藤本真由
(舞台評論家・ふじもとまゆ)
1972年生まれ。
東京大学法学部卒業後、新潮社に入社。写真週刊誌「FOCUS」の記者として、主に演劇・芸能分野の取材に携わる。
2001年退社し、フリーに。演劇を中心に国内はもとより海外の公演もインタビュー・取材を手がける。
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歌舞伎
四月初め、四月大歌舞伎第三部『桜姫東文章 上の巻』(歌舞伎座)を観た。己自身にも御し難い恋のパワーに突き動かされて生を驀進する、清玄(片岡仁左衛門)、桜姫(坂東玉三郎)、そして悪五郎(中村鴈治郎)。――思い浮かんだのは「青春」の一語。魂の、そのみずみずしさ。清玄は一緒に心中しそこなった稚児白菊丸(玉三郎)の生まれ変わりである桜姫に執着するけれども、確かにもう、美の前には男だの女だのどうでもいい話であって、…そして私は、初演当時の観客に交じって舞台を観ている思いがした。江戸の人、最高! と思った。作った人も、楽しんだ人も、すごい。…これは二度観なくてはいけない舞台では! …と思ったけれども、観劇時点で『上の巻』は残念ながら既に売り切れ。そしてその日から苦悶が始まる。
…もし万が一、六月上演の『下の巻』を観られなかったらどうしよう〜〜〜!
子供のときからそうだった。漫画も連続ドラマも、続き〜! 続きはまだか! と気もそぞろになりがちな性分。その上、今はチケットが取れたとしても、その日の幕が果たして無事に開くかどうか、その日そのときまでわからないところがある。緊急事態何とやらがいきなり降りかかってくる可能性もあるわけで…。『下』! 『下』! 考えると狂おしくなって他のことが手につかなくなりそうなので、なるべく考えないようにしつつ、観劇の日を待つ。
そして本日。
観られた〜!!!
もし観られなかったら、化けて出る芝居を観られず化けて出そうになるところであった。洒落にならん。この間ずっと抱えてきたその思い、それは登場人物たちの思いにも似て。
ニヒルなインテリの態でその内に恋の炎を燃やし続ける仁左衛門の清玄に心揺さぶられ、どこか朗らかさを失うことなく運命を乗り越えていく玉三郎の桜姫に心打たれ…。人として、そのまま丸ごと肯定されるような舞台。それでいい! 生きてよし! と言ってくれるような、そんな舞台が、今の時代にあって、よかった。
(14時10分の部、歌舞伎座)
…もし万が一、六月上演の『下の巻』を観られなかったらどうしよう〜〜〜!
子供のときからそうだった。漫画も連続ドラマも、続き〜! 続きはまだか! と気もそぞろになりがちな性分。その上、今はチケットが取れたとしても、その日の幕が果たして無事に開くかどうか、その日そのときまでわからないところがある。緊急事態何とやらがいきなり降りかかってくる可能性もあるわけで…。『下』! 『下』! 考えると狂おしくなって他のことが手につかなくなりそうなので、なるべく考えないようにしつつ、観劇の日を待つ。
そして本日。
観られた〜!!!
もし観られなかったら、化けて出る芝居を観られず化けて出そうになるところであった。洒落にならん。この間ずっと抱えてきたその思い、それは登場人物たちの思いにも似て。
ニヒルなインテリの態でその内に恋の炎を燃やし続ける仁左衛門の清玄に心揺さぶられ、どこか朗らかさを失うことなく運命を乗り越えていく玉三郎の桜姫に心打たれ…。人として、そのまま丸ごと肯定されるような舞台。それでいい! 生きてよし! と言ってくれるような、そんな舞台が、今の時代にあって、よかった。
(14時10分の部、歌舞伎座)
2021-06-03 23:39 この記事だけ表示
死への壮絶な覚悟を決めた武智十次郎光義役の尾上菊之助からあふれ出る思い――その演技に導かれた果て、浄瑠璃がただただ心に沁みて、涙を流す自動装置になったかのようだった――。そして、その母、光秀妻操役の中村魁春が心情を舞う――そのとき、あたり一面が真っ白な世界に、ただ魁春だけがいた。ふっと魂が呼び寄せられ、その世界にただ二人きりで存在した、その時間がたまらなく幸せだった――。
(四月大歌舞伎第二部、歌舞伎座)
(四月大歌舞伎第二部、歌舞伎座)
2021-04-08 23:59 この記事だけ表示
歌舞伎座の壽初春大歌舞伎第二部初日からヨレヨレになって帰りました…。とんでもない二本立てだった…。新年早々中村吉右衛門の演技が凄まじすぎて笑った。この件今宵はこれにて〜。
2021-01-02 23:49 この記事だけ表示
十月大歌舞伎『銘作左小刀 京人形』。左甚五郎(中村芝翫)と京人形の精(中村七之助)の踊りのあまりの楽しさに、泣く。木偶と人間、男と女を即座に踊り分ける七之助の、それぞれの表現の違いを興味深く注視。
