藤本真由
(舞台評論家・ふじもとまゆ)
1972年生まれ。
東京大学法学部卒業後、新潮社に入社。写真週刊誌「FOCUS」の記者として、主に演劇・芸能分野の取材に携わる。
2001年退社し、フリーに。演劇を中心に国内はもとより海外の公演もインタビュー・取材を手がける。
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文楽
『其礼成心中』初演から13年、三谷幸喜が作・演出を手がける三谷文楽の新作登場(監修・出演:吉田一輔、作曲・出演:鶴澤清介)。今回の主人公は、近松門左衛門『鑓の権三重帷子』の仇役・川側伴之丞を演じる人形の陀羅助。ヒロインおさゐを演じる老女形の人形に恋をしている陀羅助は、いつも引き立て役はいやだ、ラブシーンが演じたいと、作者の近松門左衛門に直談判しに行ったりする。そんなある日、主人公の権三を演じる二枚目専門の人形の源太がねずみにかじられ顔が変わり、劇場を飛び出していってしまい――。モリエールの『人間嫌い』と通底するタイトルと恋の三角関係だが、人形の恋の三角関係というところでバレエ『ペトルーシュカ』も思い出した。文楽の人形が自らを操る人形遣いを認識してしまうという設定になっており、……その設定は今どのように処理されているのだろう……と感じる箇所もあったが、作者による文楽論、文楽賛歌とも言える作品を大変楽しく観た。“爆笑文楽”と聞いていたのに、陀羅助が自分も主役をやりたいと嘆く場面の曲、そして鶴澤清介自身による三味線の演奏がすばらしく、陀羅助の内に流れる音までもが聞こえてきて、泣く準備してなかった〜と。文楽人形にはさまざまな種類のかしら(「首」と書いてこう読む)があり、「陀羅助」「老女形」「源太」もかしらの名称。文楽においてこうしてかしらがあることの合理性については前から考えていたのだが、今月、新橋演舞場で『華岡青洲の妻』を観ていて、そもそも人間が社会生活において担う役割について考えていたこともあり、人形の内面にまで思いを馳せる作者の視点をおもしろく思った。『其礼成心中』に続いて、作者お気に入りのかしらである「お福」が活躍。『其礼成心中』にも出てきた近松門左衛門の登場も、作劇上、興味深い。陀羅助が華麗にスケートボードに乗るシーンでは劇場中から大喝采! 人形と人形遣いが目を合わせたり、床本がなかったり(欲しいです)、いつもの文楽公演と異なる点もいろいろあったけれども、一番衝撃を受けたのは、陀羅助が乗るスケートボードを左遣いが借りに行ってしまったとき、陀羅助の左手がだらんと垂れ下がり、まるで左半身が麻痺しているかのように見えたこと。初めて観る光景だったが、逆に、半身が麻痺した状態も表現できるんだな、と。『其礼成心中』に続いて大阪が舞台の物語なので、いつか文楽の本場である大阪でも観られたらいいなと思う。ちなみに、私が文楽を好きな理由の一つとして、だめな人がいっぱい出てきて、立派な行いの人もあまりに立派過ぎて本人も周りも哀しいことになっていたりして、その姿を、……ああ、これはだめですねえ……と客観的に観ているうち(人間ではなく人形なので、客観的に観やすいところがあるのだと思う)、自分自身のだめなところもすべてひっくるめて包み込まれるような、そんな効果があるということがある。みんなもっと文楽を観れば生きやすくなるかもしれないのに、と思う。その意味では、今回の主人公の陀羅助も、お福に「だめ男」とはっきり言われるようなキャラクター(最終的には大活躍しますが)なのがいいなと思った。
(8月21日13時半の部、パルコ劇場)
(8月21日13時半の部、パルコ劇場)
鶴澤清治がいかに世界の音を認識しているか、彼の奏する三味線の音を通じて感じていた。舞台上の人形が表現するところの人物の息遣い、鼓動、そして衣擦れの音や足音、外界の音等、その人物が取り巻かれ聞いているところのさまざまな音、その人物の内なる音の記憶が聞こえてきた。そして、私の中に残る記憶のうち、音にまつわるさまざまな側面――例えば、亡き父と交わした会話ならば、父の言葉によって喚起された私の感情や伝わってきた父の感情ではなく、そのときの父の声色――が甦ってきた。音を発し、また、生において音の記憶を積み重ねてきた主体としての己の存在を認識したとき、世界に対する新たなパノラマがパーンと広がるというか、今まで認識してきた世界にさらに新たな世界がぐわんと加わるような思いがした。このように世界を聴いているのだ! そんな中から、整理した上でそのときそのときの音を選び取り、提示しているのだと思い至った。
(8月1日13時半の部、国立文楽劇場)
(8月1日13時半の部、国立文楽劇場)
文楽に出逢えた喜びに浸る一日でした。プログラム構成が練られているので、第一部、第二部、第三部合わせての観劇がお勧め。公演は北千住のシアター1010にて27日まで!
