他者のそれをも認めた上で、己の人生の理不尽を引き受けて生きること。――そんな、片岡仁左衛門による舎人松王丸の演技。考えてみれば人は、この世に生まれ出たいと願った上でこの世に生まれ出てこないわけで。首実検の最中も、仁左衛門の松王丸の心の中にはずっと、父や兄弟、幼き日の思い出が渦巻いている。そのうねりが劇場空間を満たしていくのを感じていた。

(4月15日、大阪松竹座)
 『義経千本桜』の「川連法眼館の場」を上演しようとする伊勢の芝居小屋。その舞台裏では、ハプニングに次ぐハプニングが。はたして舞台を最後まで上演することができるのか――。三谷幸喜が自身の主宰劇団「東京サンシャインボーイズ」で1991年に初演した『ショウ・マスト・ゴー・オン』を原作に、歌舞伎として新たに書き下ろし、演出を手がけた作品。
 笑いの波状攻撃が味わえる作品だったけれども、とりわけの笑いのツボを二つ。まずは、囃子方の五郷新二郎(大谷廣太郎)が口にする「ポン!」。静御前役の竹島いせ菊(坂東彌十郎)は、重要な小道具である鼓の代わりに枕をもって舞台に出て行ってしまった。新二郎の鼓を渡すしかない。しかし、いせ菊自ら鼓を打って音を出すことはできない――いつもは囃子方が舞台裏で鼓を打って音を出している。さて、どうする。そこで思いついたのが、「ポン!」。いせ菊が鼓を打つ動きをしたら、新二郎が「ポン!」と口で言う。舞台裏でめちゃめちゃシリアスな話をしていても関係なく「ポン!」。忘れたころに「ポン!」。「ポン!」がなければ舞台は進まない。淡々とした表情で「ポン!」と繰り返す廣太郎の新二郎――笑った。新二郎は音楽進行上のキーパーソンでもある。彼は新しい拍子を思いついたと言って、演奏陣と共に奏でてみせる――どこかで聞いたことのある節だなあと思う。何度か奏でられるその節が、劇中劇のクライマックスで、平井堅の名曲「POP STAR」と明かされる! 鳴物も華やかに入って、太夫と三味線による「♪魔法をかけてあげよう 君だけに〜」に乗っての総踊り、大盛り上がり。この舞台を観劇した平井堅さんご本人が「”POP STAR”書いて良かった―。」と感想コメントを出していて、素敵な曲を作ってくれてありがとう!
 もう一つの笑いのツボ。いせ菊は顎が外れ気味でヤバい感じなので、骨つぎ玄福(浅野和之)を呼ぶのだが、不手際もあってなかなか到着しない。治療を受けられないまま、いせ菊は舞台に出てしまう。ようやく到着した仙人のような玄福を、腰元の格好をさせて舞台に送り出すのだが、調子に乗って踊っちゃった(ところは見せない)玄福は膝をやってしまい、いせ菊の治療をできないまま舞台に取り残される。それでもショウ・マスト・ゴー・オン。舞台は大詰、「狐忠信」の場面。狐忠信役の看板役者山本小平次(中村獅童)が途中で芝居をやりたくないと言ったため、狂言作者花桐冬五郎(松本幸四郎)が狐忠信のピンチヒッターを務めていたのだが、思い直した小平次も舞台に出てきたからさあ大変、狐が二匹。二人は無理やり親子と言いつくろって芝居を続ける。片膝を軸にしてぐるぐる回る百回りを、小平次も、冬五郎も、そして途中で自分の膝をはめて治した玄福も披露! 玄福は、舞台上という、ある意味特等席で、芝居をじっと観ている。そして、興が乗ったら自分も参加――舞台と観客をつなぐ存在だ、と思った。舞台で楽しい振りを観て、一緒に踊ってみたいと思って、家に帰って一人踊ってみたりする、そんな観客の心を、代わりに一緒に踊ってくれているような。
 そんなてんやわんやの舞台、というか舞台裏を、最初は弟子のふりをしたりしてちょっと意地悪に見ていて、途中で悪し様にも言う『義経千本桜』作者の一人、竹田出雲(中村鶴松。最初は弟子の「半二」として登場)は、最後には、負けていられないな、と言うのだが、……言うかなあ。それはさておき。
 芝居を愛する気持ちにあふれる松本幸四郎が、舞台の醍醐味を伝える役を演じているから、観ていてほのぼの楽しい。自分で書いていない『義経千本桜』を自作だと言ってしまう座元藤川半蔵役の片岡愛之助は、爽快なまでのアバウトさがキュート、三谷作品で魅力輝く。看板役者山本小平次役の中村獅童は、甘えキャラが本当にかわいらしい。作中紅一点の油屋遊女お久役の坂東新悟は性別を隠して腰元役で舞台に出ることになり、実際には女性なのに舞台姿が女らしくないと言われ、そしてピンチを救うため男性役で舞台に出ることになって頭を剃る羽目に。役者じゃないのに舞台に賭ける心意気を示す場面のブチ切れ具合たるや。市川染五郎は源義経役の坂田虎雄と狂言作者見習花桐番吉の二役で大忙しの大奮闘。すっとぼけた様が愛らしい竹田出雲(実は弟子の半二)役の市川男女蔵。出番を減らされてしまうという設定の榊山あやめ役の市川高麗蔵はもっと活躍が観たかった。いせ菊役の坂東彌十郎は、外れ気味の顎を自分で何とかしようとする仕草が忘れられない。頭取の嵐三保衛門役の中村鴈治郎は、次々と迫り来るピンチをキレキレにかわす様に芸達者ぶりを発揮、附けを打つのも上手い! 大道具方義右衛門役で出演の阿南健治は、東京サンシャインボーイズでの初演や再演、テレビ版にも出演していて、今回歌舞伎座初登場。難題を言われても頼もしく引き受けていく、その表情がインパクト大。そして、芝居を愛する役者叶琴左衛門役の松本白鸚の存在が余韻を残す。何とか舞台を続けてほしい……と、登場人物たちと一緒にハラハラドキドキして、観客みんなで大いに笑って――。楽しい思い出。
昼の部
『元禄花見踊』しり上がりに調子が上がっていったけれども、まだまだ行ける! もっとうっとりしたい。