『双蝶々曲輪日記 角力場』。恩義ゆえ、対戦相手に勝ちを譲る人気力士、濡髪長五郎(松本白鸚)。――松本白鸚の舞台を観ていると、何とも一筋縄ではいかないこの生の哀歓に胸打たれて、向き合ったままそこに立ち尽くしているような時間が流れる。そして、その時間は、私にとっては大切な宝物である。勝ちを譲られる放駒長吉を演じる中村勘九郎は、八月大歌舞伎の『棒しばり』を経て舞台が変わった印象。大きなものを演じた上で演じるのではなく、彼自身として演じるようになったから、かえって大きさが出てきた。それにしても、『棒しばり』の間中、「のりちゃん、のりちゃん」という声がずっと聞こえていたのだけれども、あれはいったい誰の声だったのだろう…。
『梶原平三誉石切 鶴ヶ岡八幡社頭の場』。中村歌六が、…舞台で死んでもいい〜〜〜! の勢いで、娘梢(片岡孝太郎)の幸せのため、自分の命を投げ出そうとする青貝師六郎太夫を演じていた。お父さん、そんなんされても娘は全然うれしくないよ! と、涙。そんな父娘のやりとりあったればこそ、梶原平三景時(片岡仁左衛門)のお裁きが際立つ。
国立劇場10月歌舞伎公演『ひらかな盛衰記−源太勘当−』。中村扇雀の腰元千鳥の瑞々しさ。
『幸希芝居遊』は、閉鎖されてしまった芝居小屋に役者たちが集まり、次々と芝居ごっこを繰り広げる新作舞踊劇。歌舞伎俳優の内に役柄がいかに「収納」されているのか関心があるので、興味深く観た。主人公・久松小四郎(松本幸四郎)が、…夢じゃない! 本当に舞台に、観客の前に立てている! と喜びをかみしめる終幕の舞踊シーンはもう少し長い方が余韻が残るような。
『新皿屋舗月雨暈−魚屋宗五郎−』。――尾上菊五郎は、異世界にいる。けれどもそれは、かつて花道に立つ坂田藤十郎に感じた異世界ともまた異なる感覚である。
『太刀盗人』。コクーン歌舞伎『切られの与三』での片岡亀蔵の大活躍を楽しく思い出し。
吉例顔見世大歌舞伎『蜘蛛の絲宿直噺』。「そろそろ収束してもよいコロナ」といったコロナギャグも、澤瀉屋の面々の手にかかると品よくまとまる。坂田金時役市川猿弥の美声にしびれる瞬間あり――猿弥が歌舞伎俳優として喜びを謳歌している演目はよい演目!
個人的に構えてしまいがちな松羽目物なのだけれども、『新古演劇十種の内 身替座禅』は非常に楽しく観られた。尾上菊五郎の異世界に前月よりちょっと近づけたように感じ、その異世界の中に入っていけたらとってもおもしろいことになりそうだな…と思う。そして、…あ、こういうところ、寺島しのぶの父だ! と感じる瞬間あり。
『一條大蔵譚 奥殿』。阿呆に身をやつして生きる哀しみ。松本白鸚演じる一條大蔵長成が、阿呆に戻って発する「早う去ね」のセリフのそのトーンが、耳からいつまでも去らない…。常盤御前を演じる中村魁春が、途中から、どこをどう切り取っても年若い美女にしか見えない! 魔法にかけられたようで、芸というものの凄さを突きつけられた。吉岡鬼次郎役の中村芝翫の表情に、舞台の充実度を知る思い。
『義経千本桜 川連法眼館』。確かに、…そこ、ビシッと決めて欲しい! と思う瞬間は多々あった。けれども、哀しみの権化そのもののような、中村獅童の源九郎狐だった…。
国立劇場11月歌舞伎公演『彦山権現誓助剣−毛谷村−』。片岡仁左衛門のおおらかさ。そこに、上方の香りを懐かしく感じた。――不思議なことに、昼過ぎからの取材を終えて、出先で一人遅い昼食を取っていたら、「…今日行くといいことがあるよ」と聞こえてきて、それで観に行ったのだった。その日行かなかったら、公演中止に引っかかって観る機会を逃すところだった。
十二月大歌舞伎『四変化 弥生の花浅草祭』。片岡愛之助の毛振りが八月よりキレッキレ!
『心中月夜星野屋』。私は、市川中車が、歌舞伎の舞台において、深い内観をそっと優しく分かち合ってくれる瞬間が好きである。
『傾城反魂香 土佐将監閑居の場』。中村吉右衛門の『平家女護島−俊寛−』によって近松門左衛門により近づけたため、絵の中から飛び出した虎が登場してきただけで、涙。中村勘九郎の浮世又平はラストの舞が晴れやか。市川猿之助の女房おとくは2015年に大阪松竹座で観たときより若々しく。ちなみに、中村鴈治郎が又平を演じたそのときの公演で、私は、この演目が、芸術の起こす奇跡を描いた作品であることを教えられた――この世のすべてを漆黒に塗りつぶすような絶望の中で、鴈治郎の又平が一人泣いていた姿が脳裏に焼き付いている――。近松門左衛門がここに書いた、虎が実物となって抜け出してしまうほどの絵について、そして、石の手水鉢を抜けるほどの絵について、今回、改めて考えた。例えば私は、絵の中に入れるという体験をしたことがあるけれども――それは、描き手がそう想定して描いていたからだということが後になってわかったのだけれども――、近松門左衛門がここで思い浮かべていたのははたしてどんな絵だったのだろうか。また、芸術を志す上での又平とおとく夫婦のバランスについても考えた。興味の尽きない演目である。
