1月2日の『仮名手本忠臣蔵 祇園一力茶屋の場』。まずは、中村吉右衛門扮する大星由良之助の登場で、…この男に隠された本心あり…! とばかりに幕がパッと取り払われる演出が凄かった…。そして、観ながら、…これがモーリス・ベジャールに『ザ・カブキ』を創作させた歌舞伎作品のおもしろさなのか…と、四半世紀ほど前にふれたバレエの舞台を思い出していた。由良之助の内に秘めた殺気、舞台全体に張りつめていたその殺気を思い出すと、…一年ほど経った今でも何だか慄然とする。人が、人を、…殺したい…とずっと思って生きていることの、重さ。
 そして、斧九太夫を刀で突き刺し、仇討ちの本心を明かすシーン。
 …一人の人間の中に、あんなにもさまざまな思いが存在していることが信じられないくらい、セリフと共に思いが迸った。あっけにとられて観ていた。本人も、そんな自分にびっくりしていた――その様が、とてもかわいらしかった…。何だか、…人の思いがどこまでも記された長い長い透明な経巻が彼の内から飛び出してきて、その経巻に自分が絡め取られて、彼の内へと戻っていくような感覚を覚えた――。と同時に、互いが互いの一部となるような、不思議な感覚もあった。人と人とが真剣に向き合うとはそういうことなのかもしれない。自分の一部を交換し合って、その刹那、新たな自分となって、そこにいる。
 4日後、また観た――体調が優れないようだった。そんな姿はできれば見せたくないのだろうな…と思った。でも、観客は何も、いつもいつも至芸を観たいという思いで客席に座っているわけではない。舞台に立つその人と同じ空間で同じ生の時間を分かち合いたいと思うことが、観劇の醍醐味の根幹にあると私は思う。――心の中で激しく祈った。
 …体調が悪い日には、悪い日なりの舞台があります!
 そして実際、その日の舞台もよかった。由良之助は、密書を読んでしまったおかるを殺す気で、身請けしたいと言い出す。そして、喜ぶ彼女を見て、…うれしいかあ…と言う。その言葉には、命限りあることへの諦念とさみしさと、だからこその愛おしさとがにじんでいた。人が、人を殺したいと思い続けることと、限りある命への思いと、それがセットになって私の中に残る、祇園一力茶屋の場面。
 そして、その日の舞台姿から、私は宿題を受け取ったように思った。
 ――今の世において、歌舞伎はどのように必要とされるものなのか。
 重い宿題だった。

 『楼門五三桐』は、まずは3月4日の初日に観た。演じるは、石川五右衛門。その存在が、境界線を越えて、客席の方へと張り出してきている。そして、セリフは、私の前方にある舞台から飛んでくるのに、…巨大な手で全身をむんずとつかまれて、宙へと舞い上がっていくような凄まじい圧を、身体の後ろから受けた。その圧に身を委ねたら、全身がちぎれてしまいそうだった。その一方で、身を委ねて空へと五体バラバラになって散っていきたいような心地よさをも感じていた。
 もう一度観た。「絶景かな、絶景かな」の、石川五右衛門のセリフ――演じる彼にとっての絶景とは、客席に観客が並んでいる光景なのだった…。そして、舞台上に広がる桜景色が客席をもそのまま包み込んで、…私は、どこまでも幸福だった。彼もまた幸福であることを願った。――それは、恋だった。
 3月15日。二代目中村吉右衛門の舞台を観た最後の日。

