるかもしれないな、と思う。もう二十年くらい前、テムズ川沿いの劇場の楽屋で取材した際の一言とか。敬愛する芸術家にたしなめられたこともある。「男は繊細なんだぞ。君があんな書き方したら、熊川くんだって創れるものも創れなくなっちゃうよ!」と。猛省。
 昨年、自分は芸術監督への期待水準が本当に高いんだと改めて思うことがあった。そして、それをいつも満たしてもらっていることも。でも、これでよしと満足してしまったら美の追求はそこで終わってしまうだろうし、舞台評論家がさらなる高みを期待しなかったら、それも存在意義のない話だと思うから。
 昨年10月に「カルメン」の舞台でホセを踊る芸術監督を観ていて、熊川哲也が創る美とは、自分の人生とはもはや切っても切り離せないものになっているのだと感じた。それは痛切な思いだった。…この人を取材して書いた記事がほめられた! この人のことをもっと書きたい! と、文章がただただ上手くなりたいと思っていた新米記者時代から、ずっと。元祖インスピレーション。
 本日3月5日は芸術監督の誕生日である。心から、おめでとう! そして、同い年のよしみで一言。
 老け込まないでね?。
 来週のKバレエカンパニー「ドン・キホーテ」の公演が楽しみ!
 初日(19時、オーチャードホール)観劇。オデット/オディール=中村祥子、ジークフリード=遅沢佑介。
 第一幕。ぴんと張った上背、遅沢の王子ぶりが素晴らしい。第二幕。グラン・アダージョ。オデットをジークフリードが後ろから抱きかかえる、そのとき、…人間の男が本当に白鳥を抱きかかえて慈しんでいるようにしか見えない瞬間が何度も現前した。そして白鳥は女性の姿へと戻る。その艶めかしさ。愛と美とエロス、三位一体の慄然。
 第三幕。古典版の“黒鳥のグラン・パ・ド・ドゥ”で涙を流したことは今までになかったように思う。それだけ、今回、全編にわたって、このチャイコフスキーの音楽の美しさをそのままに、バレエ芸術を通して観客に伝えようとする熊川の心意気が美しいのである…。グラン・パ・ド・ドゥへの導入ともなる「スペイン」を、熊川版は、目の前にオデットそっくりながらもどこか異なる印象を与える女性が現れ翻弄される王子の心理描写としても用いているのが際立った演出。今回観ていて、…この幕を“仮面”理論で考えてみても面白いかもしれないという発想が浮かんだ。演じられるもの。その“虚像”の向こうにひそむ実像。
 第四幕。…私は今年4月、四代目市川猿之助と壮一帆という二人の芸術家の舞台に、…人が何かを愛して必死に闘っている姿がこの世でもっとも美しく尊い姿なのだと教えられた。芸術家・熊川哲也の演出は、この思いをさらに敷衍する。心から愛し合っている二人の人間が、その愛を何とか成就させようと共に必死に闘っている、その姿もまた、この上もなく美しく尊いものなのだと。
 …パ・ド・ドゥなのにパ・ド・トロワを踊っているような、そんな不思議な舞台。
 呼吸困難になるかと思うほど嗚咽しすぎたので、今宵はこれにて。
 Kバレエカンパニー「カルメン」(15時の部、オーチャードホール)にて、芸術監督と同じ時代に生き、その踊りを観る喜びをしみじみかみしめ。舞台に立てないということが、舞台に生き生きと息づくその美しい心を傷つけてはいまいかということを、自分は一番恐れていたのだ…と。昨年の初演より、「カルメン」の舞台も、芸術監督演じるドン・ホセも一層心に深く沁み。演じる側が、今まで以上に心を客席側に委ねていたからではないかと思うけれども。
 本日夜はシアターコクーンにて赤堀雅秋作・演出「大逆走」の初日の幕も開き、こちらも素晴らしかった! のですが、あひるは今週昼夜昼夜…限界まで活動したため今宵はこれにて。