『菅原伝授手習鑑 車引』六代目尾上菊之助が舎人梅王丸――このとき彼は11歳(先月末で12歳)。彼のような年齢の若者に、「自分には役者として足りないものがあることはわかっているんです」ともし言われたとして、何と返すだろう……と長考。
「あなたがやっている歌舞伎はとても素敵な舞台芸術です。そして、世界には素敵な人、素敵なものがたくさんあります。これから素敵なものをいろいろ知っていって、そんな世界の中にある歌舞伎の素敵なところを、いっぱい見つけていってください」
 世界に素敵なものがたくさんある中で、素敵な人々に囲まれて舞台評論家という仕事をすることができている人間より。

『菅原伝授手習鑑 寺子屋』「秀山祭九月大歌舞伎」のAプロ、Bプロと合わせて、今年歌舞伎座で『寺子屋』を三回観たのだけれども、終幕の松王丸の演技が、「六月大歌舞伎」の八代目尾上菊五郎は漂泊して空気に溶けていくようなはかなさ、「秀山祭九月大歌舞伎」Aプロの尾上松緑は……この人、この後、自ら命を絶たないだろうか……と心配になる心の空白、Bプロの松本幸四郎は、息子小太郎が立派に命を差し出した、その死に様にふさわしいよう立派に生きていこうという決意を感じさせて、それぞれ味わい深かった。