第1部
<太宰館の段>文京シビックホール大ホールで文楽を観るのは初めて。拍子木の音にしても広がっていってしまうように最初のうちは感じていたのだけれども、豊竹希太夫のビシッとした語りを聴いているうちに気にならなくなり。端正な語りだけに蘇我入鹿の演技が怖かった。馬の足音が聞こえるような竹澤團七の三味線。
<妹山背山の段>歌舞伎の上演でも花道が両サイドに設えられるのが印象的だけれども、文楽では、上手と下手両方に床が設えられ、舞台装置共々上手が背山=大判事家、下手が妹山=太宰家という構成。迫力いっぱい、圧巻の舞台だった。女性として生まれてきた喜びを祝い、子供のころはいつか結婚するときのことを思い、母となってはいつか娘の嫁ぐときのことを思う、雛祭りの日。そんな晴れがましさのある春の頃だからこそ、作品の悲劇的な展開が一層際立つ。妹山の床の鶴澤清治の三味線には、情景描写、人物描写、心理描写、そして人物が取り囲まれている音までが一体となって感じられ、それでいてそれぞれの描写、音がわかりやすい。人間はそもそもいかに音を認識しているのか、そして奏者の音の認識に非常に興味が湧いた。後日、源河亨『悲しい曲の何が悲しいのか 音楽美学と心の哲学』を読み、令和6年5月文楽公演Bプロ『ひらかな盛衰記』<笹引の段>における鶴澤清治の演奏について文章を書くにあたり、自分が知覚の哲学の領域で考えをめぐらせていたことに気づいた。
妹山の太宰家の後室定高を遣うのは吉田和生。障子が開き、定高が慶弔どちらでも大丈夫な色の色無地の姿になっているのを目にしたとき、娘の恋心を成就させるために自ら手にかける決意をしたことがわかる。そして、定高が、太宰家と大判事家の間を流れる吉野川に桜の枝を流したとき、大判事との間に親として心通うものがあったことを感じた。竹本錣太夫による定高の語りもよかった。
第2部
<万歳の段>人形たちと一緒に(心の中で)万歳を踊ったら楽しかった!
<芝六忠義の段>竹本千歳太夫の語るお雉の嘆きが心に響いた。
第3部
<杉酒家の段>お三輪(人形:桐竹勘十郎)がぷんぷん拗ねるのがおもしろい。
<道行恋苧環>恋の思い激しく。ラスト近くの無音のところのお三輪の演技の迫力。
<金殿の段>お三輪が官女たちにいじめられる場面は、官女たちの人形がみんな同じ顔をしていることで、観ていて心理的な辛さが幾分和らぐような。宝塚の『王家に捧ぐ歌−オペラ「アイーダ」より−』で、アイーダがアムネリスの女官たちにいびられる場面を思い出した。吉田玉志の遣う漁師鱶七は実は金輪五郎に人としての大きさがあり、お三輪の最期がこの人に看取られることに安心感を覚えた。五郎により真実を聞かされてからのお三輪の語りもよかった(太夫:竹本織太夫)。
<太宰館の段>文京シビックホール大ホールで文楽を観るのは初めて。拍子木の音にしても広がっていってしまうように最初のうちは感じていたのだけれども、豊竹希太夫のビシッとした語りを聴いているうちに気にならなくなり。端正な語りだけに蘇我入鹿の演技が怖かった。馬の足音が聞こえるような竹澤團七の三味線。
<妹山背山の段>歌舞伎の上演でも花道が両サイドに設えられるのが印象的だけれども、文楽では、上手と下手両方に床が設えられ、舞台装置共々上手が背山=大判事家、下手が妹山=太宰家という構成。迫力いっぱい、圧巻の舞台だった。女性として生まれてきた喜びを祝い、子供のころはいつか結婚するときのことを思い、母となってはいつか娘の嫁ぐときのことを思う、雛祭りの日。そんな晴れがましさのある春の頃だからこそ、作品の悲劇的な展開が一層際立つ。妹山の床の鶴澤清治の三味線には、情景描写、人物描写、心理描写、そして人物が取り囲まれている音までが一体となって感じられ、それでいてそれぞれの描写、音がわかりやすい。人間はそもそもいかに音を認識しているのか、そして奏者の音の認識に非常に興味が湧いた。後日、源河亨『悲しい曲の何が悲しいのか 音楽美学と心の哲学』を読み、令和6年5月文楽公演Bプロ『ひらかな盛衰記』<笹引の段>における鶴澤清治の演奏について文章を書くにあたり、自分が知覚の哲学の領域で考えをめぐらせていたことに気づいた。