『日本振袖始 大蛇退治』は、コロナの影響による坂東玉三郎の休演期間中、尾上菊之助が代役をつとめた。先月よりは確実に前に進んでいる! それが証拠に。
国立劇場12月歌舞伎公演『三人吉三巴白浪』。序幕「大川端庚申塚の場」、和尚吉三を演じる中村芝翫の台詞の途中で、…魂がこの身を抜け出てすっとその場に吸い寄せられるのを感じた。そして、大詰「本郷火の見櫓の場」、芝翫は、河竹黙阿弥の言葉の無心な容れ物となっていた――その姿に、松本白鸚が重なって見えた。
『天衣紛上野初花−河内山−』。松本白鸚の台詞に、河竹黙阿弥をますます身近に感じる――自分が今考えていることのヒントは、黙阿弥作品の中に探せるのかもしれない…と思った。
『双蝶々曲輪日記 角力場』。恩義ゆえ、対戦相手に勝ちを譲る人気力士、濡髪長五郎(松本白鸚)。――松本白鸚の舞台を観ていると、何とも一筋縄ではいかないこの生の哀歓に胸打たれて、向き合ったままそこに立ち尽くしているような時間が流れる。そして、その時間は、私にとっては大切な宝物である。勝ちを譲られる放駒長吉を演じる中村勘九郎は、八月大歌舞伎の『棒しばり』を経て舞台が変わった印象。大きなものを演じた上で演じるのではなく、彼自身として演じるようになったから、かえって大きさが出てきた。それにしても、『棒しばり』の間中、「のりちゃん、のりちゃん」という声がずっと聞こえていたのだけれども、あれはいったい誰の声だったのだろう…。
『梶原平三誉石切 鶴ヶ岡八幡社頭の場』。中村歌六が、…舞台で死んでもいい〜〜〜! の勢いで、娘梢(片岡孝太郎)の幸せのため、自分の命を投げ出そうとする青貝師六郎太夫を演じていた。お父さん、そんなんされても娘は全然うれしくないよ! と、涙。そんな父娘のやりとりあったればこそ、梶原平三景時(片岡仁左衛門)のお裁きが際立つ。
国立劇場10月歌舞伎公演『ひらかな盛衰記−源太勘当−』。中村扇雀の腰元千鳥の瑞々しさ。
『幸希芝居遊』は、閉鎖されてしまった芝居小屋に役者たちが集まり、次々と芝居ごっこを繰り広げる新作舞踊劇。歌舞伎俳優の内に役柄がいかに「収納」されているのか関心があるので、興味深く観た。主人公・久松小四郎(松本幸四郎)が、…夢じゃない! 本当に舞台に、観客の前に立てている! と喜びをかみしめる終幕の舞踊シーンはもう少し長い方が余韻が残るような。
『新皿屋舗月雨暈−魚屋宗五郎−』。――尾上菊五郎は、異世界にいる。けれどもそれは、かつて花道に立つ坂田藤十郎に感じた異世界ともまた異なる感覚である。
『太刀盗人』。コクーン歌舞伎『切られの与三』での片岡亀蔵の大活躍を楽しく思い出し。
吉例顔見世大歌舞伎『蜘蛛の絲宿直噺』。「そろそろ収束してもよいコロナ」といったコロナギャグも、澤瀉屋の面々の手にかかると品よくまとまる。坂田金時役市川猿弥の美声にしびれる瞬間あり――猿弥が歌舞伎俳優として喜びを謳歌している演目はよい演目!
個人的に構えてしまいがちな松羽目物なのだけれども、『新古演劇十種の内 身替座禅』は非常に楽しく観られた。尾上菊五郎の異世界に前月よりちょっと近づけたように感じ、その異世界の中に入っていけたらとってもおもしろいことになりそうだな…と思う。そして、…あ、こういうところ、寺島しのぶの父だ! と感じる瞬間あり。
『一條大蔵譚 奥殿』。阿呆に身をやつして生きる哀しみ。松本白鸚演じる一條大蔵長成が、阿呆に戻って発する「早う去ね」のセリフのそのトーンが、耳からいつまでも去らない…。常盤御前を演じる中村魁春が、途中から、どこをどう切り取っても年若い美女にしか見えない! 魔法にかけられたようで、芸というものの凄さを突きつけられた。吉岡鬼次郎役の中村芝翫の表情に、舞台の充実度を知る思い。
『義経千本桜 川連法眼館』。確かに、…そこ、ビシッと決めて欲しい! と思う瞬間は多々あった。けれども、哀しみの権化そのもののような、中村獅童の源九郎狐だった…。
国立劇場11月歌舞伎公演『彦山権現誓助剣−毛谷村−』。片岡仁左衛門のおおらかさ。そこに、上方の香りを懐かしく感じた。――不思議なことに、昼過ぎからの取材を終えて、出先で一人遅い昼食を取っていたら、「…今日行くといいことがあるよ」と聞こえてきて、それで観に行ったのだった。その日行かなかったら、公演中止に引っかかって観る機会を逃すところだった。
十二月大歌舞伎『四変化 弥生の花浅草祭』。片岡愛之助の毛振りが八月よりキレッキレ!