『お祭り』鳶頭役の片岡仁左衛門が、登場だけでかっこよくて心ズキュン。

夜の部
『歌舞伎十八番の内 暫』鎌倉権五郎景政役の市川團十郎の舞台上の姿に、“Larger than life”というフレーズがくっきり脳裏に浮かんだ。この世という舞台を生きる人間のいわば“代表”として、そこに在ること。
『連獅子』八代目菊五郎と六代目菊之助が親子で踊る連獅子――。浄土の僧遍念役の片岡愛之助がコミカルでよかった。
『芝浜革財布』尾上松緑の演じる魚屋政五郎と、中村萬壽の演じる女房おたつ、貧しいときも富めるときも二人が交わす夫婦の情がしみじみ心を打つ。
 その日、そのとき、それぞれに苦しみと悲しみを背負った人々がその場に居合わせたからこそ織り成される――そこが作劇上、巧みなところなのであるが――濃厚な心理ドラマ。登場人物全員、演じている役者全員が愛おしくなってくる舞台だった。己が源頼朝や源義経(中村芝翫)をかつて救ったからこそ平家の衰退を招いたと悔み、今は石屋に身をやつして一門の菩提を弔うため石塔を建てている白毫弥陀六実は弥平兵衛宗清役の中村歌六が、役柄の抱える複雑な心境を雄弁に伝え、戦いのただ中にいる人々とは異なる角度から物語に光を当てる演技。源氏と平家が戦っている最中の当事者以外の人々の生について実に示唆に富んでいて、舞台上の歌六の姿が実際に観ていたときの視覚以上の大きさで脳裏に焼き付いている。
 その後あわただしすぎて今となっては自分でも忘れそうですが、6月末まで夫が福岡に勤務しており、あひるも一年間で3ヵ月ほど滞在、福岡生活を楽しみました。博多座をはじめとする劇場に出し物がかかると、「来てくれた〜」という気持ちになって非常にうれしい。ということで、6月には福岡在住気分で「六月博多座大歌舞伎」を観劇。昼の部、鳶頭を中村勘九郎が踊る『お祭り』には、ちょうど一月後に「博多祇園山笠」を控えている時期だったということもあり、江戸の男っぷりと博多の男っぷりの違いについて考え。上方落語『貧乏神』を題材にした『福叶神恋噺』は、昨年5月に「歌舞伎町大歌舞伎」(THEATER MILANO-Za)で初演された新作歌舞伎の再演。パワーアップしていた。そして、まだまだ行ける楽しさをもった作品だと改めて感じたので、またいつか観られることを願って。夜の部、『菅原伝授手習鑑 道行詞の甘替』は59年ぶりの上演。博多座は菅原道真にその名ちなむところの天神にも近く、広く言えばご当地もの? 博多座初上演の『怪談乳房榎』は、2013年の赤坂ACTシアター公演の初日を観劇したことを懐かしく思い出し。市川猿弥が博多座の舞台に立つ姿を観るのは、2017年の「博多座二月花形歌舞伎」以来なんだな……と、何だかさまざまな感慨にふける観劇となり。博多座のお客さんたち、一階席からでも「中村屋!」等、声をいっぱいかけていて、そこは歌舞伎座と違ったりするんだなと。同じ演目でも、異なる場所で観るといろいろ見方が変わるなと興味深く。ちなみに、博多座近辺のお気に入りスポットは、隣の福岡アジア美術館にあるアートカフェ。窓辺のかご状のハンギングチェアに揺られて川端通商店街のアーケードの上を眺めたり、コーヒーや紅茶片手に美術書やファッション関連書籍をめくったりしていました。
 「解説 歌舞伎のみかた」に続いて“忠臣蔵外伝”の一つである『玩辞楼十二曲の内 土屋主税』の上演。東京での上演は珍しく、国立劇場公演では今回が初めての上演とのこと。
 舞台が始まって、……あれ、どこかで観たことある話だな、と。たびたび上演される『松浦の太鼓』と似ているのである。でも、『松浦の太鼓』では松浦侯に仕えているのは赤穂浪士の大高源吾の妹お縫だけれども、『土屋主税』で松浦侯的存在である旗本の土屋主税(中村扇雀)に仕えているのは赤穂浪士の勝田新左衛門の妹お園(坂東新悟)で、大高源吾(中村錦之助)は二つの作品共に登場するが、勝田新左衛門は名前は出てきても作品には登場しない。源吾の妹という方がストーリー的にもすっきりしているのに、と思う。そして、「解説 歌舞伎のみかた」でも市川青虎が強調していたように、「武士は二君に仕えず」というフレーズがやたらと出てくる。「二君に仕える」とは仕える主君を替えて別の主君に仕えることで、この作品でも源吾が別の大名に仕えると言うと大いに蔑まれるのだが(それは偽りで、実際には吉良家に討ち入るわけである)、ここまで強調される「二君」って誰と誰のことを指しているんだろう……と非常に気になった。『松浦の太鼓』は明治15年 (1882)に、『土屋主税』はその25年後の明治40年(1907)に、同じ大阪角座で初演されている。『松浦の太鼓』は三代目中村歌六のために、『土屋主税』は初代中村鴈治郎のために書かれていて、初代鴈治郎の舞台は好評を博し、その当たり役を集めた「玩辞楼十二曲」の一つに選ばれている。そして、『土屋主税』を書いた渡辺霞亭は、尾張藩士の「渡邊源吾」の息子なのだが、その源吾の兄が、「青松葉事件」(慶応4年=1868年、尾張藩主徳川慶勝が藩内で「佐幕派」とされた家臣を粛清した事件)で処刑された家老「渡辺新左衛門在綱」。尾張徳川家といえば徳川御三家の筆頭である。その家臣が、「佐幕派」で処刑なんだ、と思った。