 本日3月5日は熊川哲也芸術監督の誕生日。ということであひるは松屋銀座にて開催中の「熊川哲也とKバレエ展」(9日まで)に足を運び、芸術監督の創り出す美の世界にふれてきました。オーロラ姫にマリー姫にコッペリア、あまりにかわいらしいコスチュームの数々にうっとり。なかなかクローズアップで見ることのできないヘッドピースも凝視、こういうティアラが欲しいなあ…なんて夢想したり。最近、「大人の心得帳」というページに、今月18日からオーチャードホールにて上演の「シンデレラ」について書かせていただいたのですが(https://members-club.flets.com/pub/pages/premium_style/present_list/007/)、そちらでふれた、持ち手つきの“ティーカップの精”の衣装も間近で見られるチャンス! ティーポットのふたを模したヘッドピースもかわゆく。この衣装に感銘を受けたあまり、最近某所で売り出された持ち手つきティーカップ・モチーフの靴を買おうか悩んでおり…。それはさておき。昨年、国立新美術館で開催された「魅惑のコスチューム:バレエ・リュス展」で音声ナビゲーターを務めた芸術監督が公式ホームページのみで披露したバレエ・リュス・コレクションの品々も見ることができました。
 そこで、最近、大規模片づけ(続行中)によってあひるの家から発掘されたお宝もご紹介〜。

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 1997年12月27日、ロンドンはロイヤル・フェスティバル・ホールでの英国ロイヤル・バレエ団公演の冊子と、芸術監督のサイン也。あひるはこの日、観劇前に楽屋にて取材させていただいており。公私混同厳禁、普通ならば決してサインをもらうことはありませぬ。ただ、あひるはこのときプライベートで旅行していたにも関わらず、前夜急に取材を命じられたという経緯があり、今日は特別! と思ってサインしていただいたのでした。そして、この夜の公演のことはきわめて強烈に印象に残っており。演目は「スケートをする人々」、ブルーボーイ役で登場した芸術監督の跳躍…。ダンサーについてたまさか“音になる”という表現を用いるけれども、そのとき、ダンサー熊川哲也は“音になる”を超えて、その瞬間、私が知覚し得る世界のすべてになっていたのだ…と、昨年、「ラ・バヤデール」でソロルを踊る姿に思い出し。だから、18年前のあの夜の跳躍は、非常に不思議な形で、私の脳裏に記憶として貼りついていて。人々がかつてヴァーツラフ・ニジンスキーの跳躍を観て、「宙から降りて来なかった」と表現したというのも、あるいはこのようなことではないかと。
 さて、展覧会場であひるが思っていたこととは。美しい衣装の数々に、芸術監督の魂が注がれている状態、すなわち舞台上での一瞬一瞬が最高に美しいのだと。そして思った。同じ1972年生まれ同士として、老け込んで守りに入った芸術監督の姿は絶対に観たくないな…と。
 取材以外でお会いするわけではない。けれども、芸術監督は私にとって、生涯でもっとも多く取材させていただいた相手であって、私は勝手に、美の世界における幼なじみのように考えていて。誕生日、心からおめでとう! これからも美の道を驀進してください。取り急ぎ。昨日テレビで放映された「熊川哲也15年目の独白」の最後の方で、美しい夕陽の景色を見たら周りの人と分かち合いたい…という話があったけれども、「シンデレラ」の初演を観たときから、そこに表現された夕暮れの情景にはっとする美しさを感じていたので、そのことについては、できれば「シンデレラ」初日までには書きたいな…と思う次第。
 7月30日(初日、Aプログラム19時の部、オーチャードホール)観劇。パリ・オペラ座バレエ団のエトワールが6名参加しての豪華ガラ公演。
 この夜、世界初演された「月の光」を踊ったエルヴェ・モローが素晴らしかった。振付はイリ・ブベニチェク、音楽はクロード・ドビュッシーの「月の光」、ピアノ演奏は金子三勇士。ほのかに照らす月の光とピアノの音と、戯れるかのように踊る一人の男。甘いルックスのモローは、ネコ科の獣のようにしなやかな肉体の持ち主である。やわらかな肘先、膝先は、時折びよ〜んとどこまでも伸びていくかのよう。四肢がそれぞれ別方向に激しく動いてもなお、その動きを統一する本体としての人間存在を思う。ハンガリーの血が流れる金子は、6月にハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団とフランツ・リストの「ピアノ協奏曲第1番」を共演したのを聴いた際、何だかとても面白い存在でこれからが楽しみだなと思ったものだった。この日は「月の光」を含む数曲を舞台上で披露したが、モローが共に舞うとき、金子の音色もまたひときわ痛切に心の奥底にまで響いてくるのである。不思議だった。二人の相性がいいのだろうか。モローの心身の中に楽曲が流れているから、その踊りを観るときひときわ楽曲がはっきりと聴こえてくるということなのだろうか。――観て、聴いていて、アルベール・カミュの「カリギュラ」を思い出した。月を欲し、月と愛を交わした男、カリギュラを。