 子供のころから、母が何度も言っていた。…早稲田大学仏文科に進学していたら、中村吉右衛門と同級生だったと――彼女は東京女子大学英文科に進んだのだけれども。だから、子供のころから、…かっこいい人だな…と、ずっと思っていた。
 ――歌舞伎を観続けてください!
 それが、彼の願いだと思うから。
 今年、私は、歌舞伎座と国立劇場で上演された歌舞伎の公演をすべて観ました。そして、歌舞伎に生を燃やす愉快な人々と共に、これからも生きていくと改めて誓いました――歌舞伎を観ることが、楽しいから。
2021-12-31 18:45 この記事だけ表示
 二月初め。寒かったのと忙しくてしっかりコーディネートを考えている暇がなかったのとで、家で愛用しているもこもこカーディガンを羽織って歌舞伎座に赴いたあひる。舞台上の坂東玉三郎を観て、猛省。
 …このざっくりしたルーズなシルエットは、この舞台、この場の空気に似合わない!
 「中野一丁目の白い家」に住んでいた母方の祖母は銀座が好きだった。一緒に映画を観ようとなったときも、新宿の方が近いのに、銀座の映画館に出かけて行くのが好きだった。高校生のころ、そうして一緒に銀座に出かけたある日のお昼時、祖母が、「今日はフランス料理が食べたい」と言って、銀座通りの、今はシャネルがある場所に建っていたカネボウビルの中のベル・フランスという店に連れて行ってくれたことがある。そのとき彼女は、「今日、セーター着てきちゃったけど」とちょっと気にしていた――セーターと言っても、胸のところに華やかで素敵な飾りがあしらわれていたのだけれども。そうして少女は、TPOや銀座という街独特の晴れがましさを学び始めていくわけで。――その場を存分に楽しむ装いがある。忙しいとはいえ、玉様の舞台にふさわしくない装いをしてきてしまった…と、祖母を思い出し、反省。

 三月。Bプロは、上演時間14分の「雪」、上演時間17分の「鐘々岬」という舞踊二本立ての構成だった。美人画が、女性の一瞬の美を凝縮して切り取ったものだとするならば、その一瞬の美をつないで積分したような「雪」。…私の知っている世界には美しかありませんが? …とばかり、超越した世界を見せる「鐘々岬」。10分以上の間、美美美美美とずっと続いていく。…凄すぎて、観ていてだんだんわらけてきた――人はときとして、圧倒的な美の前に笑うしかない。そして、下世話な意味でなしに、…いったいどのような生活を送ったらこんな舞台ができるのだろう…と思った。そうしたら、Yahoo! JAPANの「RED Chair」で今も読めるインタビューにふれる機会があり、蛍光灯ではなくランプで生活とか、食事は舞台のためのガソリン補給…といった言葉に、納得。

 四月と六月に「上・下」の形で上演された『桜姫東文章』で演じた桜姫のスーパーヒロインぶり――私は、この作品を観ていた江戸の女の子たち、女性たちに思いを馳せた。彼女たちも、とんでもない運命を果敢に生きる桜姫の活躍を観て、胸を躍らせていたのかな…と思ったら、わくわくした。

 九月の『東海道四谷怪談』。
 お岩を演じながら、…こういうとき、女の人ってどうかな、こうかな…と探究していく姿を観ていて、――どうしてそこまで一生懸命、女について考えてくれるんだろう…と。
 そんな坂東玉三郎を、私は美しい男の人であると思った。そう思えたことがとてもうれしかった――それまで、何とはなしに、坂東玉三郎は坂東玉三郎というジャンルにおいて美、そんな風に思っていたから。そして、男性が女性の役も演じる歌舞伎とは、男性の多様な美しさを探求する舞台芸術であるのだと改めて身に刻んだ。彼が女について考えてくれるように、私は男について考えていきたい、そう思った。