(6月4日14時半の部、サンパール荒川大ホール)
 ゲーム「刀剣乱舞ONLINE」を原案とした新作歌舞伎の第二弾。刀剣男子・三日月宗近と悪役の羅刹微塵を演じる尾上松也が尾上菊之丞と共に演出も担当。鎌倉幕府第三代将軍源実朝の鶴岡八幡宮での暗殺をめぐる物語で、中村歌昇が刀剣男子・陸奥守吉行と源実朝の二役を演じる。陸奥守吉行は坂本龍馬の愛刀なので、セリフも「〜ぜよ」という語尾のものが多い。龍馬というと「〜ぜよ」のイメージが確かに強いけれども、本当に言っていたのか、もしそうでなかったらこれはいったいどこから来たものなのだろうかと興味が湧いた。それと、坂本龍馬は銃も所持していたということで、歌昇の陸奥守吉行も銃を撃つ決め仕草を大いに繰り出すのだが、……刀剣、銃も撃つんだ……と。通常の歌舞伎の舞台ではあまり観ない歌昇の客席アピールを観られたのがおもしろかった。物語としては、休憩前の展開にもう少しテンポが欲しいところ。また、早替りが入っていたらさらに盛り上がっていたような。刀剣男子・鬼丸国綱役の中村獅童は、”超歌舞伎”の経験も豊富とあってか、衣裳も似合い堂々たる貫禄。大喜利所作事「舞競花刀剣男士」の演奏が非常にゴージャス。

(7月11日13時半の部、新橋演舞場)
<第一部>
『世界花結詞』 古典歌舞伎と最新テクノロジーが融合した“超歌舞伎”の十周年記念作品。バーチャルシンガーの初音ミクと、中村獅童を中心とした歌舞伎役者たちが共演、さまざまな歌舞伎作品を取り入れての構成。初音ミクが舞う際の袂の動きに目が行き、その後に登場する女方たちの舞を観る際にもそこを注視してみたりして、いかなる技術でこうした表現を具現化しているのか、改めて興味深く思った。女方の舞の映像等を取り入れてアニメーション化しているのだろうか。だとすると、女方の技術の解析を行なう上でも有益に思われる。その一方で、女方である中村時蔵の活躍がもっと観たかったなと思ったのも事実(今回の物語の構成上の事情もあるのかもしれないけれども)。例えば、女方と、初音ミクが男性化したキャラクター「ミクオ」との共演はあるのだろうか等、いろいろと考えた。闇落ちした初音ミク、怖い。

<第二部>
『丸橋忠弥』 タイトルロールを演じるのは尾上松緑。冒頭のセリフからいかにもな酒好きぶりを存分に匂わせて、お酒が飲めない私までお酒をおいしく飲みたくなってくるような気持ちになるが、実はこの人物……という仕掛けのある作品。先行する講談があったにせよ、河竹黙阿弥が、大政奉還から2年半という時期(明治3年=1870年)に、江戸時代初期に幕府を転覆させようとした軍学者由井正雪に加担した人物を主人公にした作品を書いたことをおもしろく思った。第二幕の捕物の大立ち廻り、大スペクタクル。