『心中月夜星野屋』。私は、市川中車が、歌舞伎の舞台において、深い内観をそっと優しく分かち合ってくれる瞬間が好きである。
『傾城反魂香 土佐将監閑居の場』。中村吉右衛門の『平家女護島−俊寛−』によって近松門左衛門により近づけたため、絵の中から飛び出した虎が登場してきただけで、涙。中村勘九郎の浮世又平はラストの舞が晴れやか。市川猿之助の女房おとくは2015年に大阪松竹座で観たときより若々しく。ちなみに、中村鴈治郎が又平を演じたそのときの公演で、私は、この演目が、芸術の起こす奇跡を描いた作品であることを教えられた――この世のすべてを漆黒に塗りつぶすような絶望の中で、鴈治郎の又平が一人泣いていた姿が脳裏に焼き付いている――。近松門左衛門がここに書いた、虎が実物となって抜け出してしまうほどの絵について、そして、石の手水鉢を抜けるほどの絵について、今回、改めて考えた。例えば私は、絵の中に入れるという体験をしたことがあるけれども――それは、描き手がそう想定して描いていたからだということが後になってわかったのだけれども――、近松門左衛門がここで思い浮かべていたのははたしてどんな絵だったのだろうか。また、芸術を志す上での又平とおとく夫婦のバランスについても考えた。興味の尽きない演目である。
『日本振袖始 大蛇退治』は、コロナの影響による坂東玉三郎の休演期間中、尾上菊之助が代役をつとめた。先月よりは確実に前に進んでいる! それが証拠に。
国立劇場12月歌舞伎公演『三人吉三巴白浪』。序幕「大川端庚申塚の場」、和尚吉三を演じる中村芝翫の台詞の途中で、…魂がこの身を抜け出てすっとその場に吸い寄せられるのを感じた。そして、大詰「本郷火の見櫓の場」、芝翫は、河竹黙阿弥の言葉の無心な容れ物となっていた――その姿に、松本白鸚が重なって見えた。
『天衣紛上野初花−河内山−』。松本白鸚の台詞に、河竹黙阿弥をますます身近に感じる――自分が今考えていることのヒントは、黙阿弥作品の中に探せるのかもしれない…と思った。
2020-12-31 16:51 この記事だけ表示
11月25日千穐楽のこの公演を、私は11月24日に観に行く予定にしていた。ところが、22日になって第二部の方が急遽中止に。これは第一部もどうなるかわからない! と、あわてて23日に馳せ参じて観劇した。そしてその夜、「人間とはそもそも誰もが『鬼界ヶ島の段』終幕で島に一人取り残される俊寛のように孤独な存在である。希望――それを知ったが故の。……終演後、私は思わず困り笑いを浮かべていた」と書いた。そのとき私がとっさに思い浮かべていたのは、草g剛が『家族のはなしPART1』(2019)で見せた諦念と、かつてフィギュアスケーター羽生結弦の演技に感じてきた孤高だった。そして翌日、再び観劇。
まずは、中村吉右衛門が清盛を演じる序幕「六波羅清盛館の場」。俊寛の妻東屋(尾上菊之助)の美しさに心奪われた清盛のその声の好色さに、全身舐め回されるようだった――。
「鬼界ヶ島の場」は、島の娘千鳥(中村雀右衛門)の登場から、涙が頬を伝った。彼女のその純朴さに、夫となる成経(中村錦之助)が、島流しにあって暮らす無聊さ、侘しさを癒されたことがしみじみ感じ取れる――純朴さが無聊さ、侘しさ、その深さを逆照射している。だが、そんな純朴な彼女にも願いはある。栄耀栄華を望むのではない、けれども、今の蓑虫のような姿から元の姿に戻った夫と一夜添い寝して、女と生まれた誉れとしたいと。実に人間的である。そんな彼女を、自分は一人島に残ってでも何とか船に乗せたいと願う俊寛。ついさきほどまで、自分が船に乗って鬼界ヶ島から離れられるかどうかが、彼の最大の苦悩だったのだけれども。
過酷な成り行きに次々と翻弄されてゆく俊寛を演じる吉右衛門――まるで、不条理劇を観ているかのようだった。人の心などお構いなしに運命は訪れる。その運命の真の意味を知るのは、訪れられてしまったその人ただ一人だけである。誰とも丸ごとは分かち合えない。誰一人として、自分と異なる人間にはなれない以上。元来人はそのように孤独なものなのである。一人で生まれ、一人で死ぬ。そんなことを考えてもつらいだけだから、日ごろ突きつめて考えないだけのことである。
彼は、そんな役を演じながら、心の底から楽しんでいるのだった――胸を衝かれた。既に何度も演じてきた役、今回の公演だけで二十数回演じる役、その都度、人としてこの世に生まれたが故の深い孤独と向き合わねばならない役、その役を、昨日よりもさらに深めたくて、深められるそのことが楽しくて、彼は舞台に立っているのだった。そうして舞台に立っている彼を観ていて、私自身も心の底から楽しんでいるのだった――俊寛を観て楽しむ日が来ようとは、私はついぞ考えたことがなかった。
そうして、吉右衛門の俊寛は、「俊寛が乗るは弘誓の船、浮世の船には望みなし」と記した近松門左衛門の魂に迫っていった。
千鳥に実に人間的な願いがあるように、俊寛にもやはり人間的な願いはあっただろう――もともとは都であの清盛に引き立てられていた人である。何も引き合うところがなければ、引き立てられることもまたなかっただろう。けれども、ここで俊寛はその心を断ち切ろうとする。私には、その姿が、そう書き記した人自身の姿と重なって見えた。そう書き記すことで、作者が、彼自身の「鬼界ヶ島」に在ることを選んだ、そう思えてならなかった。そのように書いて、作者は、自身に与えられた唯一無二の生を突きつめて生きる。自らに与えられた運命を生きる。そのとき、彼は、この世に彼ただ一人だけが生み出せることとなった言葉の創造主となっている。
