藤本真由
(舞台評論家・ふじもとまゆ)
1972年生まれ。
東京大学法学部卒業後、新潮社に入社。写真週刊誌「FOCUS」の記者として、主に演劇・芸能分野の取材に携わる。
2001年退社し、フリーに。演劇を中心に国内はもとより海外の公演もインタビュー・取材を手がける。
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bluemoonblue@jcom.home.ne.jp まで。
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歌舞伎
三部とも、人間について深く考える時間を与えてくれた、見応えのある舞台でした。明日が千穐楽〜。
いろいろつながってきたかも……と思えた、「壽 初春大歌舞伎」第三部(26日)、第一部(27日千穐楽)の観劇。『弁天娘女男白浪』<稲瀬川勢揃いの場>の“ツラネ”は、その生きた言葉の美しさに、何度聞いても涙が……。
新年を歌舞伎と共に迎えられる喜びが味わえる、華やかな『壽恵方曽我』。
エドワード・ブルワー=リットンの戯曲『マネー』(1840年初演)を河竹黙阿弥が翻案した『人間万事金世中』(明治12年=1879年初演)は、明治初年(1868年)の横浜――その9年前に開港したばかり――が舞台。ケチな人間のおかしさ哀しさ、そして、激動の時代に対する黙阿弥の鋭いまなざしも感じられる、非常に興味深い作品。舞台転換の折に聞こえてくる「♪リットントン〜 リットントン〜」も楽しく忘れ難く。
エドワード・ブルワー=リットンの戯曲『マネー』(1840年初演)を河竹黙阿弥が翻案した『人間万事金世中』(明治12年=1879年初演)は、明治初年(1868年)の横浜――その9年前に開港したばかり――が舞台。ケチな人間のおかしさ哀しさ、そして、激動の時代に対する黙阿弥の鋭いまなざしも感じられる、非常に興味深い作品。舞台転換の折に聞こえてくる「♪リットントン〜 リットントン〜」も楽しく忘れ難く。
日本の女が輝かなきゃ、日本の男も輝かないんだよ!
……とばかりに、三浦屋揚巻を演じる坂東玉三郎の圧倒的な美に己が存在を張り倒されるような、「十二月大歌舞伎」夜の部『助六由縁江戸桜』。
「美ですが、何か?」と舞台で輝くその姿に、ふてぶてしさすら感じた。この世に対して反抗しているようですらあった。かっこいい、日本の男!
「四月大歌舞伎」第三部『ぢいさんばあさん』。
序幕、妻るん役を演じる玉三郎の姿が、私より数世代年下の人にしか見えなくて、……私、タイムスリップしたのかな? と混乱するほど。
その前の月の「三月大歌舞伎」第二部『天衣紛上野初花 河内山』で、河内山宗俊を演じる片岡仁左衛門を観ていて、困ったことがあった。かっこよさに見とれすぎて、河竹黙阿弥によるセリフが頭に入ってこない瞬間が。それが、『ぢいさんばあさん』で、美濃部伊織とるん、仁左衛門と玉三郎が夫婦役で並ぶと、「お二人、お似合いです!」と落ち着いて観られるという。
「六月大歌舞伎」第三部『ふるあめりかに袖はぬらさじ』のラスト、お園役を演じる玉三郎の後ろ姿が心を去らない。
「十二月大歌舞伎」夜の部『助六由縁江戸桜』に話を戻して。
……もし自分がこんな励まし方をされることがあったなら、宇宙にだって行ってしまう! と思った。そして願いが心に生まれた。
……とばかりに、三浦屋揚巻を演じる坂東玉三郎の圧倒的な美に己が存在を張り倒されるような、「十二月大歌舞伎」夜の部『助六由縁江戸桜』。
「美ですが、何か?」と舞台で輝くその姿に、ふてぶてしさすら感じた。この世に対して反抗しているようですらあった。かっこいい、日本の男!