『芝浜革財布』 中村獅童が魚屋政五郎を初役でつとめ、その女房おたつ役で寺島しのぶが約2年ぶりに歌舞伎座に登場。獅童政五郎の冒頭の盛大な「ハックション」から、大いに笑った。私は寺島しのぶが舞台で見せるきりっと強いところが好きなのだけれども、今回は何だか、しおらしさの方が前面に出てくるような。女方が演じるおたつを観るときには必ずしもそうは感じないようにも思うので、男性と女性の身体や声の違い等が影響してくるところなのかもしれず、だったらもっとガンガン行ってもいいのかもしれず。女方と女優の表現等のさまざまな違いを知っていく上でも、寺島の歌舞伎挑戦を非常に意義深く思う。政五郎の友人の錺屋金太役で梶原善が歌舞伎座の舞台に初登場、座組にすっかり溶け込んでいた。
 2025年の観劇納めでした。

(12月23日11時&14時45分の部、歌舞伎座)
『与話情浮名横櫛 源氏店』 名場面の醍醐味をよく伝える舞台だった。すべての瞬間の濃密さを緊密に感じる55分。和泉屋多左衛門(河原崎権十郎)に世話されているお富(坂東玉三郎)が、囲われ者であるということもあり(実は違うのだが)置かれている立場の哀しさが、番頭藤八(片岡市蔵)や蝙蝠の安五郎(松本幸蔵)とのやりとりからくっきりと浮かび上がる。そして、お互い死んだと思っていた与三郎(染五郎)との再会――。お富は知らないのだが、実は多左衛門はお富の兄。その実兄の前でお富は与三郎を兄だと言いつくろう。そんなお富の人となりについても承知しつつ、妹を添わせて大丈夫なのか与三郎の人となりを見定めつつ、言葉では何も言わずに、兄妹の証拠の品をそっとお富に手渡して出ていく。たたずまいに多くをにじませる権十郎の多座衛門。

『火の鳥』 初演は今年の「八月納涼歌舞伎」。現実社会のありようを念頭において作られた作品ながら、観ている間の俗世界との切り離され方がすばらしく、デトックスされたようなすっきりとした思いで劇場を後にした。今回さらにブラッシュアップしての上演。演者が変わったこともあるのか、初演とはまた異なる寓話性を観た思い。今回は、父である大王(市川中車)に永遠の力をもつとされる火の鳥(坂東玉三郎)を探しに行くよう命じられるヤマヒコ(市川染五郎)とウミヒコ(市川左近)の兄弟に、歴史上も多くある兄弟の相克の物語を連想したり。玉三郎の火の鳥が、衣裳の袖のところについた棒を手で優雅に操って布を波打たせる様は、20世紀初頭に活躍したロイ・フラーの舞を思わせて。そして、クレーンに乗っての宙乗り。語り口調も優雅で、思わず火の鳥ごっこをしたくなる魅力。

(12月5日18時10分、歌舞伎座)
『當年祝春駒』 晴れがましい気持ち胸にあふれて。工藤左衛門祐経役中村歌六の艶。

『歌舞伎絶対続魂 幕を閉めるな』 二回目の観劇で、極めて緻密に作られていることを確認。そして、観劇後に包まれるあのほっこりとした幸せ感たるや――舞台と客席側とで「舞台を何とか最後まで遂行する」物語を分かち合い、それがすなわち日々劇場空間で行なわれていることなのだと客席側としても改めて認識できるところに起因しているのだと思う。笑いの波状攻撃のような作品で至るところに笑いのツボがありますが、「ポン!」がとても好き。そして邦楽演奏のあの曲、配信してほしい! 帰宅して『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』を観ると共通点がいろいろとあるので、ドラマの展開も観つつじっくり書きたいです。22日にはライブ配信もあり。

(11月13日17時の部、歌舞伎座)