中村吉右衛門の演技を通じて、私は、数百年前に生きた近松門左衛門その人と結び合わされ、そして、近松門左衛門の言葉を通じて、中村吉右衛門その人と結び合わされた――回線がブチブチッとつながる音が聞こえてくるかのようだった。作者の知る孤独と、演者の知る孤独と、私の知る孤独と、その三つの孤独が確かに合わさる部分があって、そのことがたまらなく幸せだった。一人で生まれ、一人で死んでいく人間の心が、確かに結び合わされるとき。それが、私の思う美の瞬間である。美の力が成し得る奇跡である。
終幕、松の木に登り、遠ざかってゆく船をいつまでもいつまでも見やる吉右衛門の俊寛を、私もいつまでもいつまでも観ていた――そのとき、我と彼とがカチッと音を立てて入れ替わり、私は彼の目で自分を見た。――悪くない、そう思えた。悪くない。それは、今流行りの言葉で言えば自己肯定感の低さに苛まれることの多い自分が自身に向けるものとして、決して悪くない言葉だった。そして私は、目の前にいる、どこまで行っても自分に厳しそうな一人の芸術家が、自身にかける言葉も「悪くない」以上のものであることを願った。
このコロナ禍である。舞台に立つ者も、それを観に行く者も、双方当然何がしかのリスクをいつも以上に背負って劇場に集っている。そんな中で、演じること、観ること、それぞれのやるべきことだけに純粋に命を燃やして向き合って共にそこに在ることが、私にはほとんどエロティックな経験にすら思えた。
まずは、中村吉右衛門が清盛を演じる序幕「六波羅清盛館の場」。俊寛の妻東屋(尾上菊之助)の美しさに心奪われた清盛のその声の好色さに、全身舐め回されるようだった――。
「鬼界ヶ島の場」は、島の娘千鳥(中村雀右衛門)の登場から、涙が頬を伝った。彼女のその純朴さに、夫となる成経(中村錦之助)が、島流しにあって暮らす無聊さ、侘しさを癒されたことがしみじみ感じ取れる――純朴さが無聊さ、侘しさ、その深さを逆照射している。だが、そんな純朴な彼女にも願いはある。栄耀栄華を望むのではない、けれども、今の蓑虫のような姿から元の姿に戻った夫と一夜添い寝して、女と生まれた誉れとしたいと。実に人間的である。そんな彼女を、自分は一人島に残ってでも何とか船に乗せたいと願う俊寛。ついさきほどまで、自分が船に乗って鬼界ヶ島から離れられるかどうかが、彼の最大の苦悩だったのだけれども。
過酷な成り行きに次々と翻弄されてゆく俊寛を演じる吉右衛門――まるで、不条理劇を観ているかのようだった。人の心などお構いなしに運命は訪れる。その運命の真の意味を知るのは、訪れられてしまったその人ただ一人だけである。誰とも丸ごとは分かち合えない。誰一人として、自分と異なる人間にはなれない以上。元来人はそのように孤独なものなのである。一人で生まれ、一人で死ぬ。そんなことを考えてもつらいだけだから、日ごろ突きつめて考えないだけのことである。
彼は、そんな役を演じながら、心の底から楽しんでいるのだった――胸を衝かれた。既に何度も演じてきた役、今回の公演だけで二十数回演じる役、その都度、人としてこの世に生まれたが故の深い孤独と向き合わねばならない役、その役を、昨日よりもさらに深めたくて、深められるそのことが楽しくて、彼は舞台に立っているのだった。そうして舞台に立っている彼を観ていて、私自身も心の底から楽しんでいるのだった――俊寛を観て楽しむ日が来ようとは、私はついぞ考えたことがなかった。
そうして、吉右衛門の俊寛は、「俊寛が乗るは弘誓の船、浮世の船には望みなし」と記した近松門左衛門の魂に迫っていった。
千鳥に実に人間的な願いがあるように、俊寛にもやはり人間的な願いはあっただろう――もともとは都であの清盛に引き立てられていた人である。何も引き合うところがなければ、引き立てられることもまたなかっただろう。けれども、ここで俊寛はその心を断ち切ろうとする。私には、その姿が、そう書き記した人自身の姿と重なって見えた。そう書き記すことで、作者が、彼自身の「鬼界ヶ島」に在ることを選んだ、そう思えてならなかった。そのように書いて、作者は、自身に与えられた唯一無二の生を突きつめて生きる。自らに与えられた運命を生きる。そのとき、彼は、この世に彼ただ一人だけが生み出せることとなった言葉の創造主となっている。
中村吉右衛門の演技を通じて、私は、数百年前に生きた近松門左衛門その人と結び合わされ、そして、近松門左衛門の言葉を通じて、中村吉右衛門その人と結び合わされた――回線がブチブチッとつながる音が聞こえてくるかのようだった。作者の知る孤独と、演者の知る孤独と、私の知る孤独と、その三つの孤独が確かに合わさる部分があって、そのことがたまらなく幸せだった。一人で生まれ、一人で死んでいく人間の心が、確かに結び合わされるとき。それが、私の思う美の瞬間である。美の力が成し得る奇跡である。
終幕、松の木に登り、遠ざかってゆく船をいつまでもいつまでも見やる吉右衛門の俊寛を、私もいつまでもいつまでも観ていた――そのとき、我と彼とがカチッと音を立てて入れ替わり、私は彼の目で自分を見た。――悪くない、そう思えた。悪くない。それは、今流行りの言葉で言えば自己肯定感の低さに苛まれることの多い自分が自身に向けるものとして、決して悪くない言葉だった。そして私は、目の前にいる、どこまで行っても自分に厳しそうな一人の芸術家が、自身にかける言葉も「悪くない」以上のものであることを願った。