「四月大歌舞伎」第三部『ぢいさんばあさん』。
序幕、妻るん役を演じる玉三郎の姿が、私より数世代年下の人にしか見えなくて、……私、タイムスリップしたのかな? と混乱するほど。
その前の月の「三月大歌舞伎」第二部『天衣紛上野初花 河内山』で、河内山宗俊を演じる片岡仁左衛門を観ていて、困ったことがあった。かっこよさに見とれすぎて、河竹黙阿弥によるセリフが頭に入ってこない瞬間が。それが、『ぢいさんばあさん』で、美濃部伊織とるん、仁左衛門と玉三郎が夫婦役で並ぶと、「お二人、お似合いです!」と落ち着いて観られるという。
「六月大歌舞伎」第三部『ふるあめりかに袖はぬらさじ』のラスト、お園役を演じる玉三郎の後ろ姿が心を去らない。
「十二月大歌舞伎」夜の部『助六由縁江戸桜』に話を戻して。
……もし自分がこんな励まし方をされることがあったなら、宇宙にだって行ってしまう! と思った。そして願いが心に生まれた。
同じ月の第三部『東海道中膝栗毛 弥次喜多流離譚』を観ていて、ときに話の展開に……となろうともこの“弥次喜多”シリーズに心ひきつけられるのは、松本幸四郎演じる弥次郎兵衛と市川猿之助演じる喜多八のコンビが本当に仲良しで、何が起きても二人してのほほんと乗り越えていく様に、……人生、前向きに生きていこう……と励まされるところがあるからなのだと感じた。
その幸四郎は、第二部の『安政奇聞佃夜嵐』(大正3年=1914年初演)でもバディものに強いところを見せる。というか、幸四郎の醸し出す、相手をすっと受け入れるその空気によって、一瞬バディものかととらえてしまうからこそ、その後の展開が実におもしろく見えてくる。幸四郎扮する青木貞次郎と、中村勘九郎扮する神谷玄蔵は、青木の両親の仇討ちを成就させるため、捕らえられていた人足寄場から二人して脱獄する。しかしながら、さまざまな因縁が一気に明かされる二幕で、神谷こそが青木の親の仇であることがわかる――自分のお人好しさゆえ、騙されていた哀しさ、そして自分の不甲斐なさゆえ、女房のおさよ(中村米吉)や娘のお民、おさよの父儀兵衛(坂東彌十郎)を不幸せにしている哀しさを、幸四郎の演技は伝えてせつない。青木同様、自分もかつて政治に関わったため家族を不幸にした過去をもつ儀兵衛は、青木のよんどころない事情を知っても、娘や孫のそれからの生活を思えばこそ頑として舟を出そうとはしない。だが、病に臥せっていた孫が息絶えたのを知り、逃げる青木のために舟を出す覚悟を固める――家族を思えばこそ抑えていた心が孫の死によって爆発する様を描き出す彌十郎の儀兵衛。
そして大詰。遂に神谷と対峙する青木。斬り合い。――だが、仇討ちはならない。三好野亀次郎(市川猿弥)とその手先がやってきて、青木と神谷はまたしても二人して捕らえられてしまう。ここでスカッとは行かないところに、逆にこの物語のおもしろさをみた。バディものかと思えばそうとはならず、仇を討つのかと思えばそうとはならない、その予想の裏切り具合。猿弥が実にりりしい声の響きでそんな物語の収拾をする様に聞き入っていた。
(8月16日15時、歌舞伎座)
その幸四郎は、第二部の『安政奇聞佃夜嵐』(大正3年=1914年初演)でもバディものに強いところを見せる。というか、幸四郎の醸し出す、相手をすっと受け入れるその空気によって、一瞬バディものかととらえてしまうからこそ、その後の展開が実におもしろく見えてくる。幸四郎扮する青木貞次郎と、中村勘九郎扮する神谷玄蔵は、青木の両親の仇討ちを成就させるため、捕らえられていた人足寄場から二人して脱獄する。しかしながら、さまざまな因縁が一気に明かされる二幕で、神谷こそが青木の親の仇であることがわかる――自分のお人好しさゆえ、騙されていた哀しさ、そして自分の不甲斐なさゆえ、女房のおさよ(中村米吉)や娘のお民、おさよの父儀兵衛(坂東彌十郎)を不幸せにしている哀しさを、幸四郎の演技は伝えてせつない。青木同様、自分もかつて政治に関わったため家族を不幸にした過去をもつ儀兵衛は、青木のよんどころない事情を知っても、娘や孫のそれからの生活を思えばこそ頑として舟を出そうとはしない。だが、病に臥せっていた孫が息絶えたのを知り、逃げる青木のために舟を出す覚悟を固める――家族を思えばこそ抑えていた心が孫の死によって爆発する様を描き出す彌十郎の儀兵衛。
そして大詰。遂に神谷と対峙する青木。斬り合い。――だが、仇討ちはならない。三好野亀次郎(市川猿弥)とその手先がやってきて、青木と神谷はまたしても二人して捕らえられてしまう。ここでスカッとは行かないところに、逆にこの物語のおもしろさをみた。バディものかと思えばそうとはならず、仇を討つのかと思えばそうとはならない、その予想の裏切り具合。猿弥が実にりりしい声の響きでそんな物語の収拾をする様に聞き入っていた。