 十二月の『信濃路紅葉鬼揃』は、能の『紅葉狩』を題材にした舞踊劇。演じるのは鬼女である。花道を進んできて、客席の方に向き直ったその顔は――能の面さながら。そして、踊るその姿を観ていて、…私は、『本日も休診』の項でふれた、夜になると金盥で自分の家の周りの塀だけ叩きながら自分の家族の悪口を叫ぶ人のことを思い出していた。――女性だった。その世代としては高学歴で、英単語の発音を聞いたことがあるのだけれども、流暢だった。そんな彼女の顔を、昼間、ちょっとこわごわ見つめていたときのことを思い出した。キッと張りつめた顔――それもまた、美なのだった。玉三郎の舞台にそう教えられた。
2021-12-31 18:36 この記事だけ表示
 11月23日14時半の部、歌舞伎座。
 11月、コロナの感染状況も落ち着き、あひるは芸に燃えていた。しかし。…あまりに燃えすぎてちょっと燃え尽きそうに。『連獅子』を観たのはそんなとき。
 ――吸い込まれるように! 片岡仁左衛門しか目に入らない!
 この清潔感…。この透明感…。人生の長きをかけて「天下の美男」を張ってきた人の説得力。「どうとでも好きに観なさい」と言わんばかりの舞台姿。
 今年、彼が演じた『桜姫東文章』の釣鐘権助や『東海道四谷怪談』の民谷伊右衛門を観ていて、…客席で、身を固くしていた。十代の頃、しっかり者の弟に言われていた、「お姉さんは顔のいい男に弱いから、だまされないように」という言葉が脳裏に甦ってきて、…これは! だまされちゃいけないやつ〜! と思ったから。…だめである。約半世紀生きてきた人生のキャリアをもって、2022年は悪い美男にも立ち向かわねば。
 『連獅子』を観て、劇場を出るときには世にもすっきり、再び芸に燃える意欲がみなぎってきていたのだった。効き目、劇薬のよう!
2021-12-31 18:17 この記事だけ表示
 1月2日&6日観劇(歌舞伎座)。
 『夕霧名残の正月 由縁の月』は初めて観る演目である。亡くなった大坂新町の遊女夕霧をしのんで語る人々の上方の言葉に、以前、『冥途の飛脚』の舞台となった地を一人歩いたときに訪ねた、新町あたりの景色が脳裏に甦ってきた。――春だった。桜の季節だった。かつて廓があった付近にも満開の桜の木があって、風で花びらが我が身に降りかかってきた。そんな記憶をどこか陶然と思い起こしていたその刹那、――舞台上にも桜の木が現れた。劇場では実にさまざまなことが起こるので、余程のことがない限りもう驚かない私ではあるが、このときは意表を突かれた。そうして、藤屋伊左衛門(中村鴈治郎)は、彼の前に姿を現した幻の夕霧(中村扇雀)と、踊る。――兄弟で、踊る。と、二人の父である亡き坂田藤十郎の面影が、まるで丸い月のように、ゆっくり、ゆっくり、舞台上空へと昇っていくのだった。
 もう一度観た。二度目は、落ちぶれた姿の伊左衛門が登場した瞬間から、痛切に胸を衝かれた。そして、兄弟二人が踊ると、――亡き人の存在が、歌舞伎座の劇場空間に満ちていった。空間全体にぎゅうぎゅうに張りつめていって、重さで肩が縮こまりそうなほどだった。決してそれが嫌とか不快とかということではない。ただただ、――重かった。
2021-12-31 18:13 この記事だけ表示
 第一部。『天竺徳兵衛新噺 小平次外伝』。あひるが人一倍怖がりということもあると思うのだけれども、市川猿之助演じる小平次の幽霊&その登場の演出が怖くて怖くて! 腰が抜けてしまった感じで、休憩になってもなかなか席を立てず、しばしぼんやり。あれで終演だったら帰れなかったかも(笑)。休憩後の華やかな『俄獅子』で人心地つき――市川笑也のお澤のように粋な芸者になってみたい。

 第二部。『天満宮菜種御供 時平の七笑』は、松本白鸚演じる左大臣藤原時平がラストにかけて悪人ぶりを顕すモノローグと笑いが、ネガとポジのように、時平が追い落としを企んだ菅原道真論になっているように感じられたのが非常におもしろかった。中村歌六扮する端正な道真の存在がそんな白鸚の演技をきっちりアシスト。『太刀盗人』では、ギョロギョロお目目の尾上松緑演じる盗人がとぼけて軽妙。盗人だけれども何だか真面目で、それでいてどこか抜けていて盗み損ないそうだから、観ていてついつい応援してしまう、それが、松緑演じる盗人の魅力なのだろうと思う。松緑の盗人がボケたところに、目代の丁字左衛門役の坂東彦三郎がおとぼけのダメ押しをしてくるところも楽しい。