妹山の太宰家の後室定高を遣うのは吉田和生。障子が開き、定高が慶弔どちらでも大丈夫な色の色無地の姿になっているのを目にしたとき、娘の恋心を成就させるために自ら手にかける決意をしたことがわかる。そして、定高が、太宰家と大判事家の間を流れる吉野川に桜の枝を流したとき、大判事との間に親として心通うものがあったことを感じた。竹本錣太夫による定高の語りもよかった。
第2部
<万歳の段>人形たちと一緒に(心の中で)万歳を踊ったら楽しかった!
<芝六忠義の段>竹本千歳太夫の語るお雉の嘆きが心に響いた。
第3部
<杉酒家の段>お三輪(人形:桐竹勘十郎)がぷんぷん拗ねるのがおもしろい。
<道行恋苧環>恋の思い激しく。ラスト近くの無音のところのお三輪の演技の迫力。
<金殿の段>お三輪が官女たちにいじめられる場面は、官女たちの人形がみんな同じ顔をしていることで、観ていて心理的な辛さが幾分和らぐような。宝塚の『王家に捧ぐ歌−オペラ「アイーダ」より−』で、アイーダがアムネリスの女官たちにいびられる場面を思い出した。吉田玉志の遣う漁師鱶七は実は金輪五郎に人としての大きさがあり、お三輪の最期がこの人に看取られることに安心感を覚えた。五郎により真実を聞かされてからのお三輪の語りもよかった(太夫:竹本織太夫)。
第1部、第2部、第3部合わせて上演時間計9時間の長丁場ですが、自分がこの作品に心強く揺さぶられる理由、そして作品の重層的な魅力が非常によくわかる上演でした。公演は国立文楽劇場にて4月30日まで。
令和7年2月文楽公演『通し狂言 妹背山婦女庭訓』の第一部・第二部・第三部を観劇。第一部の<妹山背山の段>で学んだことが非常に役立った一日でした。今宵はこれにて〜。公演は26日まで、お見逃しなく!
第1部『新版歌祭文』
<座摩社の段>太夫の掛け合い、人形のコミカルな動き、楽しい。
<野崎村の段>一人の男に二人の女。幕切れ、お染が乗った船と久松が乗った駕籠に焦点が当たる演出が興味深く。
第2部『仮名手本忠臣蔵』
八段目<道行旅路の嫁入>鶴澤清治率いる三味線の音色の圧倒的な肯定感――ここにいていいんだ、この世に居場所がある、という安堵感。嫁入りはなるのか、ならぬのか、生さぬ仲の母と娘、二人の女が道を行く。
九段目<雪転しの段>人形が雪玉を転がす様がどこかユーモラスで、物語の緊迫感をやわらげて。
<山科閑居の段>“切”の竹本千歳太夫が名作のおもしろさをよく伝え、“後”の豊竹藤太夫もきっちり引き継ぐ。加古川本蔵妻戸無瀬を遣うのは吉田和生、意志の強い女性が実に魅力的に見える。着物の赤の色も、戸無瀬の思いやその決意のほどを伝える上で視覚的に効いていると感じた。そこへやって来る虚無僧実は本蔵――尺八の音が、彼の死を暗示するかのように響いて。
第3部『本朝廿四孝』
<道行似合いの女夫丸>の出だしの文言「偽りの、文字を分くれば、人の為身のためならず恋ならず」がかっこいいなと。<十種香の段>では、一人の男を挟んだ二人の女、それぞれの気持ちに思いを馳せ。思いつめた恋心ゆえ凍った諏訪湖を渡る八重垣姫も、それを守る諏訪明神の使いの四匹の白狐たちも出遣いとなる<奥庭狐火の段>は、狐火は出るわ赤から白に替わった八重垣姫の衣裳は火の柄だわでスペクタクルに高揚。