このコロナ禍である。舞台に立つ者も、それを観に行く者も、双方当然何がしかのリスクをいつも以上に背負って劇場に集っている。そんな中で、演じること、観ること、それぞれのやるべきことだけに純粋に命を燃やして向き合って共にそこに在ることが、私にはほとんどエロティックな経験にすら思えた。
2020-12-31 00:08 この記事だけ表示
新米記者時代、歌舞伎界でもっとも多く取材する機会があったのが坂東玉三郎さんだった。バレエ・ダンサー、ミハイル・バリシニコフとの舞踊公演。桜咲く鶴ヶ城前で踊る姿を観に行ったこともある。木下順二の名作『夕鶴』で鶴の化身つうを演じた際、翼の如く両手をすっと広げた姿をとらえた写真に文章を書いた、その記事のコピーは今も大切にしている。編集部が変わっても、担当筆者の一人に熱烈なファンがいて、日生劇場に『海神別荘』を一緒に観に行った。劇場空間の美しさに作品世界が溶け込んでいたのを思い出す。思えば、少女時代、大好きな少女漫画作品の舞台化に胸躍らせて新橋演舞場に足を運んだ。その『ガラスの仮面』の演出も、彼だった。今でもまだ舞台の記憶が心の中に。
どこか遠く仰ぎ見ているようなところがあった。
さて、私には子供のころから「おばあちゃんになってもピンクが似合う人でいたい」という夢があり、他に何叶わなくともその夢にだけは着々と近づけていっているような気がする昨今なのだけれども、その道筋も常に順調というわけではなかった。今から十年前、赤坂ACTシアターでの中国の昆劇との合同特別公演『牡丹亭』を観たときのこと。
「…このままじゃ全然だめだ〜!!!」
ピンクの衣装でひらひらと心華やぐ舞を見せる坂東玉三郎の姿は、私を奮起させたのだった。漫然と生きているばかりでは夢は叶わない。いつまでもピンクが似合う人でいる上では、覚悟と根性と不断の努力が必要である。喝、入りました。
九月大歌舞伎の映像×舞踊特別公演では、歌舞伎座の舞台裏を映像で案内するという趣向が凝らされていた。口上を述べた生身の玉三郎がせり下がっていくと、映像の玉三郎に切り替わるという楽しい演出。初めて観る歌舞伎座の奈落に、私は、2年前、愛知県犬山市にある「博物館明治村」に移築されている明治25年建設の「呉服座」の奈落を見学したときのことを思い出した――機械化されているとはいえ、構造があまり変わらない。ちなみに、明治村見学の前日には、名古屋市内を歩き回ってあちこちの近代建築を見学していたのだけれども、その最後に訪れたのが、日本の近代女優のさきがけである川上貞奴の邸宅であった「文化のみち二葉館」だった。あめりか屋設計のそのモダンな家で、貞奴の遺品を見ながら、私は、日本における近代女優の歴史の短さについて考えていた。
十月大歌舞伎の映像×舞踊特別公演では、今度は、楽屋を案内してくれるという趣向が! 整然とした部屋に、美しい調度品。――それは、どんなインテリア雑誌のグラビアより説得力があった。このような環境から、美は生まれる――この日をきっかけに、溜まりゆく資料の整理に一段と励むようになり――。このとき、玉三郎は『楊貴妃』を踊ったのだけれども、二羽の蝶となって美の桃源郷で戯れているような陶然とした想いに、その夜はなかなか眠れなかった――。
十二月大歌舞伎の『日本振袖始 大蛇退治』は、姫が姫を呑み込むという妖しい美をたたえた作品である。しかし。玉三郎演じる岩長姫実は八岐大蛇が、大好きなお酒を瓶からどんどこ呑み始めるくだり、とぼけたおもしろみさえ感じさせて、くすりと笑ってしまいそう。酒も呑むなら美女も呑む。妖艶かつ大人の遊び心いっぱい。――思えば、宝塚歌劇の大スターだった春日野八千代もしゃれっ気のある人だった。生前トークを聞く機会があったけれども、話し相手がうろたえるほど、“すみれコード”をぶっちぎりそうになっていた。人としてのおもしろみ、これすなわちオーラなのかもしれず。
――そして、岩長姫を観ている私の脳裏のスクリーンに、何故かデカデカと映し出される文字。
「あのとき、『ベルサイユのばら』を演出して宝塚を救ったのは、長谷川一夫!!!」(植田紳爾と共同演出)
歌舞伎界とも縁の深いその人については、自粛期間中に読んだ笹山敬輔著『興行師列伝 愛と裏切りの近代芸能史』の語りがあまりに絶妙だったのですが――劇場が開かないとなったとき、私がまずとらえ直したいと思ったのは、今ある興行形態はいかなる歴史の上に成り立ってきたかということだった――。そうでした。長谷川一夫の創り出した「型」が、『ベルサイユのばら』の中に引き継がれていって、宝塚歌劇の財産となっている。
と、坂東玉三郎の舞台を観ていると、美の世界のみならず、日本舞台芸術史の流れの中へと、不思議といざなわれてゆくのだった。
どこか遠く仰ぎ見ているようなところがあった。
さて、私には子供のころから「おばあちゃんになってもピンクが似合う人でいたい」という夢があり、他に何叶わなくともその夢にだけは着々と近づけていっているような気がする昨今なのだけれども、その道筋も常に順調というわけではなかった。今から十年前、赤坂ACTシアターでの中国の昆劇との合同特別公演『牡丹亭』を観たときのこと。
「…このままじゃ全然だめだ〜!!!」