 第三部の『松竹梅湯島掛額』「吉祥院お土砂の場」は、歌舞伎座全体がほっこりとした空気に包まれるような舞台。尾上菊五郎がお土砂(硬直した死体をやわらかくする粉。かけられると、生きた人間もぐにゃぐにゃになる)を持ったら何が起こるか、――初春歌舞伎公演『四天王御江戸鏑』(国立劇場)を観ていたから、わかっていた。わかっているのに! 来た〜、やっぱり楽しい〜と大笑いしてしまう自分がいる。当たり構わずお土砂を人々にかける菊五郎。みんなぐにゃ〜。中村魁春も品よくぐにゃ〜。舞台上に紛れ込んだ“観客”も、それを止めに来た案内嬢もぐにゃ〜。幕引きもぐにゃ〜。そして、菊五郎自ら幕を引く――わかっているから、よけい楽しいのかもしれず。しれっとした真顔でもりもりぶっこんでくる役者の素顔いじりアドリブと、芸能の猥雑なパワーを感じる時事ネタの取り入れ方。菊五郎の、人間存在を見つめる冴え冴えと冷徹なまなざしあっての、温かな包容力にあふれるユーモア精神に包み込まれるひととき。<人間ピクトグラム>も、片岡亀蔵の飄々ととぼけた語りで進行されるとついつい笑ってしまう。「四ツ木戸火の見櫓の場」の“人形振り”については、文楽との関連で思考に刺激を受けるところあり。『六歌仙容彩 喜撰』は、中村芝翫の法師姿が色っぽい。こちらの作品にも大いにほっこり。
2021-10-28 23:21 この記事だけ表示
 物語の発端となる「伊勢街道相の山の場」から、現代にも通じるような詐欺の手口がいっぱいで、いかにも人の好いお坊ちゃん風の家老の息子・今田万次郎(中村扇雀)に、「騙されないで〜」と手に汗握ってしまう。結局騙されてしまう万次郎を救うべく奮闘する福岡貢を演じる中村梅玉は、憂い含みのやるせなげな色気全開。扇雀の万次郎にも、どこかほっておけない、守ってあげたいような頼りない色気があって――馥郁たる色香の頬かむり!――、二人並ぶと何だか妖しい麗しさ。「古市油屋店先の場」で、仲居の万野(中村時蔵)はじめ人々に満座で恥をかかされ、遂に貢の堪忍袋の緒が切れる瞬間――青筋立てた梅玉の表情に、…頭の奥の方でカーンと鐘の音が鳴るような思いがした…。その貢に愛想尽かしをする際の、中村梅枝のお紺から伝わる痛み、哀しみ。万野は確かにいやあな人物ではあるのだけれども、時蔵が演じると、ポンポンとした物言いの歯切れの良さが楽しいと同時に、浮世で肩肘張ってしたたかに生きようとしている姿の哀れみのようなものが見えてくるのが面白い。中村萬太郎の奴林平に躍動感。
 近松徳三は、実際に起きた刃傷事件をもとに、この物語を三日で書き上げたという。その時代における歌舞伎のメディア性を改めて興味深く思うと同時に、過去の時代の人々と、同じ事件への関心を分かち合う楽しさを感じた。それも、梅玉の演技が、この作品、この役柄を愛し、さらに深めていきたいとの思いに貫かれているからなのだろうと思う。

(10月19日12時の部、国立劇場大劇場)
2021-10-20 21:14 この記事だけ表示
 内なる井戸のさらに深みに桶を沈めてみれば、ひときわ澄んで甘やかな水が汲み上げられて。松本幸四郎が、自身の歌舞伎俳優としての可能性を鮮やかにきらめかせた『義賢最期』でした! 終演後もしばし拍手鳴り止まず。

(18時の部、歌舞伎座)
2021-08-24 23:41 この記事だけ表示
 『御摂勧進帳』。富樫左衛門家直を演じる中村鴈治郎が声も姿も実にりりしく。そして発揮する大人物ぶり。駿河次郎清重に扮した中村歌昇にきりっとした魅力。九郎判官源義経役の中村雀右衛門は、武蔵坊弁慶に打擲された際の、…そこまで主として思ってくれているのか…との深い思いが胸を打つ。その弁慶役の中村芝翫は、とぼける様にきょとんとしたかわいさ。最後は弁慶が番卒たちの首を次々取っては投げのスペクタクルがシュールな味わい。