全3部通して“二人の女”が気になった初春文楽公演でした。
(1月21日&22日、国立文楽劇場)
<座摩社の段>太夫の掛け合い、人形のコミカルな動き、楽しい。
<野崎村の段>一人の男に二人の女。幕切れ、お染が乗った船と久松が乗った駕籠に焦点が当たる演出が興味深く。
第2部『仮名手本忠臣蔵』
八段目<道行旅路の嫁入>鶴澤清治率いる三味線の音色の圧倒的な肯定感――ここにいていいんだ、この世に居場所がある、という安堵感。嫁入りはなるのか、ならぬのか、生さぬ仲の母と娘、二人の女が道を行く。
九段目<雪転しの段>人形が雪玉を転がす様がどこかユーモラスで、物語の緊迫感をやわらげて。
<山科閑居の段>“切”の竹本千歳太夫が名作のおもしろさをよく伝え、“後”の豊竹藤太夫もきっちり引き継ぐ。加古川本蔵妻戸無瀬を遣うのは吉田和生、意志の強い女性が実に魅力的に見える。着物の赤の色も、戸無瀬の思いやその決意のほどを伝える上で視覚的に効いていると感じた。そこへやって来る虚無僧実は本蔵――尺八の音が、彼の死を暗示するかのように響いて。
第3部『本朝廿四孝』
<道行似合いの女夫丸>の出だしの文言「偽りの、文字を分くれば、人の為身のためならず恋ならず」がかっこいいなと。<十種香の段>では、一人の男を挟んだ二人の女、それぞれの気持ちに思いを馳せ。思いつめた恋心ゆえ凍った諏訪湖を渡る八重垣姫も、それを守る諏訪明神の使いの四匹の白狐たちも出遣いとなる<奥庭狐火の段>は、狐火は出るわ赤から白に替わった八重垣姫の衣裳は火の柄だわでスペクタクルに高揚。
全3部通して“二人の女”が気になった初春文楽公演でした。
(1月21日&22日、国立文楽劇場)
第1部。『瓜子姫とあまんじゃく』(作=木下順二、作曲=二代野澤喜左衛門)が非常におもしろかった。「瓜子姫は、きょうも楽しく機を織っていた。瓜子姫は機織りが何よりも好きであった」といった風に口語体がそのまま義太夫に移されていて、竹本千歳太夫の語りもかわいらしく、昔話を楽しみに聞いていた子供の時分を思い出す。あまんじゃくとは、何でも口真似をして人間をからかう妖怪――その正体は、こちらの考えていることを何でも言い当てる「山父」だと言う者もいて、「もう何も思うまい」「もう何も思うまいと思ってるだな」あたりのやりとりもおかしい――。あまんじゃくは瓜子姫をさらって木に吊るし、瓜子姫の着物を着て機を織る。その音を聞いて、吊るされながら瓜子姫が思うのが、……あんな織り方では布がだめになってしまう……ということ。吊るされながら思うことがそれ?! 、しかも、音でわかるってすごい、と。瓜子姫の窮地を知り、その心を悟ったにわとりととんびとからすが、瓜子姫と入れ替わって彼女のじっさとばっさを騙そうというあまんじゃくの企みを、鳴き声をあげてそれをあまんじゃくに真似させることで阻止し、瓜子姫は無事助け出される。そんな物語が、機織りの音をも取り入れた楽しい曲と共に語られる。――木下順二の代表作『夕鶴』においても重要な役割を果たす機織り。何でも真似をするあまんじゃくとは? 「山父」の話はそもそもなぜ挿入されているの? 沸き起こる疑問と共に、木下順二作品への興味を非常にかきたてられる作品だった。
第2部。『熊谷陣屋の段』“前” 太夫:豊竹呂勢太夫/三味線:鶴澤清治。その三味線の優しい音色が、語りも、聴く者も、その存在を丸ごとふんわり包み込んで、――そうか、そっちに行きたいのか――と、それぞれの方角へと後押ししてくれるのだった――。
(12月4日<初日>、江東区文化センター)