ピンクの衣装でひらひらと心華やぐ舞を見せる坂東玉三郎の姿は、私を奮起させたのだった。漫然と生きているばかりでは夢は叶わない。いつまでもピンクが似合う人でいる上では、覚悟と根性と不断の努力が必要である。喝、入りました。
九月大歌舞伎の映像×舞踊特別公演では、歌舞伎座の舞台裏を映像で案内するという趣向が凝らされていた。口上を述べた生身の玉三郎がせり下がっていくと、映像の玉三郎に切り替わるという楽しい演出。初めて観る歌舞伎座の奈落に、私は、2年前、愛知県犬山市にある「博物館明治村」に移築されている明治25年建設の「呉服座」の奈落を見学したときのことを思い出した――機械化されているとはいえ、構造があまり変わらない。ちなみに、明治村見学の前日には、名古屋市内を歩き回ってあちこちの近代建築を見学していたのだけれども、その最後に訪れたのが、日本の近代女優のさきがけである川上貞奴の邸宅であった「文化のみち二葉館」だった。あめりか屋設計のそのモダンな家で、貞奴の遺品を見ながら、私は、日本における近代女優の歴史の短さについて考えていた。
十月大歌舞伎の映像×舞踊特別公演では、今度は、楽屋を案内してくれるという趣向が! 整然とした部屋に、美しい調度品。――それは、どんなインテリア雑誌のグラビアより説得力があった。このような環境から、美は生まれる――この日をきっかけに、溜まりゆく資料の整理に一段と励むようになり――。このとき、玉三郎は『楊貴妃』を踊ったのだけれども、二羽の蝶となって美の桃源郷で戯れているような陶然とした想いに、その夜はなかなか眠れなかった――。
十二月大歌舞伎の『日本振袖始 大蛇退治』は、姫が姫を呑み込むという妖しい美をたたえた作品である。しかし。玉三郎演じる岩長姫実は八岐大蛇が、大好きなお酒を瓶からどんどこ呑み始めるくだり、とぼけたおもしろみさえ感じさせて、くすりと笑ってしまいそう。酒も呑むなら美女も呑む。妖艶かつ大人の遊び心いっぱい。――思えば、宝塚歌劇の大スターだった春日野八千代もしゃれっ気のある人だった。生前トークを聞く機会があったけれども、話し相手がうろたえるほど、“すみれコード”をぶっちぎりそうになっていた。人としてのおもしろみ、これすなわちオーラなのかもしれず。
――そして、岩長姫を観ている私の脳裏のスクリーンに、何故かデカデカと映し出される文字。
「あのとき、『ベルサイユのばら』を演出して宝塚を救ったのは、長谷川一夫!!!」(植田紳爾と共同演出)
歌舞伎界とも縁の深いその人については、自粛期間中に読んだ笹山敬輔著『興行師列伝 愛と裏切りの近代芸能史』の語りがあまりに絶妙だったのですが――劇場が開かないとなったとき、私がまずとらえ直したいと思ったのは、今ある興行形態はいかなる歴史の上に成り立ってきたかということだった――。そうでした。長谷川一夫の創り出した「型」が、『ベルサイユのばら』の中に引き継がれていって、宝塚歌劇の財産となっている。
と、坂東玉三郎の舞台を観ていると、美の世界のみならず、日本舞台芸術史の流れの中へと、不思議といざなわれてゆくのだった。
2020-12-30 18:26 この記事だけ表示
女郎蜘蛛の精の化身に扮する市川猿之助が、蜘蛛の糸を投げる。
――その糸に、心絡めとられてゆく。
蜘蛛の精が、女童、小姓、番頭新造、太鼓持、傾城と次々と姿を変えて現れる、吉例顔見世大歌舞伎『蜘蛛の絲宿直噺』。――男の姿をしている四代目と女の姿をしている四代目、どちらにより心ひかれるかというのは前々から大きな問題であって、演目ごとにその都度答えが異なってくるようにも思うのだけれども、40分ほどの上演時間の中にその問いをくるくると問われるようなこの出し物に、うれし困った興奮。今回一番心ひかれるのは色っぽい太鼓持! と思ったのですが、番新もいいな、いやいや傾城も…と、心の中で猿之助同士が壮絶なデッドヒート。この早替りの舞台裏はYouTubeチャンネル「歌舞伎ましょう」で観られます。
思ったのである。――まだまだ見せていない顔がある。まだまだ観ていない顔がある。その顔を、これからも観ていく。思えば、自分自身、四代目の舞台を観ているとき、実にさまざまな顔をしているのだろうと思う。心解けている。歌舞伎座再開成った八月大歌舞伎『義経千本桜 吉野山』のときは、舞台のあまりの美しさに、…マスク姿でよかった…と思ったほど。
ちなみに、歌舞伎座の感染予防策についてはすでにいろいろなところで語られているけれども、私自身が経験してすごいなと思ったのは、間違えて私の席に座ってしまった方がいて、移動していただいていたところに案内の方がすっ飛んできて、すかさず私のその席を拭いてくださったことがあり。それと、最近はそこまでではないけれども、8、9月頃あたりの女子化粧室の匂いには、プールの授業を思い出し。
さて。私はどうも四代目の舞台についてはとことん欲深いところがあるようで、「まだ行ける!」「まだまだ行ける!」と思うところに我ながら業の深さを感じる。
壽初春大歌舞伎『澤瀉十種の内 連獅子』を観たとき、――サヴァランを連想していた。サヴァランは、ブリオッシュ生地に洋酒を染み込ませて作る洋菓子である。観ることで、四代目の演技という酒を、私というブリオッシュ生地に染み込ませる。その酒が美酒であればあるほど、そして、生地への染み込み具合がよければよいほど、できあがったサヴァランは美味になる。評論家としてよりよきブリオッシュ生地になることが目標!