 プログラムラストの演目はジェローム・ロビンズ振付の「イン・ザ・ナイト」。金子が演奏するフレデリック・ショパンの「ノクターン」にのって、三組のカップルが一組ずつ舞う。モローは三組目のカップルとしてローラ・エケと共に登場、彼女のよさを引き出すパートナーリングを見せ、金子のピアノがやはりひときわ痛切に響く。ショパンのノクターンの中でもとりわけ有名な「ノクターン第2番 変ホ長調 op.9-2」が四曲目に演奏され、三組のカップルすべてが登場、旋律の繰り返しを異なるカップルによる同じ振りの繰り返しで見せるロビンズの手腕が光る。終幕、三組のカップルは一堂に会する。それは、同じ男女の過去、現在、未来のようにも見え、そして六人は刹那、男男、女女、男女の組み合わせとなり、――プラトンの「饗宴」に登場するアリストパネスの挿話を思い出す。人とは太古、このような姿であった。それがゼウスによって一人一人に引き裂かれ、それぞれが互いの半身を追い求めるようになる。引き裂かれた男男はそれぞれ男を、女女はそれぞれ女を、男女はそれぞれ異性を。
 「マノン」第1幕のパ・ド・ドゥでは、イザベル・シアラヴォラの踊りに一人の女のドラマが濃厚に匂い立った。37歳で昇進を果たし、5年間その座にあって今年2月に引退した遅咲きのエトワールである。「オネーギン」の「鏡のパ・ド・ドゥ」でタチアナ役を踊ったアマンディーヌ・アルビッソンは、今年3月にエトワールに昇進したばかり。回転しながら宙を切る脚の鋭さ、素早さ、図抜けた身体能力の持ち主である。ルドルフ・ヌレエフ振付の「白鳥の湖」第2幕のアダージョとヴァリエーションを踊ったのはそのアルビッソンとマチュー・ガニオ。女性ダンサーが男性ダンサーの胸に後ろ向きにもたれかかり、彼女をその腕に抱いた男性ダンサーが肉体をそっと左右に揺り動かす振りが、本当に、一羽の白鳥が王子に抱きかかえられ愛おしまれているように見えて、「白鳥の湖」の原点とは、――一羽の白鳥が一人の女性のように見えて、とても美しかった――、そんなところにあるのではないかとの我が意をさらに強くした。
 本日14時の部を観劇(オーチャードホール)。荒井祐子のジュリエットが素晴らしい! そして、すごい発見をした思い。作品と役柄に対し深く集中する彼女の姿を観ていて、自分自身、作品と役柄に深く集中し、これまで頭に漠然と浮かんでいたジュリエットについての思考がパーンとまとまった気が。なぜ、ジュリエットは純粋な意味での賢さが必要な役だと考えてきたのか。直感を裏付けるための読書と、ここ最近考えていたことを順序立てて書くことが必要なので、詳しくは先になりますが。公演プログラムで、彼女とスチュアート・キャシディ副芸術監督との対談記事を担当していますが、この取材のときの彼女の発言もヒントになっていて。ありがとう、荒井祐子! 一本芯が通っていて、ちょっとやんちゃで男前なところもあって、けれどもやはりかわいらしい少女で、愛を知ったらはっとするほど大人の女性になって、死をも恐れずその愛を守ろうとする。私はあなたのジュリエットが大好きです。
 苦渋なるものもまた美として表され得ること。バレエとは、それだけの深みと複雑性とを表し得る芸術形式であること。そのことを、今宵の「ラ・バヤデール」の舞台(18時半、オーチャードホール)に教えられた。それが可能となるのも、芸術監督熊川哲也が、バレエの無限の可能性を深く信じているからなのだと思う。
 先週、遅沢佑介×浅川紫織ペアによる同じ舞台(20日18時の部)を観て、そして次の日、故ピナ・バウシュのヴッパタール舞踊団の「コンタクトホーフ」(21日15時の部、彩の国さいたま芸術劇場大ホール)を観て、自分という人間はどうしても頭脳による思考に引きずられがちなこと、そんな自分にとって、観劇及び執筆という行為がいかにして身体的行為と成し得るか、そんなことを考えずにはいられなかった。自分の限界を超えるためにも、引き続き取り組んでいきたいテーマである。