 『夕顔棚』。尾上菊五郎が演じるおばあさんがかわいすぎる! ――すごく似ているというわけではない。でも、何だか、母方の祖母を思い出さずにはいられなかった…。今でも街で、「…おばあちゃん!」と胸を衝かれて立ちすくんでは、瞬時に別人であると悟って現実に引き戻される…。私の夢への最多出演を誇る人――「おばあちゃん、生きてた! また一緒にお出かけできる」と思う夢ばかり。
 しかしながら、そこは祖母とは違うなとは思ったのは、菊五郎のおばあさんは時折実に婀娜っぽいのだった。市川左團次扮するおじいさんと、観ていて当てつけられそうなラブラブぶり。終幕、祭り姿でやって来た坂東巳之助&中村米吉の若いカップルと村人たちが踊るのを見たおばあさんが、おじいさんにキッス(キスではなくて、敢えての表記)をせがむのもさもありなん。キュートな二人の微笑ましさにしみじみとしつつ、齢を重ねてなお燃える“女”の炎にちょっとドキッとしたりして。

(6月22日11時の部、歌舞伎座)
2021-06-22 23:23 この記事だけ表示
 左官長兵衛を初役で勤める尾上松緑を、女房お兼役の中村扇雀が名コメディエンヌぶりを発揮し強力サポート。ピシャピシャ歯切れよく繰り出すセリフにキレある動き、屏風の上から横から縦横無尽に顔をぬっと出すくだりなど抱腹絶倒。松緑が時折、はっとするほど無造作に、無邪気さ、無垢さを心の内から取り出して見せる刹那にこのところ魅せられつつある。長兵衛を演じては、江戸の職人ならではの誇り、心意気を感じさせて。そんな夫婦の幸せを願う娘お久役の坂東新悟が、スーパー歌舞伎U『新版オグリ』の照手姫役でも見せた絶品のいじらしさで父長兵衛に相対するとき――私の父がこの世を去って八年経ち、父に娘として接していた感覚を少しずつ忘れつつあったことを、胸に突きつけられる思いだった…。中村魁春は、五月大歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』六段目で一文字屋お才、この作品では角海老女房お駒を演じている。身を売ろうとする女性がいて、その家族がいて、お才やお駒のように色町からその女性を迎え入れる立場の人間がいて。物語の中で、家族の外縁として存在し、やりとりのうちに家族のありようを浮き彫りにしていく魁春の演技に、先月に続いて非常に興味深く見入っていた。和泉屋清兵衛役の市川團藏の芝居のナチュラルさ。

(12日14時半の部、国立劇場大劇場)
2021-06-12 23:55 この記事だけ表示
 観るときいつもバレエの『コッペリア』を思い浮かべる『京人形』。左甚五郎を演じる松本白鸚(実に若々しい!)の品よくとぼけたおかしみが生き生きとしていて、クスリと笑わせほっこりさせる。市川高麗蔵の女房おとくが、甚五郎に頼まれた“仲居”役を快く笑顔で務める様が、夫婦仲の良さを感じさせて。
 『日蓮−愛を知る鬼−』は、若き日の日蓮聖人を描く新作歌舞伎(構成・脚本・演出:横内謙介、演出・主演:市川猿之助)。経験したことのないような緊迫感に満ち、そして終幕、不思議な感慨に包まれる作品。蓮長後に日蓮(猿之助)−善日丸(市川右近)−阿修羅天(市川猿弥)の関係性に、『エリザベート』『モーツァルト!』といったクンツェ&リーヴァイ作品と通底するおもしろさがあるので、三者がよりきりきりとせめぎ合っての一体感が増すとさらに味わい深そうな――その上でも、猿弥はもっとはじけて暴れてよいような。市川笑三郎が助演女優賞ものの演技を見せる賤女おどろに、宝塚雪組『f f f−フォルティッシッシモ−〜歓喜に歌え!〜』の“謎の女”を思い出し。市川門之助の最澄が神々しい。長編化含め今後の展開も期待したい作品。

(4日18時の部、歌舞伎座)
2021-06-04 23:41 この記事だけ表示