――その糸に、心絡めとられてゆく。
蜘蛛の精が、女童、小姓、番頭新造、太鼓持、傾城と次々と姿を変えて現れる、吉例顔見世大歌舞伎『蜘蛛の絲宿直噺』。――男の姿をしている四代目と女の姿をしている四代目、どちらにより心ひかれるかというのは前々から大きな問題であって、演目ごとにその都度答えが異なってくるようにも思うのだけれども、40分ほどの上演時間の中にその問いをくるくると問われるようなこの出し物に、うれし困った興奮。今回一番心ひかれるのは色っぽい太鼓持! と思ったのですが、番新もいいな、いやいや傾城も…と、心の中で猿之助同士が壮絶なデッドヒート。この早替りの舞台裏はYouTubeチャンネル「歌舞伎ましょう」で観られます。
思ったのである。――まだまだ見せていない顔がある。まだまだ観ていない顔がある。その顔を、これからも観ていく。思えば、自分自身、四代目の舞台を観ているとき、実にさまざまな顔をしているのだろうと思う。心解けている。歌舞伎座再開成った八月大歌舞伎『義経千本桜 吉野山』のときは、舞台のあまりの美しさに、…マスク姿でよかった…と思ったほど。
ちなみに、歌舞伎座の感染予防策についてはすでにいろいろなところで語られているけれども、私自身が経験してすごいなと思ったのは、間違えて私の席に座ってしまった方がいて、移動していただいていたところに案内の方がすっ飛んできて、すかさず私のその席を拭いてくださったことがあり。それと、最近はそこまでではないけれども、8、9月頃あたりの女子化粧室の匂いには、プールの授業を思い出し。
さて。私はどうも四代目の舞台についてはとことん欲深いところがあるようで、「まだ行ける!」「まだまだ行ける!」と思うところに我ながら業の深さを感じる。
壽初春大歌舞伎『澤瀉十種の内 連獅子』を観たとき、――サヴァランを連想していた。サヴァランは、ブリオッシュ生地に洋酒を染み込ませて作る洋菓子である。観ることで、四代目の演技という酒を、私というブリオッシュ生地に染み込ませる。その酒が美酒であればあるほど、そして、生地への染み込み具合がよければよいほど、できあがったサヴァランは美味になる。評論家としてよりよきブリオッシュ生地になることが目標!
2020-12-30 18:25 この記事だけ表示
全四部、フルスロットル発進!!!
2020-12-01 23:25 この記事だけ表示
歌舞伎について書くことについて、とある理由で、心の中にずっとためらいがあった。だから、どうしても書きたいとき、書くとき、書かなくてはいけないと思うときは、そのためらいと闘ってから、書いてきたのだった。
――このコロナ禍で、少し状況が変わった。東京都内の劇場公演が再開されたとき、私は、感染予防に入念な注意を払いつつも、興味のあるすべての劇場に観劇しに行って、心の中で旗を熱く振って応援したい気持ちでいっぱいだった。だから、ためらいのことは忘れて、歌舞伎についても書いた。……少し経って、ためらいがまた押し寄せてきた。ためらいはそれほど強く、心を縛っていた――そのためらいは、自分が舞台評論家としての居場所をこの世界に作り出す上で支えてくれた大きな力に起因するところのものだったから。
それが。
先週、国立劇場大劇場の『彦山権現誓助剣−毛谷村−』を二階席から観ていて、――世界で日本にしかないこの舞台芸術形式を後世へと守り伝えていく人々の闘いに、微力ながらも参画したい――との思いが心に芽生えていることに、ふっと気づいたのである。それは、自分の中に初めて生まれた当事者意識だった――それまではどこか、それこそ、アクリル板のようなものを一枚隔てた場所にいたような気がする。そしてそれは、ためらいとの訣別の時が来たことを意味していた。とらわれ、――ある意味、甘えていた。けれども、ためらっていては、私は、ここに来て深い愛おしさをもって接することになった人々について書く機会を失ってしまう。私は、人として生まれた以上、己に与えられているところの愛の力を発揮することなく、この生を終えたくはない。
――こうして書いていると、一人一人の顔が浮かんでくる。歌舞伎を愛し、守り、芸の道に生きる人々の顔が。ためらいよ、さようなら。私は、彼らと共に生きる。そして、ためらいを生んだところの理由とも、いつの日か立ち向かってみる決意でいる。
――このコロナ禍で、少し状況が変わった。東京都内の劇場公演が再開されたとき、私は、感染予防に入念な注意を払いつつも、興味のあるすべての劇場に観劇しに行って、心の中で旗を熱く振って応援したい気持ちでいっぱいだった。だから、ためらいのことは忘れて、歌舞伎についても書いた。……少し経って、ためらいがまた押し寄せてきた。ためらいはそれほど強く、心を縛っていた――そのためらいは、自分が舞台評論家としての居場所をこの世界に作り出す上で支えてくれた大きな力に起因するところのものだったから。
それが。
先週、国立劇場大劇場の『彦山権現誓助剣−毛谷村−』を二階席から観ていて、――世界で日本にしかないこの舞台芸術形式を後世へと守り伝えていく人々の闘いに、微力ながらも参画したい――との思いが心に芽生えていることに、ふっと気づいたのである。それは、自分の中に初めて生まれた当事者意識だった――それまではどこか、それこそ、アクリル板のようなものを一枚隔てた場所にいたような気がする。そしてそれは、ためらいとの訣別の時が来たことを意味していた。とらわれ、――ある意味、甘えていた。けれども、ためらっていては、私は、ここに来て深い愛おしさをもって接することになった人々について書く機会を失ってしまう。私は、人として生まれた以上、己に与えられているところの愛の力を発揮することなく、この生を終えたくはない。
――こうして書いていると、一人一人の顔が浮かんでくる。歌舞伎を愛し、守り、芸の道に生きる人々の顔が。ためらいよ、さようなら。私は、彼らと共に生きる。そして、ためらいを生んだところの理由とも、いつの日か立ち向かってみる決意でいる。
2020-11-26 00:21 この記事だけ表示
生涯忘れない名演。
2020-11-24 23:59 この記事だけ表示