 熊川版「ラ・バヤデール」は、美と権力の関係についても多くの示唆を与える舞台である。権力の大きさは美によって示し得るものかもしれないが、美は決して権力に屈することも、おもねることもない。そして、美の前にすべての人間は平等であり、美とはあまねく分かち合われるべきものである。世界の美しさ、人間の心の美しさを、何人たりとも独占することはできない。美とはそのように自由なものであり、美に生きる人間はときとして、その意味において限りなく自由であることが求められる。
 4日14時の部、オーチャードホール。オデット/オディール=ニーナ・アナニアシヴィリ、ジークフリード=宮尾俊太郎。
 美に向かう想いに迷いのない人の創り出す舞台は冴え冴えと美しい。2年ぶりに挑んだ「白鳥の湖」で、熊川哲也は、作曲のチャイコフスキー、そして、1877年の初演時にはかばかしい評価が得られなかったこの作品を、作曲家の没後である1895年に甦らせた振付のプティパ、イワノワの魂に、より一層迫ったように思われる。これまで聴いてきた中で必ずしも図抜けた演奏とは言い難い。それでも、チャイコフスキーのこの音楽を、私はいまだかつて聴いたことのないように聴いた。不思議なくらいに。最近、音楽を聴いて心動かされるとき、自分の内に音がどうしようもなく満ちてきて、刹那、自分の肉体が心ごと世界に向かってはじけるような感覚があるのだけれども、この日は、ほんの序盤、第一幕の宮廷の場面で、すでにそのような想いにとらわれたのだった。それは、演出・振付家が音楽をいかに舞台上に表すかについて、微細な部分まで聴き逃すことなく注意を傾けているからだと思う。優れたバレエの舞台は、音楽をよりよく聴かせるものである。そして、これまで「白鳥の湖」を観て感動したと感じたとき、必ずしも舞台にではなく、音楽そのものに感動した部分も大きかったのではないかという考えを抱かずにはいられない。そもそもの音楽の力が圧倒的に大きいのである。
 そして第二幕、「情景」、あまりに名高いあのメロディに、……私はかつてこの音楽を聴いたことがある……と思った。これまでに劇場空間で何度も聴いてきたという意味合いではない。それは、どうしようもなく孤独な魂そのものを表す調べである。かつて魂がそのような状態に置かれたことがあるという意味での“共鳴”である。2年前の冬、シンデレラのまとう服の如き灰色の空と海をただ見つめていたあの日――。そしてそのときも、熊川の創り出す美しい舞台に救われたことを思い出す。翻って、ここの音楽は王子の孤独を雄弁に物語るものなのだから、敢えて読み替えやキャラクター設定をせずとも、音楽そのものを表現すれば孤独は表現され得るのである。オデットと出逢う前の孤独。
 第三幕のジークフリードとオディールのグラン・パ・ド・ドゥの冒頭を、ここまで輝かしく幸せな音楽として聴いたこともなかった。待ち受けるのは裏切りなのに! それは、自分自身の幻想に裏切られるという意味合いではあるけれども。けれども、幻想に酔いしれている瞬間は、確かに幸せと呼べるものだったのかもしれない。その後、ジークフリードがオデットとの関係を通じて知ることとなるような、より深い愛情と幸せを知るまでは。そして、やはり過去の「白鳥の湖」体験を思い出したのだった。もう何年も前、マリインスキー劇場の「白鳥の湖」の来日公演を上野の東京文化会館で観たとき、自らの正体を明かして勝ち誇るオディールに、かつて裏切られた――それは、自分自身がその人物に対して抱いた幻想に裏切られただけなのだが――人物(女性ではなかった)の顔をまざまざと見た。そして、終演直後、真向かいにあるル・コルビュジェ設計の国立西洋博物館で行われていた展覧会に飛び込んだところ、……生まれて初めて、絵の中に入るという経験をした。バレエ作品とは異界と現世とをつなぐ扉とも考えるようになったのは、そのころからだったかもしれない。
 あまりにドラマティックな第四幕の音楽については、私自身はいまだはっきりとは聴いてはいないのかもしれない……とも思った。そして、この作品についてまだまだ考えるべきことが多く残されていることも感じた。例えば、この作品における“悪魔”について考えるには、その概念をしばしば用いるキリスト教について考えねばならない。