第2部。『熊谷陣屋の段』“前” 太夫:豊竹呂勢太夫/三味線:鶴澤清治。その三味線の優しい音色が、語りも、聴く者も、その存在を丸ごとふんわり包み込んで、――そうか、そっちに行きたいのか――と、それぞれの方角へと後押ししてくれるのだった――。
(12月4日<初日>、江東区文化センター)
第1部と第2部で『仮名手本忠臣蔵』の大序から七段目までを通しで上演(第2部冒頭に『靭猿』の上演あり)。
第1部『仮名手本忠臣蔵』三段目<殿中刃傷の段>。太夫:豊竹呂勢太夫/三味線:鶴澤清治。……どう考えても高師直(人形:吉田玉志)の言いがかりは人としておかしく、哀しい。そして、それを聞く塩冶判官(人形:吉田和生)が、その哀しさを受け流す心の余裕がなく、師直に斬りかかってしまうことも哀しい。塩冶判官が斬りつけた刀を放ったとき、――心の中で何かの堰がどっとあふれた。
第2部『仮名手本忠臣蔵』七段目<祇園一力茶屋の段>。私にとっては、二代目中村吉右衛門の名演が心に深く残る段である(http://daisy.stablo.jp/article/485028157.html?1735559123)。ここまで通しで観てきて、おかるという女性が生に向かう姿勢に心打たれるところがあった。そして、かつて“透明な経巻”が出現したあたりに差し掛かったとき、……悔しかったのだ、ただただ悔しかったのだ……と思った。終演後、新大阪駅発の最終の新幹線に乗るべく夜の街を歩く私の目に飛び込んできたのは、「播磨屋」(中村吉右衛門の屋号でもある)の看板だった。
(11月11日、国立文楽劇場)
第1部『仮名手本忠臣蔵』三段目<殿中刃傷の段>。太夫:豊竹呂勢太夫/三味線:鶴澤清治。……どう考えても高師直(人形:吉田玉志)の言いがかりは人としておかしく、哀しい。そして、それを聞く塩冶判官(人形:吉田和生)が、その哀しさを受け流す心の余裕がなく、師直に斬りかかってしまうことも哀しい。塩冶判官が斬りつけた刀を放ったとき、――心の中で何かの堰がどっとあふれた。
第2部『仮名手本忠臣蔵』七段目<祇園一力茶屋の段>。私にとっては、二代目中村吉右衛門の名演が心に深く残る段である(http://daisy.stablo.jp/article/485028157.html?1735559123)。ここまで通しで観てきて、おかるという女性が生に向かう姿勢に心打たれるところがあった。そして、かつて“透明な経巻”が出現したあたりに差し掛かったとき、……悔しかったのだ、ただただ悔しかったのだ……と思った。終演後、新大阪駅発の最終の新幹線に乗るべく夜の街を歩く私の目に飛び込んできたのは、「播磨屋」(中村吉右衛門の屋号でもある)の看板だった。
(11月11日、国立文楽劇場)
太夫:豊竹呂勢太夫/三味線:鶴澤清治。斬りかかる刀のシュッ、シュッという音を、腰元お筆(人形:吉田和生)やお筆の父鎌田隼人(人形:吉田玉佳)自身が聞くものとして聞いた。命の音――命なくして、音を立てることも音を感知することもできない。
この段において、お筆の仕える山吹御前も、その若君と取り違えられた子も、父隼人も命を落とす。一人生き残ったお筆が、笹を切り、その上に主人の亡骸――父の亡骸ではない――を乗せて引いていく終幕、多くの命の喪失の中で、それでも何かを生き永らえさせんとした人々の命の強さを見た。
(5月13日16時の部、シアター1010)
この段において、お筆の仕える山吹御前も、その若君と取り違えられた子も、父隼人も命を落とす。一人生き残ったお筆が、笹を切り、その上に主人の亡骸――父の亡骸ではない――を乗せて引いていく終幕、多くの命の喪失の中で、それでも何かを生き永らえさせんとした人々の命の強さを見た。
(5月13日16時の部、シアター1010)