(8月16日15時、歌舞伎座)
河竹黙阿弥作、串田和美演出・美術、宮藤官九郎脚本で2012年に上演された作品の再演。串田自身が手がけた公演ポスターには「俺は誰だあっ!」の文言が踊る。
孤児である法策(中村勘九郎)は修験者観音院(片岡亀蔵)に育てられ、下男久助(中村扇雀)と共に暮らしている。草津のお三婆(笹野高史)のもとを訪ねた法策は将軍源頼朝の落胤にまつわる話を聞き、彼女を殺め、自らがその落胤だと偽って鎌倉へと向かう――法策は実は木曽義仲の嫡子清水冠者義高であることが後に明かされるのだが。鎌倉で、頼朝の落胤だと名乗り出た法策を詮議するのは、幕府の重臣大江因幡守廣元――その人は、かつて共に暮らした久助だった。久助相手ならば、自分が誰だかわかっても、仕方がない――。そんな物語が上演されている劇場は、実にありのままの自分でいられる空間だった。自分自身の思考や発想を自由にめぐらせることのできる空間だった。舞台と客席、心と心で掛け合いをして、そうして過ごす豊かな時間。
ジャズにブルース、生演奏の音楽がかっこいい。しれっと真顔の勘九郎がサンバのリズムで踊るシーンのおもしろさ。老婆の中になおもくすぶる色気をおかしみのうちに見せた笹野高史。「〜じゃねえ」といった語尾等、現代的なセリフと作品の時代とをきっぱり結んで笑いを誘う片岡亀蔵。そして、驚きの展開にその演技で確かな説得力を与える中村扇雀。手塚治虫の漫画を歌舞伎化した「八月納涼歌舞伎」第一部『新選組』でも、扇雀と片岡亀蔵の芝居を観ていて、新作の世界と歌舞伎とをつなごうとするその営為のうちにそれぞれの歌舞伎論があることに気づかされた。
(2月3日13時の部、シアターコクーン)
孤児である法策(中村勘九郎)は修験者観音院(片岡亀蔵)に育てられ、下男久助(中村扇雀)と共に暮らしている。草津のお三婆(笹野高史)のもとを訪ねた法策は将軍源頼朝の落胤にまつわる話を聞き、彼女を殺め、自らがその落胤だと偽って鎌倉へと向かう――法策は実は木曽義仲の嫡子清水冠者義高であることが後に明かされるのだが。鎌倉で、頼朝の落胤だと名乗り出た法策を詮議するのは、幕府の重臣大江因幡守廣元――その人は、かつて共に暮らした久助だった。久助相手ならば、自分が誰だかわかっても、仕方がない――。そんな物語が上演されている劇場は、実にありのままの自分でいられる空間だった。自分自身の思考や発想を自由にめぐらせることのできる空間だった。舞台と客席、心と心で掛け合いをして、そうして過ごす豊かな時間。
ジャズにブルース、生演奏の音楽がかっこいい。しれっと真顔の勘九郎がサンバのリズムで踊るシーンのおもしろさ。老婆の中になおもくすぶる色気をおかしみのうちに見せた笹野高史。「〜じゃねえ」といった語尾等、現代的なセリフと作品の時代とをきっぱり結んで笑いを誘う片岡亀蔵。そして、驚きの展開にその演技で確かな説得力を与える中村扇雀。手塚治虫の漫画を歌舞伎化した「八月納涼歌舞伎」第一部『新選組』でも、扇雀と片岡亀蔵の芝居を観ていて、新作の世界と歌舞伎とをつなごうとするその営為のうちにそれぞれの歌舞伎論があることに気づかされた。
(2月3日13時の部、シアターコクーン)
今年2月の「北京五輪2022」のフィギュアスケート全種目を観て書くにあたって、私を支えていたのは、同じ時期に上演されていた日本の伝統芸能の舞台から受けたエネルギーだった。大きなエネルギーをくれた舞台の一つが、片岡仁左衛門が一世一代で平知盛を勤めたこの作品。“渡海屋銀平実は新中納言知盛”を演じる仁左衛門と、“女房お柳実は典侍の局”を演じる片岡孝太郎、二人の歌舞伎への愛が、見事な相似形を成していた。――言葉としての定義はわかっていても、自分自身のものとして理解することがなかなか難しい“忠義”が、少し我が身に近く感じられるようになった気がした。
(2月23日14時半の部、歌舞伎座)
(2月23日14時半の部、歌舞伎座)
坂東玉三郎の三浦屋揚巻が芝居の構造をあざやかに可視化する様に圧倒され、肯定された! 全体弾んでとても楽しい舞台だった!
11月17日観劇(歌舞伎座)。「口上」で述べられた言葉の数々が温かくて、涙。『助六由縁江戸桜』では、助六を演じる市川團十郎が作り出す世界に歌舞伎座の客席ごと大きく包み込まれて、その中で一瞬ふわっと浮いているような心地よい感覚を味わい。歌舞伎の神秘の奥深さに少し近づけたような思い。
11月8日観劇(歌舞伎座)。私は、市川團十郎が、観る者を己の世界へぐわっと引き込むパワーが好きである。『勧進帳』の弁慶を演じて放つその凄まじいパワー。そして、覚悟。