 表現形式は、表現するにもっともふさわしい美を見出したとき、最高の力を発揮する。「白鳥の湖」には、バレエなる舞踊が芸術たり得る上での諸要素が数多く含まれている。その最たるものが、人ならざるもの、すなわち、白鳥なる存在の表現である。人間の王子が、白鳥と心通う。この状況を描く上で、言葉なき舞はなんと巧みに物語ることか。対比として思い出すのは、木下順二の戯曲「夕鶴」である。女性の姿となった鶴、つうは、最初こそ助けてくれた与ひょうと心通っていたものの、与ひょうがお金の話をするようになると、聞こえなくなる、わからなくなってしまう。この場合は、言葉で語る演劇の醍醐味がある。
 ニーナ・アナニアシヴィリが「白鳥の湖」の全幕を踊る姿を観る機会がまたあるとは思いもしなかった。そして、単なるスターダンサーの顔見世ではなく、演出・振付家の創り出す作品世界に深い敬意を示す渾身の舞を観ることができた。両者が芸術家として拮抗した存在であるからこそ実現した舞台である。オデット/オディールとは、バレエ・ダンサーとして覚醒していなければ踊り得ない役柄である。アナニアシヴィリが今回、この役を務めたことが、熊川版「白鳥の湖」の今後の展開に豊饒な恵みをもたらすことだろう。そんなアナニアシヴィリに導かれてか、ジークフリード役の宮尾俊太郎の踊りが格段によくなっていた。
 これからも熊川哲也は「白鳥の湖」の演出・振付に挑むだろう。そのたびに名作の深奥に迫り得るであろうことが楽しみでならない。その他のチャイコフスキーの三大バレエのうち、毎年クリスマス・シーズンに上演され好評を博している「くるみ割り人形」については、演出・振付家はすでに大きな成功を収めている。「眠りの森の美女」についても今後の上演が楽しみである。作曲家の魂は、熊川哲也にその美しい音楽を託すことを望んでいると確信するものである。そして、来年3月には、やはり“異界”を描く「ラ・バヤデール」のオーチャードホールでの上演。「未体験の芸術空間にお連れします――。」とは、現在配布中のオーチャードホールのハイライトちらし表紙、熊川哲也芸術監督の写真に添えて筆者が記したコピーだが、その言葉通り、「白鳥の湖」、「ラ・バヤデール」と、芸術家は、未知なる世界、異界へと、観客を誘い続けることだろう。
 6日14時の部、東京文化会館大ホールにて。
 大好きだった祖母が亡くなった直後にも、Kバレエの「ジゼル」の初演(2001)を観劇し、心慰められた思い出がある。不思議な、そして確かなめぐりあわせを感じずにはいられない。今回の上演は舞台装置も一新しての改訂版である。
 熊川哲也のアルブレヒトが、ジゼル(佐々部佳代)に注ぐ愛はただただ深い。ときに観ている方が照れてしまうくらい、一途に心を傾け合う恋人たち。侯爵の身分を隠して近づいた村娘との恋を、例えば、一時の戯れ、火遊び風に表現することも可能な物語だけれども、熊川アルブレヒトにとってはジゼルとの愛は本物である。だからこそ、ジゼルの死の悲劇は一層痛切である。ジゼルに想いを寄せ、アルブレヒトの身分を暴いてジゼルの死のきっかけを作ってしまうヒラリオンを演じるスチュアート・キャシディも、粗野な横恋慕男と表現されるきらいなきにしもあらずのこの役を、報われぬ愛を抱く真摯な男として造形する。浅川紫織が踊るウィリの女王ミルタも、従来ありがちな冷たさの表現といった次元を超えて、ただそこに漂い、人間と異なる形で存在する。ウィリたちはあくまで人間界とは異なる掟に従っているだけなのである。ステロタイプな「ジゼル」を超えた「ジゼル」の誕生である。
 二幕、ウィリとなったジゼルと、アルブレヒトは同じ世界にはいない。何度か彼女とすれ違い、そしてようやくその身を抱き上げるアルブレヒトは、まるで空気をかき抱くかのようである。
 死によって、人は、生きていたときとは異なる形でこの世に存在するようになる。肉体の軛を超え、その意識だけが、あるいは、他者の意識の中に残るその者の記憶によって形作られた集合体だけが、そこに在る。死によって人は永遠を得る。「もうここに来てはいけない」と、ジゼルは愛をもってアルブレヒトの命を救う。生者と死者との交わりの禁忌がここで示される。それでもなぜ、私たちは、死者の魂としばしば出逢うのだろう。例えば、こうして。「ジゼル」の上演される劇場空間で――。